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チェダゼミナールコミュの社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き 帝国書院 2005年

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社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き 帝国書院 2005年

聖徳太子 仏教を日本に広めた。
仏教が本格的に庶民に広まるのは鎌倉時代。だから聖徳太子を信仰する人が増えたのも鎌倉時代から。 

復員軍人 太平洋戦争が終わると残っていた日本軍は解散させられたが、彼らは復員軍人と呼ばれ、軍服を着たまま一般人としての生活を始めることになった。

最初は戦争に行っていた人への敬意を示したかったのだろうが、後々逆に戦争を思い出させる効果があるとして廃止されたのだろう。日本では軍服を着て堂々と街中を歩く風景が見られない。なぜなら人々が嫌がるからである。逆に欧米では堂々と軍服を着て歩ける。それが国の誇りであるからである。

蹴鞠 1200年前に広まった遊び。平安貴族の間で盛んに行われる。木の枝まで蹴り上げた回数を競う遊び。または、鞠を蹴り続け、地上に落とさないようにし、蹴った回数を競う、要はリフティングのようなもの。セパ・タクロー、サッカー、アメフト、ラグビーの原型。中国から伝来。

洋服・帽子 は軍隊や学校の制服から広まる。

つまり最初は国が主導で洋服、つまりは西洋文化を広めないと、国民自ら洋服を着ようとはしない。

イスラム暦 イスラム圏内で使われる純太陰暦。ムハンマドがメジナに聖遷(ヒジュラ)した年の年初(西暦622年7月16日)を紀元元年1月1日とする。太陽暦の一年より11日ほど短い。イスラムの重要な儀式・祭礼にはこれに従って実施される。

ホームページ の内容は作った人の意見なので、1つだけではなくリンクをたどって色々なページの意見を参考にする事。

司書 図書館で調べ物をする時は司書を使って相談する事。調査が効率化し、はかどる。

貝塚 縄文時代のゴミ捨て場。縄文時代は狩猟の時代で、食べ物を生産するという概念がなかった。そのため人々は貝の実を食べてはその場に捨てていた。

第二章 古代国家と東アジア

日本列島 約一万年前に最後の氷河期が終わり、地球が暖かくなり氷が溶け、ユーラシア大陸と離れる。つまり日本は中国や朝鮮・ロシアなどに歩いて行けたということ。おそらく当時人が行き来していただろうから、厳密には日本は単一民族国家ではない。中国・朝鮮・ロシアの混血などが入り混じっているはずである。それと同時に寒い気候に適していた大型の動物が減る。

粟 飯・餅・団子、酒・飴などの原料。

王 強い権力を持つ王が現れる理由は、食料を管理し、農作業を指揮する人が現れるからである。

殷 紀元前1500年頃。占いによる政治や祭りを行う。
儒教 紀元前6世紀ごろ、乱れた政治や社会を立て直す方法として儒教の考え方が生まれた。思いやりの心(仁)で行いを正し、日常の生活や政治に取り組む事により、国は良く治まると説いた。
中国・朝鮮は親への孝を重視
日本 戦国時代以降 君主への忠義

儒教の考え方「思いやりの心(仁)はまさに今の日本の政治家・官僚に必要な事。また政治だけではなく、全ての社会集団に対しても仁は必要。

秦の始皇帝 紀元前3世紀に中国を統一。これまでの王をはるかに超える力を示すために「皇帝」の呼び名を使い始める。だから始皇帝。法を重んじ、役人を通じて皇帝の命令が全国に行きわたる政治の仕組みを整える。立憲君主制に近いものをこの時代にもう作り上げた。万里の長城も。

漢 秦の後を継ぐ。紀元前202年から紀元後220年まで。儒教に基づいて国づくり。領土を拡大し大帝国へ。そして、周辺諸国の王に印章を与えるなどして統治を認め、彼らを皇帝の家臣のように扱った。日本もその例外ではない。中国から金印を与えられると言う事は、中国皇帝の家臣になることを意味し、植民地とまでは行かないまでも中国に従属していた事を意味する。大漢帝国とも言える。その大漢帝国の日本の中で最初の家臣が倭の奴国(なのくに)、つまり現在の博多である。その金印が志賀島にある。福岡市は中国の家来的都市であった。

シルクロードと仏教 漢の時代に開かれる。インドにおこった仏教もシルクロードを通じてやってきた。ローマに絹が運ばれていた事からこの名前が。つまりシルクロードは西洋の帝国であるローマ帝国と東洋の帝国である大漢帝国をつなぐ架け橋であった。つまり文化・宗教・政治の仕組みなどは全部中国を通じて日本にやってきていたと言う事。

メソポタミア文明 前3500年ごろ。多神教。都市国家。戦術の開発が進み、世界で最初に鉄製の武器が用いられる。今では一番遅れている地域であるが、当時は時代の最先端を行っていた。

ピラミッド クフ王のものが最大。10万人の労働者が20年かけて作る。クフ王は紀元前26世紀の古代エジプト第四王朝の王。ギザにある。

インダス文明 上下水道や公衆トイレ。つまりこの時代なのに公衆衛生の概念があるとは珍しい。それだけ疫病が激しかったのかもしれないと言う事が推測できる。
また、支配者の権威を示すような神殿・宮殿・墓などが見つかってない事から、インドは土地柄昔から和平的であったと考えられる。

モヘンジョダロ インダス文明の中心都市。パキスタンにある。

ギリシャ・ローマ文明 成人男子の市民による民主政治が行われていた。また有事の時には市民による戦士団が組織されローマ帝国はまさに市民によって支えられていた事になる。この時代から現在の主流である民主主義が存在していた。

稲作 縄文時代の終わり頃、中国や朝鮮から北九州に渡来した人が稲作を伝え、西日本から東日本へと広まる。つまりラーメン・うどん・米は福岡発と言うこと!また福岡は漁業も盛んで、海鮮類もうまい。日本で、そして世界でうまい飯が集まっているところが福岡だといっていいかもしれない。

青銅器・鉄器 も稲作と同時に伝わる。つまり食器やなべ、湯のみなども全部大陸アジアが持ってきてくれたもので、日本製品は全部コピーだと言う事。日本はそれだけ大陸アジアから遅れていたということ。

高床倉庫 湿気から食料を守るために床を高くしている。だから一階には絶対住みたくない。風通しのいい家じゃないと住みたくない。

邪馬台国 倭国を統一。女王卑弥呼。当時は男尊女卑の考え方は無く、むしろ女性の方が立場が上であったケースが多い。卑弥呼はまじない(鬼道・魔術などの不思議な術、妖術)によって諸国を治め、他の国よりも優位に立とうとして中国に使者を送り、倭王の称号を得た。ある意味卑弥呼は日本の始皇帝。中国から称号を得る事は、中国の軍事の後ろ盾があると言う事なので、今の日米安保のような関係に似ているところがある。

古墳時代 3世紀末〜6世紀 300年間 富と権力を持った豪族の墓である古墳が作られた時代。

鉄器 銅よりも硬い。鉄がその村にあるか無いかで、農業生産性が全然違う。しかし当時の日本列島には製鉄技術が無かったため、朝鮮から延べ板の形で持ってきていた。特に鉄が豊富だったのが百済。その百済とつながりの深かったのが畿内にあったヤマト王権である。この頃から日本の中心は九州から畿内にシフトして行った。佐賀大和は畿内の大和と区別するためにそう呼ばれる。

朝鮮半島 3〜4世紀ごろ 高句麗・新羅・百済がライバル関係に。日本側のヤマト王権は百済と組み、高句麗・新羅と対決。また、ヤマト王権は中国の皇帝に度々使いを送り、その力を借りて優位に立とうとした。しかし、結局負けたので、鉄を安定して手に入れることはできなかった。
朝鮮半島が日本にもたらしてくれたものは、鉄の生産のほかにも馬の飼育などがある。当時の日本では馬を飼育するという概念が無かったのだ。あったのかもしれないけれど、どのように飼育していいのか分からなかった。馬を飼育する事によって移動手段が出来、移動距離が飛躍的にアップする。産業の発達には、移動距離が伸びる事が必要不可欠であるから、このことが日本にもたらした影響は大きい。朝鮮半島からの技術者を招き、日本は勉強した。今は日本に沢山の留学生が来ているが、当時は朝鮮や中国の方が先進国家であったため、日本が学ぶ立場であった。

蘇我氏と聖徳太子

ヤマト王権では6世紀頃になると、豪族達の対立や争いが激しくなった。この間、朝鮮・中国から多くの知識人・技術者が移り住んできたが、その知識・技術を利用して伸びてきたのが蘇我氏であった。関西は今でも韓国との交流が盛んであるが、当時も韓国との交流が盛んであった。関西、特に大阪と言う土地柄は経済的メリットがあると考えるなら、たとえ異文化だろうと積極的に受け入れる姿勢が見られる。東京や京都に比べ、かなりリベラルな土地柄だ。そのなかでも蘇我氏は仏教の導入に努め、反対した物部氏(もののべ)を倒して実力者になると、対立する大王を殺害し、額田部王女(推古天皇)を押し立てた。女性が多く即位している理由の一つは、軍事よりも内政を重視するようになった事がある。つまり武断政治よりも文治政治を重視しているからこそ、女帝を多く輩出していた。アメリカ大統領選挙もヒラリーが勝つと、文治政治に移行する可能性が高い。
 ともかく、その女帝推古天皇の甥に当たるのが聖徳太子であり、彼が摂政(つまり総理大臣のような役職)に就き、政を司った。彼が見事に文治政治のお手本のような事をやってのける。まずは冠位十二階の制度を作り、有能な人材を役人に用いようとした。つまりこれは今の日本で言うと官僚制度、つまりは頭のいい人であればどんどん国を動かせる立場にいける、と言うものと同意である。また儒教や仏教の考え方を取り入れ、十七条憲法を定め、役人の心得を示した。憲法と言うのは国の基本原理が書かれているものだが、そこに儒教・仏教の考えを取り入れたと言う事は、中国や朝鮮に学べと言う趣旨が盛り込まれていると言う事だ。今の日本国憲法はGHQによってアメリカの思想が多く盛り込まれたものだが、当時日本が学ぶ国は中国・朝鮮であったため、そうなったのである。また外交に関しては遣隋使の小野妹子がまさに今の外務大臣のような役割を果たす。当時の外交は対中・対朝鮮を意味する。進んだ政治・経済・文化ともに世界一だったのは中国であるため世界は中国から学んだのである。小野妹子の使命は中国との対等な国交、つまり不平等条約無しでの条約締結であった。当時の中国は高句麗と対立していた。一方日本も高句麗と対立していたため、利害関係が一致したこともあり、中国との平等条約締結に成功することになる。このあたりが聖徳太子の強かさを感じる部分である。また小野妹子だけでなく多くの留学生・留学僧が中国(隋)に渡った。まさに今と逆の現象が当時起こったのである。  一方渡来人(中国・朝鮮側)がもたらしたものの中でとりわけ重要なのが漢字ではなかろうか。漢字は現在日中韓で使われているが、これは記録や手紙などにおいて重要である。中国の皇帝との伝心において漢字はなくてはならないものであったと思う。当時日本には文字を書く、手紙を書いて伝えたい事を伝える、記録に残さなければならないものを文字として記録に残すと言う文化・風習が無かったのだろうか。とにかく、文字が無ければ政治は司れない。大陸アジアはこの時日本に多大なる影響を与えた事は確かだ。

法隆寺 世界最古の木造建築であり、1993年に日本最初の世界遺産として登録。聖徳太子が建てた。
疑問点はなぜ日本が世界最古なのか、中国や韓国の方が歴史があるのだからありそうなものなのに。戦争でなくなってしまったのか。

17条の憲法(二条)あつく三宝をうやまえ。三宝とは仏・法・僧である。

仏教 紀元前6世紀頃古代インドで釈迦が始めた教え。インド王の保護により盛んになる。日本に伝わったのは交流のあった百済から6世紀頃であるため、1000年以上後になって伝わったことになる。
聖徳太子や蘇我氏の勧めにより日本全体に広まっていった。

聖徳太子の死後、蘇我氏の力が一層強くなった事を警戒した中大兄皇子(天智天皇)は、中臣鎌足(藤原鎌足)とはかり、645年、蘇我氏を倒した。そして、唐に習った国づくりを目指し改革に着手する(大化の改新)が、その実現にはこの後50年ほどかかった。

白村江(はくすきのえ)の戦い

新羅が唐と組んで、百済を攻めたので、倭国は百済を支援するために大軍を送り、新羅・唐との連合軍と戦った。しかし663年、倭国の軍は白村江で大敗し、朝鮮半島からひいた。倭国は唐・新羅からせめてくるのに備えて、山城や水城を築くなどの守りを固めた。福岡では水城・大野城・基肄城(きい)が築かれた。日本に亡命した百済の人々の知識や技術を取り入れて、本格的な国内の改革にとりかかる。

防人 対唐・新羅対策の軍隊。九州の海岸を守らせる。屈強な東国の人間が任務に当たる。
新羅・唐VS倭国・百済 日中韓の戦争

山城(やまじろ) 山頂や山腹に設け、防御を自然の険しい地形に依存した城。Ex岩国城⇔平城

国分寺 聖武天皇の時代、全国で伝染病が流行し、飢きんが起こった。世の中の不安が増すと、古くからの神に代わって、仏教を信仰する人が増えた。そこで聖武天皇やその后は仏教の力で国を守り、不安を取り除こうと考え、行基らの協力で、都に大仏を本尊とする東大寺をたてた。東大寺が国分寺の総本山。国分寺は741年、聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺。全国66カ国と3島(壱岐対馬・多)。大陸風の色鮮やかさが特徴。国分寺建設の際、豪族の墓である古墳の土も使われる。律令制下では無用なものだから。

壬申の乱 672年。中大兄皇子(天智天皇)の子大友皇子と、同天皇の実弟大海人皇子との間で起こった王位継承の争い。一ヶ月あまりの戦いの結果、大友皇子は自害した。
大海人皇子は天武天皇となり、天皇を中心とする強い国家、中央集権型国家を目指した。なぜなら唐や朝鮮半島に軍事で対抗しなければならなかったからである。
皇帝が国家を支配する唐の制度に習い、律(刑罰の決まり)と令(政治の決まり)に基づき、国を治める律令国家の仕組みを作ろうとした。
 701年、大宝律令によって、天皇を中心とする太政官が政策を決め、その下にある8つの省がその実施に当たった。この太政官制度は明治初期も使われた制度である。
 役所には役人がおかれ、現代の役所まで受け継がれている文書と印による政治が始まった。この中央政府を朝廷という。朝廷とは天皇を中心とする中央政府のことを言う。地方は国・郡・里に分けられ、中央から派遣された人が監督した。こうして豪族に支配を任せていた仕組みが改められ、全国を統一して支配する仕組み、いわゆる中央集権国家が整備された。
 また君主の称号が「大王」から「天皇」に改められ、さらに大宝律令では正式な国号がこれまでの倭から日本へと改められた。
 平城京は唐の都長安を模して作られた。平城京の市では、それまで物々交換だった品物がお金で買えるようになった。

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) 唐で活躍した政治家。結局日本に帰れず、中国で死去。

班田収授法 田を与えて税金を取る。要するに公共事業やニューディール政策のようなもの。
租は稲の収穫の3%を納めるもので、重い負担ではなかったが、調(特産品)と庸(布)は、自分達で都まで運ばなければならなかったため重い負担であった。

墾田永年私財法 743年。新たな開墾地であれば私有を認める。これ以後、貴族や寺社なども開墾に力を入れるようになった。農業と言うのは小作より自作の方が、作るモチベーションがあがるから。この墾田永年私財法により、後の荘園へと繋がる。

平城京から平安京への遷都の理由 桓武天皇が寺院と政治との結びつきが強くなったため、それを避けるために。つまり政教分離を実施しようとしたのである。
 因みに桓武天皇の母親は渡来系、つまり朝鮮か中国人のハーフと言う事になる。日本の皇族は純日本人なわけじゃない。

蝦夷 東北地方北部や北海道に住んでいた、朝廷の言う事を聞かない人達。
蝦夷の首長の一人アルテイは、789年朝廷軍を迎え撃って勝利をおさめ、以後13年間抵抗を続けた。しかし802年に坂上田村麻呂がせめるとついに降伏した。田村麻呂は蝦夷の信望の厚いアルテイを助けるように朝廷に願い出たが、受け入れられず、アルテイは河内(大阪府)で処刑された。アルテイの碑は京都の清水寺にある。

摂関政治 藤原氏は一族で朝廷の官職を独占した。また、自分の娘を天皇の后とし、生まれた子どもを天皇にして、天皇がおさない時には摂政、成人すれば関白となり、天皇にかわって政治を行った。摂政と関白は太政官よりも地位が高く、実際は政治の最高の地位にあった。今で言う内閣総理大臣。
藤原氏の源流は藤原鎌足(中臣鎌足)で、彼は中大兄皇子と組んで、蘇我氏を滅ぼした人物である。

紫式部・清少納言 は藤原氏の娘達の家庭教師。天皇と自分の娘を結婚させるためにはそれなりの教養がいるため、藤原氏は二人のような優秀で教養のある家庭教師をつけた。
 また藤原氏は月に20日ほど内裏(天皇がいるところ)に出かけてはゴマすりをしていた。

高千穂峰 宮崎・鹿児島の境にある火山。霧島火山群の一峰。1,574m。天孫降臨、つまり神様が降り立ったといわれる伝説がある。山頂には天の坂鉾がある。

歴史書 律令国家、とにかく国家と言うものが形成されてくると、歴史を記録しなければならなくなる。そこで作られたのが『古事記』『日本書紀』である。伝承や説話・神話をもとに天皇が日本を統治する仕組みとその正当性を明らかにする目的で書かれた。
 また産物や地名の由来・伝承などを国ごとにまとめたのが『風土記』である。

白紙に戻す遣唐使 唐が衰え、国交を結ぶメリットがなくなった。危険な航海をしてまで行く意味がなくなったと菅原道真が判断したから。宋とは正式な国交は結んでなかったが、博多商人を通じて交流は盛んに行われていた。

浄土信仰 阿弥陀仏にすがって、死後に極楽浄土に生まれ変わる事を願う。

都や城が内陸にある理由 防御の面もあるが、海沿いや、平野部ではしばしば洪水などで土砂が氾濫する恐れがあるためと言う理由もあるのではないかと思う。治水の技術はとても難しい.

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