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チェダゼミナールコミュのヴェルサイユ・ワシントン会議 P136〜 資料170〜

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【大戦の残したもの】
 世界大戦といえど、その舞台の中心となったのは西ヨーロッパである。西ヨーロッパ諸国はWW?によって甚大な被害を被った。この戦争で一番損をしたのは当然ながら敗戦国の1( ドイツ )である。そして次に損害が大きかったのがそのドイツと西部戦線を戦った2( フランス )、そして東部戦線を戦った3( ロシア )である。ただし、ロシアは1918年の4( ブレスト・リトフスク条約 )をドイツと結び、戦争から離脱した。その後、1922年に社会主義国5( ソビエト社会主義共和国連邦 )となった。つまり、「経済的に皆平等で、王様のいない、ロシアの周りの国を取り込んだ国」となった。ソ連の社会主義体制の滑り出しは順調であった。王様のいない国の誕生はロシアだけではない。ドイツでもヴィルヘルム?世がいなくなり、共和制となった。ドイツの隣、オーストリアも同じく王政は廃止された。
 一方でヨーロッパから遠く離れたアメリカ。アメリカの伝統的外交方針は孤立主義(モンロー)主義である。孤立主義とは、「ヨーロッパとアメリカは相互に干渉し合わない」というものである。つまり、アメリカにとってWW?は「対岸の火事」に過ぎなかった。アメリカはWW?に大して極力関わることなく、中立の立場を保ち、自国の経済発展に集中した。また、中立とは言っても協商国側に戦争資金の貸し出しだけは行なった。よって戦後になるとアメリカがヨーロッパに対して債権国、ヨーロッパがアメリカに対して債務国となり、ヨーロッパとアメリカの立場が逆転した。
 さらに、WW?を最終的に終わらせたのもアメリカだった。泥試合の続く世界大戦中、ドイツが1917年に6( 無制限潜水艦作戦 )という暴挙に出た。アメリカの商船や貿易船までもそのターゲットにされたため、アメリカはついにWW?に参戦した。そしてアメリカが一気にこの戦争のカタをつけたのだった。
 このような理由から、戦後国際舞台におけるアメリカの発言権が飛躍的に増した。

【パリ講和会議とヴェルサイユ体制】
 WW?は1918年の11月11日に終戦した。日本で11月11日は「ポッキー&プリッツの日」であるが、ヨーロッパの人々にとっては「WW?の終戦記念日」なのである。翌年1919年1月、フランスのパリで7( パリ講和会議 )が開かれた。この会議は戦勝国である連合国側27カ国が参加し、敗戦国であったドイツや途中で棄権したロシアは招かれなかった。重要な事項について決める最高会議のメンバーは戦勝国の中でも大国である米・英・仏・伊・日の五カ国で構成されていたが、実質8( アメリカ )9( イギリス )10( フランス )の三カ国の話し合いである。ただし、この三カ国はそれぞれ思惑が違っていた。まずアメリカは、「この会議をきっかけとして世界のボスに君臨したい」と思っていた。イギリスは「ドイツは怒らせたら面倒だからなるべく穏便に済ませたい」と思っていた。フランスは「ドイツはそもそも普仏戦争の時から気に入らなかった。今回のWW?でも西部戦線で甚大な被害を受けた。これを期にドイツの力を徹底的に削減したい」と思っていた。
当時のアメリカ大統領は民主党の11( ウィルソン )大統領であった。民主党は革新政党で、アメリカの伝統的外交政策孤立主義とは異なる。孤立ではなく、世界と協調の立場をとる政党である。ウィルソンは1918年に12( 十四カ条の平和原則 )を発表した。そのどれもが理想的なものばかりであったが、実現するには難しいものであった。14カ条のうち重要なものを抜き出す。
? 秘密外交の禁止
WW?において、イギリスの二枚舌外交や、協商国が南チロル領土問題をイタリアにちらつかせ、イタリアを寝返らせた。こういったものを禁止する。でも、これは無理。
? 軍縮
軍備拡大はカネの無駄。だったら、世界全体で軍縮しようというもの。でもこれは無理。「鍵をかけずに寝る」ことはありえない。「チャリの鍵をかけない」こともありえない。
? 植民地問題の解決
植民地獲得競争がWW?につながったため。特にヨーロッパにおいてはバルカン問題(東ヨーロッパ諸国をどこがゲットするか)から戦争に発展した。パリ講和会議の結果、東ヨーロッパ諸国の独立は認められたが、アジア・アフリカなどの独立は認められず。
? アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの返還
元々、この地域は普仏戦争まではフランスの領土だったから。
? 民族性に則ったイタリア・オーストリア国境の調整
南チロルはイタリア系が多く住むのに、オーストリアの領土であった。それがイタリアの裏切りにつながったから。
? 民族自決
これは「国のことはその国が決める」ことを意味する。つまりこれは植民地支配というものを認めないというものである。敗戦国ドイツの植民地は全部なくなった。しかし英仏は植民地を手放さなかった。なぜなら英仏はアメリカに比べ本国面積よりも植民地面積の方が広大である。アメリカはアメリカ一国で十分大きいのであまり植民地を持つ必要がない。英仏が植民地を放棄すれば、アメリカの力が飛びぬけてしまうと考え、植民地放棄を拒否した。でもWW?はアメリカのおかげで勝てたのでアメリカの言うこともきかなければならない。そこでヨーロッパにある植民地は放棄し独立させるが、その他の地域の植民地は手放さないという妥協案で話し合いは終わった。つまり英領インドや仏領インドシナはそのまま植民地支配が続くし、中国の半植民地状態も継続ということだ。独立を達成した東欧の国とは、ポーランド・フィンランド・バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)・チェコスロバキアなどである。
これに対し中国や朝鮮では抗議運動が起こった。朝鮮は1910年の13( 韓国併合 )により大日本帝国領となっていたし、中国もドイツ権益を引き継いだ日本が領土的野心を抱いていた。反日運動はWW?が終わって67年たった今でもことあるごとに行われている。
朝鮮 三・一独立運動
中国 五・四運動
結局、ウィルソンの案は理想ではあるが、現実的ではなかった。米英仏の意見はまとまらなかった。フランス首相14( クレマンソー )が結局話しを押し切る形で、ドイツに厳しい制裁を課した15( ヴェルサイユ条約 )を結んだ。ドイツは全植民地を喪失し、軍備は制限され、多額の賠償金支払いを命じられた。

【国際連盟】
ウィルソンは16( 国際連盟 )の設立も提言した。国際連盟をつくって皆で話し合って戦争を未然に防ごうというのは確かに理想的である。しかし、言いだしっぺのアメリカは結局国際連盟に加盟しなかった。なぜかというと、アメリカ議会は共和党が多数を占めていたからである。共和党は孤立主義を国是としている。孤立主義とはヨソの国とは関係はもたず、「アメリカはアメリカで勝手にやる」という考えである。世界のリーダー格にまで成長したアメリカが参加してないとなれば国際連盟が機能するはずもありません。国際連盟は足並みがそろってなかった。資料集P170?にもあるように、日独伊が途中で脱退しているのが分かる。WW?では戦勝国側であった日本は国連理事会の常任理事国(英・仏・伊・日)にも選ばれていた。
国際連盟の弱点は「全会一致の原則」と「武力制裁手段がない」ことである。全会一致の原則とは、話し合いに参加するすべての国の意見が一致するまで話し合うというものだ。皆の意見が完全に一致すればそれはそれで素晴らしいことだが、そのようなことはまずない。「武力制裁手段がない」というのは、悪いことをする国が現われたとしても、口で注意するか、経済制裁のみしか出来なかったということである。経済制裁とはお金をあげないとか貿易・取引をしないとか罰金を与えるなどである。結局国際連盟は単なる戦勝国クラブで、提唱国アメリカの不参加もあり強制力を持たないものとなった。そのため国際連盟はWW?発生を防げなかった。ウィルソンの考えは「絵に描いた餅」となった。

【ワシントン体制と軍縮】
パリ講和会議は主にヨーロッパの戦後処理や新しいルール作りを話し合うものだった。それに対して、戦後のアジア・太平洋におけるそれは17( ワシントン会議 )<1921〜22>である。アメリカの呼びかけで日・英・仏など9カ国が参加し、海軍軍備制限や日英同盟の廃止などが話し合われた。なぜ日英同盟が廃止されたのだろうか。おそらくアメリカは日本をかなり警戒していたと思われる。日本は日清戦争(1894年)・日露戦争(1904年)・WW?(1914年)と、10年ごとに戦争をし、ことごとく勝利してきた。力をつけた日本とイギリスを手を組んだままにしておけばアメリカに逆らってくる可能性もあった。日英同盟の廃止は米英仏日の18( 四カ国条約 )で決められた。
また、中国は半植民地状態であったが、アメリカはこの状態を辞めさせたかった。アメリカは中国進出が遅れていたからだ。そのため、各国が中国の特定地域において勢力範囲を設定しないことをアメリカは主張し、各国に認めさせた。これを19( 九カ国条約 )という。そして、日本はWW?中にドイツから引き継いだ20( 山東半島 )の権益を中国に返還することとなった。
さらにワシントン会議では、21( 海軍軍縮条約 )も調印され、22( 主力艦 )の保有が制限された。これもアメリカに有利な取り決めが行なわれた。その後、1930年の23( ロンドン軍縮会議 )では24( 補助艦 )の保有制限が、これまたアメリカに有利なように決定された。
またヨーロッパでは、ヨーロッパ北西部の現状維持、ラインラントの非武装化の確認などを内容とする25( ロカルノ条約 )<1925年>が結ばれ、ドイツは翌年国際連盟に加盟を果した。また、1928年には、戦争を違法とする26( パリ不戦条約 )も結ばれた。1920年代の世界外交は協調外交が主であった。
ともかくWW?後、欧州においては英仏(特に英)、環太平洋地域においてはアメリカが主導権を握る27( ヴェルサイユ・ワシントン体制 )が1920年代からスタートした。しかし、1929年10月24日(木)から始まる未曾有の金融危機から、その歯車は狂い始め、WW?へと突入していく。


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