ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの日米教育比較 教育経済学の観点から 第二章

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
? 教育と経済

1 
日本の教育の特徴は、全国均等の教育サービスにあった。そして、一昔前は、お金のない家庭でも頑張って勉強すれば東大にも行けた。しかし近年は国立大学の学費も私学並みに高くなってきたし、県立高校のレベルも有名私立に比べかなりレベルを落としてきている。例えば福岡県下においてトップの県立高校修猷館高校を例に出すと、おそらく2007年度の修猷館高校学年一位〜十位のレベルは、1987年度の同校の学年100位〜200位と同程度のレベルであると思われる。それだけ、近年は私学志向の親が多いという事だ。つまりいい教育を受けるためには、お金をかけなければならなくなってきている。
一方アメリカではどうだろうか。アメリカというと一見自由競争・能力主義の国のように思えるが、エリート中のエリートについては、実態は必ずしもそうなっていないようだ。年間2万ドル、3万ドルの私立校の学費を支払える家庭から、生え抜きのエリートが登場しているのが実情のようである。つまりエリートはエリートの家から再生産される。自由競争と言うと皆が平等に機会を与えられてるようで聞こえはいいのだが、実際には最初からハンデがあり、平等な社会とはなっていない。

2 メリトクラシーの逆説

(1)20世紀の日本とアメリカに起こったこと
ここでハーンステインとマレイが発表したメリトクラシーの逆説の説明を交えながら、教育と経済についての相関を見ていくことにする。
アメリカも日本も今は金持ちがよりよい教育受けられるという傾向にあるが、両国ともかつてはそうではなかったようだ。確かに20世紀の初頭のアメリカにおいて、例えば医師、弁護士、大学教授、企業の管理職、その他専門職などの所謂高所得で高貴な職業は、身分や財産によって区別された特定の階層にのみ限定されていた。例えば、ハーバード大学などの一流大学は、特定の人種(白人)、民族(アングロサクソン)、宗教(プロテスタント)によって文化的に特徴付けられる富裕層の子弟、すなわち、いわゆるWASP (White, Anglo-Saxon, & Protestant)に対してのみ門戸を開いていた。しかし、20世紀の中葉にさしかかり、これら高等教育機関は、これまで社会各層に散在していた優れた知能の持主に対し、出身地や身分にとらわれず、等しく教育の機会を提供するようになった。その結果、全米から高い知能を持った若者が、一部のエリート大学に集中するようになった。つまり家が貧しかろうと、人種がどうであろうと、努力して学力を身に付けたもの、もしくは頭は抜群に良いのだが、WASPではないと言う理由で一流大学に行けなった人達にも門戸を開いたというわけである。
一方、近年の技術革新により、現代の経済活動はますます知識集約的になって来た。そのため、これらエリート大学の卒業生、専門職大学院を卒業した学生が身に付けた能力が、そのまま所得に反映されるようになった。今や、経済的成功を決めるのは、家柄や親の経済力ではなく、個人の知能となった。この現象は我が国においても、戦後に起きた現象である。我が国も戦前は身分や財産によって就ける職業が固定されていた。しかし、戦後はどんな家柄であろうと、自助努力次第でいい大学に行く事、良い就職先に就くことも可能になった。

(2)知的階層性
ところが、この努力して高い知能を得た人々、もしくは元々知能の高かった人々が経済社会で成功を収めるようになると、その地位はそのまま、彼らの子弟に受け継がれるようになって来た。なぜなら、知能というものは、遺伝する傾向が強いからである。こうして優れた知能を持つ人々が、代々、その経済力と社会的地位を継承していく、「知的階層制」が成立しつつある。

(3) アファーマティブ・アクションの成果とは
アメリカもしくは我が国でも、低所得者の子女は高い授業料の大学に行けない、としばしば言われる。しかしながら、成績が優秀であれば学費が免除されるスカラシップ制度や、日本学生支援機構や自治体、民間金融機関などによる教育ローンシステムが充実している。さらに、Affirmative Action (アファーマティブ・アクション)として知られる、マイノリティー(社会的少数派)に対する優先入学の制度もある。確かにこれらの制度により救われた人もいくらかいるだろうが、私は今の日米を見ていて、知的階層性が解消しているようには思えない。つまりアファーマティブ・アクションの成果は出ていないというのが私の意見である。

(4)
考えられる原因として、現在、お金がなくて大学に行けないような若者は、もともと、遺伝的に低い知能の持ち主だからであるという考え方がある。少しシビアな言い方をすれば、遺伝的に知能の低い人たちに高等教育を施しても、そもそも彼らにはそれを十分に消化する能力がないから、ムダに終わる可能性が高い、というのだ。なぜなら、すでにメリトクラシーがアメリカや日本の社会全体に浸透しており、遺伝的に知能の高い人々は大方、高等教育ですくい上げられていると考えられるからである。逆に言えば、貧乏な家庭の子供には遺伝的に知能の高い者は少ないので、これ以上、アファーマティブ・アクションによって彼らに高等教育の機会を与えても、彼らの社会的・経済的地位を今以上に向上させることは難しいと考えられるのである。
アメリカでは、カリフォルニア大学バークレー校のような一流州立大学のみならず、私立のアイビー・リーグでも、アファーマティブ・アクションが広範に実施されている。アファーマティブ・アクションでは、入学志願者がマイノリティーである場合、彼らが一般受験者の合格ラインよりもかなり低い学力しか持っていなくても、優先的に合格させる。そのため近年、これらのエリート大学で、学生の学力低下、成績不良による退学が問題となってきた。一方、マジョリティー(社会的多数派)からは、アファーマティブ・アクションは能力の高いマジョリティー出身の学生から機会の平等を奪っているという意味で、「逆差別」である、という批判が起こっている。こうしたことを背景に、近年、アメリカの有力大学では、アファーマティブ・アクションの規模を縮小する動きも見られる。社会の各部門への人材配置を、身分や経済力ではなく、能力にのみ基づいて行うようになると、ますます、生まれつきの能力差(IQで測定される遺伝的な知能)によって、社会的成功が決まることになる。能力の遺伝を政策的に防ぐことは難しいから、結局、代々、特定の階層が社会の上層部に居座ることになる、というわけである。
現在の日本では、ごく一部ではあるが、大学入試や公務員の採用において女性優遇入試(女子特別枠)や女性優遇採用(千葉県、大阪府、名古屋大学、東横イン、TOTOなど)がなされていることがある。
以上のような見解を簡潔に整理すると、次のようになる。知能指数の高い人の教育の収益率は高く、知能指数の低い人の教育の収益率は低い。したがって、教育制度への政策的介入の効果は小さい。個人の社会的成功をもたらすのは、親の経済力や家庭環境というより、遺伝的に受け継いでいる知能指数(IQ)である。経済力のある家庭に生まれた人ばかり成功しているように見えるのは、すでにアメリカが「能力支配(メリトクラシー)」の社会になっているからにすぎない。

(5)トリクルダウン理論
しばしば、効率最優先・成長率最大化の経済政策は、所得分配の不平等化を促進し、経済社会に大きな歪みをもたらす、と批判される。一方、所得分配の平等を重視しすぎると経済の効率が悪くなり、そのツケは結局のところ社会的弱者に回ってくる、という考えもある。逆に言えば、所得分配の不平等をあえて放置したほうが、かえって弱者の経済厚生も高まるというわけである。このような理論を、The Trickledown Theory という。Trickledown とは、経済成長の果実が、金持ちから貧乏人に「こぼれ落ちる」という意味である。ここでいう「効率」を追求するとは、要するに、経済全体で分配できる生産物・サービスの総量、すなわち「パイ」の大きさを最大化することである。経済成長の文脈で言えば、「パイ」を最大化するとは成長率を最大化することである。標準的な経済学では、まずパイの大きさを最大化し、次いでそれを皆が納得できるように分配するのが望ましい、とされる。皆が自分の取り分を大きくしようとして争っていると、いろいろなところで非効率なことが生まれ、結果的にパイの大きさが最大化されないということもありうる。効率が悪いということは、皆の分け前のもととなるパイが小さい、ということである。したがって、分配にばかりこだわっていると、結果的に貧乏人が大きく損してしまうことも起こり得る。分かりやすい例を挙げるとするなら、戦後の日本経済についてだ。日本は戦後高度経済成長を遂げたが、その結果、大きな不平等が発生し、社会の最下層はより貧困に苦しむことになったか?もちろん、答えは否である。経済成長の結果、最下層は大きな利益を得た。すなわち、本来、効率性と平等は必ずしも相反するものではない。むしろ、効率をできるだけ追求してできるだけパイを大きくすることが、社会の最下層にとっても望ましいのであるとするのがトリクルダウン理論なのである。

(6)メリトクラシー・アリストクラシー・メディオクラシー
ベナブーによれば、社会の基本原理は、メリトクラシー(能力主義)、アリストクラシー(貴族政治)、メディオクラシーという三つに分類される。それぞれを順に見ていこう。 

・メリトクラシー(Meritocracy)
メリトクラシーに基づく社会とは、機会の平等を尊重して税引き前所得が決まるが、結果の不平等については容認して、なるべく裁量的分配を実施しない社会である。つまり今の日米の状況がこれに該当する。

・アリストクラシー(Aristocracy、階層による支配)
アリストクラシーとは、機会の平等=ゼロ、という場合である。すなわち、税引き前の所得は全く本人の能力を反映せず、結果の再分配は、支配階層の恩情として実施される、という世の中である。例えば、江戸時代のような封建社会は、アリストクラシーである。個人の職業選択は、「士農工商」とよばれる身分制度によって大枠が定まり、各身分内でも、「家老の子は家老、足軽の子は足軽」と言われるように、出自によって昇進の程度は限定されていた。福沢諭吉が「門閥は親の仇でござる」と嘆いたことは有名である。今日でも、規模の大小はともかく、企業のオーナー経営者の子弟として生まれた者と、一般サラリーマンの子の間では、大きな経済的機会の格差があり、機会の平等が保証されているとは言えない。
・メディオクラシー(Mediocracy、凡人による支配)
これは、結果の不平等=ゼロ、という世の中である。再分配後の個人所得は、各人の能力を全く反映せず、均等化される。これは、往年のマルクス主義における「生産は能力に応じて、分配は必要に応じて」というスローガンに近い。日本社会ではこれまで、少なくともタテマエの次元では、結果の不平等を容認しない考えが強く、結果の不平等が増大する傾向がうかがわれた時代には、必ず不平等の拡大を憂える論調が有力となってきた。例えば、1980年代後半には、地価の高騰によって、土地を持つ者と持たざる者との間の資産格差の拡大が問題となった。続いて、2000年頃には、成果主義賃金の導入等によって、サラリーマンの間の所得格差が広がり、議論の的となった。アリストクラシーの下では、そもそも努力する機械が与えられないから、競争への社会的加熱は起こらず、経済活動が停滞しやすい。一方、メディオクラシーの下では、努力した人もしなかった人も等しく成果を受け取ることになるので、やはり競争のインセンティブが弱く、経済の活力は低下してしまう。これに対し、メリトクラシーは、機会の平等を保証した上で、競争の結果として生じた不平等を、トリクルダウン理論が補い、下層市民にもメリットが零れ落ちる形となっている。そして近年の日米は、基本的にメリトクラシーに基づいて形成されてきた。メリトクラシーが徹底することによって、結果的に優れた知性を遺伝的に受け継いでいる人々に富が集中する「知的階層制」が発生するのである。

(7)お金を借りる人は金持ちか、それとも貧乏人か
メリトクラシーの社会とは、個人の能力のポテンシャルを最大限引き出し、他人と競争し、競争に勝ったものが社会をリードして行くものである、と言うことは先ほど述べた。要するに徹底的に効率と合理性を追求する社会がメリトクラシーだと言える。もし仮にその効率を妨げている障害があるとすれば、それは何であろうか。それは、資本市場の不完全性である。資本市場の不完全性とは、資産の少ない者が借入制約に直面していて、効率的な投資を実現するだけの借り入れができないことである。ベナブーは、資本市場が不完全で、資金の借入に制約がある場合には、機会の平等を高めるべく、親から受け継いだ遺産のより多い者からより少ない者へと再分配することによって、経済成長率が高まることを、理論的に証明している。言い換えれば、機会の平等の追求が、経済の効率性を高めるということである。このように、「機会の平等」と「効率性」とは互いに相反するものではなく、むしろ補完し合うのである。もっと具体的に説明すると、親からの遺産が少ない者は、借入制約に直面していて、効率的な投資ができない。普通、金持ちとはお金を貸す人であり、お金を借りている人はみな貧乏であると考えられている。しかし、それは誤解である。むしろ、ほとんどの庶民は、有効な投資機会があってもそれをまかなうほどの資金を調達できないから、銀行の低い預金金利に甘んじているというべきではなかろうか。世の金持ちとは、かつては外部からお金を借りて、それをうまく活用して大きな富を築き、借金をきちんと返済した人である。せっせと銀行に貯金して資産家になった人はいない。お金を借りている人のほうが、あえてリスクをとって投資することによって、資産を速やかに、大きく増やせるのである。例えば、地価が下落した今日、大金を持っている人にとって、マンション経営は、銀行預金よりはるかに有利な投資である。今後、地価高騰の再来があまり望めないとしても、空室のない賃貸マンションのオーナーには、5%ぐらいの利回りは十分に達成可能である。ゼロ金利の今日、たとえ借金してでもまとまった金を用意できる人は、自己資金をせっせと貯金している庶民よりも、明らかに有利な投資機会に恵まれている。また、お金がなくて大学進学を断念している人は、大きな投資機会を奪われている。今日の日本で大学進学とは、1400万円の元手で8000万円の収益を手にする投資である。これは、収益率としては、実に6%に達する。銀行が軽い審査で学資を貸してくれれば問題はないが、現実にはそうなっていない。消費者金融で借りられる、と思うだろうが、良心的な消費者金融でさえ金利は20%近い。6%の収益率ではペイしない。そもそも教育投資は、その収益の回収に30年、40年かかる超長期プロジェクトであって、消費者金融はそんなに長い間返済を待ってはくれない。だったら奨学金があるだろうと思うだろうが、この奨学金を得る事ができるのはほとんどの場合、大学に入学して何ヶ月か経ってからである。つまり、大学に入るために入学前に学費を納めなければならない。よって大学に行きたくても行けない、大学に行くと言う事に投資しようと思ってもできない仕組みになっているのである。このように、現代の経済で機会の不平等の原因となっているのは、資本市場の不完全性、つまり、貧乏人が借金できないこと、なのである。そして、資本市場の不完全性の下では、貧乏な家庭に生まれた若者にできるだけ投資の機会を与えて機会の平等を進める政策こそ、経済の効率性を高め、高度成長に貢献するのである。

3 大学に進学するということの意義
(1)アメリカの場合
先ほど、大学に進学することは有益な投資であると述べたが、それをもう少し詳しく見てみることにする。まず、時間当たり平均賃金を見ると、高卒までの学歴では、賃金に大きな差がないのに、学歴が四大卒、修士と上がるにつれて、急激に格差が拡大する。例えば、高校中退と修士課程修了者では、100%の賃金格差がある、つまり、修士は高校中退の約2倍の賃金をもらっている。つまり、学歴→稼得能力という因果関係が成立している、と考えられる。この場合、教育が労働者の生産性を上げていることになる。
しかし反対に、もともと優秀な人、将来仕事ができるようになる人が、大学、大学院などより高い教育段階に進んでいるにすぎないと見ることも可能である。すなわち、因果関係が、稼得能力→学歴、と流れているようにみなすのである。この場合は、教育の役割は、生産性を上げることよりも、優秀な人材を選別するスクリーニング機能にある、ということになる。過去20年にわたって、教育収益率が上昇を続けているのは、IT革命などの技術革新によって、経済活動がより知識集約的になっているために、より高度の知性を身につけた労働者が労働市場で高く評価されている、と解釈できる。

(2)日本の場合
これに対し日本では、どういうことになっているか。矢野真和は、我が国の学歴別生涯賃金格差は、高度成長期に比べてやや縮小したが、80年代以降は安定的に推移していると報告している。1990年代後半には、高卒を100とすると、四大卒が135、短大卒が110、中卒が90、といったところである。大学収益率、短大収益率ともに、1960年代には9%程度であった。その後、短大収益率は急速に低下し、3%程度になったが、大学収益率は、引き続き6%台を維持している。将来的にはどのような傾向が予想されるだろうか。経済のグローバル化によって、経済活動はますます知識集約的になると予想される。とすれば、今後、大学収益率は上昇こそすれ、大きく低下することはあるまいと思われる。ただし、高等教育の大衆化によって、大学間の格差、いわゆる学校歴格差は拡大するだろう。

(3)学校歴格差
日本は四年制大学や短大などを合わせて1200校ほどである。一方アメリカでは4000校あるといわれている。我が国の人口は1億2千万人強に対し、アメリカは3億人強。比率で言えば若干アメリカの方が多いという事になる。このことが意味することはアメリカの大学の方がよりピンからキリまで大学が存在するという事である。つまり学費と機会費用さえ厭わなければ、アメリカであっても誰でも大学にいけるということである。アメリカにも所謂「Fランク大」と言うものが存在するという事である。大学の大衆化が進んでいる社会であるならば、学校歴格差も当然広がっている事だろうと思われる。

(4)大学院教育
アメリカの場合高等教育の真髄は大学院教育、とりわけ専門職大学院にある。専門職大学院とは具体的にビジネス・スクール・ロー・スクール・メディカル・スクールなどである。そしてこれらの大学院収益率が飛びぬけて高いのである。社会でエリートとして認知されるためには、これらの専門職大学院(Professional Schools)に進学することが、アメリカでは必須なのである。日本でも、最近専門職大学院がちらほら出来始めているが、日本でもアメリカのような傾向が見られるのであろうか。

4 
ところで、完全な機会均等が実現されるとどうなるのであろうか。完全な機会均等とは、親の経済力、職業、地域社会の特性など、子どもが自分で選択できない外的な環境の差から来る全ての不平等をなくすということである。親が貧乏でも、低学歴でも、地位の低い職業についていても、教育観が間違っていても、無気力でも、そして住んでいる地域全体がそういう人の多い地域であっても、その子どもに能力があれば、どんなに高い教育でも受けさせる事ができ、どんなに地位の高い職業にも就く事ができるということである。能力があっても意欲がない子供もいるだろうと言う反論もありえるが、今日の教育社会学は意欲もまた階層が規定すると言っている。とすれば、完全な機会均等社会では、階層に規定された無気力は存在しない事になる。
しかし、こうした完全機会均等論は解決しがたい問題を内包している。すなわち、もし、完全なる機会均等社会が実現したら、結果の差は全て純粋に個人的な能力に帰せられる。しかしそれはそれで非常に苛酷な社会ではないかと思える。お前の成績が悪いのは、親が貧乏だからでも、低学歴だからでもなく、ひとえにお前の頭が悪いからであり、勉強や仕事に意欲を持てない性格だからなんだということになってしまう。言い訳がまったくできない。そしてそれは究極的には、頭の悪さや無気力の原因を遺伝子に求める事になり、悪しき優生思想にたどり着く危険がある。
日本では露骨に人に優劣をつける事はしなかった。社会に人材を送り出すまで、高校入試と大学入試の二度の筆記選抜試験をあえてはさんでいるのは、本人の能力を徐々にさりげなく自覚させる事で、人的資本を効率よく、適正な場所へ配置しようとする狙いがあるように思われる。時に受験による選別をマスコミや教育界は激しく批判するが、そんな悪評の中でも受験システムが日本にまだ存在しているという事はそれだけのメリットがあるということだ。受験のための詰め込み教育を重視する日本型と、生徒主導で好きなことが学べるアメリカ型の共存はありえないのだろうか。
日本は戦後、メディオクラシーの社会だったように思う。比較的下層市民に恩恵があったし、全国民皆平等に扱われてきた。単一国家日本だからこそ出来た芸当だ。そしてアメリカでは伝統的にメリトクラシー社会、能力のあるものが上にいける社会。ヨーロッパではアリストクラシー、階級がものを言う社会であった。私の意見では日本は今、メリトクラシーかアリストクラシーかどちらかの選択を迫られているように思う。メリトクラシーは効率はいいが、格差を生む。アリストクラシーは効率は悪くなるかもしれないが、人間関係がギスギスしていない。ただ、今現在の日本政府はアメリカ型の社会を目指そうとしている。私はこれはアメリカが常に移民を受け入れ、優秀な人材を世界中から集めるシステムがあったからこそ出来た芸当だと思っている。日本もメリトクラシーを目指すなら、移民を受け入れるインフラ整備や、日本人の価値観を変えていく必要があると思われる。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。