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チェダゼミナールコミュの47 第一次世界大戦 資料集 158〜159

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期末試験範囲はWW?(1914年)〜WW?(1945年)までです。世界史において最も重要な二つの出来事になります。この二つの戦争での戦死者は1億人弱ですから日本人全員死んだぐらいの規模になります。このような惨い体験を二度と繰り返さないように、戦争を知らない我々世代は戦争発生のメカニズムと予防策を歴史から学ばなければなりません。

【バルカンの紛争】 〜ヨーロッパの火薬庫爆発!〜
WW?が発生した原因はバルカン問題にあります。東欧のバルカン半島の領土をめぐって、西欧列強国やロシアが紛争を繰り返していました。資料集158?の風刺画にあるようにバルカン問題はいつ爆発してもおかしくない状況でした。そのためバルカン半島は1( ヨーロッパの火薬庫 )と呼ばれていました。バルカン半島の覇権争いの中心となる国はドイツとロシアです。当時世界の2TOPは2( イギリス )と3( フランス )でした。この二国は産業革命をいち早く成し遂げ、世界に沢山の植民地を抱えていたため繁栄を謳歌していました。産業革命の波に少し乗り遅れたのがドイツとロシアです。産業革命の発生時期を表にすると
18C後半 英
19C前半 仏
19C後半 米・露・独
20C前半 日・伊
 おおよそこのようになります。20C前半までに産業革命を果たした国が現在でも先進国と成っている状況です。言ってみれば「早い者勝ち」です。少し前の時代まで繁栄していたスペイン・ポルトガル・オランダなどは完全に出遅れていました。日本は先進国行きの切符をギリギリで手に入れて最終列車に滑り込んだような形となりました。話を元に戻すと、20C初頭、欧州の2TOPが前述したように英・仏です。この2ヶ国が早い者勝ちでアジア・アフリカ・南米などに沢山の植民地を獲得していた(資料集153で確認)ため、欧州の3番手争いをしていたドイツとロシアは東欧のバルカン諸国を手に入れることが必要不可欠だったのです。東欧を支配することで英仏に対抗していこうと考えていたのです。欧州3番手争いの中で、ドイツ中心のグループを4( パン・ゲルマン )主義といい、ロシア中心のグループを5( パン・スラヴ )主義といいます。
【大戦の勃発】 〜世界制覇を目論むドイツとイタリアの裏切り〜
パン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義の対立が高まる中、ボスニアのサラエボでセルビア系青年(パン・スラブ主義側)がオーストリア(パン・ゲルマン主義側)帝位継承者であるフェルディナンド夫妻を暗殺する事件が起きました。この事件を6( サラエボ事件 )といいます。オーストリアは元々ドイツの一部です。オーストリアもドイツも同じゲルマン人になります。因みに後のドイツ独裁者ヒトラーも、元々はオーストリア出身です。ヒトラーはWW?の戦犯です。WW?の戦犯は7( ヴィルヘルム二世 )です。ヴィルヘルムはカイザー髭、ヒトラーはチョビ髭なのが特徴です。(資料集P152参照)ドイツは元々戦争をしたくてたまりませんでした。ドイツはロシアと欧州の3番手争いをしていましたが、戦争をして勝てば領土が広がりロシアより優位に立ち、そのうち英仏の軍事力・経済力を追い抜けると考えていたからです。WW?の対立軸は
三国協商 英仏露(伊)
三国同盟 独・墺・(伊)
となります。イタリアが( )となっている理由は、開戦当初中立の立場をとっていたからです。イタリアとドイツは産業革命スタートのタイミングが英仏より遅れていたという点ではドイツと共通項が見られますが、民族においてはドイツと異なります。イタリアはラテン人です。独・墺はゲルマン人です。つまり一応同盟関係ではあったけれども独と伊の結束はそこまで強くはありません。そのイタリアの立場を英仏が利用しました。イタリアに対して「こちらの味方になってくれれば戦争に勝ったあとイタリアにも領土をあたえてやるから」とそそのかします。これにグラついたイタリアはドイツとの同盟を裏切り、協商国側につきます。WW?が始まったのは8( 1914 )年の夏です。ヨーロッパ人にとっておよそ50年〜60年振りの大規模な戦争でしたので、兵士たちはいわゆる「戦争を知らない世代」でした。協商国側の兵士たちは「せいぜいクリスマスまでには戦争は終わるだろう」とこの戦争を楽観視していました。なぜならこの戦争は事実上、英仏露伊VS独だから(独側にはトルコとブルガリアもいたが、ほとんど活躍していない)です。数の上でも協商国側が有利ですし、戦略上・地理的に見てもドイツは英仏露伊に囲まれている形ですので、すぐにドイツが負けるだろうと思われていたわけです。ところが意外にもドイツが強くて、戦争は膠着状態となりました。WW?は主に西部戦線と東部戦線に分かれます。西部・東部とはドイツからみての方位となります。西部戦線とはつまり仏VS独です。フランスがドイツの進撃を止めたマルヌの会戦によってWWIは長期化の様相を呈すわけです。東部戦線とは独VS露です。 
【総力戦】 〜新兵器の登場とウーマンパワー〜
WW?が長期化した理由の一つに新兵器の登場が挙げられます。19Cまでの戦争のスタイルは爆弾を相手の陣地に投げ込み、相手がビックリしているところに歩兵が突っ込むというものでした。しかし9( 機関銃 )という新兵器の登場により戦闘スタイルが一変します。この兵器の登場により、むやみに敵陣に突っ込むということが出来なくなりました。そこで自陣に穴を掘り、そこに隠れて対峙する10( 塹壕戦 )が繰り広げられるようになりました。むやみに突っ込めないので、穴の中でジッと隙を窺う。相手が油断するまで我慢するしかないのです。この膠着状態を打開するためにさらなる新兵器が発明されました。それが11( 毒ガス )と12( 戦車 )です。また、独VS英(あえて名づけるなら北部戦線)においてですが、イギリスという国は日本と同じ島国になります。そのため陸続きである東部戦線・西部戦線とは戦闘スタイルが異なります。この北部戦線においての新兵器は13( 潜水艦 )と14( 飛行機(戦闘機) )です。戦争の長期化と新兵器の登場によって人手が足らなくなりました。残された家族は「旦那(パパ)はクリスマスまでには帰ってくると思ったのに・・・」という心境でしょう。戦争が長引くと、例えば旦那が電車の運転手だったなら、代わりに妻がそれをするしかなくなります。武器・弾薬が必要ですので女性が軍需工場で働くようになります。さらに男性の兵士だけでは数が足りず女性の兵隊(資料集P159参照)も組織されるようになります。綺麗な女性であれば、相手国の要人(大物政治家・軍部)と繋がりをもたせてスパイ(資料集P159参照)としても利用できました。かつての戦争は軍人・騎士・武士などといったいわゆる戦闘のプロ同士のみの戦いであったのに対し、WW?は非力な男性や女性も戦争になんらかの形で参加する15( 総力戦 )となりました。女性を戦争に動員するためにはそれなりの褒美が必要です。資料集P163?を見ると、WW?終戦(1918年)以降、女性参政権が認められた国が増えていることがわかります。日本の場合の総力戦はWW?でしたので、日本に女性参政権が認められたのはWW?後となります。

【世界大戦】 〜日本・アメリカの登場〜
名前は世界大戦ですが、元々はヨーロッパ同士のケンカ、それもドイツが他のヨーロッパ諸国にケンカを売ったのがきっかけでした。それではなぜ世界大戦という名前なのでしょうか。それは、ヨーロッパ列強国、特にイギリスとフランスが世界に沢山の植民地をもっていたからです。戦争の長期化で兵士不足となると、イギリス・フランスは植民地からも兵隊を動員しました。(資料集P159参照)特に、英領インドからは150万人の兵が西部戦線に動員されました。ただし、当然インド人は戦争なんかに行きたくありません。自分と関係のない国のケンカに巻き込まれて死ぬのは嫌だからです。そこでイギリスはインドに対して、「もし兵隊として来てくれて勝つことが出来たらインドを独立させてあげますよ」と約束するわけです。しかしこの約束は結局果たされませんでした。インドの独立はWW?以後を待たなければなりません。
さて我が国はWW?にどのように関与したのでしょう。前述したように元々はヨーロッパ同士のケンカですので、日本は関係ないようにも思えます。しかし日本は1902年にイギリスと16( 日英同盟 )を結んでいました。イギリスも日本もロシアを警戒していたからです。イギリスは極東におけるロシアの動きまで監視が行き届きません。なにせロシアの領土は広すぎますし、ロシアの大部分はアジアに属しています。因みにロシアにおける欧州とアジアの境目は17( ウラル山脈 )です。そこでイギリスは地理的に極東に位置し、日清戦争(1894年)勝利でアジアの大国となった日本と手を組みます。ロシアが中国・朝鮮へ領土的野心を持ち南下政策をとったとき日本を使って阻止するわけです。日本も朝鮮半島や中国に領土的野心を持っていたため、イギリスと手を組むことにはメリットが十分にありました。さて、同盟関係を結ぶということは他方が戦争したときに手を貸さなければなりません。日露戦争(1904年)のときはイギリスからの資金援助があったおかげで日本は大国ロシアに勝つことが出来ました。WW?(1914年〜1918年)では日本がイギリスに手を貸す番なのですが、日本から欧州戦線に参戦するには遠すぎます。そこで日本は日英同盟を理由に協商国(連合国)側で参戦しますが、欧州戦線には関与せず、中国にあったドイツ基地を攻撃します。資料集のP154?を見てください。中国は19C以降、アヘン戦争・アロー戦争・日清戦争など立て続けに戦争に負けてしまい、その弱さを世界にさらけ出していました。そのため中国は露・独・英・日・仏から半植民地状態にさせられていました。ドイツは18( 山東省 )を勢力範囲にしていましたが、日本はここを攻めることでイギリスのお手伝いをしたということになります。実際、ここを攻めてもイギリスにとってはあまり助かるようなことでもありませんが、イギリスは対ドイツ戦に精一杯で中国のことなど気にしている場合ではありません。そのドサクサにまぎれて日本は中国に本格的に進出することを狙っていたのです。日本はこの山東省を攻略しドイツ権益を継承,次いで中国に19( 二十一力条の要求 )を突きつけ、中国東北部やモンゴルにおける権益まで獲得しようとした。実際日本は中国北東部に満州(傀儡国家)をのちに建国している。傀儡国家とは国際法上認められていない、日本が勝手に作った国という意味である。
 さて戦争も4年目にさしかかろうかとしていた1917年、WW?の戦況を大きく変える出来事が二つ起こります。一つ目がドイツの20( 無制限潜水艦作戦 )です。これは戦争に関係のない国だろうが、商船・貿易船・旅客船だろうが片っ端から沈めるという暴挙です。これに触発されたのが後の世界のリーダー21( アメリカ )です。アメリカは戦争好きというイメージがあるかもしれませんがそれはあくまで戦後(1945年〜)の話です。アメリカの外交方針は22( 孤立主義 )といって、他国の争いごとには関与しないのが基本でした。「アメリカはアメリカで勝手にやるからヨーロッパはヨーロッパで勝手にやってて」ということです。この孤立主義を言い出したのがアメリカ5代目大統領22( モンロー )であり、孤立主義のことをモンロー主義ともいいます。元々アメリカに移り住んだ人々は、イギリスを中心とするヨーロッパ人です。なぜわざわざ海を渡ってアメリカに移住したのかというと、ヨーロッパ世界独特の階級社会・身分制度・キリスト教旧教(カトリック)・度重なる戦争などのしがらみが嫌になったからです。アメリカに行けば自由や夢がつかめると思い、わざわざ故郷を捨ててやってきているわけです。WW?は元々ヨーロッパ同士のケンカだから、アメリカはわざわざ関与したくないわけです。だから大戦初期は中立の立場をとっていました。それなのにドイツが無制限潜水艦作戦という暴挙に出たものだから、それだとアメリカの商船まで狙われる可能性が出てきます。さらに言えばアメリカは英仏に多額の戦争資金を貸し付けていました。だから英仏に敗北されては、そのお金が返ってこなくなる可能性があります。戦争に負けた国は多額の23( 賠償金 )を払わなくてはならないからです。そこでアメリカはいよいよ重い腰を上げ、モンロー主義の掟を例外的に破ってWW?に参戦します。アメリカは200万人以上の兵士をヨーロッパ戦線へ送り込みました。アメリカの参戦が連合国側の勝利を決定付けるものとなり、事実アメリカ参戦から一年後の1918年の11月11日にWW?は終結しています。ドイツの無制限潜水艦作戦は裏目に出たということになりました。
 1917年のもう一つ重要な出来事は24( ロシア革命 )です。ロシアは東部戦線でドイツにボコボコにやられており、限界に近づいていました。資料集P173?を見ても分かるように、ロシアはWW?・?共に戦死者がワーストとなっています。さらに資本主義の矛盾というか弱点である格差の問題が浮き彫りに出ていたのもこの時期です。金持ちは金があるからお金を出すことで戦争に貢献したことになるが、大部分の貧しい人々はお金がなければ兵士となって自らの体を張って国に貢献するしかありませんでした。この大部分の貧しい人達の怒りがロシアで爆発し革命がおき、ロシアはWW?から離脱します。革命騒ぎで戦争どころではなくなったからです。WW?終了後の1922年には25( ソビエト社会主義共和国連邦 )が成立します。
1917年はWW?へのアメリカの参戦や、ロシア革命によるロシアの戦線離脱など、膠着していた戦局が転換する節目の年である。

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