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チェダゼミナールコミュの社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き 帝国書院 2005年 Part2

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第三章 武家政治と東アジア

増える荘園 11世紀の半ば頃、荘園の持ち主達は、国司からの課税を逃れるため、荘園の税を免除される特権を持っていた藤原氏などの貴族や東大寺などの大寺社に、名目上の所有者になってもらうようになった。こうして中央の権力者と地方の支配者の結びつきが強くなった。
 また婚姻などによって、地方の有力者同士が結びつきを強め、広大な土地を持つものも現れた。婚姻とはつまり自分と似た能力・器量のもの同士を結びつけるもので、これは今も昔もほとんど変わっていない。

奥州藤原氏 陸奥には強力な私兵を持つ現地の豪族安倍氏清原氏が、蝦夷に対する防衛の任についていた。安倍氏が滅亡した後、11世紀末に清原氏が一族間で争った際、藤原清衡(きよひら)は、源氏の棟梁源義家と組み、清原氏を滅ぼした。以後平泉(岩手県)を中心に奥州藤原氏は繁栄した。

武士 戦いを職業とする人達。弓や乗馬を中心とした武芸が売り。皇族や貴族の家に仕えるものを特に侍と言う。武士の中でもとりわけ、源氏と平氏が強かった。
一方、平安時代末期になると中央の政治は、摂関政治から、退位した天皇(上皇)が政治を動かすようになった。会社で言えば社長ではなくて、会長が会社を支配しているという状況である。そして12世紀半ばに、誰が院政を行うかをめぐって保元の乱・平治の乱と言う内乱が起こった。この二つの内乱に勝利したのが平清盛である。彼は後白河上皇の信頼を得て出世し、武士としてはじめて政治の実権を握る事に性交し、太政大臣になった。彼の一族は高い官職につき、広大な荘園を支配した。つまり平清盛は日本で初めて、腕っぷしで天下一に成り上がった初の人物なのである。
彼は日宋貿易を重視し、瀬戸内海の航路を整え、大輪田泊(おおわだのとまり)、つまりは神戸港を整備した。因みに広島の厳島神社は日宋貿易船の安全を守る神として信仰されていた。

関東VS関西 源平合戦 
源頼朝が関東の武士をまとめて挙兵し、彼の命を受けた弟の源義経らは、1185年、平氏を壇ノ浦(山口県)で滅ぼした。

鎌倉幕府の成立 頼朝は鎌倉に幕府を立てたが、無断で朝廷から官位を受けた義経をとらえることを口実にして、平泉の奥州藤原氏を滅ぼし、東北地方を支配下に置き、自ら征夷大将軍となった。
 頼朝は、家来となることを誓った武士を御家人にして、先祖から引き継いだ領地の支配を認めたり、手柄に応じて守護(軍事・警察)、地頭(荘園や公領を治める)の職を与えたりした。これを御恩という。御家人たちは、合戦に出て戦ったり、京都や鎌倉の警備に出たりする義務を負った。これを奉公という。
この御恩と奉公による主人と家来の結びつきが鎌倉幕府の強みである。御恩と奉公は儒教の教えの日本版である。
 一方荘園や公領の住民は、荘園領主と地頭両方に年貢や労役を負担しなければならなくなり、二重苦となった。

執権政治の展開 頼朝の死後、幕府の実権は妻の北条政子と将軍の補佐役である執権に移る。
 そして源氏の将軍が三代で途絶えたのをみた後鳥羽上皇は今こそ幕府を倒す好機だと見て、1221年(承久3)、全国の武士に「執権北条氏をうて」と命令した。しかし、期待に反して上皇側についた武士は少なく、上皇は幕府軍に敗れて、隠岐(島根県)へ流された(承久の乱)。上皇側についた朝廷の人々や武士から取り上げた土地は、東国(関東地方)の武士に恩賞として与えられたので、彼らの多くが西国(西日本)に移住した。つまりこの時代から西国よりも東国の時代となってくるのである。その結果、幕府の政治と東国の武士による支配が、西国にも及ぶようになった。
 京都には六波羅探題が置かれ、西国の武士の統制が行われると共に、朝廷は幕府の監視を受けるようになった。
 また北条泰時(政子の甥)は、1232年(貞永元)、御家人の権利や義務などの武士の慣習をまとめた御成敗式目を制定した。これはその後の武家政治の手本とされた。御成敗式目は言ってみれば、武士の手によって作られた憲法みたいなものである。
 その一文、「武士が20年をこえる間、実際にその土地を支配していれば、慣例どおりその支配を認める」。

海と山に囲まれた武士の都 鎌倉

山に囲まれて守りやすく、南側は海に面していることから、中国との貿易が行われていた。
輸入されていたものは陶磁器・絹織物・香辛料・書籍、輸出していたものは金・銀や蒔絵・刀。また僧の交換留学も行われていた。

栄西(1142〜1215) 禅宗と茶を伝えた僧

備中(岡山)出身。1168年と1187年の二度、宋に留学。二度目の留学の時に禅宗を学んだ。1191年に帰国してからは、博多などで禅宗を広めた。禅宗の布教は比叡山の妨害にあうが、鎌倉へ行き、北条政子や二代目将軍源頼家の保護を受けて京都に建仁寺を開いた。やがて禅宗は朝廷からも認められた。また栄西は茶を持ち帰り、茶を飲む習慣を日本に伝えた。日本人、そして自分がお茶を飲めるようになったのも栄西のおかげ!ではそれまで日本人は何を飲んでいたのだろうか?

モンゴル帝国の拡大

13世紀の始めモンゴル高原にチンギスハンが現れて、中央アジアを征服した。孫の代には、ヨーロッパの東側までに領土を拡大し、モンゴル帝国を築いた。その孫の一人フビライハンは、中国の一部(北方)を支配し、都を大都(北京)に移し、国号を元とした。その後フビライは、宋を滅ぼし、中国の皇帝となった。元は周辺のアジア諸国も支配しようとしたが、高麗は30年にわたり抵抗を続け、大越(ベトナム)も粘り強く抵抗した。こうした抵抗が元軍の力をそぎ、日本への遠征を大幅に遅らせた。モンゴリランは戦闘民族のため、背が高い。

二度にわたる元寇

フビライが日本に使者を送り、朝貢と服属を要求してきたのは、高麗を征服した後の1268年の事。執権北条時宗が、その要求を拒むと、1274年(文永11)、元軍は九州北部に押し寄せ、博多湾に上陸した。元の集団戦法と優れた火器などに押されて幕府軍は苦戦したが、暴風雨もあって、元軍はすぐに引き上げた(文永の役)。役と言うのは戦争・戦いの意。1281年(弘安4)、元の大軍は再び九州北部を襲った。元軍は、幕府軍の抵抗や海岸に築かれた防塁などに阻まれて上陸できないうちに、激しい暴風雨にあい、壊滅的な打撃を受けて引き上げた(弘安の役)。暴風雨は日本の神々が起こしたものだと思った日本人の間には、日本を「神国」とし、元軍の一員として戦いを交えた高麗(朝鮮)のことを低く見る思想が強まってきた。

御家人たちの不満

九州の御家人竹崎季長(たけざきすえなが)は、恩賞として地頭の職をもらった。他の御家人達も恩賞を期待して元軍に勇敢に立ち向かったが、まったくの防衛線であったため、幕府を御家人達に恩賞と領地を与える事ができなかった。さらに元軍が、三度目の遠征を計画していたので、幕府と御家人達の警固は続けられ、その負担が御家人達に厳しくのしかかった。また武士の領地は分割して相続されるため、次第に小さくなり、しかも商業・手工業の発展により、商品を買うことが多くなったため、御家人の仲には生活が苦しくなる者が出てきた。コレに対し、幕府は徳政令(通常有事に出される事が多い)を出し、御家人達の救済を試みるが、一時的な効果しかえられなかった。また北条氏の一族だけが、全国に広大な領地を持ち、幕府の重要な役職を握っている状態が目立つようになり、御家人達の心は次第に幕府から離れていった。御家人たちは出世のために元軍と勇敢に戦ったにもかかわらず、それに見合う恩賞がもらえなかった。

武士に広がる仏教

武士が支配者となった鎌倉時代からは、素朴で、人々にも分かりやすい文化が育った。新しい仏教としては、
浄土宗 一心に念仏を唱えれば極楽往生できると説いた法然の浄土宗。
浄土真宗(一向宗) 法然の弟子の親鸞が教祖。室町時代になると蓮如のタクミな布教活動によって、各地に信仰を同じくする集団を作り上げた。
日蓮宗 題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば日本国も人々も救われると説いた日蓮の日蓮宗。

平家物語 琵琶法師によって語られ、文字を知らない人でも知ることが出来た。
西行 武士出身の歌人。言い方は悪いかもしれないけど、分かりやすく言えばインテリヤクザ。

武士に挑戦する天皇と南北朝の動乱

元寇を境に鎌倉幕府の政治が行き詰まり、各地には悪党と呼ばれるものが横行した。このような悪党の動きや御家人の不満を見た、後醍醐天皇は、執権の北条氏に反発する地方の武士や悪党を味方につけ、幕府を倒す戦いに立ち上がった。
1333年、楠木正成らの悪党勢力(いわゆるヤクザ)や、足利尊氏・新田義貞ら東国の御家人の活躍により、鎌倉幕府は滅んだ。そして1334年(建武元年)、後醍醐天皇を中心とする政治が始められた(建武の新政)。しかし、その新政はコレまでの武家政治の慣習を無視した、天皇中心の独裁的な政治だったため、武士・農民、貴族からでさえも批判を浴びた。そして尊氏が、武家政治を目指し、兵をあげると、新政はわずか2年半で崩れ去ってしまった。鎌倉幕府の崩壊でもう一度、天皇中心の時代がくるかなと思いきや、結局武士中心の世の中に2年で逆戻り。後醍醐天皇は倒幕のために悪党(ヤクザ)とまで手を組んだにもかかわらず、失敗したことになる。
一方尊氏は、三代で終わった血筋である源氏の血筋であったため、次期時代の棟梁としてふさわしい人物であった。
尊氏は、新しい天皇をたて、自らは征夷大将軍となって、1338年、全国支配を目指して京都に幕府を開いた。一方、吉野(奈良)に逃れた後醍醐天皇も、正当な天皇である事を主張したので、二つの朝廷が並び立つ事になった。吉野を南朝、京都を北朝といい、全国の武士達は、二つの勢力に別れて戦った。南朝の勢力は、正成や義貞ら有力武将の戦死などによって衰えたが、滅びる事は無く、武士同士の戦いが60年間近くにわたり続いた。そして三代将軍足利義満は、1392年、南北朝を統一した。この室町幕府には将軍の補佐役として、執権に代わり管領(No2)がおかれ、足利氏一族の有力守護が、交代で任命された。

明を中心とした体制と倭寇の活動

14〜15世紀の倭寇の本拠地は松浦地方(長崎)や壱岐対馬。16世紀になると、五島列島や薩摩(坊津)などが本拠地。倭寇は日本人が中心で、他にも朝鮮人や中国人がいて、インターナショナルパイレーツの様相を呈していた。16世紀の倭寇は中国人が中心。
一方中国では1368年に明が建国された。明は東アジアの伝統である中国を中心とした国際関係によって通交と貿易を管理する事にした。それは中国の皇帝が周辺の国々の支配者を「国王」と認め、彼らが貢物を献上(朝貢)すると、皇帝も沢山の高価な品物を返礼として与えるというもの。日本に対してはこうした朝貢の関係に入る条件として、倭寇の取締りを要求した。要は中国を大国と認めてくれる周辺諸国に対しては、それなりの事をしてあげるという中華思想をベースとしたもの。
 一方朝鮮半島では、14世紀末、倭寇の侵入を食い止めてヒーローとなった李成桂が高麗を倒し、国名を朝鮮と改めた。朝鮮もまた倭寇の取締りを要求してきた。

室町幕府と日明貿易
その日本国王と任命されたのが、時の支配者将軍足利義満であった。日明貿易は倭寇と区別するために勘合が使われていたため、勘合貿易とも言う。実際に貿易を行ったのは、大内氏(山口)などの有力守護や大寺社、そして堺や博多の商人であった。また朝鮮釜山との貿易も開始されたのもこの頃である。朝鮮との貿易に特に重要な役割を果たしたのが、対馬の宗氏で、16世紀になると、朝鮮との貿易を独占するようになって来る。

琉球とアイヌが担う東アジアの交易

15世紀には、尚氏を中心に首里を都とした琉球王国が成立した。琉球の船は、中国南部の福州や朝鮮の釜山をはじめ、シャム(タイ)、安南(ベトナム)、マラッカ・スマトラなどの港に立ち寄って、生糸・絹織物・陶磁器などを転売し、南方産の珍しい香辛料や象牙などを輸入した。

津⇒泊⇒湊⇒港

日本三津 坊津・筑前博多津・伊勢安濃津

アイヌの人々はサハリン(樺太)に進出し、中国大陸の沿海州地域と活発に交易・交流していた。そうしたアイヌの人々の活動に対して、元は、1286年に樺太へ軍を送った。そして、1308年にはアイヌの人々を降伏させ、朝貢をさせるようになった。

応仁の乱と下克上

室町幕府の守護は、領国内の武士を家来とし、一国全体の支配権をほぼ握っていたので、鎌倉時代の守護と区別して、守護大名という。15世紀の中ごろ、有力な守護大名は、将軍の跡継ぎをめぐって争いを始めた。コレに幕府の実力者細川氏と山名氏の勢力争いが複雑に結びつき、1467年、多くの守護大名を巻き込んだ戦乱となった。11年間に及ぶ戦乱で、京都の大半は焼け野原となった。

各地で争う戦国大名

各国では、幕府の統制からはなれ、領内を独自に支配する戦国大名が登場した。戦国大名たちが戦いを続けた約100年間を、戦国時代と言う。この頃から城下町が各地で作られ始める。
朝倉氏(福井)、武田氏(山梨・長野)、今川氏(静岡・愛知)などは、分国法と呼ばれる独自の法律(条例)をつくり、領内の武士や農民を厳しく統制しようとした。
 分国法の意図は、厳しい戦いに勝ちあがってきた自分の地位を、下克上により脅かされる事の無いようにするため。法律とはしばしば下のものが上に成り上がらせないように作られているものが多い。日本の法律も半分はこの意図で作られている。
分国法の一例をみると、城を作ってはならないだとか、喧嘩両成敗や、他国に嫁や婿をとること、もしくは出す事を禁止する事などがある。

沢山の職業の登場

職人の技術は、子ども達が半ば遊びつつ見習いながら習得する形で、代々受け継がれていった。

トイレの発達 14世紀になると、トイレが普及し、そこにたまった人の糞尿を肥料に活用できるようになった。

自力救済する社会

室町時代になると、武士から庶民までが「自分たちの事は自分達で解決する」(自力救済)と言う考え方が一般的となった。人々は、一人では実現できない目的を成し遂げるために、たての繋がり(主従関係)とは別に、共通の利害を持つもの同士の横のつながりを強めた。その代表的なものが一揆である。

武力で解決する一揆

農民の支配者に対抗する抵抗(土一揆)。
山城(京都)の南部では、武士や農民が協力し合った国一揆が、守護大名畠山氏の軍勢を追い出し、8年間、自治を行った(山城国一揆)。また、浄土真宗(一向宗)の信徒が中心となって起こした一向一揆は、約100年間もの間、加賀を自治的に運営した。

村と都市の自治

村では、農民が荘園の枠を超えて団結するなど、地域を自分達で運営する動きがあった。その代表が惣村である。村の代表を置き、寄合をひらいて揉め事を解決したり、独自に村のおきてをつくったりした。

現代に繋がる生活様式の誕生

庶民の服は、麻から、暖かく吸湿性や肌触りの良い木綿が増えた。
食生活は一日三食が一般的となり、そうめんなどのめん食も普及した。
住居では部屋に畳が敷き詰められるようになった。銀閣の書院造が現代の日本の部屋の原型。

中国のお金 中国の銭(宋銭・明銭)を持っていれば、アジアのどこへ行っても買い物が出来た。つまり当時の中国のお金はアジアの基軸通貨であり、今で言うユーロみたいなもの。日本は昔から円だったのではない。

第4章武家政治の発展と世界の動き

江戸時代 世界でも類を見ないほど、長い間戦争が無かった時代である。

ヨーロッパ人による新航路の開拓

なぜヨーロッパ人が日本に来るようになったのかはいくつか理由がある。カトリックの復興もあるが、西アジア(イスラム商人)を経由せずに直接アジアへいける航路を探していた。なぜなら香辛料を安定して手に入れたかったからである。バスコダガマがアフリカ最南端の喜望峰をまわってインドに到達したが、何故こんな遠回りをしたかといえば、イスラムを回避するためであった。ポルトガルはインドのゴアを拠点にアジアとの貿易に乗り出していった。

南蛮貿易

南蛮人は火薬や中国の生糸などをもたらし、銀などを持ち帰った。またアメリカ大陸から、じゃがいも、とうもろこし、トマト、かぼちゃが伝わった。

イスラム教 7世紀始め、メッカの商人ムハンマドによって始められた。唯一神アッラーの前では皆平等。アラビア半島、西アジア、インド、北アフリカ、東南アジア(パキスタン・バングラデシュ)などに広がり、人口は12億人、つまり世界の20%はイスラム教徒である。

宗教改革のそもそもの原因
教会が、壮大な聖堂建設のために資金を集め始めた事が人々の批判をよんだ。つまり宗教を金儲けの道具にしようとしたから改革が起こった。

ルネッサンス 人間や自然をありのままに見つめる。

堺 南蛮貿易や鉄砲生産で繁栄した堺は、会合衆(えごう)といわれる豪商36人の町衆が中心となり、寄合で町を治める自治都市を作った。織田信長に支配されるまで自治は守られた。堺にやってきたキリスト教宣教師の話では、「ベニスのように町の人によって治められ、街の西側が海で、三方が深い堀で囲まれているため、堺ほど他に安全な場所は他にない」と言われた。
鉄砲鍛冶といえば堺だが、種子島に鉄砲が伝わって10数年後には大量生産に入った。日本は昔から模倣技術がある。現在価格で50万〜75万ぐらいする。

千利休 堺の豪商。茶の湯の作法を定めて禅宗の精神や独自の方法で「わびちゃ」を大成した。信長・秀吉に遣え、政治にも深くかかわったが、のちに秀吉と対立して、切腹を命じられた。

銀で繋がる世界

16世紀の東・東南アジアで貿易を担ったのは、倭寇とポルトガル人だった。16世紀前半朝鮮から新しい技術が伝わり、日本では爆発的に銀が増産され、日本の銀が、世界の銀産出高の3分の1を占めるようになった。

織田信長の登場

尾張の小さな戦国大名だった信長は、東海地方を支配する今川義元を桶狭間の戦いで破って名を上げ、「天下布武」という武士による政権作りを表明した。そして比叡山延暦寺を焼き討ちにした。寺は強大な武装勢力だったためである。織田信長が京都へ上るには近江(滋賀県)を通らなくてはならないが、そこには浅井と六角という強力な戦国大名がいた。信長は二人を敵に回すのは不利と判断し、浅井長政に妹のお市を嫁がせ、味方につけることに成功した。こうした結婚を戦略結婚という。三人の娘も戦略結婚に使われる。と娘の一人は秀吉と結婚。もう一人は家康の息子秀忠と結婚。つまり秀吉の義理のおじさんが信長である。
また経済政策としては、関所を廃止して自由な交通を許したり(現代版EFTA)、楽市楽座令を出して、市場での税を免除して、商工業を活発にした。(免税店)全国統一を目前にした1582年、明智光秀に裏切られ、自害する(本能寺の変)。

豊臣秀吉の全国統一

1590年、秀吉が日本を統一。これにより、応仁の乱後続いた100年余りの戦国争乱の時代は終わる。大東亜戦争よりはるかに長い。秀吉は尾張の農民の子で、秀吉に仕えて出世した。

織豊政権下のキリスト教布教

クリスチャン⇒英語
キリシタン⇒ポルトガル語

大友宗麟ら九州のキリシタン大名が、宣教師バリニャーノのすすめで、ローマ法王とスペイン国王に、10歳〜15歳の少年施設4人を派遣した。1582年に長崎を出港し、二年半かけてヨーロッパに到着した。1590年に帰国したが、既に日本ではキリスト教が禁止されていて、その知識は十分に生かされなかった。しかし、かれらが伝えた活版印刷技術は、日本の印刷の発展に大きく貢献した。

信長は最初、敵対する石山本願寺(大阪)などの仏教勢力に対抗し、また貿易の利益を得るために、キリスト教を保護していた。つまりキリスト教そのものを保護していたわけではない。しかし、秀吉は長崎が教会領になったことから、その力を恐れるようになり、1587年に、宣教師の海外追放令をだした。

秀吉による朝鮮侵略

秀吉は日本を統一した後、帝国主義路線のような政策をとり、明を戦略しようとして、1592年、15万人の大軍でまず朝鮮へせめはいった。そして首都漢城(ソウル)、平壌などの各地を占領したが、朝鮮民衆による義勇軍や、李舜臣の率いる水軍の抵抗が強く、明の援軍もあって行き詰まり、講和を結んで引き上げた。1597年、再び出兵したが、苦戦が続いたのと、秀吉の病死により引き上げる。この侵略で、朝鮮各地が焼かれ、多くの文化財が失われた。例えば慶州の文化財。また多くの人が殺され、人口も激減した。
日本軍の手柄の基準が、敵の耳や鼻の数であったため、多くの朝鮮人の耳や鼻を日本に送った。秀吉は、塚を築き、僧侶500人を集めて供養を行った。朝鮮は日本や中国に何度も侵略されている歴史があるのである。朝鮮出兵の際、活躍した武将が肥後の加藤清正と小西行長である。しかし良かった点としては、このとき捕らえられた朝鮮の儒学者によって日本人に儒教が教えられ、連行された陶工により、陶磁器づくりが伝わった。茶の湯に必要な茶器が大量に作られるようになった。福岡では上野焼(直方方面)が有名。他にも長崎の三河内焼き、波佐見焼き、熊本の小代焼き、高田焼き、沖縄の壺屋焼きが有名。

屏風 部屋を仕切るだけではなく、大名の力を表すためのものでもある。無駄なものに金をかけれるだけの力がある、これだけ贅沢が出来る、インテリアに凝る事ができるというのは、自分の力を誇示するために手っ取り早い方法。

姫路城 1993年世界文化遺産。

南蛮文化 南蛮貿易によって、ヨーロッパの天文学・医学・航海術が伝わり、ボタン・タバコ・カステラも伝わる。

この世を楽しむ庶民

沖縄の楽器三味線の演奏にあわせて語られる浄瑠璃、人形あやつりと合わせる人形浄瑠璃が完成。また、出雲阿国によって歌舞伎踊りが始められ、庶民の人気を集めた。このほか武士の娯楽として、囲碁将棋、双六などがあった。

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