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大日本帝國海軍が好き!コミュの帝国海軍航空隊

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軍は1910年に初めて航空機を入手して、第一次世界大戦中に航空戦に大きな関心を寄せて研究開発を進めた。
当初はヨーロッパの航空機を調達していたが、すぐに独自の航空機を製造して、空母建造計画に着手した。
帝国海軍は、最初から空母として建造されたものとしては世界最初となる空母鳳翔を1922年に進水させた。
その後、帝国海軍は余剰な巡洋戦艦と戦艦の幾つかを空母に改造する計画に着手した。

海軍航空隊は防空、侵入攻撃、海戦、その他の任務に当たった。

航空兵訓練課程は非常に選抜的かつ厳格なものであり、良質で長く勤務し続ける空中勤務者の集団を養成した。
第二次世界大戦の初期には、太平洋の空を支配した。
しかしながら、この訓練課程は時間が掛かる事と、訓練用のガソリン不足が相俟って、海軍は質のよい交代要員を急速に供給する事は十分に出来なかった。
アメリカやイギリスと異なり、日本では訓練課程を変更して新兵の訓練速度を上げる事もうまくいかなかった。

結果的に操縦士・飛行士の量も質も低下していった事と、その他の要因も加わって、終戦期に向かって死傷者数が増加していく事につながった。
海軍の操縦士は、操縦性の高い航空機を好んだ。
軽量で非常に俊敏な航空機の開発へとつながった。
中でも最も有名なものが零戦である。
これは装甲板や防弾式燃料タンクなどの装備を犠牲にして、軽量化と俊敏性を達成したものであった。



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宝塚海軍航空隊



滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊は海軍航空隊の教育機関

1944(昭和19)年8月15日 兵庫県川辺郡小浜村の宝塚大劇場を接収し、滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊発足。
第13期後期(奈良分遣隊入隊)・第14期前期の一部転入。
1944(昭和19)年9月1日 卒業生の飛行練習課程凍結。回天要員募集開始。
1944(昭和19)年11月28日 甲飛第15期(奈良分遣隊入隊者)転入。
1945(昭和20)年3月1日 独立、「宝塚海軍航空隊」開隊。
大阪警備府隷下第24連合航空隊。
一挙に増加した予科練甲飛第13・14期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊。

甲飛第15期前期の一部(西宮分遣隊)より転入。
1945(昭和20)年4月1日 甲飛第16期入隊(最後の予科練生)。
1945(昭和20)年6月1日 予科練教育凍結。
航空特攻要員は滋賀海軍航空隊へ転出。
1945(昭和20)年6月30日解隊
かろうじて甲飛第13期の卒業は果たしたものの、その多くは回天搭乗員に振り向けられ、パイロットへの志望が認められた者は僅かだった。
解隊後の生徒は紀淡海峡の要塞構築作業に従事した。

ーーーーーー
宝塚海軍航空隊に在隊していた海軍甲種飛行予科練習生の十数人が、淡路島に向けて出発しました。
先発隊は、分遣隊全員を受け入れる兵舎の設営や宿舎などになる建物の借り上げ交渉をしました。
 
【分遣隊の出発】
 七月下旬、杉本大尉を分隊長とする淡路分遣隊の本隊は宝塚を出発して淡路に向かいました。
 宝塚から陸路、岡山から宇野を経て高松へ、高松から徳島県の鳴門の撫養(むや)に到着しました。
 八月二日、分遣隊の本隊は、民間の機帆船(きはんせん。砂利運搬船。船長と機関長)二隻、「住吉丸」と、もう一隻を雇って、撫養から対岸の阿那賀に向けて出航しました。
 (機帆船=外洋航路への無帆装の蒸気船の普及後に、沿岸航路の海運に用い続けられた内燃機関搭載の木造船を指します。瀬戸内海など各地の石炭や雑貨の輸送でかなり重要な地位を占めました。第二次世界大戦期には、多数が日本軍に徴用されて東南アジアなどの占領地での局地輸送に従事し、さらには鉄資源節約になることもあって戦時標準船としてまで建造されました。


「お母ァちゃん」の声を残して波間に消えた宝塚海軍航空隊の少年兵たち


分遣隊本隊の約半分を載せた「住吉丸」は、兵庫県淡路島の南部、鎧崎(よろいざき)沖でアメリカ軍機・グラマンに攻撃されました。
 グラマンは何回も機銃掃射を浴びせました。
 上甲板のほぼ中央に座していた杉本分隊長が直撃弾を受けてたおれました。
 上甲板を貫いた機銃弾は、船内にぎっしり詰めこまれていた甲飛十六期の少年兵達の頭や腹をつぎつぎと貫いていきました。
 肩を引き裂かれた少年兵は、一度起きあがりましたが、三機目のグラマンに向かって仁王立ちになりましたが、かすれた声で「お母ァちゃん」と叫んで、その場に倒れました。

三機のグラマンが繰り返す攻撃で、燃料として積んであったドラム缶が射抜かれ爆発を起こして飛び散りました。「住吉丸」は、火の海になりました。
 衣服に火がついた少年兵は、海に飛び込んでいきました。
 「住吉丸」は、炎と煙を吹き上げながら鳴門の潮流に乗って北へ北へと流されていきました。
 「住吉丸」のすぐ近くを丸太ん棒につかまりながら三人の少年兵が軍歌を歌って励まし合いながら漂流していました。しばらくして歌声は絶え、「お母ァちゃん」の声を残して一人が波間に消えていきました。

海に飛び込んで逃れた少年たちを救おうとする漁船もいました.「海面に5,6個の黒いものが漂っているのを発見した.精根尽きた少年たとのイガ栗頭だった」「ほとんど正気を失っていて,引き揚げることができない.そのまま沈んでしまうものもいた」「浜に流れ着いたものもいた.ほとんど裸にちかい状態で,浜に総出の女たちが,冷え切った少年を抱えて温めた.」

攻撃を受けて機関が止まってしまった「住吉丸」は、潮に乗って阿那賀の港より北の丸山弁天あたりまで流されました。
 水産学校の練習船「春日丸」が通りかかり、「住吉丸」を曳航してくれました。
阿那賀の岸壁につながれた「住吉丸」からは、負傷者や遺体が運び出されました。

境内に並べて一人ひとり確認する作業があり、遺体の収容は夜通し続けられました。
 
甲種飛行予科練習生第十六期生、七十六人。
 教官、二人。
 教員、二人。
 「住吉丸」船長と機関長、二人。
合計、八十二人。
遺体は、鎧崎桜ケ丘に埋葬されました。

1965年(昭和40年)、淡路島の鎧崎に慰霊碑を建立した際、宝塚音楽学校生徒10名が招待された。
元隊員の「荒鷲の歌」斉唱に対し、歌劇団の代表曲「すみれの花」を唱和し、慰霊した。




第721海軍航空隊


神風桜花特別攻撃隊

神雷部隊

新兵器「桜花」を主戦兵器として新編成された、最初の航空特攻専門部隊。
「桜花」パイロットの桜花隊、「桜花」を運搬する陸攻隊、掩護の戦闘機隊、で編成。
百里原海軍航空基地で練成、後に神ノ池海軍航空基地に移転。

桜花


全長 6.066m

全幅 5.12m

全高 1.16m

自重 440kg

全重量 2270kg

速度 1040km/h(急降下突撃状態の速度)
648km/h(水平時最大速度)

航続距離 37km(投下高度によって変化)
(⇒高度7千で投下して約60km)

主武装 1200kg徹甲爆弾

エンジン 固体ロケットエンジン

出力 推力800kg×3
ただし毎本の稼働時間は9秒

乗員 1名(脱出装置なし)

車輪などの降着装置は未装備。
母機の一式陸上攻撃機に懸吊、目標に接近してから投下。
滑空を主にロケットも噴射可能。パイロットもろとも目標に突入、生還不可能。


大日本帝国海軍が大東亜戦争中の1944年に開発した特攻兵器。1945年より実戦に投入された。専門に開発、実用化、量産された航空特攻兵器としては世界唯一の存在でした。

桜花は、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。


一一型では母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。

正規軍の制式武器としては世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「人間爆弾」と呼べるものであるが、日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。


連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていた。

戦果

出撃の結果、桜花パイロット55名、その母機の搭乗員368名の戦死者に対し、桜花が与えた確実な戦果は、沖縄戦においてアメリカ海軍の駆逐艦マナート・L・エベール撃沈、その他連合国の駆逐艦を数隻に損傷を与えるにとどまった。

マナート・L・エベールの時は、艦体中央部に命中した瞬間、爆発して真っ二つに折れ、一瞬で沈没させる事が出来たが、連合国の駆逐艦に命中したものの、幅の薄い艦首部だったために機体が炸裂せず貫通、そのまま海に突っ込んでから爆発したという例もあるという、あまりにも犠牲に見合わない戦果であった。

http://www.youtube.com/watch?v=P9j94eFG5EE

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舞い散る桜の花のように、桜花の操縦士は、戻ってこない


「弟妹ヘ 身体第一充分健康ニ注意サレヨ 兄妹仲良ク御両親様ニ孝養ヲタノム 兄ラシイコトモ出来ズ誠ニスマナカツタ 大イニ勉学修養ニ勉メ立派ナル日本人 母ニナツテクレ 身ハ亡ンデモ魂ハ永遠ニ止マツテ 國ヲ守リ皆ヲ見守ツテ居ル デハ元氣デ」。



1944年


関大尉率いる敷島隊5機は、昭和19年10月25日フィリッピンのマバラカット飛行場を飛び立ち、レイテ近海にて敵艦隊を急襲、空母1隻撃沈、3隻に損害を与えるという戦果を上げた。


国力で10倍以上の差があると言われた米国に戦争を挑んでから、既に3年目。
数と数がぶつかり合う近代の消耗戦は、日本の限りある人的・物的資源を消耗し、連合国との戦力差は開いていくばかりだった。
こうした状況の中、採用された特攻は、生きては戻れない「十死零生」の作戦のため「統率の外道」とされながら、日本陸海軍の主要な戦術となっていく。


全軍の模範となる「特攻第1号」として、海軍兵学校出身の関行男大尉は、選抜された。戦死後は2階級特進し、「軍神」となった。



関 行男
海軍中佐


大正10年 8月29日 愛媛県西条市出身
昭和16年11月15日 海軍兵学校卒業(70期)
昭和16年11月15日 戦艦「扶桑」乗り組み
昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年 4月  日 軍艦「千歳」乗り組み
昭和18年 1月  日 第39期飛行科学生
昭和18年 8月  日 艦上爆撃機の実用機教程(宇佐空)
昭和19年 1月  日 霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)
昭和19年 5月  日 結婚(婦人は関大尉散華ののち再婚)

昭和19年 9月  日 台湾を経てルソン島マバラカット基地
昭和19年10月19日 神風特別攻撃隊敷島隊の指揮官発令
昭和19年10月21日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月22日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月23日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月24日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投


昭和19年10月25日 出撃、米空母セント・ローに体当り、散華(享年23歳)


昭和29年10月25日 伊予三島市に墓碑建立


昭和49年 5月 7日 現地人の有志によりマバラカットに慰霊碑建立


昭和53年 3月21日 西条市楢本神社に慰霊碑建立



毎年、関中佐が敵空母に突入した10月25日午前10時に海上自衛隊徳島航空基地又は小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。


関行男慰霊之碑

碑文

人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。この種の攻撃を行った物は、わが日本民族を除いては見当たらないし日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。

憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。



特攻は志願ではなかった。


昭和26年12月に、関大尉の元上官によって書かれた一冊の本が出版された。
「神風特別攻撃隊」という本である。
著者は第一航空艦隊航空参謀・猪口力平中佐、第二○一航空隊飛行長・中島 正中佐の共著となっている。
この本は発売されるやベストセラーとなり、関大尉に特攻の命令が下される場面はとことん美化されて書かれてあったために、多くの人に特攻に関する間違った認識を植え付けたのであった。


この本では、関大尉は自分から望んで特攻隊の指揮官を引き受けたことになっている。
関大尉は、夜中に寝ているところを起こされ、上官の元に呼ばれた。
第二○一航空隊の副長の玉井浅一中佐という人が、新任の第一航空艦隊長官から比島(フィリピン諸島)防衛の「捷号(しょうごう)作戦」を成功させるため、零式戦闘機に250キロ爆弾を抱かせて体当たり攻撃をするよう命じられた、と関大尉に言った。
玉井中佐はさらに、その指揮官を関大尉が引き受けてくれないか、と涙ぐみながら関大尉にたずねたそうな。
関大尉は、唇をかたく結び、目をつむったまま俯いて沈黙したきり、しばらく返事をしなかった。
だがやがて顔を上げると、「是非、私にやらせて下さい」と、少しの澱みもない明瞭な口調で言った。
玉井中佐もただ一言「そうか!」とだけ言って、関大尉の顔を見つめた。
急に重苦しい雰囲気が消えて、雲が散って月が輝き出たような爽々しい感じだった。‥‥と、「神風特別攻撃隊」はこの場面を感動的に結んでいる。
 
森氏も初めてこの本を読んだときは、この場面を事実だと思ったそうである。
だが、7年後にこれを覆す記録「神風特攻隊誕生秘話」が出た。筆者はサンケイ新聞出版局長をつとめる小野田 政という新聞記者。
小野田記者は、特攻隊誕生当時、同盟通信社社会部から海軍報道班員として、関大尉のいるマバラカット基地に派遣されていた。


小野田記者は特攻隊指揮官を引き受けた関大尉を飛行場の後ろを流れるバンバン川の河原に連れ出して、心境をたずねた。
関大尉は特攻隊指揮官を引き受けたときの状況を次のように語った。
玉井中佐は「頼む、最初はやはり海兵出身者が指揮をとるべきだと思う。貴様が一ばん最初に行ってくれると大助かりだ。
全軍の志気の問題だ」と言った。
関大尉は「是非、私にやらせて下さい」とは言わず、「承知しました」と無造作に言っただけだったという。
「まさか、自分が指名されるとは思ってもみなかった」とも、関大尉は小野田記者にもらしている。
 
さらに、関大尉は小野田記者に、次のような言葉を吐き出していた。


「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五〇番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」
 
「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のケー・エー(注:愛妻の意)のために行くんだ。命令とあれば止むをえない。日本が敗けたらケー・エーがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」


関大尉はここでハッキリと「命令」と言っている。
さらに彼は、飛行服の内懐から新妻の写真を取り出してキスをしたり、彼女との恋愛時代のノロケ話などを小野田記者に話して聞かせた。
 
「ぼくは二十五年の短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし、列機の若い搭乗員たちはエスプレイ(注:海軍用語で芸者遊びの意)もしなければ、ポスる(性の交り)ことも知らないで死んでいく。
インテ(恋人)もいるだろうに‥‥」
 
これが最初の特攻隊隊長・関 行男大尉の真実の素顔だった。
彼に特攻を命じた者たちが、勝手に彼が自分から志願したかのような美談(いわゆる特攻神話)を捏造して広めたのだ。
関大尉の沈黙部分など、そのあとの「是非、私にやらせて下さい」のセリフを効果的に活かすために創られた伏線だと考えた方が良い。


http://m.mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=64118945&id=1955249140&





二式水上戦闘機


全幅:12.00m、 全長10.13m 、総重量:2,460kg 、
最大速度:436km/h/4,300m、
発動機:「栄」12型 950馬力/4,200m、
武装、機関砲20mm×2 機銃7.7mm×2、60kg爆弾2発
乗員:1名

 アメリカではF4Fワイルドキャット水戦、イギリスでは、スピットファイヤー水戦など各国で水上戦闘機の試作が行われたが十分な性能が得られなかった。 本格的に量産し実戦で運用したのは日本海軍だけでした。 その傑出した性能の代表作が二式水上戦闘機です

太平洋の孤島にあっという間に飛行場を造つてしまうアメリ力の機械力に抵抗するための苦肉の策でもあったともいえます。 なにしろ水上戦闘機ならば飛行場がなくても迎撃、制空などの任務を果たせるのですから。 そんな水上戦闘機という特殊なジャンルを開拓したのが二式水戦です。

 昭和15年、南方基地用水上機の製作を中島に依頼

水上機製作に、経験豊富な中島に、零戦を原型とした改造試作を指示しました。

試作第1号機の試験初飛行は、1941年12月8日、42年早々には必要な試験飛行と審査を終了させた。42年7月には制式採用が決定し、ただちに量産に入り約1年半で327機が生産されました。 

そしてアリューシャン群島、ソロモン群島やその他の孤島に飛行場を建設するまでの防空戦闘機として、また水上偵察機の護衛として活躍しました。 特にソロモン群島の珊瑚礁の内海が絶好のすみかで南洋の空が活躍の主な舞台でした。
(1942〜45)

終戦時には24機が残存していたとされますが、処分されたために現存する機体はありません。


水上機と飛行艇の違い

 飛行艇は英語でflying boatと呼ばれ、水上飛行機のseaplaneとは区別されています。

 この違いが、飛行艇の特徴をよく表していると思います。飛行艇の機体は船のような形をしていて、ちょうど、船の船体に翼がついていて空を飛ぶことができるという感じです。

日本工業規格の航空用語では、飛行艇は「水上にあるとき、主に艇体によってその重量を支持する水上機」と定義されています。この点で「フロートによってその重量を支持」しているseaplaneと呼ばれる水上機とは異なるのです。

http://m.mixi.jp/view_diary.pl?&id=1958706219&owner_id=64118945





美保海軍航空隊

第152攻撃隊(呼称名:美保航空隊)
任 務 : 初等の乗員教育

装 備 : 彗星、天山

第206攻撃隊(呼称名:第2美保航空隊)

任 務 : 艦上戦闘機、艦上爆撃機の搭乗員練成訓練

装 備 : 銀河、一式陸上攻撃機
ーー

美保飛行場

鳥取県境港市

県西部の弓ヶ浜半島中央部に位置

昭和14年10月海軍美保基地建設開始(用地接収)

昭和15年3月 美保飛行場第1期工事開始

昭和18年6月 美保飛行場第1期工事完了

昭和18年10月美保海軍飛行隊誕生
第13期甲種飛行予科練習生1210名入隊

昭和18年12月 飛行場拡張工事(用地接収)
誘導路、航空機格納掩体壕の構築

昭和19年1月 第2美保海軍航空隊開隊
(中等練習教官課程の誕生)
昭和19年4月 第14期甲種飛行予科練習生2000名入隊
(中等練習教官課程の誕生)
昭和19年4月 第14期甲種飛行予科練習生2000名入隊
         10カ月で実戦配備
昭和19年10月 第15期甲種飛行予科練習生7000名入隊

昭和20年6月 第14期甲種飛行予科練習生特攻隊員として実戦配備

昭和20年6月 第14期甲種飛行予科練習生特攻隊員として実戦配備

昭和20年8月 終戦美保海軍航空隊解散
連合軍が接収

昭和33年返還

同年 航空自衛隊
美保基地開設

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BF%9D%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4

美保飛行場は、米子鬼太郎空港と共用

314万平方米の敷地に2500m(07/25)の滑走路を持ち、航空支援集団第3輸送航空隊があり隷下に第403飛行隊と第41教育飛行隊を設置

所属機種はC−1、YS−11輸送機 、T−400練習機を配備

島根半島には、高尾山分屯基地を設置

https://www.youtube.com/watch?v=NiJWDCqY_Ps

2017年美保基地航空祭
矢印(下)
http://www.mod.go.jp/asdf/miho/





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