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チェダゼミナールコミュの学習プリント20 ルネサンス 教材研究

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学習プリント20 ルネサンス 教材研究
〔指導上の留意点〕
▼教科書の図版(特集ページも)を用いて, ダ=ヴィンチ・ミケランジェロらの作品を鑑賞させ, ルネサンス人たちが共有した人間中心の世界観を読みとらせる。
▼まずイタリアでルネサンスが開花した背景として, 都市の経済的繁栄や教皇・貴族・大商人らによる文化の保護, ローマ帝国の伝統などに留意させながら, 考察させる。
▼南北ヨーロッパの交易の中継で繁栄し, 都市が発達していたネーデルラントが, ルネサンスのもう一つの中心(北方ルネサンス)であったことを理解させる。

ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的・文化的諸運動を指す。また、これらが興った時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある。

ルネサンス Renaissance という語は「再生」(re- 再び + nessance 誕生)を意味するフランス語で、

ルネサンス史
ルネサンスは、西欧世界の進行方向を決定付けるような、文化史・精神史の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。

イタリア
ルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。

その先駆者とされるのはフィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265-1321年)である。ダンテは政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作「神曲」を完成させた。ローマの詩人、ウェルギリウスを地獄・煉獄巡りの案内人として登場させ、魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いてペトラルカ(1304-1374年)は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代)を暗黒時代と考えた。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(Umanista ウマニスタ)と呼ぶようになった。また、1453年のコンスタンティノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)の前後には、東ローマから多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており(パレオロゴス朝ルネサンス)、彼等が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、フィチーノ(1433-1499年)はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。

イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキがルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ建築家の誕生である。「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いた人文主義者アルベルティは建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされる。また、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロはそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。

イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィアなどの都市である。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家などが知られている。15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、ローマでは教皇によるサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。ローマ略奪(1527年)によりローマは一時荒廃したが、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国(フィレンツェ)で美術の隆盛が見られた。

ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキアヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。

ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。イタリアがトップスリーに入れていない理由はこれ!

1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難な状況であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう(ガリレオ・ガリレイの項目も参照。なお、17世紀のローマはカトリック教会を中心にバロック美術の時代に入り、直ちに文化的に不毛な状態になったわけではない)。

ネーデルラント(ベルギー・オランダやその周辺)
1384-1477年までブルゴーニュ公国領であったフランドル地方では、毛織物工業と貿易が活発であり、豊かな文化が花開いた。

【思想】新約聖書をギリシア語から翻訳したエラスムス(1466年-1536年)が人文主義者として著名である。古代ギリシア語研究は、キリスト教を原点に遡って再検討することにつながり、次第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。エラスムスは『痴愚神礼賛』でカトリックの堕落を風刺したが、宗教改革運動を起こしたマルティン・ルターとは袂を分かった。

【思想】フランス宗教戦争期に生きたモンテーニュ(1533年-1592年)はフランスのルネサンス期を代表する思想家といわれ、セネカらの引用と自己の考察を綴った『エセー(随想録)』で知られる。
ドイツ

【文学】早くはジェフリー・チョーサー(1340年-1400年)がボッカッチョの影響を受け『カンタベリー物語』を著している。
イギリスの後期ルネサンスを代表する世界的な劇作家シェイクスピア(1564年-1616年)の存在もこの流れの中にある。ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリシャ語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に訪れたことはない。
【思想】『ユートピア』で知られるトマス・モア(1478-1535)はイギリスの代表的な人文主義者であり、フィチーノの著作に影響を受け、エラスムスと交友を持つ。また、フランシス・ベーコン(1561年-1626年)はセネカの思想の影響を受け、『随想録』を執筆した。
スペイン
【文学】小説家セルバンテス(1547年-1616年)は、スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子であり、20代始めにローマで枢機卿に仕え、イタリアの先進文化にふれた。1605年に出版された「ドン・キホーテ」は当時ベストセラーになり、現在では「近代小説の始まり」と評価されている。
一方、各国の知識人が交流するうえで、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えばオランダのエラスムスとイギリスのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を行うことができた。

なお、建築の分野については、イタリアで生まれたルネサンス建築が規範となり、他の国にも普及していった。建築といえばイタリア


ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷術(1450年頃)の普及まで、書物といえば写本であり、文字通り写字生によって一字一字写されるもので、時間と手間がかかり、高価なものであった。活版印刷術により、写本とは比較にならないほど大量の刊行も可能になった。印刷物も初期にはまだ高価なものであったが、次第に低価格化して知識の普及を促し、人文主義や自然科学の興隆を助けた(15世紀の出版物についてはインキュナブラの項も参照)。また、16世紀の宗教改革運動が展開するうえで、印刷されたパンフレット類が大きな役割を果たした。欧州では基本的にはアルファベットからなる音標文字の文化であるため一般民衆への読解が比較的容易で、その結果一般人にも自然科学等の知識が普及する点で、活版印刷術の普及は現在のIT革命に匹敵するものであった。一方、数千種類もの象形文字からなる漢字文化圏では、肝心の記載内容が知れ渡る以前に一般民衆にとって書物そのものが無意味であった。そのため、折角発明された活版印刷術が東洋では有効活用されずに埋没してしまった。

活版印刷術が東洋から伝来せずに、西欧内で独自に発明されたものであるのに対し、羅針盤と火薬は、他世界から移入されたものである。火薬は中国で発明され、その知識はイスラム世界を経由して、ヨーロッパに齎されたらしい。火薬を用いた兵器の開発によって、西欧世界の戦力は増大した。羅針盤もまた中国で発明され、イスラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わった。これによって、航海術は著しく発達し、大航海時代が始まった。


メディチ家(Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。

マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家である。代表作に、『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』『戦術論』など。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治を宗教、道徳から切り離して現実主義的な政治理論を創始した。

生涯
1469年 フィレンツェに生れる。

その後『君主論』などの著述により、筆名は次第に上がる。生涯、マキャヴェッリはメディチ家とは付かず離れずの関係であったようだ。

政治理論
マキャヴェッリはメディチ家に政策を提言するために『君主論』を著した。『君主論』はメディチ家の人間(ロレンツォ・デ・メディチ)に捧げられた本であり、そこには君主たるものがいかにして権力を維持し、政治を安定させ得るか、という政治術が書き記されている。

「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」という彼の言葉からも祖国イタリアの統一を夢見たと思われる。

彼の理論はフォルトゥーナ(fortuna、運命)とヴィルトゥ(virtù、技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時おいて新たな点であった。

彼は元々共和主義者であったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦う「イタリア戦争」に衝撃を受けた。そこには、彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱が存在していたからこそ、『君主論』が生まれたのだと言える。

軍事理論
マキャヴェリはその軍事思想を『君主論』また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として以下のことが挙げられる。 第一に軍事力の重要性を論じていることである。『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備があげられている。また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。 第二に軍事訓練の重要性を論じていることである。マキャヴェリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第一段階に整列の動作の訓練、第二段階に整列行進の動作の訓練、第三段階に戦闘訓練、第四段階に信号や命令伝達の教育、としている。 第三に司令官の軍事的リーダーシップの重要性を論じていることである。これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。

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