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チェダゼミナールコミュの中華帝国の動揺 P114 資料158

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【朝貢体制の動揺】
 当時、清と呼ばれていた中国では1757年からヨーロッパ船の来航を1( 広州 )一港に限定していた。同じ頃日本でも、外国船の来航を2( 長崎 )一港に限定していた。このように外国との交流を極力閉ざす状態を3( 鎖国 )という。1793年、乾隆帝(けんりゅうてい)は貿易拡大を求めるイギリス使節マカートニーに対し、わが国はひろく物産がゆたかで貴国から買うものはないといって、その要求を退けた。中国が鎖国をしていた理由は主に二つある。
? 貿易をせずとも中国国内で欲しいものは全部まかなえる
? そもそも中国は世界と対等な立場で貿易しようと思っていない

?について。中国は莫大な領土、そして温暖な気候を持ち、中国で生産出来ないもの
はほとんどなかった。
?について。中国には4( 中華思想 )というものがある。これは「中国は世界の中心の国で、中国を中心に世界はまわっている」という考えである。だから貿易の際も、中国に貢物を献上する形式の貿易を世界に求めた。この貿易形態を5( 朝貢貿易 )という。
 イギリスからすれば、中国の偉そうな態度は気に入らない。しかし、中国には6( 茶 )7( 木綿 )綿糸8( 絹織物 )9( 陶磁器 )など、ヨーロッパでは絶対に作れない魅力的なものばかりあったため、イギリスは渋々その朝貢体制のもとイギリスと貿易を行なっていた。特に砂糖入り紅茶は、産業革命以降のイギリス人労働者の朝食として、さらに昼間の疲れをとるアフタヌーンティーとして盛んに飲まれるようになったため、インドやセイロンからの茶の輸入だけでは追いつかなかった。
当時、世界貿易の支払いに使われていたのは10( 銀 )であったが、この英中貿易は一方的なイギリスの赤字であったため、イギリスから大量に銀が流出してしまった。この貿易赤字を解消するために、イギリスが支配していたインドから、ケシの花の乳液から採取される麻薬11( アヘン )を中国に密輸された。アヘンは中毒性のある麻薬であることや、年金システムのない時代には、老人が楽に死ねる薬としても重宝された。そしてこれまでとは逆に中国側が貿易赤字となり大問題となった。





【アヘン戦争】
 アヘンの密貿易を取り締まるため、1839年12( 林則徐 )が広州に派遣された。彼はアヘンの売買・吸引を取り締まり、没収した。長らく「眠れる獅子」と世界から恐れられていた中国。中国とヨーロッパが戦争したことはないが、「中国最強伝説」という都市伝説が世界に蔓延していた。イギリス議会も中国と戦争すればどうなるか分からないという空気と、今が中国を叩くチャンスという空気で二分していた。しかし、僅差で中国との戦争止む無しの意見が勝り、1840年イギリスは中国に宣戦布告した。これが13( アヘン戦争 )である。イギリス軍は強力な兵器による艦砲射撃で清の軍艦を圧倒したが、陸上では中国民衆のゲリラ戦術の抵抗で苦戦した。イギリスは島国であるため、海軍は強いが陸軍がイマイチだった。地の利を生かした中国のゲリラ戦法はイギリスを苦しめた。しかし、結局二年後の1842年、イギリスの勝利で終わり、14( 南京条約 )を結び、中国をムリヤリ開国させた。「開国」と聞くと、「国が開かれるからいいんじゃないか」と思うかもしれないが、それはあくまで力関係が対等なときの話である。南京条約では、15( 香港 )の割譲(譲り渡すこと)、上海など5港の開港、広州での外国貿易を独占していた16( 公行 )の廃止、賠償金の支払いなども決められた。「中国最強伝説」という都市伝説崩壊は日本をも震撼させた。日本周辺の海にも19世紀になると度々外国船が現れていたが、江戸幕府はこれに対し、17( 異国船打払令 )で対処していた。外国船がウロウロしていたら、容赦なく打つというものだ。しかし、アヘン戦争で中国が負けたことを知った幕府は、18( 薪水給与令 )に切り替えた。薪水とは、食糧や水、もしくは燃料などを意味するが、それらを外国船に与えて、丁重にお引取り願うものである。中国に勝つほどの実力のある欧州人を、挑発するようなことは出来ないと判断したためだ。













【太平天国】
 アヘン戦争によって開国させられると、中国にもヨーロッパ宗教19( キリスト教
 )が広まるようになった。キリスト教の考えは「人は皆平等」。一方で、中国にあった儒教は「目上の人を敬え」というものであった。アヘン戦争敗北による清朝の弱体もあいまって、当時の支配体制に対する人々の不満が溜まりに溜まっていた。そんな中、病床の夢の中で、自分をキリストの弟だと確信した20( 洪秀全 )が、清朝打倒のため立ち上がった。スローガンは21( 滅満興漢 )。清朝は中国の歴史の中で例外的に22( 満州民族 )が作り上げた国である。しかし歴代の中国王朝のほとんどが23( 漢民族 )が作り上げた国である。つまり滅満興漢とは、満州民族が作った清を滅ぼし、再び漢民族の国を興そうというものである。洪秀全は1851年、24( 太平天国 )の建国を宣言し、1853年には25( 南京 )を占領し、首都とした。さらに、満州民族の独特の風習である纏足(てんそく)や弁髪(べんぱつ)も禁止した。纏足とは、女の子に無理矢理小さい靴をはかせ、それを紐できつく縛り、成長を止めるものである。女の子は小さくてヨロヨロ歩く方がかわいいとされていたからだ。弁髪は髪型をラーメンマンのようにすることである。また男女平等に土地を配分する天朝田畝制も行なおうとしたが、これは結局実施されずに終わった。太平天国は、アヘンの禁止もうたわれていたためイギリスが干渉し、また清朝勢力も反撃。さらに太平天国内の対立もあって、1864年、南京は清朝に占領され、太平天国は敗北した。

















【内憂と外患】
 内憂外患とは国内の心配事と外国からもたらされる心配事である。アヘン戦争敗北により、中国最強伝説は崩壊し、清朝は国民からの信用を失い、また外国から様々な侵略を受けるようになった。そんな中、イギリス国旗を掲げていた船アロー号を、中国側の官憲が海賊容疑で、イギリス国旗を降ろさせたアロー号事件が勃発した<1856年>。同時期、フランスもフランス人宣教師が中国人に殺害されたとして英仏が共同で中国に因縁をつけ、戦争が始まった。弱体化した清に対して、もはや戦争理由は何でもよかった。この戦争を26( アロー戦争 )、もしくは第二次アヘン戦争といい、中国は敗北を喫した。これにより27( 天津条約 )<1858年>が結ばれたが、この条約批准に中国は抵抗し、再び戦争となった。しかし、またも中国は敗北し、ロシアの調停で1860年、28( 北京条約 )が結ばれた。これらの条約により、今までアヘンは密輸であったものが公認された。キリスト教の布教活動が黙認だったのも公認となった。さらに列強の支配が中国沿岸部だけでなく、内陸部まで及ぶようになった。さらにこの第二次アヘン戦争敗北は、日米修好通商条約を結ぶか迷っていた江戸幕府にも影響を与えた。
 一方、第二次アヘン戦争の調停役を務めたロシアもちゃっかり利益を得た。ロシアは清露北京条約によって、沿海州をゲットし、念願だった不凍港29( ウラジオストク )を建設した。この港をアジア進出の拠点とした。
 ただし、このウラジオストクとモスクワやサンクトペテルブルクとをつなげないと軍事物資が行き届かない。しかし、当時のロシアには鉄道技術がなかったため、鉄道先進国のフランスと30( 露仏同盟 )を結び<1891年>、フランス資本導入され31( シベリア鉄道 )建設が始まることとなる。

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