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チェダゼミナールコミュの第5章 武家社会の成長 ?室町幕府の成立 P114〜 資料118

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【鎌倉幕府の滅亡】
〔鎌倉幕府滅亡理由〕 
鎌倉幕府の滅亡理由は大きく分けると二つあります。一つは得宗専制政治に対する不満。つまり、北条氏独裁に対する不満です。
二つ目は御家人の窮乏化です。元寇は、勝つには勝ったけれども、単に追い払っただけで新たな土地を手に入れたわけではありませんでした。つまり、元寇で一生懸命戦った御家人(将軍の部下である武士)はタダ働きをさせられたことになりました。元寇後の1297年には1( 永仁の徳政令 )が出され、御家人の借金をチャラにしましたが、その効果も一時的なものでした。

〔天皇家の動き〕
 当時の天皇家は、2つの派閥に分かれて対立していました。2( 大覚寺統 )と3( 持明院統 )です。後嵯峨法皇は院政の継承者を決めることなしに没したため、彼の二人の息子が天皇家の実権をめぐって対立を始めた。4( 亀山天皇 )は大覚寺統、5( 後深草上皇 )は持明院統として対立していきます。ちなみに皇室領荘園は八条院領が大覚寺統に、長講堂領が持明院統に継承されています。
この対立の間に入って、幕府は仲介します。その際、幕府が決めたのが、6( 両統迭立 )<りょうとうてつりつ>という方法です。両統迭立とは、大覚寺統と持明院統が交互に天皇に即位していくというものです。こうすることによって、「大覚寺統も持明院統も必ず天皇になれるのだから、対立するのはやめなさい」と幕府は諭すわけです。
 その両統迭立の結果、即位した天皇が7( 後醍醐天皇 )です。後醍醐天皇は大覚寺統の天皇です。この後醍醐天皇という名前は、8( 醍醐天皇 )にあやかってつけたものです。つまり、後醍醐天皇は醍醐天皇を非常に尊敬し、憧れていたわけです。そこで、後醍醐天皇は醍醐天皇と同じ政治、つまり天皇自ら政治を行う9( 天皇親政 )をやろうとするのです。ちなみに醍醐天皇とその子村上天皇の天皇親政を10( 延喜・天暦の治 )といいます。後醍醐天皇は天皇親政を行うために、11( 記録所 )を設置します。記録所は、重要政務を行う機関で、元は後三条天皇が設置した12( 記録荘園券契所 )である。後三条天皇の設置時は、荘園整理が主な仕事であったが、後醍醐天皇の再興時にはその役割が変化し、重要政務を行った。
 しかし、鎌倉には幕府という存在があります。幕府という存在がある限り、いくら天皇親政といっても、それはおままごとみたいなものです。
 しかし、当時の幕府は得宗専制政治のもと、14代執権の13( 北条高時 )と内管領の14( 長崎高資 )<たかすけ>が政治を欲しいままにしており、多くの人が幕府へ不満を持っていました。そこで、後醍醐天皇は「鎌倉幕府を倒そう」と決断し、2回の倒幕計画を立てます。後醍醐天皇は宋学の15( 大義名分論 )を学び、「本来は君(天皇・朝廷)が臣(将軍・幕府)よりも偉いはず」だと思い、幕府を倒そうとしました。それが、1324年の16( 正中の変 )<しょうちゅう>と、1331年の17( 元弘の変 )です。しかし、倒幕計画は2回とも失敗に終わり、後醍醐天皇はその罪で18( 隠岐 )に配流されてしまうのです。

〔鎌倉幕府滅亡〕
 後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は19( 光厳天皇 )<こうごん>を天皇に即位させます。しかし人々はこれを「幕府が天皇を島流しにして、別の天皇を立てた」と感じ、これを幕府の横暴と考えます。その結果、幕府を倒そうという動きが出てくるわけです。後醍醐天皇の子である20( 護良親王 )<もりよし>は、倒幕の令旨を出し、人々は倒幕のために立ち上がっていきます。
 この令旨に呼応するように、幕府の有力御家人だった21( 足利高氏 )が幕府に半期を翻して京都の22( 六波羅探題 )に攻め込みます。また、同時に23( 新田義貞 )も鎌倉に攻め込みます
 そして24( 1333 )年、当時幕府の実権を握っていた14代執権で北条氏最後の得宗、北条高時が自殺し、鎌倉幕府は150年足らずの歴史に幕を閉じます。

【建武の新政】
〔鎌倉幕府滅亡後〕
 鎌倉幕府が滅亡したため、幕府によって隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に戻ってきます。後醍醐天皇は、幕府の手で天皇の位を奪われていたわけですから、鎌倉幕府滅亡とともに、再び天皇に即位します。鎌倉幕府がなくなったため、後醍醐天皇は名実ともに、天皇親政をおこなうことができるようになりました。これが1334年の25( 建武の新政 )の始まりです。建武の新政の目的は、幕府・院政・摂政・関白を廃止し、天皇に権力を集中させることでした。後醍醐天皇は新しい政治を行うために、中央には重要政務をおこなう26( 記録所 )や、裁判などをおこなう27( 雑訴決断所 )<ざっそけつだんしょ・>などを設置します。記録書は後三条天皇の記録荘園券契所を、雑訴決断所は鎌倉幕府の引付を受け継いでいる。
 しかし、この建武の新政には、人々は大きな不満を持ちました。まず、建武の新政では、天皇が自らの意志で出す文書28( 綸旨 )<りんじ>が絶対的な力を持っていました。つまり、極端な話、天皇の気分次第で政治がコロコロ変わってしまうわけです。そのため、人々は混乱し、建武の新政に対して不満を持つことになります。
 また、鎌倉幕府を滅亡させる中心となったのは武士たちでしたが、後醍醐天皇は、武士たちへの恩賞を非常に少なくしました。後醍醐天皇は、武士による政権ではなく、天皇を中心とした政権を作りたいわけですから、武士たちにあまり権力を与えたくなかったわけです。
 しかし、武士としては、「俺たちが戦ったから、鎌倉幕府は滅んだんだ」と考えています。とりわけ、鎌倉幕府滅亡の最大の功労者といえる29( 足利尊氏 )が、建武の新政ではなんら重要な職についていなかったということが、足利氏のみならず、それ以外の武士たちにも、建武の新政に対する不満をあおっていく結果となったわけです。ちなみに足利尊氏の「尊」という字は、後醍醐天皇の名前である「尊治(たかはる)」からきています。名前を与えてもらっただけで、たいした恩賞はもらってなかったのです。
 建武の新政に対する不満は、30( 二条河原落書 )といった落書きにも記されるようになっていきます。
 実はこのころ、足利尊氏はひそかに新しい幕府の樹立を考えていました。そんな中、1335年に31( 中先代の乱 )<なかせんだいのらん・北条時行の乱>がおこります。北条高時の子である32( 北条時行 )が鎌倉幕府を再興しようと反乱をおこすのです。足利尊氏は、この反乱を平定しに鎌倉へ行きます。そして、中先代の乱を平定した足利尊氏は、建武の新政に対して反旗を翻すのです。
 その後、足利尊氏は1336年に33( 湊川の戦い )で、後醍醐天皇側の有力武将だった34( 楠木正成 )を倒し、京都を制圧します。ちなみに楠木正成は、荘園領主や幕府の支配に反抗し、社会の秩序を乱す35( 悪党 )であった。そして、足利尊氏は1336年に自らの手で持明院統の36( 光明天皇 )<光厳天皇の弟>を天皇に即位させ、1338年にはその光明天皇から37( 征夷大将軍 )の職をもらいます。室町幕府の成立、そして初代将軍足利尊氏の誕生です。
 一方、後醍醐天皇は、天皇をやめないで38( 吉野 )に逃れてしまいます。建武の新政はわずか3年足らずで終わったことになります。その結果、京都と吉野に、それぞれ持明院統と大覚寺統の天皇が並び立つという状況になります。京都と吉野は位置関係で見ると、京都が北、吉野が南となるので、京都が39( 北朝 )、吉野が40( 南朝 )と呼ばれるようになります。これが以後約60年に及ぶ41( 南北朝時代 )の始まりです。後醍醐天皇は1339年8月に吉野で没したが、皇位は息子の義良(のりよし)親王、のちの後村上天皇が継いだ。

【南北朝の動乱】
〔室町幕府の開始〕
 室町幕府の初代将軍は42( 足利尊氏 )です。彼はまず、1336年に室町幕府の基本方針である43( 建武式目 )を制定します。建武式目は、二階堂是円(ぜえん)らが足利尊氏の質問に答えるという形で記されていました。また、室町幕府の法典としては、鎌倉時代の44( 御成敗式目 )がそのまま使用されました。
 そして、建武式目制定の2年後の1338年、足利尊氏はついに征夷大将軍に就任し、室町幕府が成立します。

〔二頭政治〕
 この足利尊氏の政治は、順風満帆というわけにはいきませんでした。まず、京都の北朝に対して、吉野には南朝の勢力があり、尊氏に対抗しています。また、足利尊氏に対抗しているのは南朝勢力でけではなく、弟の45( 足利直義 )<ただよし>とも対立するようになります。
 室町幕府は、当初、二人のトップがいる46( 二頭政治 )をおこなっていました。二人のトップとは、足利尊氏とその弟足利直義のことで、尊氏が軍事を、直義が行政を担当していました。尊氏は「武家の棟梁」であり、直義は「政務の長官」であった。
 しかし、この二頭政治にひずみが出てきます。軍事を担当する尊氏が、直義の行政にも口を出すようになったため、尊氏と直義の間に政治上の対立がおこるのです。その後、足利尊氏の家来(執事)にあたる47( 高師直 )<こうのもろなお>と、足利直義の間で意見の対立がおこってきます。この対立は、相続問題なども絡んで、とうとう戦乱に発展していきます。これが1350年の48( 観応の擾乱 )<かんのうのじょうらん>です。
この観応の擾乱では、まず足利直義によって高師直が殺され、その後、その直義も尊氏によって毒殺されます。2人が殺された後も、足利尊氏派・旧足利直義派・南朝勢力の3者が対立を続けていきます。これが南北朝動乱の長期化の一因となります。
南朝の中心人物は後村上天皇を補佐した49( 北畠親房 )である。彼は著書50( 神皇正統記 )<じんのうしょうとうき>で、南朝の正統性を説いた。

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