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チェダゼミナールコミュの日本史B ?平安朝廷の形成

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【平安京の確立と蝦夷との戦い】〜千年の都・平安京の誕生〜
 奈良時代の末期、道鏡という僧が天皇の座を狙って宇佐八幡神託事件が起こった。このように仏教勢力が政治に介入するようになったことを危惧した1( 桓武天皇 )は784年、2( 長岡京 )に遷都した。新たな土地に都を移すことで、仏教勢力の一掃を図ろうとし、平城京からの寺院移転を禁じた。しかし翌785年、長岡京の造宮使(京建設の最高責任者)である3( 藤原種継 )が反対勢力の何者かに暗殺されてしまった。この事件に関与したとして桓武天皇の弟で皇太子だった4( 早良親王 )が廃太子となり、自殺した。その後、洪水や疫病が相次ぎ、桓武天皇の母高野新笠や皇后が死去するなどの不幸が重なった。これが早良親王の怨霊の仕業との噂が広まり、長岡京は縁起が悪いとされた。そのため5( 794 )年、6( 和気清麻呂 )のアドバイスにより再び遷都が行われ、「平安楽土」になるよう願いをこめ、7( 平安京 )と名づけられた。この794(ナクヨ)年から1192(イイクニ)年までのおよそ400年間を平安時代といいます。
 遷都とともに当時の朝廷にとって重要な政策だったのが東北地方対策だった。東北地方には朝廷の支配の及ばない、つまり中央政府の言うことをきかない蝦夷(えみし)と呼ばれる人々が住んでいた。大化改新以降対策が進み、東北地方に沢山の城を築き、8( 城柵 )と呼ばれる役所を各地に設置し、関東地方などから農民(柵戸)を集めて周辺地域に住まわせ、東北の開拓を進めていった。一方、元々いた蝦夷を関東以西の各地に捕虜として移住させた。一旦服従したかに見えた蝦夷だったが、780年伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が乱を起こし、東北支配の拠点(鎮守府)である多賀城が焼かれてしまった。伊治呰麻呂は朝廷に帰順して伊治郡の長官に任ぜられていたが、反発の機会を窺っていた。これを機に東北地方では蝦夷による反乱が相次いだ。789年、桓武天皇の命を受けた紀古佐美(きのこさみ)は蝦夷討伐に向かうが、阿弖流為(アテルイ)にやられてしまう。無様に負けたことに腹を立てた桓武天皇は9( 坂上田村麻呂 )を派遣し、阿弖流為を打ち破った。802年には10( 胆沢城 )を築いて、鎮守府を多賀城から移し東北支配の拠点とした。関東・駿河・甲斐・信濃などの浪人4000人を移植した。翌年803年、北方に11( 志波城 )を築いて東北経営の前進基地とした。
 補足すると都を京都の平安京に移したことは朝廷にとって一石二鳥だった。一つ目に、京都には政治にシャシャリ出てくる仏教勢力が少なかった、故に天皇のやりたいように政治を行えるという点。二つ目に京都は水運を利用できるという点である。京都は淀川(水源は琵琶湖)という川を使って簡単に海に出ることも出来るし、琵琶湖にも近い場所です。琵琶湖は滋賀県ですが、京都市と滋賀県の県庁所在地である大津市は隣同士の街です。当時、日本海側の品物は琵琶湖を通って都に送られていました。琵琶湖を使えば東北にも行きやすくなります。つまり、後の東北支配を見据えての京都への遷都でもあったのです。車や鉄道のない時代において水運というのは非常に重要な要素となります。長岡京も平安京も山背(やましろ)国にあります。山が背にあるので山背です。この平安京遷都の際、縁起を担いで12( 山城国 )と改めました。
【平安初期の政治改革】〜桓武朝(781年〜806年)の政治改革〜
 平安時代初期は、一言で言えば「桓武天皇とその三人の子どもの時代」です。三人の子どもとは平城(へいぜい)天皇・嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅんな)天皇です。桓武天皇のあとはこの三人が順番に天皇になっていくわけです。
 桓武天皇は左大臣を不設置とし、貴族層を抑え、政治改革を断行していった。桓武天皇の行った政治改革は律令に規定されてない新たな官職を作ったことです。これを令外官(りょうげのかん)といいます。この令外官の一つに13( 勘解由使 )があります。これは国司の不正を取り締まって、国司にきちんと仕事をさせようとするための官職です。国司というのは地方の役人で、税を国民から取り立てそれを朝廷に送るのが仕事ですが、取り立てた税を自分のポケットマネーにしたり、少なく申告したりと、きっちり税を取り立てていないといった状況でした。そこで、国司交代の際に作成される解由状という文章を調査して、前の国司が不正をしていないかどうかを確かめようとしました。国司は中央(都)から派遣された者であるが、この解由状がないと任期を終了した国司は都に戻れなかった。
 令外官は他にもあり、蝦夷平定のための令外官である14( 征夷大将軍 )がある。つまりいうことを聞かない東北地方を制圧するための戦いのプロ、大将です。これに初めて選ばれたのが坂上田村麻呂でした。 さらに兵士の質を向上させるため、軍団と兵士を廃止し、代わりに郡司の師弟や、有力農民の志願による少数精鋭の健児(こんでい)を採用した。
 また奈良時代に税負担が重すぎて払えない人が逃亡するケースが目立ったため、税負担の軽減も行った。主なものを表にまとめると、
雑徭 国司のもとで60日タダ働きを30日に軽減
公出挙(くすいこ) 国が貸し出すあらゆるもの(主に稲)の利子を5割から3割に
班田 班田を6年に1度から12年に1度に
狙いとしては減税する分、確実に税を徴収することです。
【平城天皇・嵯峨天皇】〜藤原式家没落〜
桓武天皇の跡を継いだのは桓武天皇の子15( 平城天皇 )です。彼のもとで力をつけていったのが暗殺された藤原種嗣の娘である16( 藤原薬子 )でした。しかし平城天皇は病弱で、すぐに弟の17( 嵯峨天皇 )に天皇の地位を譲ってしまいました。薬子としては平城天皇のもとで出世できたわけですから、嵯峨天皇が邪魔になります。そこで薬子は「嵯峨天皇を天皇の地位から引きずりおろして平城上皇を再び天皇にしよう」と考え、18( 平城太上天皇の変 )(薬子の変)を起こします。平城天皇と薬子は平城京にもう一回遷都しようとするグループを取り込み、一時は「二所朝廷」と呼ばれる政治的混乱が生じたが、結局この反乱は失敗に終わり、薬子と兄の19( 藤原仲成 )は死んでしまい、薬子のいた藤原式家は没落してしまいました。
この薬子の変の際、嵯峨天皇側の機密事項が薬子側に漏れるなどして、嵯峨天皇は非常に困惑しました。そのため嵯峨天皇は天皇の機密文書を守るため、20( 蔵人 )という令外官を設けました。そしてその長官である蔵人頭(くろうどのとう)に藤原北家の21( 藤原冬嗣 )を就任させます。藤原氏の中心が藤原式家から藤原北家に移り、後の摂関政治を築いていった摂関家藤原氏となり、藤原氏全盛期を迎えるのである。
桓武天皇は主に地方制度の改革を行った人物でした。それに対し嵯峨天皇は中央政治の強化を図りました。まず京内の警備・裁判を担当する令外官22( 検非違使 )を設置しました。従来まで農民に無理矢理兵隊をやらせていたのですが、プロの軍事集団を置くことで都の警備を固めました。
法整備も進められました。当時、格・式が大量に出されていました。格・式とは
格 今まで出された法律を補足・修正したもの
式 今まで出された法律を施行するときの細かい取り決め
 これらを一冊にまとめ直したものが23( 弘仁格式 )になります。
 最後に直営田についてまとめておきます。直営田とは役所が直営で経営する田んぼのことです。なぜなら当時の税制が厳しく、なかなか確実に税を取り立てることができなかったからです。税金に頼らず、自分たちで経営してそこからお金を得るという仕組みです。直営伝には色々な種類があるのでまとめておきます。
公営田(くえいでん) 太宰府の運営費用のため
官田 官吏(国家公務員)の給与等のため
勅旨田(ちょくしでん) 天皇家の財産のため
諸司田(しょしでん) 役所の運営費用のため
これらの直営田が多く作られていたということは、それだけ律令体制、天皇支配体制がうまく機能していなかったことがうかがい知れます。

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