ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの?鎌倉文化 教科書P105〜 資料集111〜

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

【鎌倉文化】
 鎌倉時代は政権が公家から武家へと、いわゆる政権交代の起こった時代です。そのため、文化の担い手も公家(天皇・貴族などのインテリ)から、武家(武士や庶民)などに移っていったのが特徴です。そもそも文化や宗教というのは、それなりの教養のある人々が担い手となります。しかし、鎌倉新仏教や文化には難解な教養は必要としません。

【鎌倉仏教】
 平安時代の仏教は、初期の密教から1( 浄土教 )が流行りました。しかし、長い年月の中で、一部の僧が堕落していきます。僧が武装化して2( 僧兵 )となり、暴力で訴えを起こす3( 強訴 )を行ったり、戒律を破ったり、多額のお布施(ふせ)を要求したりなどです。大寺院は民衆に対しては宗教者というよりも荘園領主であり、民衆は年貢などの税を取り立てる対象であった。世界史におけるキリスト教もそうでしたが、宗教権力というのは、時に金儲けに利用されたり、権力者の都合のいいように利用されたりするものなのです。
 そのような状況に疑問を持ち、「1つの修行を選んで、専心してそれを行えば救われる」という庶民にも受け入れやすい仏教を伝えようという人たちがあらわれました。それが鎌倉新仏教の開祖たちです。
 鎌倉新仏教は、4( 念仏 )、5( 題目 )、6( 禅 )の3つのキーワードで理解することが出来ます。

〔浄土宗の登場〕
 最初に登場するのは、7( 浄土宗 )です。浄土宗の開祖は8( 法然 )です。法然は「念仏を唱えさえすれば、死後は誰でも平等に極楽浄土に往生できる」というという教えを広めます。これを9( 専修念仏 )(せんじゅねんぶつ)といいます。
 この専修念仏を唱えた法然の著書が10( 選択本願念仏集 )(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)です。タイトルに念仏とあることから、この著者は法然だと判断がつきます。ちなみに念仏とは、11( 南無阿弥陀仏 )のことです。浄土宗の中心寺院は、京都の12( 知恩院 )です。
 新しい勢力が出てくると、必ず旧勢力から反発を受けます。旧勢力からすれば「念仏を唱えさえすれば極楽に行けるなんて、そんな簡単な話あってたまるか!」という心境です。法然は結局危険人物扱いされ、一度は四国に流されてしまいましたが、その後許しを得て布教に専念します。
 室町文化の時代になると、浄土教は朝廷の保護を受けて京都で勢力をじわじわと拡大していきます。
〔浄土真宗の登場〕
 法然の弟子13( 親鸞 )は14( 浄土真宗 )の開祖です。真の浄土宗という意味です。彼もまた迫害を受け、一度は越後に流されています。親鸞の教えで代表的なものは15( 悪人正機 )です。悪人正機とは、「悪人である自覚をもって、念仏を唱える人こそ、阿弥陀仏が救おうとしている対象である」という考え方です。ただ、この教えは、親鸞の著書である16( 教行信証 )(きょうぎょうしんしょう)には記されていません。悪人正機は、親鸞の弟子である17( 唯円 )の18( 歎異抄 )(たんにしょう)に記されています。歎異抄は、唯円が、師の教えに対する異義の多いのを歎いて、親鸞の真意を伝えんとして記した書である。浄土真宗の中心寺院は京都の19( 本願寺 )です。
 この浄土真宗で1つ注意が必要なのは、親鸞が生きていたときには浄土真宗はないということです。浄土真宗は、親鸞の死後に弟子たちによって、独立した宗派として確立します。

〔時宗の登場〕
 同じ浄土教の流れの中から、やや遅れて出たのが一遍が開祖である20( 時宗 )である。時宗の特徴は「善人・悪人や信心(しんじん)の有無を問うことなく、すべての人が救われる」と定義している点。そして、単に念仏を唱えるのではなく、踊りながら念仏を唱える21( 踊念仏 )を行いながら、全国各地を巡り歩いて布教している点です。この様子があまりにも楽しかったので、一遍の布教のやり方を22( 遊行 )(ゆぎょう)といい、一遍の別名を23( 遊行上人 )(ゆぎょうしょうにん)といいます。また一遍に従って全国を遊行した人々は24( 時衆 )と呼ばれます。一遍は51歳で死去するが、時衆と呼ばれる弟子たちの中には、一遍の後を追って自殺するものまでいた。
 一遍は、死の直前に自らの著書をすべて焼き払ったといわれています。そのため、著書が一切残っていません。しかし、一遍の死後に弟子たちが、一遍の語録を残しています。それが25( 一遍上人語録 )です。
 時宗の中心寺院は、相模国(神奈川県)の26( 清浄光寺 )(しょうじょうこうじ)です。


[日蓮宗の登場]
 上に出てきた、浄土宗・浄土真宗・時宗は三つとも念仏を唱えるものです。次は、題目を唱える新仏教です。題目とは27( 南無妙法蓮華経 )を唱えることです。題目を唱える日蓮宗(法華宗)の開祖は28( 日蓮 )です。日蓮は法華経こそが釈迦の正しい教えであると説きました。つまり、日蓮にとって念仏を唱えている新仏教は正しくないのです。だから、日蓮は新仏教を含めて、他宗に対する徹底した非難を行いました。
 そのため、日蓮は様々な迫害を受けます。鎌倉幕府からも迫害を受け、伊豆や佐渡に配流になりました。なぜかというと、当時の鎌倉幕府の5代執権北条時頼に献上された日蓮の著書29( 立正安国論 )で、国難が起こることを予言していたためです。国難の予言とは具体的に「このままであれば、外国から侵略を受けるだろう」というものです。幕府からしたら、日蓮は危険人物、変人扱いです。
 しかし、この日蓮の予言は見事に的中しました。その15年ほどあとに、30( 元寇 )が起こります。結局元寇のせいで、鎌倉幕府は滅んでしまいました。そんなこともあって、日蓮宗は信者を増やしていきます。なお、日蓮宗の中心寺院は甲斐国(山梨)の31( 久遠寺 )です。

〔臨済宗の登場〕
 最後のキーワードである禅とは、座禅を組むことによって悟りの境地を開く32( 禅宗 )を指します。これが、厳しさを求める当時の武士などに信仰されました。
 禅宗で最初に登場するのが、33( 臨済宗 )の開祖34( 栄西 )です。彼は宋にわたって、禅宗を日本にもたらした人物です。
 臨済宗の特徴は、35( 公案問答 )(こうあんもんどう)です。公案問答とは、座禅を行う際に、師匠から問題を与えられ、その問題を与えられ、その問題を解いていくことによって悟りに達していくというものです。臨済宗は、当時の武士の気風に合致していたため、幕府の保護を受けます。幕府の保護を受けたため、栄西は36( 興禅護国論 )といった禅宗と国の平安に言及した著書も残します。今までの鎌倉新仏教の開祖の多くが遠いところに配流されているのとはたいそうな違いです。
 臨済宗の中心寺院は、京都の37( 建仁寺 )です。福岡市博多区にある38( 聖福寺 )は日本初の禅寺として有名で、開いたのはもちろん栄西です。
 また、栄西は留学先の宋から39( 茶 )をもたらした人物であり、3代将軍源実朝に茶の効用を述べた40( 喫茶養生記 )を献上している。栄西が持ち帰った茶を最初に本格的に始めた場所が佐賀県の嬉野であり、その後京都などに広がった。
 臨済宗では南宋からの渡来僧の名前も覚えておかなくてはならない。北条時頼から招かれ、建長寺(けんちょうじ)を開いた41( 蘭溪道隆 )(らんけいどうりゅう)と、北条時宗から招かれ、円覚寺(えんがくじ)を開いた42( 無学祖元 )らがいる。

〔曹洞宗の登場〕
 新仏教の最後は曹洞宗(そうとうしゅう)です。曹洞宗の開祖は43( 道元 )です。
道元は、栄西のように問題を与えるというものではなく、「ただひたすら座禅に打ち込む」ことを主張します。これを44( 只管打座 )(しかんたざ)といいます。
 ただ、この只管打座は、道元の著書である45( 正法眼蔵 )(しょうぼうげんぞう)には記されていません。道元の弟子である懐奘(えじょう)の正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)にのみ記されています。
 曹洞宗の中心寺院は、越前国(福井県)の46( 永平寺 )です。権力者との結びつきを避けるため、あえて京都には建てなかったのです。


〔旧仏教はどうなった?〕
 新仏教の台頭を許したのは、旧仏教の堕落が一因でした。旧仏教の法相宗(ほっそうしゅう)の47( 貞慶 )(じょうけい)や、華厳宗(けごんしゅう)の48( 明恵 )(みょうえ)は、戒律を尊重して南都仏教の復興に力をそそいだ。やや遅れて律宗(りっしゅう)の49( 叡尊 )(えいぞん)とその弟子50( 忍性 )(にんしょう)らは、戒律を重んじるとともに、忍性は、奈良に病人(ハンセン病)の救済施設51( 北山十八間戸 )(きたやまじゅうはちけんど)を建て、社会事業に力を尽くした。つまり旧仏教勢力は、民衆の救済を目的とする新仏教に最初は反発したが、後に社会事業を行い、そこに勢力復活を見出そうとしていたのだ。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング