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荻窪っ娘。コミュの荻窪を知ろう・荻窪検定

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 荻窪をもっと良く知るためにクイズを考えてみました。さて、あなたは幾つ分かるでしょうか。ゴールデンウイーク中に遠出しない方は暇つぶしに挑戦してみてください。
 
(問1)「神田川」の歌で知られている南こうせつが荻窪のことを歌った曲があります。その曲名は何でしょうか。
         A、教会通り
         B、中央沿線
         C、荻窪二丁目
         D、善福寺川

(問2)歌人・与謝野晶子は南荻窪に住んでいましたが、その与謝野晶子が作詞した校歌がある学校はどこでしょうか。
         A、若杉小学校
         B、杉並弟5小学校
         C、荻窪小学校
         D、桃井第2小学校

(問3)江戸時代、下荻窪村の「忍ヶ谷戸」は忍者で知られる人物の領地でした。今でも忍川橋の名でその名が残っていますが、その人物とは誰でしょうか。
         A、猿飛佐助
         B、服部半蔵
         C、霧隠才蔵
         D、百地三太夫

(問4)以下の人物の中で荻窪に住んでいなかった人は誰でしょうか。
         A、太宰治
         B、吉川英治
         C、棟方志功
         D、井伏鱒二

(問5)昭和史の舞台であった近衛文麿の荻外荘<てきがいそう>は平成になった今でも現存しますが、そこで日米開戦について近衛文麿と討議した軍人は誰でしょうか。
         A、山本五十六
         B、源田実
         C、東条英機
         D、山下奉文

(問6)「夕焼小焼け」「どこかで春が」などの童謡を作曲した山川信はどこの学校の校長先生だったでしょうか。
         A、天沼中学校
         B、松渓中学校
         C、荻窪高校
         D、日大第二高校

(問7)ノーベル賞を受賞した小柴博士の他に、荻窪にはノーベル賞を受賞した方がもう一人住んでいました。それは誰でしょうか。
         A、湯川秀樹
         B、川端康成
         C、江崎玲於奈
         D、朝永振一郎

  
 
 さて、何問できましたか。(正解は後日)      

コメント(15)

 (問1の回答)

 ・正解は(C)の「荻窪二丁目」です。作詞は「神田川」の喜多条忠さん、作曲は南こうせつさん。喜多条さん本人だったか、友人だったかが当時荻窪二丁目のアパートに住んでいたところから生まれた曲だと聞いたことがあります。
 荻窪二丁目には作曲家であり、シンガーソングライターの故佐々木勉さんも住んでいました。「いつまでもいつまでも」「別れても好きな人」「星に祈りを」などがあります。すぐ近くに元TBSアナウンサーだった雨宮塔子さんが住んでいました。
 また、「北国の春」「星影のワルツ」などを作曲した遠藤実さんも南荻窪に住んでいました。
 (問2の回答)

 ・正解は(D)の「桃井弟二小学校」です。与謝野晶子・鉄幹夫妻は大正13年に今の南荻窪4丁目に越してきて、昭和17年に亡くなるまで住んでいました。敷地は約500坪あったそうです。荻窪駅から自宅までの途中に桃井弟二小学校があったせいで、その校歌を作詞したのでしょう。歌碑は桃井弟二小学校の校庭にあります。現在、住居跡は「南荻窪中央公園」となっていますが、その住居の一部が思わぬ場所に残っています。
 牛若丸で有名な鞍馬寺に「冬柏亭」と名付けられた与謝野晶子の小さな書斎が建っており、荻窪から移築したと書かれています。門下生が保存に努力したようで、鞍馬寺の管長も門下生の一人だったそうです。
 
 (問3の回答)

 ・正解は(B)の「服部半蔵」です。半蔵は伊賀の忍びの者として知られていますが、徳川家康との結びつきは織田信長が没した本能寺の変にあります。天正十年、徳川家康は信長の招きにより京に上がり、泉州堺にいたときに本能寺の変に遭遇しまれました。このとき、わずかな供しか連れていなかった家康は明智光秀に襲われることを恐れ、笠置山地、伊賀山地などを越えて三河の国に戻りますが、そのさい、無事帰国までの案内をしたのが服部半蔵だといわれています。その後の数々の手柄により、半蔵は家康に八千石の旗本に取り立てられ、麹町に屋敷を与えられました。「半蔵門」はこの服部半蔵から名づけられたとの説もあります。
 さて、荻窪との関係ですが、現在の環八をはさんだ両側の地域、荻窪の1、2、4、5丁目と南荻窪の1、2、4丁目辺りが「忍ヶ谷戸」=<しのびがやど>と呼ばれており、そこが半蔵の領地でした。また「上荻窪村」は伊賀同心八名の知行地だったそうです。つまり荻窪は何と忍者の土地だったのです。
 もう一ヶ所、織田信長と関係の深い場所がありますが知っていますか。桶狭間の戦いで破れた今川義元の末裔が徳川家の庇護を受け、「下井草村」に領地を持っていました。現在でもその名が残っていますが、今川1、2、3、4丁目辺りです。荻窪病院の近くにある観泉寺には今川家累代の墓がありますので、興味ある方は訪れてみてください。
 武蔵野の原野であった荻窪が、こうして戦国時代と繫がっていたと考えると面白いと思いませんんか。歴史が好きな方は郷土史家の森泰樹氏の「杉並風土記」をぜひ一読ください。荻窪のことがより詳しく分かります。
全くわからないので当てずっぽうで
連敗中です(笑)
今川って本当にあの今川だったのですね。
 >まちゃら さん。
 まさかあの今川氏の知行地かと意外に思ったかもしれません。今川義元の死で一族が滅びたわけではなかったのですね。一族が生き延びたのは武道ではなく文芸に秀でていたのだからともいわれています。菩提寺は正確には「宝珠山 観泉寺」といい、曹洞宗の名刹です。苔むした庭がある立派な境内に驚く方も多いはずです。隣りが中央大学杉並高校なので分かりやすい場所です。
 「忍ヶ谷戸」というのは、忍びの者が領有する台地にはさまれた低地という意味のようです。善福寺川の流域は田圃が多かったので、その辺りを指してなずけられたようです。この呼び方は大正時代まで残っていたと聞いたことがありますが、定かではありません。
 ==お詫び==
 (問6)に誤りがありました。「山川信」ではなく「草川信」です。
 (問4の回答)

 ・正解は(B)の「吉川英治」です。国民的文学ともいわれる「宮本武蔵」「新平家物語」などの作者である吉川英治は青梅市柚木町や品川区御殿山などに住んでいましたが、荻窪には住んでいませんでした。疎開先でもあった吉野梅郷には「吉川英治記念館」がありますので、ご存知の方も多いと思いますs。
 一方、荻窪に住んでいたのは太宰治(天沼)、棟方志功(上荻窪)、井伏鱒二(清水町)で、他にも橋本明治(天沼)、向田邦子(天沼)、開高健(井草)などがいます。また、有馬頼義、大山康晴、金田一春彦、サトウサンペイなどの方々も荻窪の範囲の住人です。
 現在でも著名な作家、芸術家など多くの方々が住まわれていますが、ご迷惑がかかるのでここでは書きません。
井伏さんと大山さんはご近所なので知っていましたが、他にもこ〜んなにたくさんいらっしゃたんですね。
 >タメ さん。

 ・もともと荻窪は別荘地として発展したとも言われていますが、静かな環境が文学者や芸術家に適していたのか、中央沿線の阿佐ヶ谷・荻窪を中心に多くの方々が住まわれています。下記に詳しく書かれていますのでご参考にご覧下さい。 

 http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/sugi/sub9.htm
 (問5の回答)

 ・正解は(A)の「山本五十六」です。昭和16年の9月、荻窪の荻外荘を訪ねてきた五十六は近衛文麿(総理)から日米が戦争に突入した場合の見込みについて質問されました。五十六は次のように応えました。「半年や一年は充分に暴れてご覧にいれます。しかし、二年や三年となると保証はできませぬ」
 戦争映画で良く見るこの場面は、まさに荻窪の地で五十六が発言した言葉です。米国の事情を良く知る五十六は戦いを回避したい思いがあったようですが、結局、軍部の強硬派の意見が大勢を占め、12月8日には真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入してしまいました。
 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、A級戦犯容疑に指名された近衛文麿は12月16日の出頭当日の朝、荻外荘で自殺しました。
 昭和15年には東条英機(=陸相候補)、吉田善吾(=海相候補)、松岡洋右(=外相候補)などとの会談もあり、まさに太平洋戦争の重要決定の幾つかがこの荻外荘でなされたのです。
(参考)
 荻外荘は善福寺川の春日橋を東に進み、坂を上りきった角にあります。門が閉ざされた入口は狭く見えますが奥に長く、広さは千坪以上あると思いますが、定かではありません。かって池があった場所は駐車場になり、建物の一部(応接間)は豊島区駒込の某団体の寮として使用されております。歴史上貴重な場所だけに保存してほしいものですが、財政上、役所も手を出せないのかもしれません。
 また、ホームページ上で荻外荘の写真を紹介しているものを見かけますが、その多くは間違って他人の屋敷を載せています。石垣の立派な大きな家はH邸であり、荻外荘ではありません。
>NORISANさま みなさま


「忍ヶ谷戸」については、以下のサイトに詳しいです。
http://www.nishitashou-dousoukai.com/

「〜谷戸」という地名はこの辺では多いですね。善福寺川の大谷戸橋もこの辺の地名の名残ですし、中央図書館のあたりも高野ヶ谷戸という地名だったかと思います。

与謝野晶子といえば、与謝野前金融担当大臣がご幼少の頃、南荻窪の家で育ったそうです。

荻外荘については、
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-04-01

いまでも近衛桜は見事です。
 >AH さん。

 いつも適切な補足をありがとうございます。書きなぐりの乱暴な文章で抜け落ちも多いのですが助かります。これからもよろしくお願いします。
 
 (問6の回答)

 ・出題に人名などのミスがあったので正解は「なし」とします。ただし、草川信については簡略化して記述。
 草川信は昭和6年から23年まで天沼に住んでいました。大正7年、鈴木三重吉によって創刊された童話・童謡の月刊誌「赤い鳥」に参加。野口雨情の「土曜会」などにも参加しています。童謡の「どこかで春が」「夕焼け小焼け」「汽車ぽっぽ」「揺り籠のうた」などを作曲しています。高等家政女学校(現在の荻窪高校)で教鞭をとられ、同校の校歌も草川信の作曲です。校長先生だったというのは、私の記憶違いだったようです。
 
(問7の回答)

 ・正解は(D)の「朝永振一郎」です。湯川秀樹と京都大学で同級生だった朝永振一郎は量子力学の分野で功績をなし、「くりこみ理論」などで知られていますが、1965年にノーベル物理学賞を受賞しました。朝永振一郎が結婚後に新居を構えたのが荻窪1丁目(西田小学校の正門から南に百メートル弱のところ)です。その後、日本教育大の学長にもなりましたが、昭和30年前後には西田小学校のPTA会長もやっています。
 この荻窪から北に小柴昌俊先生(下井草)、南に朝永振一郎先生(荻窪1丁目)と、ノーベル賞受賞者がふたり出ています。

 
 (その他、荻窪あれこれ)

 ・昭和11年(1936年)、陸軍皇道派の青年将校が反乱事件を起こした2・26事件にも、荻窪が登場します。教育総監であった渡辺錠太郎の私邸(上荻窪2丁目)が反乱軍の襲撃を受け、銃撃戦の上、渡辺錠太郎は殺害されました。
 周辺住民は激しい銃撃の音で目を覚ましたと、当時のことを良く知る方から聞いたことがあります。

 ・現在、荻外荘の隣りにマンションが建設中ですが、かってその一角にNHKの社員寮があり、アナウンサーで後に国会議員になった宮田輝さんが住んでいたことがあります。

 ・「のらくろ」で有名な漫画家の田河水泡さんの家も荻外荘の近く(荻外荘前の坂を下り、北に向かう坂を上がった左側)にありました。弟子だった長谷川町子(サザエさん)さんも荻窪駅から歩いて通われていたそうです。

 ・南荻窪の菅原文太さんの家の前を何度か通ったことがありましたが、体を鍛えるためか、駐車場の隅にボクシングのサンドバックがいつも吊るしてありました。

 ・昭和40年代、棟方志功さんのお宅の玄関先まで入ったことがあります。あの特徴あるお顔を拝見できるかと思っていましたが、残念ながら出てきたのは別の方でした。(学生時代、アルバイトで荷物の配達をしていたときのことです)

 まだまだありますが、この程度にします。

==================
 多少知っていれば、想像力次第で荻窪の町歩きが一層楽しくなるはずですが、皆さんに興味を持っていただけたかどうかは疑問です。荻窪が「ラーメンの町」だけでないと若い方々に知っていただければ幸いです。

  


 

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