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チェダゼミナールコミュの東アジア世界?

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東アジア世界?

《漢字が育てた東アジア文化圏》

文字には音を表す表音文字と、意味を表す表意文字とがある。現在、世界の多くの地域で用いられているのは表音文字であるが、東アジア世界では中国に生まれた表意文字の漢字を広く用いてきた。つまり東アジアの文字は世界とは違って独特なのである。
この文字の長所は、文字そのものに意味があるので、方言や言語の違いなどの言葉の壁を越えて意思の交流ができるという事である。例えば中国に旅行に行けば、看板の漢字などを見てある程度どういう店なのか、何を言っているのかが分かる。そのため漢字は、中国の皇帝が、文書を使って中央の政治や思想・文化を国内の隅々にまで行きわたらせるのに役立った。さらには、中国の政治・文化・思想が、東アジアの各地域に伝わることにも大きな役割を果たした。文字の統一は、秦の始皇帝が行った統一事業の中でも最大の功績といえる。

《漢字と儒教の文化圏》

孔子は、人を愛し、まごころで他人を思いやる公正中立の心(仁)で、国や社会の秩序(礼)や調和(楽)を実践するべきであると説いた。宋の時代になって儒教は官僚政治と深くかかわる実用的な学問として発達した。(宋学・朱子学)

日本⇒平仮名・片仮名
朝鮮⇒ハングル文字
ベトナム⇒チュノム(字喃)

《朝貢貿易圏》

中華思想(華夷思想)によれば、世界(天下)は、漢民族(華)のいる中央と漢民族以外の民族(夷)のいる辺境とから成り立っていた。ただ一人の統治者である中国皇帝(天子)は、周辺民族の支配者をその臣下とし、臣下に選ばれた国王は、定期的に使節団を中国に派遣して貢物を献上し、かわりに中国から絹・茶・米・木綿などの物産を得た。この物産の交流を朝貢貿易と呼ぶ。日本もその一つであった。志賀島にある金印は倭の国王の印。朝貢貿易は東アジア世界に広がり、中国を中心とする国際秩序を作り上げた。のちに自由貿易を目的としてこの地域に来たヨーロッパ人は、朝貢貿易の様々な約束事が理解できず、これを武力で解決しようとして戦争を引き起こす事になった。

中国は中華思想によるプライドを捨てきれず、欧州と妥協する事が出来なかったため、欧州に占領され、今では発展途上国となってしまった。

語句調べ 参照教授資料

遣隋使・遣唐使
遣隋使は聖徳太子が始めたこと。盛時には、総勢約500人が船四隻に分乗した。
遣唐使の船は20年に一度の割合で出されたが、航海や造船の技術は未熟で、季節風の利用にも気付かず、大海を横断する航路をとった(新羅と対立していたため近くの海を使わせてもらえなかった)事もあって往復の航海は極めて危険なものだった。阿倍仲麻呂や藤原清河のように、帰国できず唐朝に仕えて一生を終えたものもいた。
東アジア世界では、中国が最も早く帝国を形成して、天下国家観を伴う政治理念・儀礼・制度などを整備したため、東アジアの外交秩序は中国を中心におく位置関係になっている。

語句調べ 参照wiki

朝貢(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。

概要
王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。四夷から朝貢を受けることは皇帝の徳を示すこととされ、内外に向けて政権の正統性を示すことになるため歴代中国政権はコストを払ってでも朝貢を歓迎した。
朝貢国から送ってきた貢物に対して回賜が数倍の価値となることが原則であり、朝貢国にとって利益となる事例が多かった。その場合、朝貢に来る使節の人員に対しても多額の褒賞金が与えられた。その費用がかさむために朝貢の回数を制限するということも行われた。
冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。
漢字文化圏に包含された冊封国からの朝貢は、経済的な利益にとどまらず、書物の購入、情報の入手など、社会・文化的な利益も伴うものであった。

日本

古代
後漢の代より倭国からの朝貢が記録に残る。倭の五王が冊封されていたと言われ、中国の南朝に対して断続的に朝貢を続けていた。これは朝鮮半島における勢力争いへの支援を引き出す目的だったと言われるが、南朝は北朝への対抗上高句麗との関係を重視したため倭国側の意図は果たせず、朝貢も途絶える。
遣隋使においては聖徳太子が「天子の国書」を送って隋の煬帝を激怒させたが、結局は隋からは倭王として臣下の扱いを受けた。
遣唐使は朝貢形式で行われている。日本の側の君主は「天皇」を既に自称している事から、中国皇帝とは対等だったはずであるが、対等貿易を行っていたという記録は無い。おそらく現場の担当者が、ごまかしを行っていたのではないかと推測される。その廃止以降当面は中国の冊封体制に加わることはなかった。五代十国の呉越や、北宋・南宋とも交流があったが、藤原氏や平氏、その他民間の商人によるものであり、正式な国家交流ではなかった。
渤海との貿易においては、逆に渤海の側が日本に対して渤海使を派遣し、日本側は朝貢として受け入れた。当時の日本の国力では、毎年の朝貢に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至った。

中世
倭寇に悩まされる明は、日本側に有利な朝貢関係の設定と引き換えに倭寇を取り締まらせようとする。日本の南北朝期に九州に南朝派政権を構えていた懐良親王が「日本国王良懐」として明に朝貢を行う。その後室町幕府3代将軍の足利義満が明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封される。以後、外交文書に使用して日明貿易(勘合貿易)を開始。父の名目的対明臣従路線を嫌った4代将軍足利義持による一時的な停止はあったものの日本側に有利な取引による利益は捨てがたく、まもなく義持自身により再開され、以降室町時代を通じて行われた。足利義政は進貢すら省略し一方的な銅銭の賜与を懇願した事もあり、これは一度認められたものの再び懇願した際には拒絶される。

近世
室町幕府の弱体化により、大内氏などの大名により勘合貿易が継続される。安土桃山時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が行われ、日明関係は断絶。江戸時代には一応関係は修復されるが、江戸幕府は朝鮮とは国交を結んだものの、明とは正式に国交を結ばず、いわゆる民間交流レベルの貿易となった。朝鮮に対しては、徳川将軍は「日本国大君」と称し(一時期「日本国王」と称す)、対等な関係で国交を結んだ。また、明が満州族の清に征服されると、真の中華皇帝を日本の天皇に擬える尊王思想(小中華思想)が高まり、日本は中国中心の華夷秩序からは脱却する。

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