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チェダゼミナールコミュの28 フランス革命 29 ナポレオンとその帝国 教科書P92〜95 資料集130〜133

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【旧体制と改革の挫折】 
18世紀フランスは、欧州の政治・文化の中心にあったが、経済面ではイギリスに先を越され、度重なる戦争と宮廷のぜいたくな暮らしで累積した財政赤字は、1( アメリカ独立戦争 )支援によって破綻した。身分制度も相変わらず旧制度のまま。国王を頂点に、第一身分に2( 聖職者 )<祈る人>、第二身分に3( 貴族 )<戦う人>、第三身分に4( 平民 )<働く人>がいた。第一身分に聖職者がいるということは、宗教面においても伝統的権威(神・キリスト教)から抜け出せずにいたことを意味する。第一身分・第二身分は特権階級で、フランスの全人口の2%しかいない。彼らは税を免除され、建前上、聖職者は祈ることが仕事、貴族は有事に戦うことが仕事だが、はっきり言って何もしてないのと同じである。このような身分・特権に覆われたフランスの旧体制を5( アンシャン・レジーム )という。
そんなフランスで、旧体制への反発が高まる。その中心グループはやはりプロテスタント(新教)グループである。与えられた仕事に対し、努力して金を稼ぐことが神から与えられた使命だと考えるのがプロテスタンティズムであり、その世界は実力主義。過去の栄光だとか、身分は関係ない。商工業・専門職に従事する平民で、成り上がった人々を6( ブルジョアジー )と呼んでいる。彼らが、フランス革命の担い手だ。成り上がって金持ちになったところで、所詮身分は平民のままなら、王族・聖職者・貴族を倒してしまえと思ったのだ。またアメリカが宗主国イギリスに勝った7( アメリカ )独立革命により、王のいない共和政の国を作り上げたことへの共感も大きい。アメリカ独立革命は、フランス人にとって「俺らも戦って自由をつかもう」と勇気付けられる出来事だったのだ。
フランスはアメリカ独立革命支持にまわり、その際大金を使ったため財政難に陥っていた。世界史の理解のポイントとして「戦争にはとにかく金が無茶苦茶かかる」ということを覚えておいて欲しい。そこでフランス王は、今まで免税されていた第二身分にまで課税しようとした。当然貴族は抵抗します。そこで貴族達は、ルイ13世の召集停止以来開かれていなかった8( 全国三部会 )の招集を要求し、話し合いで決めようということになりました(1789年5月)。三部会のメインテーマは、誰が税金を負担するかと言うことで、これはどの国の国会も一緒です。国会は法律を作る立法府ですが、最も重要な話し合い事項は、税金をどうやって集め、それをどういう風に振り分けるかをグダグダずっと話し合っているのです。






【立憲君主政へ】
結局、全国三部会での話し合いは決裂し、第三身分代表が9( 国民議会 )と称し、人権宣言を発し、憲法制定に着手しました。人権宣言には自由・平等、人民主権、所有権など市民革命の原理が記されています。そしていよいよ王政打倒に向かうわけですが、戦うためにはまず武器が必要です。その武器を手に入れるために襲ったのが、10( バスティーユ監獄 )です。このバスティーユ監獄を襲った1789年、7月14日がフランス革命記念日です。アメリカの独立記念日は1776年、7月4日です。バスティーユ監獄を襲ったと同時に、全国各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃し、革命は瞬く間に広がっていきました。革命直前の平民のフラストレーションは溜まりまくっていました。民衆はパンを1つ買うのに月収の8割を払わなければならないぐらい、切羽詰っていました。その様子を見たルイ16世の王妃11( マリー・アントワネット )は「パンが食べられないならお菓子を食べればいいのに」と言いました。パンすら食べられないのに、お菓子を食らべれるわけがありませんが、王妃は庶民感覚が分かりません。この言葉にブチ切れた人々が、一層革命の勢力を強くしました。国民議会(革命勢力)は、旧体制(王政)を解体し、立憲君主政を成立させました。そしていよいよ憲法制定です。この憲法には制限選挙制が盛り込まれました。制限選挙は、納税額が一定以上の人しか参加できない選挙で、ブルジョワに有利です。しかしながら、選挙すら出来なかった時代よりは一歩前進です。




【共和政と革命独裁】
憲法制定直前に事件が起こります。国王逃亡事件です。国王は革命に対し、身の危険を感じたのでしょう。確かに最終的には国王12( ルイ16世 )と王妃マリー・アントワネットは処刑されてしまいますが、曲がりなりにも長年続いてきたフランスの国王です。これはフランス国民に対する裏切り行為で、王家の信用は完全に崩れてしまいました。この国王逃亡事件を13( ヴァレンヌ逃亡 )事件といいます。
更に、1972年春、革命波及を恐れるオーストリア・プロイセン(ドイツ)による革命干渉戦争が起きました。そんな中、革命も急進的なものとなります。当初革命の主流はブルジョワ。つまり、第三身分の中では裕福な人々でした。しかし、革命干渉戦争により、フランスは内外に問題を抱えることになり、 1792年9月,普通選挙制による14( 国民公会 )が開かれ、王政の廃止と共和政の宣言がなされました。普通選挙制は、参加資格に納税額の制限がありませんので、ブルジョア以外の第三身分も選挙に参加できます。ブルジョア以外の第三身分とは、農民や都市民衆です。この農民や都市民衆の支持を得て台頭したのが15( ジャコバン派 )でした。ジャコバン派は16( ルイ16世 )を裁判にかけ処刑(1793年1月) 次いで,王妃マリー・アントワネットも処刑してしまいました。実はマリー・アントワネットはオーストリア出身。マリー・アントワネットの一番の罪は、実家であるオーストリア皇室にフランスの情報を流し、反革命の立場をとったことである。この事がフランス国益を外国に売った裏切り行為とされたのである。マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・性格の不一致、ルイの性的不能もあり、思わしくなかったといわれている。また彼女はワイングラスを発明している。自分の乳房を摸して作らせたのだ。
ヨーロッパ各国には王様がいる。フランスの王が革命により処刑されたことは、ヨーロッパに衝撃を与えた。そこで、イギリスの首相ピットの呼びかけで、ヨーロッパ各国は17( 対仏大同盟 )を結成した。
さて、フランス国内に戻るが、歴史を学ぶ上でのキーワード、「革命のあとには必ず独裁者が登場」します。ジャコバン派のリーダー18( ロベス・ピエール )の革命独裁が始まったのです。彼の私生活は至って高潔で、紳士的な振る舞いは広く尊敬を集めた。「社会の全構成員に必要な食料を供給するためには、富者の所有権を制限することもやむを得ない」という信念を持つ。生涯独身で、交際していた女性に関する記録や伝聞もなく、直系の子孫はいない。さらに彼は弁護士出身。弁護士の仕事は、「法の力で世の中の弱い人を守る」ことです。そんな庶民派の彼でも、やはり権力を持ってしまうと独裁者となってしまったのです。ジャコバン派のそもそもの目的は、財産の平等や身分特権の廃止などを目指す。民衆の声に耳を傾け、革命を守るためには自分たちの階級的利害を一時犠牲にして民衆に譲歩することも辞さないと考える人びとからなる。国民公会で左の席に座ったことから左翼の語源となった。また、共産主義(社会主義)の思想のルーツを辿れば、このジャコバン派に行き着く。名前の由来はパリのジャコバン修道院を本拠としたことによる。結局ロベスピエールは自分にも厳しかったからこそ、他人へも厳しさを課したことで身を滅ぼしたのかもしれない。当初は、庶民のヒーローだった彼であるが、その政策が厳しすぎて、彼に逆らう者は容赦なく処刑された。処刑された者は3万5千から4万人に達すると言われている。中央集権国家形成のため地方独自の言葉19( 方言 )も禁止した。この厳しい政策によって国民の支持は低下し、1794年夏の20( テルミドール )のクーデタで彼は逮捕・処刑されてしまった。




29 ナポレオンとその帝国 教科書P94〜95 

【フランスの第一帝政】
フランスの当時の状況はガタガタであった。国王も駄目、平民代表者でも結局国をまとめることができなかった。ここで登場したのが、軍人1( ナポレオン )である。彼は2( ブリュメール18日のクーデタ )で、フランスの頂点にのぼりつめました。ピット英首相は、ナポレオンのことを「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」だといっている。フランス国内ではジャンヌ=ダルクやシャルル・ド・ゴールと並ぶ英雄である。彼はフランス革命原理の継承者でもあるが、他方で政治的独裁者となった点で革命原理の否定者でもあった。つまり、ナポレオンはフランスの英雄であると同時に、彼のことを嫌いな人もまた多数いるということである。ともかくまず、ナポレオンが評価されている点をまとめると、まず3( 民法典 )<ナポレオン法典>を制定させ、フランス革命の原理を法律に表したこと。このナポレオン法典は、法の下の平等、経済の自由などを骨子にするもので、後に他国の法の近代化の手本となった。実際に日本の民法にも影響を与えているほどです。ほかにも、フランス銀行の設立や、税制改革、地方行政改革、公教育制度の確立など、彼がフランス、そして世界の近代化に果たした役割は大きい。今でこそ、学校は当たり前のようにどの国にもありますが、当時学校というものはありません。悪く言えば、国民が学校で学び知恵をつけると、国の支配者層にとっては都合が悪いからです。国民が自然科学・社会科学を学び、「人間は平等だ」と気づけば、革命が起こるからです。日本も明治時代、学制を整え、学校制度を確立していきましたが、そのお手本はフランスの教育制度です。
一方で、ナポレオンが嫌われている点といえば、結局独裁者で、権力のみを追い求めているかのようだった点である。前に出てきたロベス・ピエールやイギリスのクロムウェル、そして現在の金正日がそうであるように、人は権力を持ってしまうと独裁者に陥りやすいのである。フランス革命は、革命当初は共和主義(民主主義)革命であったのに、他のヨーロッパ諸国に対しては帝国主義という、いわば
「支配と従属」という、非民主主義を持ち込んでしまった。





【大陸支配と百日天下】
 ナポレオンは、4( アウステルリッツの戦い )で、オーストリア・ロシア連合軍を打ち負かした。フランスは、大陸ヨーロッパをほぼ征服し、一族を王に任じて、フランスをその盟主(リーダー)とした。大陸ヨーロッパとはつまり、イギリスを除くすべてのヨーロッパという意味である。イギリスは海に囲まれた島国であるから、大陸ヨーロッパには含まれない。前にも述べたように、島国であるということは必然的に海軍が強くなる。ナポレオンは、イギリスの本土上陸を試みたが、5( トラファルガーの海戦 )で、イギリス海軍に敗れてしまったため、その野望は打ち砕かれた。そこでナポレオンは考えます。「ケンカで勝てないのなら、せめてお金の面でイギリスを困らせてやろう」と。そこで出したのが6( 大陸封鎖令 )です。つまり、島国で、経済大国であるイギリスを封じ込めて、大陸ヨーロッパだけで貿易を行うというものです。フランスは、海軍ではイギリスに劣りますが、陸軍はヨーロッパ最強国です。だから、大陸ヨーロッパの国々に「イギリスとは貿易してはいけないよ」といって、イギリスを困らせようとしました。しかし、この作戦は裏目に出ます。ヨーロッパの多くの国々は、イギリス向けの輸出で経済が成り立っていたからです。ですから、大陸封鎖令を出したフランスに対して不満が募り、戦争になりました。特に、大国ロシアは黙っていませんでした。フランスの大陸封鎖令を無視して、イギリスと密貿易を行っていました。そのためナポレオンは、自分のいうことを聞かないロシアを征伐するために7( ロシア遠征 )を行います。しかし、ロシアの焦土作戦と冬将軍に遭い、フランスは負けてしまいます。焦土作戦とは焦らす作戦です。ロシアは日本の面積の45倍もある、世界際だの面積を誇る国です。そして、ヨーロッパの中でもかなりの北国、つまり寒いのです。これらの地理的条件を生かし、フランス軍が攻めてきてもとりあえず戦わず撤退して、冬まで待つ。冬になれば一気に反撃を開始する。フランスは極寒の中での戦いなど慣れていません。その結果ロシアがフランスを打ち負かすことになるのです。ロシアがフランスに勝ったことを聞いた、その他のヨーロッパ諸国は一斉に、フランスからの解放戦争が始まりました。ナポレオンは8( ライプチヒの戦い )で敗れ、1814年、皇帝の座を追われ、9( エルバ島 )に流されてしまいます。ここで、ナポレオンは終わりかと思われましたが、一連のナポレオン戦争後の会議である10( ウィーン会議 )がうまくまとまっていなかったところを聞いたナポレオンが、エルバ島から舞い戻って再びフランスの天下人となります。しかし、このナポレオンの復活は「百日天下」と呼ばれるように、長くは続きませんでした。11( ワーテルローの戦い )で再び敗れたナポレオンは、12( セントヘレナ島 )に流されて、結局そこで死んでしまいました。ナポレオンが死ぬ間際に残した言葉は、最初の妻で姉さん女房であった「ジョセフィーヌ」であった。

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