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チェダゼミナールコミュの23 絶対王政と議会王政 教材研究

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〔指導上の留意点〕
▼中世には見られなかった強大な王権の出現に注目させ,国王の統一権力が成立する一方で古い身分制が維持されるという意味で封建制と近代国家の過渡をなす絶対主義(王政)の歴史的位置を理解させる。
▼17世紀イギリスの二つの革命について,その命名の由来を明らかにすることで,両者の性格の相違を浮き彫りにする。
▼絶対王政と議会政治という,英仏両国の国政の原理的な相違とともに,強力な統一国家の出現という同質性にも注意を喚起する。

23 絶対王政と議会王政
 *フランスとイギリスは近代文明のライバルである。二つの国の違いを探ってみよう。
●フランス絶対王政●
 17世紀の不況に対して,フランスの王家は全国三部会?を停止し,ユグノーや貴族をおさえて中央集権を進めた。反発する貴族たちの反乱(〔1       〕)がおこったが,これを克服した〔2       〕は,17世紀後半から〔3       〕?をとり,「朕は国家なり」ととなえ,〔4       〕?の頂点にたった。大臣コルベールは,オランダ・イギリスに対抗して〔5       〕?により産業をさかんにし,国力を強めた。「太陽王」とさえよばれた〔2       〕は,パリの近くに〔6       〕をつくり,ここをヨーロッパの宮廷政治および芸術の中心とした。
 パリでは演劇や文学などが栄え,やがてここが啓蒙思想の中心となった。フランス軍はヨーロッパ最強とされたが,その侵略戦争には諸国が抵抗し,また18世紀には海外でイギリス海軍に連敗して,植民地を奪われた。またルイ14世は,信仰の寛容策をやめて〔7       〕を迫害したので,ユグノーの商工業者はオランダ・イギリス・ドイツなどに亡命してしまった。


?14世紀にフランスの国王がはじめた,三つの身分(聖職者・貴族・平民)の集まる議会
?王の権力は神からさずかったもので,絶対であり,国内の貴族,外国の皇帝や教皇などに従う必要はない,とする説。
?近世に強大になった国王(絶対君主)のとった専制政治のこと。課税のために宮僚制,戦争のために軍隊を整備して,中央集権を進めた。
?重商主義とは,貿易収支の黒字をはかり,輸出を助成し,国内産業を育成した国家の管理経済をいう。

〈語群〉
ア.フロンドの乱  イ.ヴェルサイユ宮殿  ウ.王権神授説  エ.絶対王政  オ.プロテスタント  
カ.重商主義  キ.ルイ14世  

《解答》
1ア 2キ 3ウ 4エ 5カ 6イ 7オ 

●イギリス議会王政●
 17世紀前半のイギリスの国王は,新税を課し,ピューリタンを弾圧するなど,専制政治をつづけた。スコットランドやアイルランドにも強硬な政策でのぞみ,抵抗を受けた。1640年に招集された議会は,国王に反対する人びとが多数を占め,〔1       〕派と〔2       〕派にわかれて内戦となった。〔3       〕にひきいられた〔2       〕派は国王軍をやぶり,まもなく国王チャールズ1世を裁判にかけて処刑し,〔4       〕をはじめた。クロムウェルをはじめ議会派にピューリタンが多かったので,これを〔5       〕という。
 クロムウェルは王党派を弾圧し,カトリックの多い〔6       〕を征服し,また海外では商業と植民地をめぐって〔7       〕と戦った。
 彼の死後,独裁に不満をもった国民は,先王の子を亡命先からむかえ,王政が復古した。しかし,やがて国王がカトリックの信仰を国民に強制したので,議会と国教会は国王一家を追放し,王族で熱心なプロテスタントであった〔8       〕をオランダから招いた。この夫妻を王とし,議会とのあいだに「〔9       〕」を定めたが,この転換は平和的におこなわれたので,〔10       〕という。これにより,議会主権とプロテスタントの信教の自由が確認され,議会王政,すなわち〔11       〕が確立した。
 17世紀の二度の革命により,イギリスの政治と社会はその時代のどの国とも違うものになった。あいかわらず王政であるが,全国から有産者の代表が選挙によりロンドン?の議会に送られ,ここで国政にかかわるあらゆる問題が討議,決定された。イングランド銀行や公債によって積極財政を進めたイギリスは,国内産業をさかんにし,フランスとの戦争を優勢に進め,海外植民地をさらに拡大した。


?1700年ころ,ヨーロッパ最大の都市はロンドン(約55万人),第2位はパリ(約50万人)であった。

〈語群〉
ア.権利の章典  イ.共和政  ウ.アイルランド  エ.ピューリタン革命  オ.クロムウェル  
カ.オランダ  キ.名誉革命  ク.王党(宮廷)  ケ.立憲君主政  コ.ウィリアムとメアリ  
サ.議会(地方)  

《解答》
1ク 2サ 3オ 4イ 5エ 6ウ 7カ 8コ 9ア 10キ 11ケ 


語句調べ

フロンドの乱(フロンドのらん, 1648年 - 1653年)は、17世紀フランスで起こった反乱。フランスにおける貴族の反乱としては最後のもので、貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながった。 フロンド(fronde)とは当時流行していた投石器を意味し、パリの民衆がマザラン邸をめがけて投石したことから呼ばれるようになったという。

1643年、ルイ13世の死によって、ルイ14世がわずか5歳で即位、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政、ジュール・マザランが実質宰相の座に着く。マザランは、リシュリューの政策を継承し、貴族層と対抗、三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆のいっそうの反発を買った。 当時、売官制によって、民衆のうち富裕層が法服貴族として増加していた。法服貴族はパリ高等法院にも基盤を持ち、その結果、民衆と貴族勢力が結合し宮廷と対立する背景となった。また、アンヌ・ドートリッシュがスペイン人、マザランがイタリア人であったことも反乱の一因といわれている。その後、イギリスで起こった清教徒革命も影響を与えた。

1648年、マザランが高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、当初は民衆と法服貴族が蜂起。反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は、寝たふりをして難を逃れたとされているが、その後国王とマザランはパリを一時退去せざるを得なくなった。 ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。
※怖いからもうパリにはいられない!
王党派のコンデ公の軍がパリを逆包囲していったん鎮圧するが、衆望を集めたコンデ公がマザランと対立して反乱軍に加わってからは大貴族も含めた反乱に拡大した。しかし、反乱側は諸階層の利害の対立から、内部分裂による自滅の道を歩み、これに乗じたマザランが鎮圧に成功した。
ジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert、1619年8月29日 - 1683年9月6日)は17世紀のフランスの重商主義者、太陽王ルイ14世(在位1643年 - 1715年)の財務総監(現在の大蔵大臣・財務大臣に相当するが、「省」レヴェルの規模の官庁を必ずしも指揮下に置かない)を長年務めた。

1619年ランスのラシャ商人の家に生まれる。スコットランド系の家柄とされる。20歳の頃から政府関係で働き始め、1661年に長年ルイ14世の宰相を務めたマザランが死去すると、ルイ14世親政下の財務担当となり、フーケの失脚によって権力を握った。1664年に財務総監に就任したのを始め、20年以上にわたってフランス絶対主義時代の財務を担当した。この間、重商主義的な観点からフランス東インド会社だけでなく、西インド会社・レバント会社・セネガル会社などを設立し、また17世紀前半に発見され、細々と植民拠点が維持されていたケベック(フランス領カナダ)に大規模な植民団を派遣した。


ルイ14世(Louis XIV de France, 1638年9月5日 - 1715年9月1日、在位:1643年 - 1715年)はブルボン朝第3代のフランス王。ルイ13世の長子。妻はスペイン王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ)。ブルボン朝最盛期の王で「朕(我)は国家なり」(L'État, c'est moi)と宣言し、「太陽王」(Roi-Soleil)と呼ばれた。

ルイ13世が王妃アンヌ・ドートリッシュを迎えてから23年目にして生まれた長子。当時ブルボン王家の男子はルイ13世の弟であるオルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。

父の死後は幼くしてフランス国王に即位し、母后アンヌが摂政となり、リシュリューに代り宰相となったマザランの補佐を得てフロンドの乱(1648年 - 1653年)を鎮圧した。1659年にスペイン王フェリペ4世の娘で父方でも母方でも従妹であるマリー・テレーズ(マリア・テレサ)と結婚。

1661年にマザランが死ぬと宰相を置かずに親政を開始する。高等法院の建言権を制限し、コルベールを登用して治世術を学び、中央集権と重商主義政策に基づき、ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ絶対王政を確立した。

ルイ14世はルイーズ・ド・ラヴァリエール、モンテスパン侯爵夫人、マントノン侯爵夫人など、多くの女性達を寵愛したが、寵姫達の中で大変浪費が激しかったモンテスパン侯爵夫人への寵愛は、1679年の黒ミサ事件を引き起こした。彼女が顧客となっていたラ・ヴォワザンは、堕胎や毒薬の販売を行なっていた毒殺魔で、この黒ミサ事件には彼女の他にも、多くの貴族達が関与していた事が発覚し、ルイ14世の治世最大の醜聞となった。この事件に関連し、同様のパリ市内の店も数多く摘発され、国王はこの事件に関する書類を全て焼却させた。

フランス国内のプロテスタントやジャンセニストに対しては、礼拝の制限や官職やギルドからの追放など弾圧を行い、20万に及ぶ新教徒がヨーロッパ各国や新大陸に亡命したため、結果的にフランス資本の海外流出を招いた。ルイ14世は国内には新教徒は存在しないとして、1685年にはフォンテーヌブロー王令を下してナントの勅令を廃止する。フランスに残った新教徒の反乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加えた。

1715年に没。死後は曾孫に当たるルイ15世が王位を継承し、甥のオルレアン公フィリップ1世が摂政に就いた。

評価

ルイ14世治世下でのフランス領の拡大(オレンジ)ルイ14世の下で、西ヨーロッパにおけるフランスの威信がそれまでになく高まったことは議論の余地がない。ルイ14世は軍備を重視し、積極的な拡大政策を取った。このためフランス領は東部へ拡大した。またスペイン王家の断絶に際しては自らの家系に王位継承を成功させ、フランスの覇権拡大に貢献した。しかしこの数々の対外戦争により、フランスは財政難に陥り、その後のルイ16世の時代には特権階級である貴族、聖職者への課税を行わざるを得なくなってしまい、その際に召集した三部会がフランス革命の引き金となってしまうという皮肉な結果となった。

またルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設し、ラシーヌやボワローなどの詩人を優遇するなど、文化の興隆も見た。アンヴァリッドの設立など、彼はたんなる遊興の徒ではなく、国益を重視し公共の福祉に関心をもつ君主であった。

歯抜けの太陽王
ルイ14世は、侍医ドクトル・ダガンの主張する「歯はすべての病気の温床である」という説に基づき、12回にわたる手術の末、すべての歯を抜かれた。しかも当時は麻酔もないため、歯は麻酔なしで引き抜かれ、抜いた後は真っ赤に焼けた鉄の棒を歯茎に押し当て消毒とした。その後、歯の無いルイ14世は、8時間以上かけてくたくたになるまで煮込んだホロホロ鳥や雉などしか食べられなくなった。また、常に胃腸の調子が悪くトイレに頻繁に駆け込んだ。時にはトイレから家臣たちに命令を下すこともあったという。あまりにもトイレに行く回数が多かったため、衣服にも悪臭が染み付いてしまっていた。その家臣たちは、香水を染み込ませたハンカチを鼻に当てて閣議に臨んだ。

バレエと太陽王

アポロ(太陽)に扮したルイ14世フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。

ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も15歳で舞台デビューし、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。

ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、その描写が描かれているシーンがある)。 ルイ14世は1670年に舞台を引退した。

出生を巡る様々な俗説
宰相リシュリューやマザランの子であるとの説もあるが、いずれもその可能性は低い。母后アンヌがルイ14世を妊娠した1637年の12月5日は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も、単なる噂話である。 こうした俗説が出回る背景には、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの仲が長い間冷え切っていたという事実がある。アンヌ・ドートリッシュは美女として名高く、例えばイングランドのバッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズが公然と言い寄ったこともあるほどだが、何故かルイ13世とは反りが合わなかった。ところがある日、狩りのため遠出したルイ13世は妻アンヌの城館の付近で悪天候に見舞われ、やむなくアンヌの城館に一夜の宿を請う。ルイ14世はこの時の子供であろうというのが最も蓋然性の高い推測である。

また、ルイ14世の治世に実在した謎の囚人(いわゆる「鉄仮面」)の正体を、ルイ14世の兄弟とする説も根強い。

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