ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの教材研究 21 宗教改革 後編

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
カルヴァン主義

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーによって1904年〜1905年に著された論文。研究者や学生はしばしば略してプロ倫と呼ぶ。
プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代資本主義の成立を論じた。


ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)はテューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。

才能ある君主として
ロンドン郊外のグリニッジにあったプラセンティア宮殿で、ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として誕生した。兄弟姉妹には兄アーサー(プリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレット(スコットランド王ジェームズ4世に嫁ぐ)、妹メアリー(フランス王ルイ12世に嫁ぐ)がいる。1493年に未だ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城の城主、シニック港長官に任命された。翌年1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。

1501年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の末子キャサリンと結婚していたアーサーが急死し、ヘンリーは皇太子となった。

ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲“Pastime with Good Company”など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。

父の死によって1509年にヘンリー8世として即位した。その2ヶ月後に未だ喪中であったがキャサリンとの結婚式をあげた。当初は政治には関心を示しておらず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教リチャード・フォックスを重用していたが、翌年にフォックスと同様にヘンリー7世に仕えた重臣エドマンド・ダドリーを処刑している。1515年頃からヘンリーの全幅の信任を受けたのがヨーク大司教トマス・ウルジーであった。彼はヘンリーの幼少期の監督係も務めていた。ウルジーのロンドンにおける邸宅および田舎のカントリー・ハウスは王宮に匹敵するほどの規模を誇っていた。これらの建物は後にヘンリー8世によって没収され、それぞれホワイトホール宮殿、ハンプトン・コート宮殿となる。

問題の発生
ヘンリー8世はルターの宗教改革を批判する「七秘蹟の擁護」を著した功で、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であったが、後にキャサリン王妃との離婚およびアン・ブーリンとの再婚を巡る問題から教皇クレメンス7世と対立。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。ちなみに「信仰の擁護者」の称号は、国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現イギリス女王エリザベス2世の称号の1つにもなっている。

妃やトマス・モアをはじめとする側近を次々と離別・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど苛烈な人物であったが、イングランド王室の権威確立に寄与した。


イングランド国教会 16世紀のイングランドで成立したキリスト教会の名称であり、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会である。イギリス国教会、英国国教会、アングリカン・チャーチ、聖公会とも呼ばれる。もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。通常プロテスタントに分類されるが、他のプロテスタント諸派と異なり、教義的な問題でなく政治的な問題からローマ・カトリックから分裂したため、典礼的にはカトリックとの共通点が多い。イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長(Defender of the Faith, 直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。
※ローマとは全く関係のないキリスト教。

キリスト教の到来
ブリテン島にキリスト教が初めて到来したのはローマ帝国時代の紀元200年ごろのことであると思われる。以後、キリスト教はウェールズからスコットランド、アイルランドへと根を下ろし、ローマ人の撤退後も残っていた。が、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教はカンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であるとみなしている。彼はグレゴリウス1世教皇の命により、ケントのエセルベルト王のもとへと派遣された宣教師であった。664年におこなわれたホイットビーの教会会議ではノーザンブリアのオスウィウの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。

ヨーロッパの諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。


ローマとの分裂
王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのはヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が教皇に婚姻の無効を宣言するよう頼んだにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことがひきがねとなった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑などもからんだ複雑な政治問題であった。

ヘンリー8世は1527年に教皇に対してキャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返しおこなわれた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献をもとに霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめて教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに、10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議をおこなった。しかし、ここにいたってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。

1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座につくと、先の裁定に従ってクランマーによって王の婚姻無効が認められ、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1536年に最初の国王至上法を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。英国の教会を自由に出来る地位についたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を王に感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイギリスの修道院は破壊され、荒廃した。

分裂反動と「中道」(Via Media)
エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、ふたたびイングランドをカトリックに戻そうとした。彼女はこれに反対する者への徹底的な弾圧や処刑すら辞さなかったため「ブラッディ・メアリー」(血染めのメアリー)と呼ばれたことで知られる。しかし、この復帰運動も過激すぎたため、メアリー1世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。

真の意味でのイングランド国教会のスタートは1558年に早世したメアリー1世の後を継承したエリザベス1世の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。

イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。エリザベス1世の選んだ道は「中道」(Via Media)とよばれるもので、イングランドに混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道を選んだ現実的な政策であった。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。

このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。

イングランド国教会主流派と対立した人々のなかには、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てるものも多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派にバプティスト・メソジストなどがある。

近年では1994年3月12日にイングランド国教会で最初の女性司祭が叙階され、話題となった。

イギリス東インド会社 (English East India Company) はアジアとの貿易を目的に設立されたイギリスの特許会社。

厳密には「イギリス東インド会社」という一つの会社組織が存在した訳ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。東インド会社以前にも特許会社は存在したが、貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスコー会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、自前の従業員を持つ合本会社 (Joint Stock Company) として設立された。当初は香辛料貿易で利益を得たが、アンボイナ事件後、東南アジアでの活動を縮小しつつも、活動の重心をインドに移し、フランス東インド会社と争った。最終的に七年戦争でイギリスがフランスに勝利し、インドにおける覇権を決定づけた後はベンガル地方の徴税権取得を皮切りに、次第に政治的、領域的支配組織に変化していった。1858年、インド大反乱の責を負う形でインド統治権をイギリス政府に譲渡し、1870年代半ばに解散。なお、現在でも東インド会社の名を冠した紅茶が販売されているが、これは1978年に紅茶販売のため、紋章院の許可を得て設立された会社である[1]。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。