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チェダゼミナールコミュの?国風文化 教科書P64 資料集P85〜88

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【浄土の信仰】
 国風文化とは日本風の文化。それまでは大陸(中国)の影響を強く受けていたが、菅原道真が1( 894 )年に遣唐使の派遣を中止したことにより、日本独自の文化が花開くことになった。つまり国風文化は10C〜11C頃の文化である。因みになぜ遣唐使の派遣を中止したかというと、
? 唐の衰退 唐は907年滅亡
? 船旅の危険性
である。
 国風文化では、現世利益よりも死んだ後に極楽浄土に行くことを願う教えが流行する。極楽浄土への往生を願う教えを2( 浄土教 )という。浄土教は、3( 阿弥陀仏 )という仏様を信仰し、念仏を唱えることで極楽浄土への往生を願うというものである。
教科書P65右上にある空也像の口から出ているものは「南無阿弥陀仏」の6文字である。
国風文化の一つ前の文化は4( 弘仁・貞観 )文化でした。平安初期の9Cの文化です。当時の貴族といえば、藤原氏の他にも伴氏や橘氏などの有力貴族がいました。つまり、この当時はまだいろいろな貴族に出世の道があったわけです。だから現世利益を求める密教(天台・真言)がはやるわけです。一方、国風文化は、藤原氏が出世レースを勝ち抜いたときの文化です。つまり、藤原氏以外は出世のしにくい時代といえる。だから「現世での幸せは求めても叶わない、だったらせめて死後の世界(来世)で幸せになりたい」と願う浄土教が流行するのです。
平安時代の文化
時期 流行 教義 支持層
弘仁・貞観 9C(平安初期) 密教 現世利益 出世を望む貴族
国風 10C〜11C 浄土教 極楽浄土に往生 この世に失望した人 出世の可能性のない人
浄土教の背景には、5( 末法思想 )があります。末法思想とは、仏教の創始者6( 釈迦 )が亡くなったあと、世の中がドンドン悪くなっていくという考えです。7( 1052 )年がちょうど釈迦が亡くなってから2000年目となります。この年を境に、世の中が末法(この世の終わり)に入ってしまうという考え方です。実際当時の世の中はかなり乱れており、盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりに起こっていました。
浄土教を初期に説いたのが先ほども出てきた8( 空也 )という人物です。彼の別名を市聖(いちのひじり)といいます。これは京の市で民間への布教をおこなったのが由来です。なぜ民間(一般民衆)への布教かといえば、彼の生きた10C初期〜中期において、貴族間ではまだ密教が流行っていたからです。しかし一般民衆からしてみれば元々出世のチャンスなどなく、厳しく貧しい生活を送っていたわけですから、浄土教の考えである「死後の世界で幸せになる、来世では救われたい」という考え方がマッチしていたのかもしれません。
では10C後半に登場したのは誰かというと9( 源信 )です。彼は、念仏による極楽浄土への往生の方法を示した10( 『往生要集』 )を著します。この本がきっかけで、文字の読める貴族にも浄土教が広まっていくのです。一方一般民衆で文字を読める人は少ないので、空也は口頭で浄土教を広めている、だから「南無阿弥陀仏」が口から出ているのです。このように貴族や民間に浄土教が浸透してくると、極楽浄土に往生したといわれる人の伝記を集めた作品が出てきます。その往生伝の代表的なものが慶滋保胤(よししげのやすたね)の11( 『日本往生極楽記』 )である。
浄土教の仏である阿弥陀仏を安置するお堂のことを阿弥陀堂といいます。国風文化における最も有名な阿弥陀堂は世界遺産で10円玉でもお馴染みの12( 平等院鳳凰堂 )である(資料集86?)。平等院は元々藤原氏の別荘だったが、末法に入る1052年、13( 藤原頼通 )がお寺に変えてしまったのだ。とにかく「〜堂」と来たら「浄土教」と覚えておきましょう。
さて、信仰対象である阿弥陀仏の造り方ですが、これも平安初期の弘仁・貞観文化と、その後の国風文化とでは違いがあります。弘仁・貞観文化の流行は密教で、貴族のみがこれを好んでいました。しかし、浄土教にすがりたいのは一般民衆、その後には貴族間でも流行ります。つまりすべての人が浄土教にすがりたいわけで、仏像の需要が大幅に増えます。そのため、仏像を大量生産する手法が生まれました。それが14( 寄木造 )です。寄木造は、仏像をプラモデルのようにパーツごとに分けて彫っていき(教科書67参照)、それらを集めてつくるので効率的です。この寄木造の手法は15( 定朝 )が完成させ、彼の代表作が平等院鳳凰堂本尊の16( 阿弥陀如来像 )である(資料集87?参照)。
また国風文化の宗教画には来迎図があります。来迎図とは、往生しようとする人を迎えに阿弥陀仏が来臨するさまを描いた図のことです。来迎図の代表的なものには、高野山の聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)や平等院鳳凰堂の扉絵などがあります(資料集87?参照)。
また弘仁・貞観文化において神仏習合といって日本古来の宗教である17( 神道 )と、大陸から輸入された宗教である18( 仏教 )の融合が進んでいました。それが国風文化になると、神は仏の権現である、神は仏が仮に形を変えてこの世にあらわれたものだとする思想が出てきました。つまり神様というのは、みかけは神様だけど、実は仏様であるという思想です。この思想を19( 本地垂迹説 )といいます。

【国風美術】
 書道に関して弘仁・貞観文化では三筆の20( 嵯峨天皇 )21( 空海 )22( 橘逸勢 )がいました。これは唐様といって中国風の書道の達人ベスト3のことです。これに対して、国風文化になると、中国風ではなく、和風の書道(=和様)がもてはやされるようになります。和様の達人ベスト3を三蹟(さんせき)といい、その3人とは23( 藤原佐理 )24( 藤原行成 )25( 小野道風 )です。3名中2名が藤原氏であることがポイントで、国風文化は別名藤原文化ということからもわかるように、藤原氏が文化の担い手でした。藤原氏がライバルたちを排斥していったからです。

弘仁・貞観文化 三筆 唐様 橘逸勢 嵯峨天皇 空海
国風文化 三蹟 和様 藤原佐理 藤原行成 小野道風

【国文学の発達】
 国風文化では、中国風の漢詩から日本風の和歌が盛んになります。文化の国風化を促したのはかな文字(平がな片かな)の発達です。中国からもたらされた漢字をアレンジして、優美・繊細・清らかといった日本人特有の感性、日本的美意識が表現されるようになった。かな文字は女文字とも呼ばれ、女流文学の隆盛を導いた。
 国風文化の文学作品
作品名 作者 備考
源氏物語 26( 紫式部 ) 中宮彰子(道長の娘)の家庭教師
枕草子 27( 清少納言 ) 皇后定子(道隆の娘)の家庭教師
古今和歌集 28( 紀貫之 ) 905年 新古今は1205年 初の勅撰和歌集
29( 竹取物語 ) 未詳 かぐや姫伝説
御堂関白記 30( 藤原道長 ) 道長の日記
その他の文学作品については資料集85でチェックしておきましょう。
 勅撰和歌集とは天皇の命令により作られた和歌集であり、905年の古今和歌集から1205年の新古今和歌集まで8回の勅撰集が作られた。これを31( 八代集 )という。

〔御霊会(ごりょうえ)〕
 御霊信仰とは、天変地異や疫病の流行の原因を、個人の怨霊やその他の神仏の祟りと考えられ、それらを鎮め慰め、それによって災難から逃れようと願う信仰である。奈良時代末期から平安時代にかけて、激しい権力闘争に敗れて無念の死を遂げた人々が数多く出たが、この世に恨みを残すそれらの人々の怨霊が、天災・疫病などの祟りをなすと広く信じられていた。思いがけない天変地異が起こったり、疫病が流行すると、世の人たちは原因をそこに求め、怨霊を鎮める御霊会を催したのである。この御霊会で有名な神社が
32( 北野天満宮 ) 菅原道真 大宰府に左遷
33( 祗園社 )(八坂神社) 早良親王 藤原種継暗殺に関わり自害
 菅原道真が大宰府で死んだ後、都で落雷被害が相次いだ。そこで彼を雷神=天神と崇めるようになった。

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