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チェダゼミナールコミュの56〜57 第二次世界大戦?・? 教科書P156〜159 資料集P172〜173

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【大戦の勃発】 〜大恐慌の治療法は戦争だけに追い込まれた!〜
WW?の前哨戦であるスペイン内戦に勝利したドイツは39年9月1日,1( ポーランド )への侵攻を開始した。これに対し、中立の立場を示していた英・仏が即座に対独宣戦布告しWW?がスタートした。またソ連もポーランド東部に侵攻・占領。実は対戦中独ソは秘密協定によりポーランドを半分ずつ分割占領することで合意されていた。つまりポーランド西部をドイツが、ポーランド東部をソ連が占領し、ポーランドは消滅してしまった。ポーランドを占領した後もドイツの快進撃は止まらず一年も経たないうちにヨーロッパ主要部を制圧してしまった。ドイツが制圧した地域は、デンマーク・ノルウェー占領(40年4月)オランダ・ベルギー侵入(5月)、フランス侵攻,パリ占領(6月) と、わずか1〜2ヶ月で西部を制圧してしまった。特筆すべきはドイツとのライバル関係にあったフランスが占領されてしまったことである。フランスといえば欧州でも1位2位を争う強国であり、フランスが占領されてしまったことは、ドイツがそれだけ力をつけていたことが分かる。占領されたパリはフランス北部にあるのだが、フランス南部でもドイツによるフランス占領政策が進んだ。フランス南部2( ヴィシー )に3( ペタン )を国家主席とする傀儡政府である親ナチ政権が出来てしまったのだ。パリ占領後4( シャルル・ド・ゴール )はイギリスのロンドンに亡命し、自由フランス政府をつくり、ドイツ占領に抵抗する5( レジスタンス )という地下抵抗運動を始める。
 フランスがドイツに占領されて、ドイツ側有利とみた6( イタリア )がドイツ側で参戦するのもこの時期である。イタリアはWW?の時、ドイツと同盟関係にあったにも関わらず、イギリスにそそのかされ、イギリス側(連合国側)で参戦している。イタリアはドイツと協力してユーゴスラヴィアやギリシアまで制圧(41年4月)してしまった。
ドイツはWW?に突入する直前、ソ連と7( 独ソ不可侵条約 )を結び、ドイツにとって東側の脅威であるソ連と戦わないことにより、西部戦線のみに集中することが出来、ドイツの快進撃が続いた。西側大陸ヨーロッパをほぼ制圧し終えたドイツはいよいよ東部戦線に乗り出す。ドイツはソ連との不可侵条約を破りソ連第二の都市で欧州との玄関口でもあった8( レニングラード )(現サンクトペテルブルク・ロシア帝国の首都)にせまったのだ。ソ連はドイツと不可侵条約を結んでいたため、完全に油断していた。このドイツの奇襲攻撃は緒戦で大戦果を上げるも、冬の到来とともに攻撃は頓挫、短期決戦による勝利の見込みは失われてしまった。

【イデオロギーの戦い】〜民主主義の戦い〜
 イデオロギーとは直訳すれば観念で、戦争時におけるそれは、スローガン的意味合いがある。戦争というものは出来ることなら誰でもしたくないものなので、戦争を正当化し、全国民を戦争に動員させなければならない。戦争には必ずと言っていいほどイデオロギー(スローガン)が存在している。
イギリス首相の9( チャーチル )とアメリカ大統領10( F・ローズベルト )が大西洋上で会談(41年8月)し、この戦争をファシズム(全体主義)VS民主主義と位置づけた。ファシズムとは前述したように、暴力を背景に一人の絶対的リーダーがいるもの。民主主義とは国民一人一人が主人公であるとするもの。よってファシズムは悪であり、民主主義が正義であるとし、WW?は11( 民主主義 )のための戦いであると定義されたのである。因みに現在も続いているイラク戦争のスローガンは「テロとの戦い」である。
ドイツの戦争スローガンは12( ゲルマン民族 )至上主義と、「生存圏」思想である。ゲルマン民族こそが最も優れた民族であるから、他民族を排し、ゲルマン民族の住む領土を広げていかなければならない(生存圏)とするものである。そのため少数派民族である13( ユダヤ )人・ロマ〔ジプシー(→ヨーロッパの少数民族)〕・障害者・捕虜の虐待を行うことで、ゲルマン民族の団結を高めようとしたのである。14( アウシュヴィッツ )強制収容所では、毒ガスによる大量殺戮が行われ、ユダヤ人は総計上600万人虐殺されたといわれている。この時代のヨーロッパのユダヤ人への迫害と絶滅は15( ホロコースト )(神に捧げるいけにえの意味)と呼ばれている。
日本における戦争スローガンは16( 大東亜共栄圏 )と呼ばれるものだ。これは名目上アジアとの共存共栄、つまり「アジア人はアジア人で団結していこう」とするものだが、実態は植民地支配者が欧米人から日本人に変わっただけで、単なるきれいごとに過ぎなかった。ともかく、朝鮮半島では日本の天皇(神)が祭られている17( 神社 )を強制的に参拝させたり、18( 創氏改名 )といって日本人風の名前に改名させたり、日本語教育を強要したりしていた。

【連合国の反撃】
WW?は主に同盟国(枢軸国)である日独伊VS連合国である米仏露中英(アフロ注意)の戦いであったが、世界最強国であったアメリカは開戦当初、戦争には中立の立場をとっていた。アメリカは19( 孤立主義 )だからだ。WW?ではドイツの無制限潜水艦作戦によって怒らせてはいけない敵(アメリカ)を怒らせてしまったが、WW?では日本による20( 真珠湾 )攻撃によりアメリカが本格的にWW?に参戦してきた。日本軍はまず40年9月,仏領21( インドシナ )攻略にあっけなく成功した。なぜならフランスは当時ドイツに占領された直後であり、完全に弱っていたからである。戦争を長期に渡って遂行するためには石油資源などが必要だが、石油はインドシナのさらに南のインドネシアに多いことから、「南進」めざした。しかし東南アジアは米英蘭などが植民地支配していたため、それらの国々と日本単独で戦うにはあまりにも危険である。そのためドイツ・イタリアと22( 日独伊三国同盟 )を結び、さらに日本北方の脅威である23( ソ連 )と中立条約を結ぶことにより安心して南進を進めたのである。日本のこの一連の行動に対しアメリカは対日禁輸を発表し、これに英・中・蘭が加わり24( ABCD包囲陣 )(A=America B=Britain C=China D=Dutch)を形成し、日本を取り囲もうとした。(資料集P172?参照)しかし日本軍は快進撃を続け、マレー(英領)・フィリピン(米領)・ジャワ(蘭領)・スマトラ(蘭領)・ビルマ(英領)・香港(英領)・南太平洋諸島などを占領し、破竹の勢いで勝ち進んでいった。資料集P173?で日本軍の勢力範囲を確認しておきましょう。植民地軍ではあるが、日本はアメリカ・イギリス・フランス・オランダなど欧米の強国を蹴散らしていったのである。真珠湾攻撃はまさに日本軍イケイケ状態の時25( 1941年12月8日 )に起こった。この攻撃は日本の奇襲攻撃であり、戦争には宣戦布告をしなければならないというルールがあるが、それを破ってまで行ったため、アメリカの逆鱗にふれたのである。この真珠湾攻撃により26( 太平洋戦争 )が勃発したのである。 日本は石油資源がないので、石油欠乏を恐れて日本は開戦を急ぎ、奇襲攻撃を仕掛け、短期決戦で終わらせたかったのだ。この奇襲で米国艦船18隻を撃沈したが、空母・潜水艦は1隻も撃破できなかった。そのため体制を立て直したアメリカに反撃をくらうこととなる。日米の形勢が逆転したのは27( ミッドウェー海戦 )(42年6月)である。この後は米軍が次々と島々を奪回し、次第に圧倒されていく。さらに米軍は28( 戦略爆撃 )の考えのもと、日本の都市への空爆を開始する。WW?・?に共通するのは、国民が一体となって戦争を遂行する29( 総力戦 )であるため、狭い意味での戦場で勝敗が決するのではなく、人口や生産力を含めた国力が決定的な意味を持つことと関係していた。兵士や食料、兵器の供給が続かなければ、長期化する戦争に耐えることは出来ないのであるから、戦略爆撃は戦時指導者とっては大きな魅力になりえたのである。東京・大阪・福岡などの大都市が空襲に遭い、沢山の死者を出した。さらに沖縄では空襲ではなく本土決戦が行われ、激戦の末の沖縄はアメリカに占領されてしまった(1945年6月)
なかなか降参しない日本に対してリーサルウェポン(最終兵器)である30( 原爆 )が7月に完成しった。8月6日には31( 広島 )に9日には32( 長崎 )に原爆が投下され,日本は27( ポツダム宣言 )を受諾し、8月15日無条件降伏した。WW?は元々ドイツが仕掛けたケンカであったのに、日本が最後まで粘った理由は何であろうか。日本への原爆投下は防げなかったのか。
考えられる理由をいくつか挙げると
? 日本には「武士道精神」や「サムライ魂」というものがあり、「どんなに戦況が不利でも最後まで絶対に諦めない」という思想が根底にあったこと。
? 元寇の際に二度吹いた33( 神風 )を期待していたこと。元寇とは鎌倉時代に博多でのモンゴル・中国・朝鮮の連合軍との戦いである。日本の戦況は不利であったが、二度も嵐が吹き元軍は撤退した。この嵐は日本の神様が吹かせてくれたと信じられるようになり神風と呼ばれるようになった。
? 近代の対外戦争で日本は負け知らずだったこと。故に次も勝てるはずだという慢心があったこと。
? 政府のプロパガンダにより国民が踊らされていたこと。日本政府はメディアを統制し、新聞やラジオでは日本が戦いに負けたとしてもその情報をずっと隠していた。そのため日本国民は8月15日の玉音放送(天皇陛下肉声)で初めて日本がボロボロに負けていたことを知ったのである。

ヨーロッパ戦線においてはドイツが快進撃を続けていたが、東部戦線でソ連軍が反攻を始める。独ソ戦の転機は 34( スターリングラード )(43年2月)の戦いである。ソ連は極寒の地であるため、冬の戦い方に慣れているのである。この戦いによりドイツ軍は徐々に退却していく。さらにドイツの同盟国であるイタリアが43年9月,米英軍にやられてしまい、戦線離脱してしまった。イタリアの指導者だった35( ムッソリーニ )は公開処刑となった。44年6月には,米英軍による史上最大の作戦とされる36( ノルマンディー上陸 )が総司令官37( アイゼンハウアー )の指揮のもと行われた。(資料集P172参照)。この作戦はドイツの占領下にあった北フランスへ米英軍を一気に10万人以上上陸させる作戦で、この作戦は成功し、8月にパリはドイツ支配から解放された。この作戦の趣旨は西部に「第二戦線」を構築し、ドイツの戦力を吸収することにあった。そのため東西に敵を抱えたドイツの敗北はほぼ決定的となった。
ドイツ敗戦濃厚となった45年2月,38( ヤルタ会談 )が開かれ米・英・ソが対独占領など協議
 された。45年5月,ソ連軍がドイツの首都ベルリンを制圧し、ドイツは無条件降伏した。負けを悟ったヒトラーは愛人であったエヴァ・ブラウンと地下の隠れ家で二人だけの結婚式を挙げ、服毒自殺した。ヒトラーの盟友ムッソリーニが公開処刑されたのを聞いて、殺されるぐらいなら自らの死を選んだのである。

【まとめ】
WW?の最大の悲劇は、非戦闘員の死者が軍人の死者を上回ったことだ。戦略爆撃という新たな戦闘スタイルが生まれたため都市空爆や原爆投下という悲劇を生んだのである。WW?・?では6500万人が死亡したが、内4000万人が一般市民である。戦争終了後も放射能汚染などの後遺症で亡くなった人々が沢山いることも忘れてはならない。
上の写真三人の名前を覚えましょう。

左→対独強硬論を唱えイギリスをWW?の勝利国へと導いた39( チャーチル )
中央→世界恐慌を立て直し、2期8年が限度の米国大統領を4期16年務めた40(F・ローズベルト )
右→一国社会主義論を唱え、レーニン死後、ソ連を指導した41( スターリン )

※チャーチルとローズベルトは遠い親戚関係

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