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チェダゼミナールコミュの?武士の社会 教科書P92〜96 資料集104

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【北条氏の台頭】 〜頼朝死す、次世代の覇権争い〜
鎌倉幕府を開いた1( 源頼朝 )は武士としても、政治家としてもかなりのやり手でしたが、幕府成立後、10年もしないうちに亡くなってしまいます。頼朝の死後は、頼朝の長男である2( 源頼家 )が2代将軍となります。しかし、頼家にはお父さんほどのカリスマ性ありませんでした。つまり、御家人たちは、「頼朝だったから言うことを聞いていた」のであって鎌倉幕府そのものに服従していたわけではありませんでした。そこで、源頼家が将軍になると、有力な御家人の合議制によって鎌倉幕府が運営されていくことになりました。こうなるとおこってくるのが御家人同士の権力争いです。まずは1200年1月、平氏との戦で頼朝の命を救ったということで力を持っていた梶原景時(かじわらのかげとき)が倒されます。
 このころ、御家人のなかで権力を握っていたのが、伊豆を拠点としていた3( 北条時政 )です。北条時政は、伊豆に流されていた源頼朝の監視役でした。そして時政の娘である4( 北条政子 )は、源頼朝のもとに嫁いで、頼家と実朝を産んでいました。つまり、2代将軍源頼家は、北条時政からみると孫にあたります。北条時政は、将軍の母方のおじいちゃんであることを利用して権力を握っていくわけです。
 ただ、このおじいちゃんのことを将軍である頼家はこころよく思っていませんでした。「おじいちゃんはボクを利用しているだけだ」と感じていました。そこで頼家は、1203年に有力な御家人で義理の父でもある5( 比企能員 )<ひきよしかず>と共謀して、北条氏を倒そうと計画します。しかし、この計画は失敗に終わり、比企能員と頼家の子の一幡(いちまん)は殺されてしまいます。これを比企能員の乱といいます。その後、頼家は将軍をやめさせられて、6( 伊豆 )の修善寺(しゅぜんじ)に閉じ込められてしまいます。そして、翌年暗殺されてしまいました。

〔執権の登場〕
比企能員の乱の結果、源頼家が将軍を辞めさせられてしまいました。次に将軍になるのが、源頼家の弟で頼朝の次男7( 源実朝 )です。頼家(二代目)も実朝(三代目)も源頼朝の子ですが、頼家は頼朝の「頼」の字を、実朝は頼朝の「朝」の字をもらっていたわけです。
 3代将軍源実朝のもとで、北条時政は8( 政所 )の別当となります。政所とは鎌倉幕府の政務を行う機関で、別当とはその長官にあたります。今で言う政所は行政権のある9( 内閣 )、別当とは内閣のリーダー10( 内閣総理大臣 )といったところでしょうか。政所の別当は別名を11( 執権 )といい、その執権に北条時政(源頼朝の義理の父)が就任するわけです。つまり、執権とは鎌倉幕府の中で将軍の次のNo2なわけです。これにより、北条氏が政治の実権を握っていくことになります。一方で北条氏は、1205年にライバルである畠山重忠(はたけやましげただ)を倒します。
〔北条氏の権力拡大〕
 さて、北条時政の後は、彼の子である12( 北条義時 )が2代執権となります。ここで、執権という職が北条氏によって世襲されていきます。しかし、このような北条氏の権力独占に不満を持つ者も出てきます。それは侍所の別当13( 和田義盛 )です。侍所の別当とは、幕府の家来である御家人の統率者ですから、要するに家来の頂点にいる人物です。もともと幕府の家来の一人にすぎない北条氏が力を持っていくことに、家来の代表者としてはガマンができなかったわけです。そこで、和田義盛は1213年に挙兵しますが、戦いに負けて死んでしまいます。これを14( 和田合戦 )といいます。
 和田義盛が死んだ結果、侍所の別当の職が空席になります。その空席に2代目執権北条義時はちゃっかり座ってしまいます。北条義時は執権、つまり政所の別当ですから、侍所の別当と政所の別当の両方を兼ねるようになったわけです。これにより、北条氏の権力はますます拡大していきました。

〔源氏の滅亡〕
 1219年に衝撃の事件が起こります。3代将軍源実朝の暗殺です。暗殺したのは2代目将軍であった源頼家の子15( 公暁 )です。つまり、公暁は甥に暗殺されたことになります。暗殺した場所は鎌倉の鶴岡八幡宮です。暗殺した公暁自身も即日殺されてしまいました。公暁は一応父の仇をとった形となりましたが、この暗殺については、謎に包まれた部分が多く、真相はわかっていません。しかし、結果として、源氏の正統な後継者が一人残らずこの世からいなくなり、源氏はわずか3代で途絶えてしまいました。このまま鎌倉幕府は終わりか!?と思われましたが、鎌倉幕府No2執権北条義時は、摂関家の16( 藤原頼経 )(2歳)を京都から連れてきて将軍にします。この藤原頼経、母方が源氏と遠い親戚にあたる人物でした。そこで義時は頼経を「源氏の人間だ」ということにし、こじつけで将軍にしました。

【承久の乱】
 しかし、この人事に不満を持つ人物がいました。それが17( 後鳥羽上皇 )です。後鳥羽上皇は、「私は源頼朝だから幕府を認めたのだ。だから本来、鎌倉幕府の実権は源氏の人間が握るべきなのに、北条氏が幕府の実権を握るのはおかしい」と考えます。そこで、全国の武士に義時を倒せという命令を出します。これを義時追討の院宣といいます。また、北条氏と戦うことを想定して18( 西面の武士 )を設置します。それに対し幕府側は初代将軍頼朝の妻、北条政子が19( 尼将軍 )として、御家人たちを涙ながらに説得し、上皇側と戦うことになります。これが1221年の20( 承久の乱 )です。承久の乱は北条泰時、北条時房らの京都遠征軍の活躍により、幕府側の圧倒的な勝利に終わり、これに負けた後鳥羽上皇は日本海の孤島21( 隠岐 )に流されてしまいます。後鳥羽上皇はここで18年暮らしたあと、60歳で死去しました。さらに、順徳上皇は佐渡に、土御門(つちみかど)上皇は土佐(のち阿波)に配流された。さらに、仲恭(ちゅうきょう)天皇(4歳)を廃して、後堀河天皇(10歳)を即位させた。
 承久の乱後、幕府は朝廷側(皇族側)が二度と幕府に反乱を起こさせないために、京都守護をパワーアップさせ22( 六波羅探題 )を設置しました。六波羅というのは、京都鴨川の東の地である。また、この乱で上皇側についた武士などから土地を没収し、約3000ヵ所という莫大な荘園を手に入れます。それまでの鎌倉幕府の荘園の数が約500ヵ所で、あの絶大な権力を握った平氏でさえ500ヵ所というわけですから、この3000という数字がいかに大きいかわかると思います。鎌倉幕府はこれらの荘園を中心に23( 新捕率法 )<しんぽりっぽう>という決まりに基づいて得分、つまり収入を得る24( 新捕地頭 )という新しい地頭を設置します。その新捕地頭には、承久の乱で北条氏側について活躍した東国の御家人を任命しました。まさに新恩給与です。ちなみにこの承久の乱後にできた新捕地頭に対し、従来からの地頭を25( 本捕地頭 )といいます。これらにより、幕府が朝廷より優位にたつとともに、幕府の力が東国だけでなく全国に及ぶようになりました。幕府は朝廷の皇位継承へも介入していきます。

【執権政治】
 義時の次は3代執権26( 北条泰時 )です。泰時は、2代執権北条義時の子です。義時の時代までは、とにかく北条氏が権力を握るまでに頑張っていた時代でした。しかし、3代にもなると北条氏の権力は安定期に入ります。そこで、次の目標として、北条氏の時代を長続きさせるために政治体制を固めていこうとするわけです。
 まず、北条泰時は執権の補佐役である27( 連署 )を設置します。連署というのは「連名で署名する」という意味です。誰と連名で署名するかといえば執権です。つまり、連署とは執権とともに政治を行っていく人です。鎌倉幕府のNo3です。この最初の連署には、泰時のおじにあたる28( 北条時房 )がなります。
 次に、話し合いの機関を設けます。これを評定(ひょうじょう)といいます。この評定のメンバーを29( 評定衆 )といって、有力な御家人の中から選ばれます。この執権・連署・評定衆の3者が合議制で政治を行っていくことで執権政治が確立します。この執権政治は合議制ゆえ、非常に安定しました。頼朝独裁の時よりも、御家人は意見が言いやすく、その分不満がおこりにくくなり、反乱もさほど起きませんでした。
 そして、3代執権泰時の時に、朝廷が藤原頼経のことを将軍であることを認めます。30( 摂家将軍 )<藤原将軍>の誕生です。朝廷が正式に将軍を認めたことで、しばらく将軍問題は安泰となりました。
 最後に、執権政治の確立の集大成、1232年に31( 御成敗式目 )<貞永式目>を制定します。これは武家社会の基本法典です。内容は「頼朝以来の先例・武家社会の道理」です。注意が必要なのは、この御成敗式目が適用されるのは武士である御家人のみであるということです。御成敗式目は、次の室町幕府においても基本法として重視されます。
 それでは、御家人以外はどうなるのかというと、公家法、本所法(ほんじょほう)が適用されました。公家法は朝廷が支配している地域で適用される法律です。本所法とは荘園を支配するための法律なので、それぞれの荘園で適用されました。

〔執権政治の完成〕
 次は5代執権32( 北条時頼 )です。北条時頼は、3代執権北条泰時の孫にあたります。この時頼時代に、執権政治が確固たるものとなります。
 まず、1247年に有力御家人の33( 三浦泰村 )が時頼によって滅ぼされます。この戦いを34( 宝治合戦 )といいます。
 また、政治では、1249年に評定衆の補佐をおこなう35( 引付衆 )を設置しました。具体的には、評定衆の仕事のうち、所領の訴訟の取り扱いを専門におこないました。これにより、裁判の迅速化・公正化を図りました。裁判がチンタラだと、その間に民衆の不満は爆発してしまいますから、裁判の迅速化というのはとても重要なのです。引付衆は、現代版裁判員制度といったところでしょうか。この引付衆の設置によって、鎌倉幕府の政治機構はほぼ確立したと言えます。
 さて、このころの将軍は、4代将軍藤原頼経の子36( 藤原頼嗣 )でした。しかし、お父さんの藤原頼経が北条氏を執権の地位から引きずりおろそうとした事件などがあって、藤原頼嗣は将軍職を奪われ、鎌倉から追い出されてしまいます。
 代わって、北条時頼は、後嵯峨天皇の子であった37( 宗尊親王 )を将軍にします。38( 皇族将軍 )<親王将軍>の誕生です。これ以降(6代〜9代)、鎌倉幕府が滅亡するまで、天皇家の人間が将軍職に就いていきます。
 ただ、注意が必要なのは、幕府の実権を握っているのはあくまで、執権職にあった北条氏であるということです。皇族将軍も、前にいた摂家将軍も、幕府の実権は一切握っていませんでした。





参考文献: 金谷の日本史「なぜ」と「流れ」がわかる本(中世・近世史) 
東進ハイスクール講師 金谷俊一郎著

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