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チェダゼミナールコミュの学習プリント20 ルネサンス 教材研究 後編

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マキアヴェリ語録
透徹したリアリズムと深い洞察力で、時に機知に富んだ皮肉を交えながら、人間の本質を鋭くえぐり出した発言は、しばしば引用され、政治思想の枠を超えて広く親しまれている(詳細はマキアヴェリ語録)。これらの発言を見る限りでは、マキャヴェリズム=冷酷非道なペシミズムと捉えられてしまいがちであるが、それらは君主が偏狭な道徳や固定観念にとらわれて柔軟な判断ができなくなることを何よりも警戒した結果であって、「時に冷酷になることも必要だ」と言うことはあっても、決して「冷酷であれ」と言っているわけではないことを知っておくべきである。いずれにせよ、あらゆる状況に対応できる行動規範などというものは存在しないのである。

マキャヴェリズム(英:Machiavellism)とは、ルネサンス期に『君主論』を書いたマキャヴェッリに由来する言葉で、目的のためには手段を選ばない、目的は手段を正当化するといった意味で使われる。これはマキャヴェッリの言葉を断片的に捉えて解釈し、あるいは都合のよいように解釈した結果といえる。

たとえば、「国家が危機に陥った場合政治家は、(国家存続の)目的のために有効ならば、手段を選ぶべきではない」という言葉を、ただ単に「目的のためなら手段を選ばなくてもよい」と解釈する考え方。これはマキャヴェッリの思想とは異なっているが、長い間誤解され、批判され続けた。また、このマキャヴェリズムから派生して生まれた語が、「マキャヴェリスト」といい権謀術数主義者(目的達成のためには手段を選ばない人)を指すものである。

君主論
概要

『君主論』は共和制を論じた『リヴィウス論』(岩波文庫『ローマ史論』)と対になるものである。本来マキャヴェッリは共和制を支持していたが、イタリア戦争前の混乱した現実に直面し、チェーザレのような強力な君主によるイタリア統一が先決と考えた。『君主論』では政治を宗教や道徳から切りはなし、醒めた眼で見た政治力学を分析している。一方、一般的にはマキャヴェッリの思想は冷酷・非道な政治を肯定するものと考えられ、マキャヴェリズムという言葉を生み出した。

最初に君主論を再評価したのはルソーである。社会契約論のなかで「国王たちは人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる。マキャヴェッリは王公に教えをたれるとみせかけて人民に偉大な教訓を与えた。君主論は共和主義者の教科書」と讃えた。
モンテスキューやヘーゲルも君主論を支持し、見方が変えられることとなった。
長い間、マキャヴェッリは道義や倫理を無視した冷酷な権力論を説いたと考えられてきたが、客観的、近代的な政治学の始祖と考えられるようになった。
イタリアの歴史研究家モンタネッリは著書『ルネサンスの歴史』において、『君主論』が世界中の為政者に最も影響を与えた政治思想書である事を認めつつも、マキャヴェッリ自身は政治家・軍人として失敗だらけで何一つ実績を残せなかったことを挙げ、「挫折した理想主義者の偽悪と自己韜晦を文中から読みとれないようではダメだ」と述べている。


イタリア戦争(イタリアせんそう)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国(ドイツ)・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。戦争の期間は一般には1521年-1544年とされ、広く取って1494年-1559年とされることもある(※戦争の期間や区分けは論者によって諸説あり、必ずしも一定していない)。

ハプスブルク家・ヴァロワ家の間には以前から確執があったが、1519年、カール5世が神聖ローマ帝国皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になった。

異教徒であるオスマン帝国の存在や、折から始まった宗教改革もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反し、しばしば対立して、一致して対抗することなく、ハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。ルネサンス期は決して華やかな時代ではなかったということ。

前史
1435年以降、ナポリ王国を支配していたフランス系のアンジュー家とアラゴン家(スペイン)が争い、1443年、ナポリはアラゴン家の支配下に入った。

15世紀末以降、フランスがナポリあるいはミラノ継承を主張し、イタリアに侵攻した。一方のハプスブルク家は神聖ローマ帝国皇帝としてローマ・カトリックの擁護者を自認していた。
1494年 フランス王シャルル8世が「アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程でメディチ家が、フィレンツェから追放された。翌年ナポリを占領するが、教皇アレクサンドル6世、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世、スペイン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結び対抗したため、撤退する。
1499年 フランス王ルイ12世が「オルレアン公からミラノを継承した」と主張し、侵攻。スフォルツァ家のイル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征服(-1513年まで)。
1503年 スペインのコルドバ将軍がナポリを征服。(以後、スペインのナポリ総督が支配する)
1504年 ブロア条約によりフランスがナポリを放棄。
1511年 教皇ユリウス2世が、スペイン、ヴェネツィア、イギリス、スイスと神聖同盟を結び、フランスに対抗。
1513年 ミラノからフランス軍が追放される。スフォルツァ家が一時復帰。
1515年 フランス王フランソワ1世がミラノに侵攻、スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
1519年 神聖ローマ皇帝マクシミリアンの死後、スペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争う。カルロスが皇帝カール5世として即位し、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になった。
以上の1494年以降の戦闘も、広義ではイタリア戦争に含めることがある。

第1次イタリア戦争(1521年-1526年)
1521年 教皇レオ10世は神聖ローマ帝国皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。
1525年 パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世は捕虜となり、マドリードに幽閉される。
1526年 捕虜となっていたフランソワは皇帝カールとマドリード条約を結び釈放される。

第2次イタリア戦争(1526年-1529年)
1526年 釈放されたフランソワはただちに条約を撤回。ハプスブルク家に反旗を翻し、教皇クレメンス7世(メディチ家出身の教皇)、ミラノ、ヴェネツィア、イギリスとコニャック同盟を結ぶ。
1527年 コニャック同盟に報復のため神聖ローマ帝国の軍がローマを攻める(ローマ略奪)。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。
1529年 ジェノヴァが皇帝カールの支援を受け、フランスの支配下を脱する。
ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、皇帝カールに服することを決める。
オスマン帝国による第一次ウィーン包囲(9-10月)。
「カンブレーの和」でフランスは賠償金を支払い、イタリアを放棄(10月)。
1530年 教皇クレメンス7世が皇帝カールに戴冠式を行う。
フィレンツェが皇帝軍に包囲され、凄惨な戦闘の末に、敗北。メディチ家が復帰する(メディチ家はハプスブルク家との結びつきを深め、フィレンツェの支配体制を確立する)。
こうしてイタリアにおけるハプスブルク家の優位が確定する(これ以降もフランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった)。 フランス王フランソワは皇帝カールに対抗するため(カトリック教徒であるにもかかわらず)、ドイツのルター派プロテスタント諸侯を支援し、異教徒のオスマン帝国皇帝スレイマン1世(在位1520年-1566年)ともひそかに同盟を結ぶ。

第3次イタリア戦争(1536年-1538年)
1536年 ミラノのスフォルツァ家に跡継ぎがないため、フランスはミラノ継承を主張して皇帝カールと争う。フランス・ドイツ国境付近で戦闘。
1538年 教皇パウルス3世(在位1534年-1549年)の仲介により10年間の休戦。
第4次イタリア戦争(1542年-1544年)
北フランスが主戦場になった。フランスはオスマン帝国と同盟。
1544年 フランス軍は北イタリアのピエモンテで勝利を収めたが、ドイツ・フランス国境方面で敗れる。「クレピーの和」を結ぶ。
その後
1547年 フランソワ1世が死去し、アンリ2世即位。
1554年-1557年 フィレンツェがフランスと結んだシエナを攻撃、制圧する。
1556年 皇帝カール5世が退位し、隠棲。息子のフェリペ2世がスペイン、ナポリ、シチリア、ネーデルラントを継承し、ハプスブルク家のスペインがイタリアの大部分を支配することになる。
1559年 カトー・カンブレジ条約。フランスがイタリアへの権利を放棄し、スペインのナポリ統治が確定する。また神聖ローマ帝国(オーストリア・ハプスブルク家)がミラノ公国を領有することが認められる。これによってイタリア戦争は完全に終結する。
一方のフランスは、カトリックとプロテスタントの抗争で内戦状態(1562年-、ユグノー戦争)になる。


レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci, 1452年4月15日 - 1519年5月2日) は今日、イタリアのルネサンス期を代表する万能の天才として知られ、「万能人(uomo universale)(ウォモ・ウニヴェルサーレ)」とも呼ばれている。

絵画、彫刻、建築、土木および種々の技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿(ノート)を残しており、その中には飛行機についてのアイデアも含まれていた。

生涯
同性愛者。

レオナルドは若い頃は「この世で最高の美男子」と呼ばれるほどの美貌の持ち主だったらしいが、生涯特定の女性と親しい関係になることはなく、独身だった。

レオナルドは、「自分の芸術を真に理解できるのは数学者だけである」という言葉を残している。

科学と技術
当時の大衆的な考え方では、科学=異端という見方があったため、教会からの批判や弾圧を避けるためという説もある。一方、先天的に鏡文字を書く症例も存在しており[要出典]、結論は出ていない。

ウィトゥルウィウス的人体図
1490年頃のノートにはCanon of Proportions (プロポーションの法則)が書かれている。このなかの『ウィトルウィウス的人体図』は、当時発見された古代ローマの建築家のウィトルウィウスの「建築論」にある「人体は円と正方形に内接する」という記述を表現している。この図は、レオナルドの描いた中で最もよく引用されるものの一つであり、イタリアの1.00ユーロ硬貨にも用いられている。NTTドコモのクレジット事業、iDのサービスマークにも使用されている。

当時、空気によると思われていた陰茎の勃起が、血液によるものであるという考察も、鏡文字で残している。

飛行することに興味を持った時期があり、鳥の飛行する様子について詳細な研究を行い、それを元にいくつかの飛行用装置を試作したと言われている。その中には、実際に動かすことはできなかったが、4人の人力で飛ぶヘリコプターの他、オーニソプターやハンググライダーに酷似したものも含まれている。落下に備えて、パラシュートのようなものも考案していた。1496年1月3日に、彼が発明した機械で飛ぼうとして失敗した記録が残っている。日本では、以前、レオナルドの描いたヘリコプターの図案が全日空の飛行機の垂直尾翼にデザインされていた。機体へは描かれなくなったが、現在でも社章となっている。

当時、権力者に売り込む最も良い手段が軍事技術であったことも関連している。機関銃、馬や人力によって動く装甲戦車、クラスター爆弾などである。潜水艦もある。しかし、彼は後に戦争は人類が行なう最も愚かなものと考えるようになった。

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