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チェダゼミナールコミュの4.蒙古襲来と幕府の衰退 P99〜 資料集108〜110

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【蒙古襲来】
 中世の日本の歴史は、東アジアと共にあります。東アジアとは現在でいうと、1( 日本 )2( 中国 )3( 朝鮮 )4( モンゴル )です。東アジアの中心はなんと言っても5( 中国 )ですが、今日の授業の主役はモンゴルです。世界にはかつて帝国という名のつくものがたくさんありました。イギリスの6( 大英帝国 )、日本の7( 大日本帝国 )、古代ヨーロッパの8( ローマ帝国 )などです。しかし、歴史上世界最大の帝国は9( モンゴル帝国 )なのです。それではモンゴル帝国の歴史を説明します。まず1206年10( チンギス = ハーン )がモンゴル統一します。それからモンゴルはどんどん拡大を続け、その勢力はヨーロッパにまで拡大します。実際に1241年に行われた11( ワールシュタットの戦い )ではモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を破っています。つまり、ユーラシア大陸の大部分がモンゴルの支配下に置かれていたのです。さらに孫の代の12( フビライ = ハーン )の治世には、13( 大都 )<北京>に遷都し、14( 元 )の国号を使用しました。なぜモンゴルという名前から、元になったのかといえば、中国を支配するためです。モンゴルがなぜこれほどの世界帝国を築けたのかと言えば、「馬を乗りこなせる」こと、これに尽きます。当時、戦車や爆弾、潜水艦、戦闘機などはありませんから、馬を乗りこなせることが、戦争に勝つために絶対必要条件なのです。ユーラシアをほぼ征服したモンゴルは、日本にも「モンゴルの支配下に入れ」と脅してきます。当時の鎌倉幕府の最高権力者は、8代執権15( 北条時宗 )でした。北条時宗は、このモンゴルの要求を拒否します。そのため、日本はモンゴルの襲撃を受けることになります。16( 文永の役 )<1274年>)です。相手方の兵力は、当時朝鮮半島にあった17( 高麗 )軍を合わせ約18( 3万 )・900隻でした。元軍は、壱岐対馬を攻めた後、19( 博多 )に上陸し、日本軍と戦いました。資料集108を見てください。元軍は、20( 集団 )戦法と毒を盛った弓矢、さらに21( てつはう )で戦っています。てつはうとは、火薬のようなものであり、相手にダメージを与えるものというよりは、日本軍の馬を驚かす目的で使われていたそうです。一方、日本は22( 一騎討ち )戦法で戦っており、かなり苦戦しています。この絵は23( 蒙古襲来絵巻 )といい、肥後の武士24( 竹崎季長 )が自分の武勇伝を幕府に伝えるために描かせたものです。なぜかといえば、恩賞をもらうためです。つまり、「これだけ日本のために頑張ったんだから、ご褒美(土地)を下さい」とアピールするためです。日本軍はかなり押され、一時は大宰府付近まで撤退を余儀なくされたが、元軍は夜戦を好まず、船に撤退した。船に撤退したとき、たまたま大風雨に襲われ、元軍が敗退します。幕府は、再襲来への警戒を強め、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる25( 異国警固番役 )を強化すると共に、東区箱崎から西区今津まで26( 防塁 )<石塁>を構築します。この防塁は効果的で、次の元軍襲来27( 弘安の役 )<1281年>では、元軍は上陸すら出来ませんでした。
 さて、一度目の襲来が1274年、二度目の襲来が1281年と、かなりの期間が開いています。これはなぜかというと、元は中国の南にあった28( 南宋 )を攻めていたからです。元は1276年に南宋を滅ぼし、弘安の役では29( 14万 )の兵と4400隻の船で攻めてきました。そのうち、朝鮮・モンゴルの連合軍が30( 東路軍 )で、4万・900隻、南宋の兵が31( 江南軍 )で10万・3500隻でした。江南というのは、長江の南という意味です。しかしこの戦いも、防塁によって上陸出来ない間、またしても暴風雨によって元軍は撤退してしまいました。元軍の際に吹いた風は後に32( 神風 )と呼ばれるようになりました。元軍の敗因は色々あります。まずは、モンゴルは元々馬を使った戦いには優れていますが、海の戦いは不慣れだったこと。さらに、モンゴル帝国に組み込まれたはずの高麗(朝鮮)・旧南宋(中国南部・江南)の人々の抵抗、モチベーションの低さ。高麗・南宋の人々は、単にモンゴルから命令されて戦っているだけであり、やる気はありません。一方で日本軍は、幕府からの恩賞を期待して一生懸命戦いました。




【蒙古襲来後の政治】
 幕府は三度目の元寇に備え、鎮西奉行を強化した33( 鎮西探題 )を設置します。鎮西探題は、九州を統率(行政権・裁判権あり)するために博多に設置された幕府の機関です。この鎮西探題には北条氏一門が配置されました。また現在の山口県も、もしかしたら外国に狙われる恐れがあるとして34( 長門探題 )も設置しました。さらに幕府は非御家人をも動員できる権限を獲得しました。
このように幕府の権限が全国的に拡大していく中で、35( 得宗 )と呼ばれる、北条氏本家の家筋の権力が強くなっていき、36( 得宗専制政治 )、つまり得宗家による独裁政治の時代へと移っていきます。
得宗の力が強くなると、得宗の家臣である37( 御内人 )や、その代表である38( 内管領 )の力も強くなっていきます。当時、内管領であった39( 平頼綱 )は、1285年に有力御家人だった40( 安達泰盛 )と対立し、滅ぼしてしまいます。これを41( 霜月騒動 )といいます。しかし、1293年に平頼綱の権力拡大を怖れた9代執権42( 北条貞時 )は平頼綱を滅ぼしてしまいます。これを43( 平禅門の乱 )といいます。もともと、平頼綱は内管領のため、いわば貞時の側近中の側近です。一方で安達泰盛は、北条泰時以来の合議制の原則に基づいて幕政を進めようとしていた人物、つまりアンチ貞盛(外様)です。この霜月騒動の意義は、執権北条氏を軸としながらも有力御家人の合議制を原則としていた執権政治から、北条氏の専制(独裁)へと移行したことを意味する。








【社会の変動】
蒙古襲来の前後から、農業の発展もみられた。技術の改良により生産力上昇し、畿内・西日本では米と麦の44( 二毛作 )が行われるようになった。新しい肥料として、刈った草葉を田畑に敷き詰め、腐敗させ肥料にする45( 刈敷 )、草木を焼いてつくった灰である46( 草木灰 )が登場します。草木灰は、焼畑農業と同じ趣旨です。後の時代には、下肥(しもごえ)、つまり尿や糞を肥料とするものも登場します。また和紙の原料である47( 楮 )<こうぞ>、灯油の原料である48( 荏胡麻 )<えごま>の栽培も行われるようになりました。菜種を原材料とする油が主流になるのは江戸時代からです。
商業においても、荘園・公領の中心、交通の要地、寺社の門前などで49( 定期市 )が催され、年貢米・特産品の交換・売買が行われた。定期市には、月に三度の市である50( 三斎市 )などがある。また行商人も出現し、京都・奈良・鎌倉などの大都市には常設店舗で現在の店(小売店)の原型である51( 見世棚 )も登場し、ショッピングが出来るようになった。見世棚とは現代版のコンビニだと思ってください。商工業者は52( 座 )と呼ばれる、同業者団体を形成し、天皇・貴族・大寺院の保護を受け、販売・製造を独占した。また遠隔地取引も活性化し、商品の中継ぎ,委託販売・運送を担当し、問屋の原型でもある53( 問丸 )も生まれた。離れた地域にいる人同士で決済する場合は手形や小切手によって賃借を決済する54( 為替 )が行われた。また、現金は日宋貿易での一番の輸入品であった55( 宋銭 )によって行われた。
 金融業も発達し、56( 借上 )と呼ばれる高利貸業者も出現した。現代版消費者金融です。これまで米が金の役割を果たしていたものが、徐々に貨幣がお金の役割を果たしていくのも鎌倉時代の特徴である。そのため、荘園領主への年貢57( 銭納 )も行われるようになった。
 



【幕府の衰亡】
 恩賞を期待して元寇を戦った御家人たちでしたが、結局恩賞は貰えませんでした。なぜなら、元寇はモンゴルに勝って、相手の土地を手に入れたわけではなく、単に追い返しただけだからです。つまり、戦争に勝ったからといって、幕府は御家人にあげられるだけのご褒美がありませんでした。そして当時、相続は58( 分割相続 )が主流だったため、御家人の所領はどんどん細分化され、財産が減っていました。さらに、貨幣経済が浸透し、御家人達はその波にのまれることになります。御家人は戦いのプロではあるけれども、お金の稼ぎ方はよくわかりません。そんな中御家人は、自分たちの土地を売って借金を返済しようとしますが、それでも生活はよくなりませんでした。そこで幕府は59( 永仁の徳政令 )<1297年>を出し、御家人の借金をチャラにする政策をとります。この法律は、当初は威力を発揮しますが、一時的なものでした。なぜならこの法律は、「今まで売っちゃった土地を返すから、その代わりもう土地を売ったり質入したらダメ」という法律です。つまり、今の借金はチャラになったとしても、今後は借金できないのでその場しのぎの法律だったということです。貧しくなった下級武士は、しょうがないので暴力で訴えて、年貢の納入を拒否したり、荘園領主に抵抗するようになりました。彼らは60( 悪党 )と呼ばれ、その動きが西国を中心に広まっていきました。

 元寇がもたらした歴史的意義は沢山あります。結局蒙古襲来は、御家人の窮乏の一因となり、北条氏が得宗専制を強化する大きな契機となった。さらに、元寇で、御家人は戦い損だったため「幕府のいうことを聞いてもご褒美がもらえない」となり、幕府の信用は低下、それが御家人の離反、悪党化につながり、鎌倉幕府滅亡へとつながっていきます。
 さらに元寇の際、モンゴルの手下に成り下がっていた高麗(現在の朝鮮)人に対して、差別的な見方をし始めるのも実はこの時期からです。後の秀吉の朝鮮出兵や、韓国併合、そして現在も続く在日朝鮮人に対する差別の遠因も実は元寇にあるのかもしれません。
 元寇の際、2度吹いた神風も、太平洋戦争の神風特攻隊なる、無謀なものにつながっている。太平洋戦争ではアメリカという超大国を相手に戦っていて、どうみても日本に勝ち目はなかった。しかし、日本には61( 武士道 )精神、いわゆる「負けるとわかっていても、最後まで絶対にあきらめない」ものがあった。そして、日本は神の国であり、元寇の時のようにまた神風が吹いて、日本の逆転勝利だ!という淡い期待感もあった。
 結局戦争というのは、大量の無駄金と尊い命が奪われるため、結果的にやらないほうがよいものです。

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