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チェダゼミナールコミュのウィーン体制とその崩壊  P88〜 資料142〜

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【ウィーン体制】〜フランス革命以前に逆戻りしたヨーロッパ〜
 1814年にフランスの1( ナポレオン )が退位すると、フランス革命以来の混乱を収拾するため、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの代表(90の国王、53の公国)が参加し、2( ウィーン会議 )が開かれた。オーストリアの3( メッテルニヒ )外相<外務大臣>が議長を務めたこの会議は、各国の領土的野心が交錯。さらに王侯達の恋愛遊戯が横行し、総会は一向に開かれず4( 会議は踊る、されど進まず )と評されたように、紛糾を極めた。一日の4分の3はダンスと宴会といわれた。ウィーン会議の風刺画の真ん中で踊っている三人は、ナポレオン戦争の戦勝国で、左からオーストリア・ロシア・プロイセン(独)である。一番左の青い服を着ているフランス代表5( タレーラン )はこの状況を利用して、ヨーロッパをフランス革命以前の政治体制と国際秩序に戻すべきとする6( 正統主義 )を主張し、フランスの領土を維持することに成功した。つまりナポレオン戦争での敗戦国フランスは、犠牲が少なくて済んだのだ。革命以前のヨーロッパの秩序とは1648年のウェストファリア条約で決められた勢力均衡のことである。
 会議は翌15年、7( エルバ島 )から脱出したナポレオン再起の報(しらせ)に驚いてようやくウィーン議定書の調印にこぎつけた。その内容は、大国が主導して伝統的な体制を維持し、ヨーロッパで盛り上がり始めた民主主義や自由主義を求める運動を押さえ込もうとする反動的なものだった。この体制を8( ウィーン体制 )という。
 ウィーン議定書では、フランスとスペインでの9( ブルボン朝 )復活、神聖ローマ帝国が解体され10( ドイツ連邦 )の成立、ロシア皇帝のポーランド王兼任などが決められた。また、ロシア皇帝11( アレクサンドル1世 )の提唱による12( 神聖同盟 )<思想の同盟>と、イギリス、ロシア、プロイセン<ドイツ>、オーストリアの軍事・政治同盟である13( 四国同盟 )<のちにフランスが加わり五国同盟>が締結され、ウィーン体制を支えることになった。
 しかし、フランス革命からナポレオン戦争を通じて芽生えた14( 自由主義 )、ナショナリズムの台頭を抑えることはもはや困難で、ヨーロッパ各地でウィーン体制を揺るがす動きが起こるようになる。
ナショナリズムの台頭は、1820年代のラテンアメリカ独立が象徴的だ。ラテンアメリカの多くは15( スペイン )領であったが、当時の英外相カニングは、「ラテンアメリカをイギリスの経済圏に組み入れるには独立を支援したほうが有利である」と考え、あくまでラテンアメリカをヨーロッパの一部分として干渉するメッテルニヒに反対し、五国同盟を脱退した。またラテンアメリカは、アメリカによっても独立を支持された。アメリカ大統領の16( モンロー )によるモンロー教書の中で「アメリカ大陸にヨーロッパは干渉するな」と説いた。米英の支援を受けたラテンアメリカは独立に成功したが、後に米英の経済的支配を受けることになる。ラテンアメリカ独立の父と呼ばれたのがシモン・ボリバルである。彼の名前は現在のボリビアやベネズエラボリバルという国名になっている。ブラジルの独立は、1807年、ポルトガル本国がナポレオンに侵略された際、ポルトガル王室はリスボンからブラジルに亡命、リオデジャネイロを事実上の首都とした。1820年に王室は本国に戻るが、リオには皇太子ペドロを残していた。その後、、本国がブラジル支配を強化しようとしたとき、ペドロを中心に抵抗運動がおこり、独立を達成した。
 さらに同じヨーロッパでも、地理的にヨーロッパの東南端に位置するギリシャもこの時期オスマン帝国から独立を果した。ラテンアメリカ諸国やギリシャの独立は、ウィーン体制の最初の破綻といえる。













【七月革命と二月革命】〜二度の革命でウィーン体制崩壊〜
 フランスではウィーン体制により王政(ブルボン朝)が復活し、ルイ16世の弟17( ルイ18世 )や、その弟18( シャルル10世 )の反動政治が自由主義者との対立を生んでいた。ルイ17世はいたけれども、わずか10歳で死んでしまった。1830年の選挙で自由主義者が勢力を伸ばすと、国王は議会を解散したため、パリで民衆が蜂起。3日間にわたる市街戦の末、国王は海外に亡命した。これが19( 七月革命 )である。七月革命の影響はヨーロッパ各地に及び、オランダから南ネーデルラントの20( ベルギー )が独立したほか、イタリアやドイツでは立憲政治を求める運動となって現れた。
革命後、自由主義者の21( ルイ・フィリップ )が国王に選ばれ、22( 七月王政 )が始まるが、新国王も銀行や資本家<要はブルジョワ>を保護したため、民衆の不満は消えなかった。と言うことは、選挙制度は当然制限選挙となる。つまり、莫大な税金を納めることのできる一部の金持ちだけが選挙に参加できた。当時のフランス首相ギゾーは「金持ちになりたまえ、そうすれば君も選挙人になれる」と言った。
48年、フランスで普通選挙を求める運動が政府によって弾圧されると、再びパリの民衆が蜂起し、国王を退位させて臨時政府を樹立、23( 第二共和制 )を宣言した。これを24( 二月革命 )という。しかし、臨時政府は保守化し、改正後の憲法下で実施された大統領選挙では、ナポレオンの甥で、ナポレオン1世の弟、オランダ王ルイ・ボナパルトの第三子25( ルイ・ナポレオン )<のちの皇帝26( ナポレオン三世 )>が当選した。
 二月革命もまた、ヨーロッパ各国で革命や自由主義を誘発し、ウィーン体制をリードしてきたメッテルニヒはイギリスに亡命し、1848年ウィーン体制は完全に崩壊した。
 ウィーン体制はヨーロッパ列強国の勢力を均衡に保つことによって、ナポレオン戦争のような大規模な戦争を起こさせないことが狙いだった。例えば、大陸ヨーロッパのど真ん中にある27( スイス )は、列強の緩衝国として永世中立国となった。しかし、イギリスという超大国の力がずば抜けていたため、ウィーン体制は瓦解するのである。イギリスが大陸から離れていたため、スイスが緩衝国として機能しなかったのだ。
 1848年という年はヨーロッパ社会にとって大きな転換点である。それ以前は国王・貴族VS平民という対立構図だったのが、それ以後はブルジョワジー(資本家)VSプロレタリアート(労働者)という構図に変わっていく。自由を手に入れた平民の中で自由競争が起こるが、その中で金持ちと貧しい人に分かれていく。これが19世紀の最大の特徴である。市民革命(英・仏両革命)などの政治革命が、身分制度のない社会をもたらし、さらに産業革命による経済革命、つまり工業化のスタートが市民・平民の生活全体をアップさせた。つまり、「国王・貴族以外の平民の中では皆平等だったけど、皆貧しい状態」だったのが、市民革命や産業革命を経て「国王・貴族はいなくなって身分格差はなくなり、平民全体は豊かになったけども、その平民の中で経済格差が生まれた状態」となった。


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