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チェダゼミナールコミュのラテンアメリカとアメリカ P110〜 資料165

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【独立後のラテンアメリカ諸国】
 18世紀末から19世紀初頭にかけてのヨーロッパにおいてはフランス革命を発端とするナポレオン戦争の真っ只中で、ヨーロッパはグチャグチャとなっていた。その隙をついて、ヨーロッパ諸国から植民地支配を受けていたラテンアメリカ諸国は18世紀初頭に次々と独立を果した。ラテンアメリカ諸国のほとんどが1( スペイン )から植民地支配を受けていたが、植民地時代に派遣されたスペイン人の子孫である2( クリオーリョ )が独立後も大地主として支配する体制は変わらなかった。またスペインの宗派である3( カトリック )も独立以後も影響力を持ち続けた
 独立後のラテンアメリカには、「政治支配なき経済進出」を目指し、4( イギリス )が進出した。イギリスはイギリス製品を大量にラテンアメリカへ輸出すると同時に、熱帯産物を輸入し、ラテンアメリカを経済的従属下においた。イギリスは産業革命の進展により、農業から工業に就職する人が増えたため、農業をする人が極端に少なくなった。さらに産業革命の進展は人口増加ももたらし、食料不足に陥った。この食糧不足を解決したものが、5( 冷凍船 )の開発である。肉や野菜などの食料を腐らせることなく運ぶことが可能となったことから、ブラジル・アルゼンチンなどの広大な土地を生かして農牧業が欧米への輸出向けとして発展していく。主な輸出品は牛肉・小麦・大豆・コーヒーなどであった。ブラジル・アルゼンチンには、産業革命に乗り遅れたイタリアや、言語に困らないスペインの人々が移民としてやってくるようになった。特にアルゼンチンにはヨーロッパ系移民が多く、アルゼンチン人のほとんどが白人である。

【メキシコの動向】
 中米に位置する6( メキシコ )では地理的に近い7( アメリカ )の支配を受けていくこととなる。アメリカは1845年にメキシコ北部の8( テキサス )を併合したため、その領有権をめぐり9( アメリカメキシコ戦争 )<米墨戦争>が勃発した。これに勝利したアメリカは1848年メキシコから10( カリフォルニア )を手に入れた。
アメリカがゲットした直後のカリフォルニアでは金鉱が発見され11( ゴールドラッシュ )が始まった。
 メキシコにはその後も困難が続く。1860年代にはアメリカで12( 南北戦争 )が勃発したが、その隙をついて、フランスの13( ナポレオン3世 )がメキシコ出兵を行なった。結局これは南北戦争を終えたアメリカに阻まれ、フランスのメキシコ進出は失敗に終わった。
 米仏などの大国から干渉を受けっぱなしだったメキシコは、民主化どころではなかった。対外的に緊張(戦争など)が走ると、民主政治より独裁政治の方が都合がよいからである。緊急時には皆で話し合うより、一人のトップが迅速に意思決定していかないと間に合わないからだ。だから、戦争時にはヒトラーやナポレオンなどの独裁者が登場する。

【アメリカの勢力拡大】
 現在、アメリカの裏庭と呼ばれる14( キューバ )は、コーヒー・紅茶には欠かせない15( 砂糖 )の世界最大の生産地だった。19世紀末までキューバは16( スペイン )に支配されていたが、砂糖の利権の欲しいアメリカがキューバを奪おうとスペインに戦争を仕掛けた。これを17( アメリカスペイン戦争 )<米西戦争>という。この戦争に勝利したアメリカはキューバのみならず、スペイン領18( フィリピン )、グアム・プエルトリコを獲得し、また19( ハワイ )も併合した。この時期からアメリカは帝国主義時代へと突入し、当時の大統領20( セオドア・ローズベルト )はカリブ海を強力な軍事力でもって支配する21( 棍棒外交 )を展開した。
 アメリカの領土的野心は南米やアジア太平洋へも向けられ、1903年には太平洋と大西洋をつなぐ22( パナマ運河 )の永久租借権を得た。これにより、アメリカのラテンアメリカ諸国への干渉・戦略拠点となり、中南米諸国の民主化を遅らせることとなった。そして、アメリカ大陸の国々はアメリカ合衆国の手下となり今日に至っている。中南米多くの国の政治的リーダーは今でも、アメリカに都合がいいように動いてくれる独裁者が君臨している。

【カナダ・アラスカ】
 アメリカの北に位置する23( カナダ )もいつアメリカに奪われるか分からない状況だった。当時のカナダは24( イギリス )の植民地だったが、イギリスはカナダがアメリカの植民地とならないように自治領化し、カナダをグレードアップさせた。
 カナダの西にある25( アラスカ )はベーリングの探検により26( ロシア )領であった。しかし、当時のロシアは周辺諸国との戦争で財政難であったことと、アラスカには不凍港がないことから、アメリカに破格の安さ(720万ドル)で売り飛ばした。1エーカー(約4046?)あたり2セントであった。その直後、アラスカにおいても金鉱や油田が発見され、アメリカは大儲けとなった。


アフリカと太平洋の分割 P112〜 資料P164〜
【アフリカ分割の契機】
 1860年代に起ったアメリカ南北戦争において、リンカーンが発した1( 奴隷解放宣言 )は世界からも支持された。以後、奴隷をこき使うという行為はタブーとなっていった。奴隷の供給地であったアフリカ大陸はかつて2( 暗黒大陸 )と呼ばれ、その全貌がよく分かっていない、未開の地であった。そこでヨーロッパ諸国はアフリカに直接乗り出すことにした。アフリカ進出に乗り出す口実は「先進文明のキリスト教社会(ヨーロッパ社会)をアフリカにも広げる」というもので、完全なる白人の上から目線であった。最初にアフリカ探索に乗り出したのが3( リヴィングストン )であったが、彼は途中で行方不明となってしまった。その彼を探すために、4( スタンリー )が派遣され、リヴィングストンを発見することに成功した。スタンリーの活躍に目をつけたのが、ベルギー国王5( レオポルド2世 )であった。ベルギーは小国だが、何気に2番目に(フランスと同じタイミングぐらい)産業革命に成功した国であった。レオポルド2世はスタンリーにアフリカ中央部の6( コンゴ )を探索させ、スタンリーはレオポルド2世のお抱え探検家となった。そしてベルギーがコンゴを領有したが、これに待ったをかけた鉄血宰相7( ビスマルク )が、8( ベルリン会議 )を開いた。この会議で決定したことは「アフリカの土地先制権」を認めることだった。つまり、より早く未開の地を見つけた国にその土地の領有権を認める、早い者勝ちというルールで、アフリカ人の人権はまるで無視であった。

【アフリカ分割の進行】
 イギリスは1880年頃、アフリカ北部の9( エジプト )とアフリカ南部10( ケープ植民地 )を領有していたため、これを起点としてアフリカを縦に貫く11( 縦断政策 )をとった。一方でライバルフランスはアフリカ大陸を横に貫く12( 横断政策 )をとった。こうなると、縦横が丁度クロスする場所で英仏の紛争が起こる可能性がある。英仏の探検隊が丁度出くわした場所がスーダンのファショダと呼ばれるところで、英仏の一触即発事件を13( ファショダ事件 )という。結局フランスの譲歩によりスーダンはイギリス領となり解決した。この事件の解決をきっかけとして今までずっとライバル関係で何度も戦争をしてきた英仏は同盟関係を結ぶようになる。日露戦争開戦時、日英は14( 日英同盟 )を、フランスは15( 露仏同盟 )を結んでいたため、英仏も日露戦争に巻き込まれる恐れがあった。しかし英仏は戦争回避のため、16( 英仏協商 )を結んだ。その結果英仏はWW?・?共に、仲間同士として戦うことになる。
 当時の覇権国家だったイギリスも19世紀末になると、その栄光にかげりが見え始める。スーダンや南アフリカを落とすのに相当苦戦した。特に南アフリカ戦争においてイギリスは戦争でやってはいけないタブーを犯してまでして、ギリギリの勝利を掴んだ。そのタブーとは非軍人を殺すことである。普通、戦争というのは軍人同士の対戦で、何の罪もない一般人を殺すことはない。ヤクザが堅気(一般人)には手を出さないのと同じ理屈である。なぜそこまでしてイギリスが南アフリカにこだわったのか。それは17( 金 )や18( ダイヤモンド )が沢山採れるからだ。南アフリカではゴールドラッシュ・ダイヤモンドラッシュが起った。
 新興国ドイツはカメルーン・東アフリカ・南西アフリカなどごくわずかで資源に乏しい場所をゲットした。ただ、東アフリカをドイツが領有したことで、イギリスの縦断政策をブロック出来たことは大きかった。
 同じく新興国イタリアは、エチオピアに侵攻したが失敗し、19( リビア )を領有するにとどまった。
 結局20世紀初頭にアフリカ陣取り合戦は終了し、独立国は20( エチオピア )と21( リベリア )だけとなった。アフリカは奴隷供給地から植民地となったのだ。リベリアは1822年アメリカの黒人奴隷が入植し、47年に独立、国名は自由を意味する。首都モンロビアはアメリカ5代大統領22( モンロー )に由来する。
 
【太平洋地域の分割】
 イギリスは1750年〜55年、毎年約1000人の囚人をアメリカ植民地に送り込んでいたが、アメリカ独立によってこれが不可能になったため、23( クック )船長発見した24( オーストラリア )のニュー・サウス・ウェールズが新たな流刑植民地となった。なお、当時のイギリスではハンカチ1枚盗んでも流刑7年となった。
 さらに産業革命が進展すると、機械が仕事を代行するため、大量の失業者が発生する。その失業者対策として、オーストラリアは囚人だけでなく、失業者も移民として送り込まれる場所となった。
 オーストラリアでは、本国イギリスの羊毛需要から牧羊業が発達し、さらに1850年代に金鉱が発見され、オーストラリアでもゴールドラッシュが起った。その後、1901年にオーストラリアは自治領(植民地より全然マシだけど完全な独立国ではない状態)となった。さらに、イギリスはオーストラリア東方の25( ニュージーランド )も自治領化した。

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