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チェダゼミナールコミュの緊迫する国際関係 P130〜 資料166

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【大戦前ヨーロッパの国際関係】
 19世紀後半のヨーロッパでは、ドイツがフランスを孤立化させるためにロシアとオーストリアとともに1( 三帝同盟 )<1873>を結んでいた。しかし、露土戦争終了後のベルリン会議<1878>では、ロシアとドイツの関係が悪化した。不凍港を求めバルカン半島を手に入れたかったロシアに対し、ドイツのビスマルクがそれに待ったをかけたからだ。結局バルカン半島にあるボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアが手に入れた。以後、ドイツはロシアを警戒するようになり、イタリア・ドイツ・オーストリアで2( 三国同盟 )<1882>を結んだ。それに対抗し、ロシアもフランスと3( 露仏同盟 )<1891・敵の敵は味方>を結んだ。以後、ドイツ帝国とロシア帝国の間に挟まれたバルカン半島領有をめぐり、両帝国は対立するようになる。バルカン半島は4( ヨーロッパの火薬庫 )と呼ばれるようになった。










【日露戦争と韓国併合】 資料162
 ヨーロッパのバルカン問題が一時的に緩和されたのが、日露戦争である。ロシアはバルカンでの不凍港ゲットが無理と判断し、極東アジアに領土的野心の矛先が向けられた。ロシアが極東アジアの拠点とした街5( ウラジオストク )とは「東を征服せよ」という意味である。日露戦争ではドイツは若干ロシアを応援していた面がある。ロシアの領土的野心がアジアに向けられる分には、ドイツにとって大歓迎だからである。
 ロシアは下関条約で日本が手に入れた6( 遼東半島 )を中国に返還させたり、義和団事件後には中国北東部の満州を占領するなど、露骨にアジア進出してきた。そして、中国や朝鮮半島の領土をめぐって日露が対立し、日露戦争へと発展した。日露戦争は第0次世界大戦とも呼ばれWW?の前哨戦の様相を呈した。
大日本帝国 ロシア帝国
大英帝国(日英同盟)
※ただし、資金援助のみ。中国に領土を持つイギリスにとって、ロシアが中国満州を手に入れることは都合が悪いため。 フランス帝国(露仏同盟)
三国同盟(独・伊・墺)に対抗して。
アメリカ合衆国
※同じく資金援助のみ ロシアの領土的野心がアジアに向けられると、アジア進出を目論むアメリカにとって都合が悪いため。 ドイツ帝国
ロシアの領土的野心が東に向くのは歓迎。ただし、ロシアを単に応援しただけで協力はしていない。ロシア王ニコライ二世とドイツ王ヴィルヘルム二世が親戚関係。
大韓帝国(韓国)の親日派 大韓帝国の新露派
オスマン帝国(トルコ)
ロシアに長年支配され続けていたため。 モンテネグロ
宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず。
日露戦争は、米英の協力もあり日本が勝利した。というより日本が優勢の時に、アメリカのセオドアローズベルトが仲裁に入り、アメリカのポーツマスで条約を結ばせた。ロシアが勝つとアメリカにとっては後々面倒だからだ。ロシアは結局極東アジアにおいても南下政策は失敗し、ロシアの領土的野心はまたもバルカン半島に向けられる。そして日露戦争から10年後にWW?が始まるのである。
 日本は結局1910年に7( 韓国併合 )を果し、朝鮮半島を大日本帝国領に組み入れることに成功した。

【ロシア第一革命】
日露戦争の影の功労者は8( 明石元二郎 )である。福岡市の大名で生まれ、修猷館を卒業。陸軍で活躍しロシア通で知られた。彼は、ロシアの貧しい人々に対し「あなた達の生活が苦しいのはロシアという国が戦争をやっているせいですよ」と吹き込んだ。日露戦争で相次ぐ敗報がロシア国民に知らされると、1905年1月、ロシア市民は立ち上がり戦争反対デモを起こした。しかし、これはロシア軍に鎮圧された。この事件を9( 血の日曜日事件 )という。この事件をきっかけにロシアでは革命が起こり、政府は憲法発布と国会開設を公約し、革命を鎮めた。この革命を10( ロシア第一革命 )<1905>という。ロシア第二革命はWW?中の1917年に起こる。
第一次世界大戦 P132〜
【バルカン半島の情勢】
 第0次世界大戦とも呼ばれる日露戦争中、英仏は11( 英仏協商 )<1904>を結び、さらに終了後、イギリス・ロシアはドイツを警戒して12( 英露協商 )<1907>を結んだ。この結果ヨーロッパの六大国が、独・墺・伊の13( 三国同盟 )と、それに対抗する英・仏・露の14( 三国協商 )の2大陣営にわかれた。


〔バルカンの紛争〕 〜ヨーロッパの火薬庫爆発!〜
WW?が発生した原因はバルカン問題にある。資料集166?の風刺画にあるようにバルカン問題はいつ爆発してもおかしくない状況だった。バルカン半島の覇権争いの中心となる国はドイツとロシアである。当時ヨーロッパの2TOPは15( イギリス )と16( フランス )だった。この二国は産業革命をいち早く成し遂げ、世界に沢山の植民地を抱えていたため繁栄を謳歌していた。産業革命の波に少し乗り遅れたのがドイツとロシアである。産業革命の発生時期を表にすると
18C後半 英
19C前半 仏
19C後半 米・露・独
20C前半 日・伊
 おおよそこのようになる。20C前半までに産業革命を果たした国が現在でも先進国と成っている状況である。日本は先進国行きの切符をギリギリで手に入れて最終列車に滑り込んだような形となった。話を元に戻すと、20C初頭、欧州の2TOPが前述したように英・仏である。この2ヶ国が早い者勝ちでアジア・アフリカ・南米などに沢山の植民地を獲得していた(資料集161で確認)ため、欧州の3番手争いをしていたドイツとロシアは東欧のバルカン諸国を手に入れることが必要不可欠だった。東欧を支配することで英仏に対抗していこうと考えていたのだ。欧州3番手争いの中で、ドイツ中心のグループを17( 汎ゲルマン )主義といい、ロシア中心のグループを18( 汎スラヴ )主義という。
 バルカン半島にある国のほとんどがスラブ民族<キリスト教徒>であったため、バルカン半島諸国は19( バルカン同盟 )を結んだ。しかし、バルカン半島のすぐ東隣にはイスラム教徒が大多数を占める20( オスマン帝国 )<トルコ>が存在していた。このバルカン同盟国とオスマン帝国の間で21( 第一次バルカン戦争 )<1912〜13>が勃発した。結果はバルカン同盟側の勝利で、オスマン帝国は大幅に領土が削られた。そして、そのオスマン帝国をどう分配するかでバルカン同盟国の仲間内で揉め、22( 第二次バルカン戦争 )<1913年>が勃発した。この戦争で敗れたブルガリア、そして第一次バルカン戦争の敗者トルコは、以後ドイツ・オーストリアに擦り寄った<敵の敵は味方>。


【第一次世界大戦の勃発と戦況】 〜世界制覇を目論むドイツとイタリアの裏切り〜
汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が高まる中、ボスニアのサラエボでセルビア系青年(汎スラブ主義側)がオーストリア(汎ゲルマン主義側)帝位継承者であるフェルディナンド夫妻を暗殺する事件が起きた。この事件を23( サラエボ事件 )という。オーストリアは元々ドイツの一部である。ドイツはオーストリアも含めた大ドイツ主義でいくか、ドイツのみの小ドイツ主義でいくか議論になったが、結局小ドイツ主義で統一を果した。つまりオーストリアもドイツも同じゲルマン人である。因みに後のドイツ独裁者ヒトラーも、元々はオーストリア出身である。ヒトラーはWW?の戦犯だが、WW?の戦犯は24( ヴィルヘルム二世 )である。ヴィルヘルム二世はカイザー髭、ヒトラーはチョビ髭なのが特徴だ。ドイツは元々戦争をしたくてしたくてたまらなかった。ドイツはロシアと欧州の3番手争いをしていたが、戦争をして勝てば領土が広がりロシアより優位に立ち、そのうち英仏の軍事力・経済力を追い抜けると考えていた。ドイツは、電気・化学工業など新興産業分野で世界をリードしながら、国際政治において相応の地位を認められないも不満を募らせていた。ヴィルヘルム二世の世界政策は、ドイツの資本家階級の要求に応えるものであった。WW?の対立軸は
三国協商 英仏露(伊)
三国同盟 独・墺・(伊)
となる。イタリアが( )となっている理由は、開戦当初中立の立場をとっていたからだ。イタリアとドイツは産業革命スタートのタイミングが英仏より遅れていたという点と国内統一が遅れた点ではドイツと共通項が見られるが、民族においてはドイツと異なる。イタリアはラテン人である。独・墺はゲルマン人である。つまり一応同盟関係ではあったけれども独と伊の結束はそこまで強くはなかった。そのイタリアの立場を英仏が利用した。イタリアに対して「こちらの味方になってくれれば戦争に勝ったあとイタリアにも領土をあたえてやるから」とそそのかします。その領土とは具体的に、「未回収のイタリア」<資料149参照>である。イタリアとオーストリア国境に位置する南チロルやトリエステはイタリア人が多く居住する地域だったが、ここをオーストリアに押さえられていた。結局イタリアはドイツとの同盟を裏切り、協商国側につくことになった。WW?が始まったのは25( 1914 )年の夏である。ヨーロッパ人にとっておよそ50年〜60年振りの大規模な戦争だったため、兵士たちはいわゆる「戦争を知らない世代」であった<資料167参照>。協商国側の兵士たちは「せいぜいクリスマスまでには戦争は終わるだろう」とこの戦争を楽観視していた。なぜならこの戦争は同盟国側が4カ国に対し、協商国(連合国)側は27カ国であったし、事実上、英仏露伊VS独だから(独側にはトルコとブルガリアもいたが、ほとんど活躍していない)である。数の上でも協商国側が有利だし、戦略上・地理的に見てもドイツは英仏露伊に囲まれている形だから、すぐにドイツが負けるだろうと思われていた。ところが意外にもドイツが強くて、戦争は膠着状態となった。WW?は主に西部戦線と東部戦線に分かれる。西部・東部とはドイツからみての方位となる。西部戦線とはつまり仏VS独である。フランスがドイツの進撃を止めたマルヌの会戦によってWWIは長期化の様相を呈す。東部戦線とは独VS露である。ドイツは、フランスとロシアを最大の敵と決め、まずフランスを集中攻撃して短期決戦で破り、ついで動員に時間がかかるであろうロシアを攻撃するという計画をたてていた。しかし、マルヌの会戦によりそれは失敗に終わった。



【総力戦】 〜新兵器の登場とウーマンパワー炸裂〜
WW?が長期化した理由の一つに新兵器の登場が挙げられる。19Cまでの戦争のスタイルは爆弾を相手の陣地に投げ込み、相手がビックリしているところに歩兵が突っ込むというものだった。しかし26( 機関銃 )という新兵器の登場により戦闘スタイルが一変する。この兵器の登場により、むやみに敵陣に突っ込むということが出来なくなった。そこで自陣に穴を掘り、そこに隠れて対峙する27( 塹壕戦 )が繰り広げられるようになった。むやみに突っ込めないので、穴の中でジッと隙を窺う。相手が油断するまで我慢するしかない。この膠着状態を打開するためにさらなる新兵器が発明された。それが28( 毒ガス )と29( 戦車 )である。また、独VS英(あえて名づけるなら北部戦線)においてだが、イギリスという国は日本と同じ島国である。そのため陸続きである東部戦線・西部戦線とは戦闘スタイルが異なる。この北部戦線においての新兵器は30( 潜水艦 )と31( 飛行機(戦闘機) )です。戦争の長期化と新兵器の登場によって人手が足らなくなった。戦争が長引くと、例えば旦那が電車の運転手だったなら、代わりに妻がそれをするしかなくなる。武器・弾薬が必要だから女性が軍需工場で働くようになる。さらに男性の兵士だけでは数が足りず女性の兵隊も組織されるようになる。綺麗な女性であれば、相手国の要人(大物政治家・軍部)と繋がりをもたせてスパイ(資料集P167参照)として利用された。かつての戦争は軍人・騎士・武士などといったいわゆる戦闘のプロ同士のみの戦いであったのに対し、WW?は非力な男性や女性も戦争になんらかの形で参加する32( 総力戦 )となった。今までの戦争は戦場と生活は区別されていたが、WW?からは、生活の場も戦火に巻き込まれるようになったのだ。女性を戦争に動員するためにはそれなりの褒美が必要となる。資料集P171?を見ると、WW?終戦(1918年)以降、女性参政権が認められた国が増えていることがわかる。日本の場合の総力戦はWW?<太平洋戦争>だったので、日本に女性参政権が認められたのはWW?後となる。



【戦争の終結】 〜日本・アメリカの登場とロシア・ドイツ革命による内部崩壊〜
名前は世界大戦ですが、元々はヨーロッパ同士のケンカ、それもドイツが他のヨーロッパ諸国にケンカを売ったのがきっかけだった。それではなぜ世界大戦という名前なのか。それは、ヨーロッパ列強国、特にイギリスとフランスが世界に沢山の植民地をもっていたからである。戦争の長期化で兵士不足となると、イギリス・フランスは植民地からも兵隊を動員した。(資料集P167参照)特に、英領インドからは150万人の兵が西部戦線に動員された。ただし、当然インド人は戦争なんかに行きたくない。自分と関係のない国のケンカに巻き込まれて死ぬのは嫌だからだ。そこでイギリスはインドに対して、「もし兵隊として来てくれて勝つことが出来たらインドを独立させてあげますよ」と密約を交わした。しかしこの約束は結局果たされなかった。インドの独立はWW?以後を待たなければならない。イギリスは他にも、戦争に協力してくれれば、中東(パレスチナ)におけるアラブ人の国を建国することを認める33( フサイン・マクマホン )協定を結んで、パレスチナ諸国にトルコを攻撃させた。さらに、同じくユダヤ人に対しては、イギリスに戦争協力してくれればパレスチナにユダヤ人の国を建国することを認める34( バルフォア宣言 )を出し、ユダヤ人から戦争資金を出資させた。フサイン・マクマホン協定とバルフォア宣言は矛盾するため、イギリスの二枚舌外交といわれる。パレスチナでは未だにユダヤ人とアラブ人の対立が続いている。
さて我が国はWW?にどのように関与したのか。前述したように元々はヨーロッパ同士のケンカだから、日本は関係ないようにも思える。しかし日本は1902年にイギリスと35( 日英同盟 )を結んでいた。イギリスも日本もロシアを警戒していたからだ。イギリスは極東におけるロシアの動きまで監視が行き届かない。なにせロシアの領土は広すぎるし、ロシアの大部分はアジアに属している。因みにロシアにおける欧州とアジアの境目は36( ウラル山脈 )である。そこでイギリスは地理的に極東に位置し、日清戦争(1894年)勝利でアジアの大国となった日本と手を組む。ロシアが中国・朝鮮へ領土的野心を持ち南下政策をとったとき日本を使って阻止する。日本も朝鮮半島や中国に領土的野心を持っていたため、イギリスと手を組むことにはメリットが十分にあった。さて、同盟関係を結ぶということは他方が戦争したときに手を貸さなければならない。日露戦争(1904年)のときはイギリスからの資金援助があったおかげで日本は大国ロシアに勝つことが出来た。WW?(1914年〜1918年)では日本がイギリスに手を貸す番なのだが、日本から欧州戦線に参戦するには遠すぎる。そこで日本は日英同盟を理由に協商国(連合国)側で参戦するが、欧州戦線には関与せず、中国にあったドイツ基地を攻撃する。中国は19C以降、アヘン戦争・アロー戦争・日清戦争など立て続けに戦争に負けてしまい、その弱さを世界にさらけ出していた。そのため中国は露・独・英・日・仏から半植民地状態にさせられていた。ドイツは37( 山東省 )を勢力範囲にしていたが、日本はここを攻めることでイギリスのお手伝いをした。実際、ここを攻めてもイギリスにとってはあまり助かるようなことでもないが、イギリスは対ドイツ戦に精一杯で中国のことなど気にしている場合ではない。そのドサクサにまぎれて日本は中国に本格的に進出することを狙っていたのだった。日本はこの山東省を攻略しドイツ権益を継承,次いで中国に38( 二十一力条の要求 )を突きつけ、中国東北部やモンゴルにおける権益まで獲得しようとした。実際日本は中国北東部に満州(傀儡国家)をのちに建国している。傀儡国家とは国際法上認められていない、日本が勝手に作った国という意味である。
 さて戦争も4年目にさしかかろうかとしていた1917年、WW?の戦況を大きく変える出来事が二つ起こる。一つ目がドイツの39( 無制限潜水艦作戦 )である。これは戦争に関係のない国だろうが、商船・貿易船・旅客船だろうが片っ端から沈めるという暴挙だ。これに触発されたのが後の世界のリーダー40( アメリカ )である。アメリカは戦争好きというイメージがあるかもしれませんがそれはあくまで戦後(1945年〜)の話である。アメリカの外交方針は41( 孤立主義 )<モンロー主義>といって、他国の争いごとには関与しないのが基本だった。「アメリカはアメリカで勝手にやるからヨーロッパはヨーロッパで勝手にやってて」ということだ。なぜわざわざ海を渡ってアメリカに移住したのかというと、ヨーロッパ世界独特の階級社会・身分制度・キリスト教旧教(カトリック)・度重なる戦争などのしがらみが嫌になったからである。アメリカに行けば自由や夢がつかめると思い、わざわざ故郷を捨ててやってきているわけだ。WW?は元々ヨーロッパ同士のケンカだから、アメリカはわざわざ関与したくない。だから大戦初期は中立の立場をとっていた。それなのにドイツが無制限潜水艦作戦という暴挙に出たものだから、それだとアメリカの商船まで狙われる可能性が出てくる。さらに言えばアメリカは英仏に多額の戦争資金を貸し付けていた。だから英仏に敗北されては、そのお金が返ってこなくなる可能性がある。戦争に負けた国は多額の42( 賠償金 )を払わなくてはならない。そこでアメリカはいよいよ重い腰を上げ、モンロー主義の掟を例外的に破ってWW?に参戦します。アメリカは200万人以上の兵士をヨーロッパ戦線へ送り込んだ。アメリカの参戦が連合国側の勝利を決定付けるものとなり、事実アメリカ参戦から一年後の1918年の11月11日にWW?は終結する。ドイツの無制限潜水艦作戦は裏目に出た結果となった。ドイツは1918年11月43( ドイツ革命 )がおこり、戦犯ヴィルヘルム2世は亡命し、共和制となった。WW?末期のドイツでは、厭戦ムードが高まり、ドイツの水兵がドイツに対して反乱を起こしている。つまり、ドイツは内部崩壊して戦争に負けた一面もある。
 1917年のもう一つ重要な出来事は44( ロシア革命 )である。ロシアは東部戦線でドイツにボコボコにやられており、限界に近づいていた。資料集P181?を見ても分かるように、ロシア(ソ連)はWW?・?共に戦死者がワーストとなっている。さらに資本主義の弱点である格差の問題が浮き彫りに出ていたのもこの時期だった。金持ちは金があるからお金を出すことで戦争に貢献したことになるが、大部分の貧しい人々はお金がなければ兵士となって自らの体を張って国に貢献するしかなかった。この大部分の貧しい人達の怒りがロシアで爆発し革命がおき、ロシアはWW?から離脱する。革命騒ぎで戦争どころではなくなったからだ。ソ連は1918年3月、ドイツと単独で講和条約45( ブレスト・リトフスク条約 )を結んだ。WW?終了後の1922年には46( ソビエト社会主義共和国連邦 )が成立する。
1917年はWW?へのアメリカの参戦(それによってドイツの内部崩壊)や、ロシア革命によるロシアの戦線離脱など、膠着していた戦局が転換する節目の年である。ドイツもロシアも、戦争に嫌気がさした人々が革命を起こし、内部崩壊した。


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