ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの39 東アジアと列強 教科書P114〜 資料集150

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


【アヘン戦争】〔イギリス(欧州)VS中国(アジア)〕
 18世紀後半、1( イギリス )で産業革命がおこって、19世紀はイギリスの世紀と呼ばれるほど繁栄した。しかし、それ以前は、中国が世界の最先端にいた。少なくとも中国はアジアNo1の軍事力や経済力があったし、もしかしたら世界一だったのかもしれない。中国は、「世界の中心の国」という意味であり、「世界は中国を中心に回っている」とする2( 中華思想 )という考え方がある。つまり、中華思想では「中国が世界で一番偉いのであって、その他の国は中国の手下である」という考え方である。
 そんな中国に、産業革命を成功させ、市場拡大を狙うイギリスがやってきた。イギリスは中国に対して対等な通商・貿易を求めたが、拒否された。中国の言い分は、「中国が世界で一番偉いのだから、貿易ではなく貢物を持ってきなさい」というものであった。これを3( 朝貢貿易 )という。欧米では、ピューリタン革命→名誉革命→産業革命→アメリカ独立革命→フランス革命など、政治・経済面での革命を経ており、人や国や経済は自由で平等であるという思想が主流になりつつあった。だから、イギリスからすれば朝貢貿易という形態は意味不明だったのである。
 中国の態度が気に入らないイギリスではあったが、だからといって即戦争とはならなかった。19世紀初頭のイギリスは完全に覇権国家となっていたわけではないし、中国の実力を測りきれていなかったためだ。しかも、イギリスは4( 紅茶 )を飲む習慣がある。イギリス人はとにかく紅茶が大好きで、一日5回ほどティータイムがある。お茶は普通、沸騰させて飲む。日本は山が多いので、きれいな水が飲めるが、ヨーロッパは山が少ないのできれいな水が飲めない。そのため、沸騰させ殺菌して飲むのだ。フランスではワインが水代わりだ。また、中国産の5( 絹 )もイギリスでは人気があったので、イギリスは茶・絹を中国から輸入していた。しかし、中国はイギリスから買いたい製品は特にない。中国は何でも自前で揃うため、輸入する必要がなかったのだ。だからこそ、中国はイギリスに対して強気に朝貢貿易を要求出来たのだ。
 イギリスは困りました。中国から一方的に輸入するだけだったので、大赤字です。当時、まだ世界の基軸通貨というものはありませんでしたので、貿易の支払いは6( 銀 )で行われていました。イギリスは植民地である7( インド )に半ばムリヤリイギリス産の綿製品を売りつけ、銀を得ました。そして、インドは中国に8( アヘン )を密輸することで銀を得ました。アヘンはケシの花の乳液から採取する麻薬です。当時の中国は日本と同じく鎖国中でした。鎖国中の日本は9( 長崎 )が唯一の外国との窓口でしたが、中国のそれは中国第三の都市10( 広州 )でした。この密輸によって、中国ではアヘン吸引が流行し、銀の流出がひどくなった。アヘンは麻薬であるため、止めようにもなかなかやめられない。さらに、高齢者が楽に死ねる方法としてもアヘンはかなり重宝されていた。事態を重く見た中国政府は、広州に11( 林則徐 )を派遣し、アヘンの密輸を止めさせようとした。前々から中国が気に入らなかったイギリスは12( 1840 )<ヒトハヨレヨレ>年、艦隊を送って中国(清)を攻撃した。この戦いを13( アヘン戦争 )という。イギリス軍は強力な兵器による艦砲射撃で清の軍艦を圧倒したが、陸上では中国民衆のゲリラ戦術の抵抗で苦戦した。しかし、結局二年後の1842年、イギリスの勝利で終わり、14( 南京条約 )を結び、中国をムリヤリ開国させた。「開国」と聞くと、「国が開かれるからいいんじゃない」と思うかもしれないが、それはあくまで力関係が平等なときの話である。南京条約では、15( 香港 )の割譲(譲り渡すこと)、上海など5港の開港、広州での外国貿易を独占していた16( 公行 )の廃止、賠償金の支払いなども決められた。アジアNo1の国が、欧州No1の国に負けたニュースは日本をも震撼させた。日本周辺の海にも19世紀になると度々外国船が現れていたが、江戸幕府はこれに対し、17( 異国船打払令 )で対処していた。外国船がウロウロしていたら、容赦なく打つというものだ。しかし、アヘン戦争で中国が負けたことを知った幕府は、18( 薪水給与令 )に切り替えた。薪水とは、食糧や水、もしくは燃料などを意味するが、それらを外国船に与えて、丁重にお引取り願うものである。中国に勝つほどの実力のある欧州人を、挑発するようなことは出来ないと判断したためだ。
 イギリスは、さらに19( フランス )と結んで20( アロー戦争 )(第二次アヘン戦争、1856年〜60)を起こした。英仏連合軍は首都21( 北京 )を占領し、1860年に22( 北京条約 )を結ばせた。北京条約では、九竜の割譲、天津など11港の開港、外国公使の北京滞在、外国人の中国国内旅行の自由、キリスト教布教の自由などが決められた。要するに、中国は23( 半植民地化 )されることになったのである。

【太平天国】
 アヘン戦争で負けた中国国内は混乱した。そんな中、24( 洪秀全 )が太平天国を建て、南京を占領して首都とした。太平天国は清朝の打倒と漢族の復興、いわゆる25( 滅満興漢 )をスローガンとした。清は26( 満州人 )が作った国だったが、それを滅ぼし、再び漢民族の国を興そうとしたのだ。満州人の特徴は辮髪といって、ラーメンマンのような髪型をしている。この太平天国の乱は、その後沈静化した。そしてアロー戦争に負けた1860年以降、清はヨーロッパのように経済(産業)を発展させ、軍事力を強化する27( 富国強兵 )をはかる28( 洋務運動 )を展開した。しかし、この洋務運動は技術面でのみヨーロッパのよさを取り入れただけに留まり、結局失敗に終わった。中国は19世紀から20世紀の間、没落してしまいます。
【日本の明治維新前後の動向】
 一方で、日本にもついに外国の波が押し寄せます。29( 1853 )年、30( ペリー )率いるアメリカ艦隊が31( 浦賀 )に来航し、日本に開国を迫った。圧倒的な軍事力をもったアメリカに屈する形で1854年32( 日米和親条約 )、1858年には33( 日米修好通商条約 )という不平等条約を結ばされた。中国における太平天国の乱は結局鎮圧されて、失敗に終わったが、日本における国体の改革は34( 坂本竜馬 )などの幕末の志士達によって成功し、革命が成功した。フランス革命は王政から共和政へとシフトしたが、日本の場合は逆に35( 王政復古 )の形をとった。ペリーが来航して、江戸幕府はアタフタしてしまった。将軍は天皇や部下などに、どう対処したらよいのか相談するなどし、将軍の地位は完全に低下していた。そのため、やはり日本を作った神であり、カリスマである天皇(王)を立てて、そこに権力を集中させ、そのカリスマの元、一致団結して諸外国に対抗したほうがよいと考えたのである。この一連の改革・革命を36( 明治維新 )という。明治政府のスローガンは37( 脱亜入欧 )でした。つまり、アジアを脱して(中国をお手本にするのをやめて)、欧州に入る(欧州をお手本にするということです。この脱亜入欧は見事に成功します。中国の洋務運動は技術面のみヨーロッパのよさを取り入れたのに対して、日本の場合は、政治・経済・文化・思想面、あらゆる面で欧州の良さを取り入れたからです。
 不平等条約は、アメリカだけではなく、蘭・露・英・仏といった列強国とも結ばされました。どのような点で不平等だったかというと、一つは日本国内で外国人が犯罪を犯しても日本の法律では裁けないという38( 治外法権 )を認める点と、貿易の際にかかる税金、いわゆる関税を日本が決められない39( 関税自主権 )がない点である。関税を決められないということは、自由に外国製品が入ってくるということである。つまり生産力のある国が有利なので、日本の国内産業が潰れることになる。このような不利な状況から、日本は富国強兵や殖産興業により徐々に力をつけていく。多くの国民は貧しく、政府に不満が溜まっていた。そこで政府は国民の不満を外にそらすため、対外膨張政策に出た。つまり、日本も帝国主義を標榜するようになったということだ。例えば、1875年の40( 江華島事件 )では、朝鮮を挑発するかのように日本の軍艦が朝鮮の江華島沖で軍事演習を行いました。そして、攻撃してきた朝鮮を日本は軍事力でねじ伏せ、翌76年41( 日朝修好条規 )を結び、朝鮮をムリヤリ開国させました。当然これは不平等条約です。当然これには中国が反発します。これまで朝鮮を支配してきたのは中国だったからです。後に日本と中国の争いは、この朝鮮支配とアジアNo1の座をめぐって、1894年(イッパイクウヨ)、42( 日清戦争 )に発展します。資料集151の風刺画では、日清が対立している様子をロシアがうかがっている様子が描かれています。日清戦争に勝った日本は、その10年後、1904年43( 日露戦争 )を行い、勝利しました。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。