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チェダゼミナールコミュの経済政策A(三年前期)

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三菱重工 エレベーター部門で西アジアなどで注目されている。西アジアや東南アジアなどは今高層ビルの建設ラッシュである。三菱重工は高層ビルエレベーター作りの独自のノウハウが確立されている。

福岡 六大都市には入っていないが、文化的行事が行われる3大都市には入っている。コンサートやスポーツの祭典などは大概東京・大阪・福岡である。

年俸と税金 年収一千万円クラスで税金1割。所帯持ちであると0.5割。04年度の納税額一位の某投資会社部長は、年金資金1000億円を2倍にしたらその一割を報酬としてもらうことを契約してそれをやり遂げた。つまり100億円を報酬としてもらい、そのうちの37億円を国税に、37億円を東京都に納めた。この人物はMBAホルダーであり、欧米からの評価も高い人物である。日本でプロの投資技術者と呼べるのは彼を含めて約50人ほどしかいない。彼らの平均年俸は億を越える。ちなみに社会保険庁は現在4割の損失を出している。

TOYOTA 05年一株3500円、06年一株7000円と二倍になっている。イギリスの車は昔大きな車が多かった。しかし今は日本車がイギリスの車社会を占領しているので、小型化している。30年前のイギリス映画と今の映画を見れば一目瞭然である。

前原 誠司 京都市左京区に生まれる。父は鳥取県境港市出身。母は鳥取県日南町出身。中学2年のころ父が借金苦により島根県奥出雲町において特急列車に飛び込み自殺する。父の死もあり、高校1年生から大学を卒業するまで奨学金を受けながら勉強する。京大受験に失敗し浪人時代に偶然高坂正堯の『国際政治』を立ち読みし、国際政治における"歴史上のプレーヤー"に憧れることになる。外交官か、大学に残ろうかと考えていたところ、師にあたる高坂正堯京大教授の「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんがそれほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスで政治家としての道を志すことを決意。その時、一人の政経塾生を紹介される。東京都議会議員であり、後に日本新党へ共に参画する山田宏であった。その山田から感銘を受け、昭和62年(1987年)松下政経塾へ第8期生として入塾する。同期生に玄葉光一郎や勝又恒一郎らがいる。
京都府議
平成3年(1991年)松下政経塾を卒塾。同年の京都府議会議員選挙に立候補し、府議会史上最年少で初当選を飾る。平成17年(2005年)9月、自身のホームページの更新に伴い、京都府議時代の「環境対策委員、同和推進副委員長、厚生労働、文教委員」という役職に関して一部のインターネット上で話題となった。この経緯において「野中広務らと癒着した同和利権保持者である前原が、意図的に京都府議時代の同和推進副委員長という肩書きを隠蔽した」とする中傷が流れた。しかし「同和推進特別委員会副委員長」という肩書きに関しては、府議会に昭和33年6月定例会 - 平成9年6月定例会まで設置されていた特別委員会があり、自民党も公明党も共産党の議員も委員を努めていた正式の委員会であったこと、さらにその中での副委員長就任は各会派相談の上での割り当てであった。また「野中広務との黒い癒着」(主として同和利権について)を疑惑として指摘する憶測が舞ったが、こちらも全く根拠は無い。むしろ癒着どころか当時から政敵であった。実際には野中・野中後継を倒すために北神圭朗を財務省から抜擢し、京都4区に立てたこともあった。そして、その後の経緯は野中が北神を裁判で訴えるという泥沼の戦いとなった。さらに同和推進副委員長の肩書きの割愛に関しては、ホームページの簡素化に伴い、実際には同和推進副委員長の役職の他に、当時努めた他の環境対策委員・厚生労働委員・文教委員などの記述も同時に略歴から姿を消しており、さらには京都府議時代の箇所のみならず衆議院議員に当選して以降現在に至る履歴の簡素化と合わせて全体的な更新が行われた経緯がある。つまり、略式の経歴作成に伴い割愛された部分は、実際には一時期地方自治の中で努めた同和関連の役職の部分に限定されるものではなく、さらには京都府議時代のものだけに特定されるものでもなかった。 これら全てを踏まえれば、同和利権や野中広務との交友が実際にあったとする意見は牽強付与の感が強く、非常に疑わしい。 以上を疑惑として追求する指摘する識者もいない。むしろ同和団体との関連については、1994年に部落解放同盟が中心になって進められた部落解放基本法制定要求国民運動大会に出席し、『「(部落解放)基本法」制定へ積極的に努力していく。』と発言していることが注目される。
日本新党 - 民主党
平成4年(1992年)長浜博行に請われ、野田佳彦、山田宏、樽床伸二、中田宏らと共に日本新党へ参画。同年の第16回参議院議員通常選挙では近畿・四国エリアで応援に回り、新党ブームに一役買う。
1993年の第40回衆議院議員総選挙で日本新党から立候補して初当選を飾るも、佐川急便事件で細川内閣が総辞職。その後、枝野幸男、荒井聰、高見裕一らと共に日本新党を離党し、民主の風(院内会派)を結成する。さらにその2ヵ月後には民主の風のメンバーと共に新党さきがけに合流。翌年に民主党へ移る。安全保障分野に関して、日本の政治家の中では屈指の知識を誇ることで定評があり、額賀福志郎など自民党防衛族議員からも一目置かれている。ただし友好関係は防衛族に親中派が多いことから薄い。前原が安全保障分野の知識を如何なく発揮したのは2003年の政府・与党の有事関連法案への対案として民主党が提出した「緊急事態・未然防止基本法案」及び「武力事態対処法案」の内容を盛り込むよう、修正協議の実務レベル交渉の担当になったときである。この交渉は前原に法案の不備を突かれた与党が、法案の修正を余儀なくされた。
民主党代表
平成17年(2005年)9月11日第44回衆議院議員総選挙で民主党は大敗北を喫した。党代表の岡田克也は辞意を表明。前原は岡田後継の代表選挙に立候補し、9月17日菅直人を破り第5代代表に選出された。前原の代表就任には、民主党が一気に代表を若返らせたことから、読売新聞などの巨大メディアが、“新代表はジャニーズ系”、“永田町の郷ひろみ”と報じ、話題を呼んだ。代表就任後は日本労働組合総連合会等の労組との関係を見直すと主張。労組とは党との考え方の違いを率直に議論しながら是々非々の関係を構築し、労組依存の体制から脱却して行く事を掲げている。政治運営に関しては対案路線を明確にし、主要な法案については積極的に対案を提出すると宣言し、主要メディアから高く評価された。初めての代表質問に関しては、威風堂々と巨大メディアの多くがロゴを打った。平成17年(2005年)12月2日に東京の大学において講演した際、日米安保と防衛の一方的な依存は、アメリカに対する「過度の甘え」であると、自民党の対米追従を批判した。 平成17年12月中旬の自らの米中歴訪では、中国の軍事的脅威に対して日本は毅然とした態度を取るべきという従来からの持論を展開した。同年12月9日(現地時間8日)の米戦略国際問題研究所(CSIS)における講演では、中国の軍事力増強を現実的な脅威と指摘し、またシーレーン(海上交通路)防衛の要求上、日本の集団的自衛権を認めるべく憲法改正の必要性を訴えたが、これには民主党内左派から党内合意を経ていないとの批判を受けたほか、中国政府の反発を呼び、あらかじめ予定されていた会談を中国側がキャンセルする事態に繋がった。同13日に前原は訪問先の北京で記者会見を開き、中国脅威論の主張を根拠に要人との会談を拒否した中国政府の対応を批判して、「(率直に物を言わぬうわべでの)友好は砂上の楼閣になってしまう」と指摘した。中国脅威論や日本国憲法第9条改正の立場を明確に打ち出してるため、党内外の護憲派には前原をタカ派と評す者もいる。しかしながら、99年7月国旗国歌法案の採決で反対票を投じたり、靖国神社参拝に消極的であったり、外国人参政権に対する賛意を述べる点など、政策ごとに物事を判断しており、他の松下政経塾出身者同様、旧来の政治スタンスの枠組みに囚われない新しいタイプで1つの枠組みでは括れないところがある。平成18年(2006年) ライブドア送金指示メール騒動に関連して、十分な証拠を開示出来なかった為に永田に代わり前原が自民党にこのメールの信憑性を裏付ける為の国政調査権発動を嘆願。だが、メールの信憑性が低い為に逆にこの追求が批判を浴び、前原や民主党の立場を弱まらせることになり自民党からは非難の声が上がり、民主党への抗議の電話が殺到した。平成18年(2006年)2月26日に出演したテレビ朝日の番組「サンデープロジェクト」において、永田寿康のメール問題について、司会の田原総一朗から厳しい追及を受けたが、「報告は伺っております」の連呼のみに終始した。この問題で前原党首の進退問題まで言われることになったが、2月28日に謝罪会見を行い党首続投を宣言した。しかし代表選挙で前原陣営の選挙対策委員長として票を取りまとめ、前原の意思を尊重して国会運営を当たっていた野田佳彦国会対策委員長の引責辞任を余儀なくされ、執行部の右腕を失う結果になってしまった。平成18年(2006年)3月31日代表の引責辞任を表明。前原の辞任表明を受けて、鳩山幹事長も幹事長辞任を表明、永田寿康代議士も議員辞職を表明した。4月7日の民主党代表戦で小沢一郎が当選し代表職を離れる。
人物評
• 民主党屈指の論客として知られ、特に安全保障政策では党を代表し、政府側と交渉に当たってきた。平成14年(2002年)9月の代表選挙では、菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため「第二期民主党をつくる有志の会」を結成する。若手統一候補として同じ松下政経塾出身者の野田佳彦と並び、代表選候補に名前があがったが、最終的に野田を推薦する側に回った。このことが、後の代表選挙で野田が前原を支持するきっかけになった。ちなみに弘兼憲史作の政治漫画「加治隆介の議」の主人公・加治隆介のモデルの1人となった。
• 尊敬する政治家は広田弘毅で、愛読書は城山三郎の「落日燃ゆ」。
• 趣味はSL写真の撮影ならびに収集、妻との食事、ドライブ。国会議員随一の鉄道ファン(特にSL写真の撮影旅行)と言われている。また、新婚旅行先は「現役のSLが走っている」という理由で北海道だった。師の高坂正堯と同じく熱狂的な阪神ファンで、高校時代は野球部に所属していた。
• 2005年12月発行の書籍物「国鉄時代」(ネコ・パブリッシング発行)第4号には、「親父と罐へのレクイエム」と言うタイトルで記事を執筆している。ただし、どう言う訳か不明であるが、記事内に「民主党代表」や「議員」との記述は一切無い。

GDP500兆円 実際に500兆円の紙幣や貨幣が必要なわけではない。五分の一から三分の一ぐらいあればよい。実際現在は90兆円ほどであるので、回転率は5倍強ということになる。景気がよくなるという意味合いは、お金の回転率がよくなることを意味する。日銀は毎月大体10兆円ほどの紙幣を発行している。

いわし いわしはかつて庶民の魚であったが、今日では水揚げ量が減って、1匹1000円くらいになった。伊勢えびよりも高い。

アメリカの経済学部 アメリカの経済学部は、留学生ぐらいしかいない。アメリカ人はMBAの取得できる経営・商のほうへ進学する。日本とアメリカの経営レベルの格差は20年あるといわれている。

ICT分野 中国や韓国の金融工学のレベルは日本より5年ほど進んでいる。

不況 通常の不況においてはGDPは3割ほど減るものであるが、わが国は減らなかった。逆に日本は不況時にもかかわらず、GDPが10兆円ずつ増えていった。これは乗数理論信望者がバンバン借金していったからである。グローバリゼーションの意味合いはメガコンペティションであり、約100カ国くらいが国家破産を経験している。

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