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チェダゼミナールコミュのイタリアとドイツの統一 P94〜 資料148〜

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〔イタリアとドイツの共通点〕
 イタリアとドイツ両国は、ともに1( オーストリア )をやぶったのちに統一に成功した。それまでのイタリア・ドイツはそれまで国家が分裂していた状態であったため、英仏に比べると、政治経済における近代化が遅れていた。イタリア、ドイツ領国とも市民階級の未成熟のゆえに下からの統一運動は大国の軍事力のために失敗に終わったのだった。19世紀中頃に国家統一を果した両国はこの遅れを取り戻すために必死となる。WW?・?の対立構図も英仏VS独伊を基本に展開することになる。

〔イタリア統一〕
 結局残った統一方法は、それぞれの地域の強国が国家主導で上から統一運動を進めていくことだった。イタリア統一は、オーストリアからの解放という点で専制支配に対する反抗を意味した。2( サルディニア )王国はオーストリアを倒すだけの軍事力がなかったので、3( フランス )と同盟してオーストリアを倒し統一を実現した。温和自由主義の立場の4( カブール )首相はイギリス的な5( 立憲君主政 )を目指した。
 ただし、この統一されたイタリアには6( トリエステ )や南チロルは含まれず、7( 未回収のイタリア )と呼んでいた。この未回収のイタリアはWW?でイタリアが勝利したため、オーストリアから奪還した。

〔ドイツ統一〕
 ドイツ統一を勉強する前に一つ知っておかなければならない予備知識がある。ドイツの隣国オーストリアとドイツは民族で分類すると共に8( ゲルマン民族 )であることだ。国というのは、基本的に同じ民族や文化があるから同じ国となる。だから本来、オーストリアとドイツが別々の国として存在する理由もあまりない。ちなみにWW?の時のドイツのヒトラーも元々はオーストリア出身である。
 ドイツ統一の際、オーストリアの指導下に統一を実現しようとする9( 大ドイツ主義 )と、オーストリアを除外して10( プロイセン )を中心に統一を達成しようとする11( 小ドイツ主義 )が対立した。結局は、12( 普墺戦争 )でプロイセンが強力な軍事力でオーストリアを追放し、小ドイツ主義での統一となった。プロイセンを率いた首相が鉄血宰相13( ビスマルク )である。彼はイギリスの議会政治には強い嫌悪の情を持っていた。彼は当時としては珍しい身長190cm台で、青少年時代ケンカ負け知らずだった。そのため、結局国際問題は話し合いで解決するのではなく、鉄(武器)と血(兵士)で解決すべきだとした。ドイツ<プロイセン>はさらに左隣のフランスと14( 普仏戦争 )戦争で勝利し、フランスの政治の中心15( ベルサイユ宮殿 )鏡の間で、16( ヴィルヘルム1世 )を皇帝とするドイツ帝国の成立を宣言した。フランスにとっては最大の屈辱である。ビスマルクは明治時代の岩倉使節団にもアドバイスを与えている。国際法が自らの利に適わない場合、大国は武威をもってこれを覆すとの外交鉄則を日本に示した。日本はこの助言に大きな衝撃を受け、何よりもまず17( 富国強兵 )を目指した。岩倉使節団の一人18( 大久保利通 )はその後、ビスマルクを真似て、髭を伸ばし始めた。成立したドイツ帝国は、皇帝の権限が大変強く、見せかけの立憲君主国で、専制的な帝国となった。
 一方で普墺戦争に負けたオーストリアは、東欧で唯一の非スラブ系19( ハンガリー )に自治を認め、同君連合として20( オーストリア・ハンガリー二重帝国 )を成立させた。こうして、スラブ系など多くの民族を支配する体制を整えた。
 普仏戦争の結果、フランスはドイツに恨みを抱き続け、WW?の遠因となる。WW?の直接の原因は、スラブ系のセルビア青年がオーストリア皇太子を暗殺した21( サラエボ事件 )である。
 英仏より近代化が遅れたドイツがなぜフランスに勝てたのか。それは鉄道網の整備が関係している(資料149)。鉄道は通勤・通学のためではなく、軍事目的で整備されているのだ。18世紀末から起こった第一次産業革命の主産業は軽工業で主役国は英仏だが、19世紀末から起こる第二次産業革命の主産業は重工業で主役国は独米となる。

〔アメとムチの政策〕
 鉄血宰相ビスマルクは、政治の舞台でもその辣腕ぶりを発揮する。疾病保険・災害保険など、現在の社会保障制度の原型を作った。つまり、貧しい人にもある程度ご褒美(アメ)を与えた。その一方で、その貧しい人々が社会主義革命を起こし、国家転覆を画策しないよう22( 社会主義者鎮圧法 )を制定した。この「アメとムチ」の政策は、日本の加藤高明内閣でも行なわれた。1925年に制定された23( 普通選挙法 )がアメ、同年に制定された24( 治安維持法 )がムチ。治安維持法とは、社会主義者や天皇制を否定する人物を弾圧する法律である。
 1888年3月、ビスマルクに絶大な信頼を置いてきたヴィルヘルム1世が没した。その後、病弱なフリードリヒ3世の99日間の治世を受けて、29歳の新帝25( ヴィルヘルム2世 )が即位した。彼とビスマルクは不仲で、ビスマルクは宰相を辞任し下野した。ヴィルヘルム2世はこの後、積極的な対外進出に打って出る。

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