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チェダゼミナールコミュの二学期期末考査対策プリント

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【院政の開始】
・ 藤原頼通の娘に皇子が生まれなかったため、藤原氏を外戚としない1( 後三条天皇 )が即位した。
・ 後三条天皇は藤原教通(のりみち)を関白にしたが、実質的には2( 大江匡房 )(おおえのまさふさ)ら有能な官吏を登用した。
・ 1069年の3( 延久 )の荘園整理令は、後三条天皇のときに出された。
・ 延久の荘園整理令では、4( 記録荘園券契所 )が荘園整理の実務を行なった。
・ 延久の荘園整理令以前は、荘園整理の実務は5( 国司 )にまかされていた。
・ 後三条天皇のときに定められた公定の枡を6( 宣旨枡 )(せんじます)という。
・ 7( 白河 )天皇は、8( 1086 )年に堀河天皇に譲位したあとも上皇として政務をとった。このような政治体系を9( 院政 )という。
・ 10( 北面の武士 )は、白河上皇のときに院の御所を警備するために設置された。
・ 院政を行なう役所を11( 院庁 )(いんのちょう)といい、事務処理の役人を12( 院司 )(いんし)という。
・ 上皇自らの命令を13( 院宣 )(いんぜん)、院庁から出される公文書を14( 院庁下文 )(いんのちょうくだしぶみ)という。
・ 院政では、中小貴族や受領出身の者が15( 院の近臣 )となって、権威を振るった。
・ 白河院政の次に院政を行なったのは、堀河天皇の子で、白河上皇の孫である16( 鳥羽 )法皇である。
・ 国の支配権を特定の人に与え、その国からの収益を得させる制度を17( 知行国 )制度という。
・ 院が知行権を持つ国を18( 院分国 )(いんぶんこく)という。
・ 南都とは19( 興福寺 )、北嶺とは20( 延暦寺 )をさす。
・ 興福寺の僧兵は21( 春日神社 )の神木を擁して、延暦寺の僧兵は22( 日吉神社 )の神輿(しんよ)をかついで強訴した。

【平氏政権の成立】
・ 伊勢平氏の1( 平正盛 )が、白河上皇に私領を寄進して以来、平氏が重用されるようになった。
・ 源氏は12世紀初めに2( 源義親 )(みなもとのよしちか)が反乱を起こしたが、3( 平正盛 )に鎮圧された。
・ 4( 平忠盛 )は瀬戸内海の海賊平定などで5( 鳥羽 )上皇の信任を得た。
・ 6( 鳥羽 )法皇が死去すると、藤原氏の氏の長者7( 藤原頼長 )は、崇徳上皇と結んで兵を集めた。8( 保元の乱 )の始まりである。
・ 9( 1156 )年の保元の乱では、10( 崇徳 )上皇と対立した11( 後白河 )天皇が勝利した。
・ 後白河天皇は、平12( 清盛 )や源13( 義朝 )らを動員して保元の乱で上皇側を破った。
・ 保元の乱で敗れた崇徳上皇は14( 讃岐 )国に配流された。
・ 15( 藤原信頼 )は源義朝と結び1159年に16( 平治の乱 )を起こした。
・ 平治の乱は、院の近臣藤原信頼と17( 藤原通憲 )(みちのり)の対立に起因した。
・ 平治の乱の結果、源義朝の子18( 源頼朝 )は、伊豆に流された。
・ 平清盛は、1167年、武士として初めて19( 太政大臣 )に就任した。
・ 平氏政権は積極的に20( 宋 )との貿易を行なった。
・ 平清盛は、21( 兵庫 )県の22( 大輪田泊 )を修築し、宋の商船を招き入れた。
・ 1177年の平氏打倒計画が発覚した事件を23( 鹿ケ谷の陰謀 )という。
・ 1179年、平清盛は後白河法皇を24( 鳥羽 )殿に幽閉した。

【院政期の文化】
・ 摂関家の繁栄ぶりを讃えた歴史書を1( 栄花(華)物語 )という。
・ 藤原氏の栄華の様を批判的な立場から叙述した歴史書を2( 大鏡 )という。
・ 藤原清衡は、平泉に3( 中尊寺金色堂 )を建てた。
・ 院政期に浄土信仰が九州に伝播した例として知られる建築遺構は4( 富貴寺大堂 )(ふきじおおどう)である。
・ 後白河法皇は、庶民の哀歓のにじんだ歌謡に関心をもち、5( 梁塵秘抄 )(りょうじんひしょう)を編集した。
・ 『梁塵秘抄』に多く見られる、平安時代後期に流行した新興歌謡を6( 今様 )という。
・ 応天門の変を題材にした絵巻物は7( 伴大納言絵巻 )である。
・ 京都高山寺(こうざんじ)蔵の8( 鳥獣戯画 )(ちょうじゅうぎが)は、動物を擬人化し世相を風刺した絵巻物である。
・ 平清盛は、9( 白河法皇 )と祗園女御(白河法皇の籠姫)の妹の間に生まれた子であったため、18歳の若さで従四位という武士としては異例のスピード出世をしたといわれている。

鎌倉時代
【源平の争乱と鎌倉幕府の成立】
・ 源平合戦のことを1( 治承・寿永の乱 )という。
・ 1180年、源頼政は後白河法皇の皇子2( 以仁王 )を奉じて平氏打倒の兵を挙げた。
・ 1180年、源頼朝は3( 伊豆 )で挙兵した。
・ 平清盛は、1180年に摂津国4( 福原京 )に遷都した。
・ 5( 1185 )年、長門国で行われた6( 壇の浦の戦い )で、平氏は滅亡した。
・ 壇の浦の戦いで指揮をとったのは、源7( 義経 )と源8( 範頼 )である。
・ 1180年に、源頼朝は御家人を統制する機関として9( 侍所 )を設置した。
・ 侍所の長官である10( 別当 )に最初に任命されたのは、御家人の11( 和田義盛 )である。
・ 1184年には、財政を扱う12( 公文所 )、裁判事務を担当する13( 問注所 )が設置された。
・ 公文所は後に14( 政所 )と改称された。
・ 公文所の長官である別当には15( 大江広元 )が、問注所の長官である16( 執事 )には17( 三善康信 )が最初に就任した。
・ 地頭は18( 荘園 )や19( 公領 )ごとに設置された。
・ 守護の権限は20( 大犯三ヶ条 )とよばれ、大番催促、謀反人・殺害人逮捕を内容とする。
・ 大犯三ヶ条の中の大番催促とは、21( 京都大番役 )への催促をすることである。
・ 承久の乱以前、京都の御家人の統率と治安維持などのために、22( 京都守護 )が置かれていた。
・ 23( 鎮西奉行 )は、九州の御家人の統率や軍事警察などを任務とした。
・ 1189年、奥州藤原氏は滅亡し、奥州には24( 奥州総奉行 )という機関がおかれた。
・ 後白河法皇は、1190年に頼朝に25( 右近衛大将 )の官職を与えた。
・ 26( 1192 )年、後白河法皇の死をきっかけに、源頼朝が27( 征夷大将軍 )に就任した。
・ わが国の28( 封建 )制度は、所領(土地)を媒介とした29( 御恩 )と30( 奉公 )の関係を基盤としていた。
・ 頼朝が、御家人に戦功によって新所領を与えることを31( 新恩給与 )という。
・ 将軍が知行国主となる32( 関東知行国 )は、9カ国あった。

【執権政治の確立】
・ 1199年に源頼朝が死ぬと、1( 源頼家 )が2代将軍となり、十三人の合議制が始まった。
・ 源頼家は1203年、2( 比企能員 )と結んで北条氏打倒を企てたが失敗し、伊豆の修禅寺に幽閉された。
・ 比企能員の乱をきっかけに、1203年、3( 源実朝 )が将軍となった。
・ 1203年源実朝が将軍につくと、4( 北条時政 )は政所別当、すなわち5( 執権 )に就任した。
・ 北条時政の引退後、6( 北条義時 )が2代目執権(政所別当)となった。
・ 1213年、北条義時は、7( 和田義盛 )を倒し、彼に代わって8( 侍所 )別当となった。
・ 将軍9( 源実朝 )は1219年に暗殺され、源氏は断絶した。
・ 源実朝を暗殺したのは10( 源頼家 )の子の11( 公暁 )で、暗殺した場所は12( 鶴岡八幡宮 )である。
・ 源実朝の死後、13( 後鳥羽上皇 )は倒幕計画を進め、執権14( 北条義時 )追討の院宣を出した。
・ 後鳥羽上皇は、承久の乱に備えて15( 西面の武士 )を新設した。
・ 承久の乱の際、北条時政の娘で、源頼朝の妻であった16( 北条政子 )は御家人説得の演説を行った。
・ 承久の乱後、後鳥羽上皇は17( 隠岐 )に、土御門(つちみかど)上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に配流された。
・ 1223年に、今まで御家人が派遣されていなかった地域を中心に18( 新補 )地頭が置かれた。
・ 鎌倉幕府は、国ごとに国内の田地の面積や領有関係を記録した19( 大田文 )と呼ばれる土地台帳を作成させた。
・ 承久の乱後、幕府が朝廷監視などのために京都に設けた機関は20( 六波羅探題 )である。
・ 最初に六波羅探題に任命されたのは21( 北条泰時 )と22( 北条時房 )である。
・ 源実朝の死後、摂関家の23( 藤原頼経 )が将軍として迎えられた。
・ 3代執権24( 北条泰時 )は、北条25( 義時 )の子である。
・ 北条泰時は1225年に執権を補佐する26( 連署 )を設け、27( 北条時房 )をこれに任じた。
・ 北条泰時は1225年、有力御家人からなる28( 評定衆 )を設けて、合議制による政治や裁判の運営にあたらせた。
・ 鎌倉幕府の最高決済会議のことを29( 評定 )という。
・ 武家社会における最初の成文法は30( 御成敗式目 )である。
・ 執権の31( 北条泰時 )は、32( 1232 )年に御成敗式目の制定を命じた。
・ 御成敗式目は、頼朝以来の33( 先例 )や、武家社会の34( 道理 )を規範とした。
・ 御成敗式目は35( 51 )カ条からなり、適用の対象は36( 御家人 )である。
・ 御成敗式目に対して、荘園領主のもとで効力をもつ法を37( 本所法 )、朝廷のもとで効力をもつ法を38( 公家法 )という。
・ 5代執権北条39( 時頼 )は、北条40( 泰時 )の孫である。
・ 北条時頼は1247年に、有力御家人41( 三浦泰村 )を滅亡させた。これを42( 宝治合戦 )という。
・ 執権43( 北条泰時 )は1249年、評定衆を補佐する44( 引付衆 )を設置した。
・ 北条時頼は、5代将軍45( 藤原頼嗣 )に代えて、後嵯峨天皇の子46( 宗尊親王 )を皇族将軍として迎えた。

【元寇と鎌倉幕府の衰退】
・ 鎌倉幕府の8代執権は、北条時頼の子の1( 北条時宗 )である。
・ 13世紀初め、モンゴル高原に2( チンギスハン )が現れ、モンゴル民族を統一した。
・ 1271年に元を建国した3( フビライハン )は、都を現在の北京にあたる4( 大都 )に遷都した。
・ 1274年の1度目の元の襲来を5( 文永の役 )、1281年の2度目の元の襲来を6( 弘安の役 )という。この二つを合わせて7( 元寇 )という。
・ 元寇のときの執権は8( 北条時宗 )である。
・ 北条時宗は、9( 異国警固番役 )を設け、九州地方の御家人に蒙古の襲来に備えさせた。
・ 文永の役の後、元軍の再度の襲来に備えて博多湾岸に10( 防塁 )が構築された。
・ 文永の役のあとの1279年、元は11( 南宋 )を滅亡させた。
・ 弘安の役では朝鮮半島からの12( 東路 )軍と、中国本土からの13( 江南 )軍の2軍に分かれた。
・ 14( 竹崎季長 )は『蒙古襲来絵巻(絵詞)』を描かせた肥後の御家人である。
・ 1293年には、西国防備と九州統治の強化を目的に15( 鎮西探題 )が博多に設置された。
・ 北条時宗の子の16( 北条貞時 )が9代執権になると、幕府の実権は彼一人に握られた。そして、北条氏は全国の守護の半数を占めるようになった。
・ 蒙古襲来をきっかけに、北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)である17( 得宗 )の勢力が強大となった。
・ 得宗の家臣のことを18( 御内人 )という。
・ 御内人のリーダー内管領19( 平頼綱 )が有力御家人20( 安達泰盛 )を滅ぼした事件を21( 霜月騒動 )という。
・ 幕府は御家人救済のために、所領の売買、質入れの禁止を定めた、いわゆる22( 永仁の徳政令 )を発布することになった。
・ 永仁の徳政令は23( 1297 )年、執権24( 北条貞時 )のときに出された。

【武士の生活と鎌倉時代の経済】
・ 武士の屋敷を館(やかた)といい、1( 武家造 )という建築様式が用いられた。
・ 宗家の長を中心として武士団が形成された体制のことを2( 惣領制 )という。
・ 鎌倉時代初期は、武家社会においては3( 分割 )相続一般的であった。
・ 鎌倉末期になると4( 単独 )相続が行われ始めた。
・ 女性に対しては、5( 一期分 )と呼ばれる本人一代限りの相続が多くなった。
・ 騎射三物は、6( 笠懸 )7( 流鏑馬 )8( 犬追物 )である。
・ 地頭の荘園侵略に対して、荘園領主は9( 地頭請 )の契約を結び、年貢収入のみを確保しようとした。
・ 地頭の荘園侵略に対する解決策として、土地を分割する10( 下地中分 )という方法があった。
・ 畿内や西日本の一帯では11( 麦 )を裏作とする12( 二毛作 )が行われた。
・ 当時の肥料は、刈った植物を焼いて作る13( 草木灰 )や、生育中の植物を田畑にすき込む14( 刈敷 )などが使用された。
・ 鎌倉時代には、紙の原料となる15( 楮 )や、染料の原料である16( 藍 )、灯油の原料となる17( 荏胡麻 )などが栽培された。
・ 月に三回開かれる定期市を18( 三斎市 )という。
・ 名主、僧侶、庶民などの中から現れた高利貸業者を19( 借上 )という。
・ 遠隔地の取引方法には20( 為替 )が行われるようになった。
・ 各地の港湾には年貢の輸送と保管を生業とする21( 問丸 )が現れた。

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