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チェダゼミナールコミュの卒業論文 第五章

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?教育に競争原理を持ち込むか否か

1 マイケル・ポーターの競争理論
私は教育界において競争原理を導入することに賛成の立場を取るが、世間一般で言われている競争原理とは少々異なる。それはマイケル・ポーターの競争論と一緒である。競争をしない状態を作り上げるために、「差別化」により、他社と異なる商品・サービスを提供し、差別化した独自の商品において独占的な地位=ポジションにつくこと。ポーターの競争論は「競争しないことが、企業にとって最適な競争論である」としている。
 教育とは効率を求めるのではなく、効果を求めるものであるとよく言われる。だからと言って教育現場が非効率であって言いというわけではない。

2 教育改革と教員免許更新制度
(1) 三つの教育改革
教育改革は時代の趨勢の変わり目に行われてきた。第一次教育改革は1872年(明治五年)の学制発布からである。これはドイツ・フランスなどの中央集権型国家がモデルであった。誰のための教育かといえば「天皇」である。
 第二次教育改革は戦後の1947年、日本国憲法・教育基本法制定からである。これにより民主社会の実現・平和的文化国家の建設・経済再建のための新学制への転換が図られた。つまりはアメリカ経済にキャッチアップするための教育であり、天皇のための教育というのは影を潜めたのである。
 第三次教育改革は、1971年の中央教育審議会46答申、臨時教育審議会の4次にわたる答申からによる。これは、高度経済成長による社会情勢の変化から、教育制度も変えるという後追い的なものである。第一次・第二次と違って見習うべきモデルや絶対的な権力者が存在しない。あえて言えば韓国の教育制度くらいである。
第三次教育改革(中央教育審議会)で実現された主なものは
?幼稚園の普及
?高等教育(大学)の拡充
?特殊教育(障害者教育)*コストがかかる
?教員の待遇改善(給料アップ)これまでは教員になるまでのハードルは低かった。なぜなら教師はあこぎな職業とされていたから。そのため教育学部を出た人もどんどん民間に流出していた。これにより「でも・しか」教師が急増し、教師の質が悪くなったのである。そこで、給料をアップさせ、能力のある人の就職を促した。しかしそこには教師の適正性を判断できる仕組みは存在せず、単に給料・待遇面を良くするだけであったため、結局のところ改善は成功とは言えなかった。

(2)教師リストラの合法化
自民党は今年度ついに教員免許更新制度を実現させた。私はこれについては賛成である。この教育改革は、自民党が効率化するためのものである。新規採用者を締め出して、なんとなく免許を取ろうとする「でも・しか」教師をなくすためである。保守的な自民党にしては珍しいネオリベラリズムである。というより、使えない教師を抱え込む余力が国にはもうないということを示している。更新制導入の真意は、リストラを合法的に行うためのものだと筆者は考える。東京都ではもう教師に市場原理が導入されている。ちなみに教員免許更新制度が導入されているのは、先進国においてアメリカ合衆国のみである。更新条件は一定の勤務実績と20~30時間の講習が必要である。つまり、ペーパー教師ではだめであるということである。

(3)教員免許更新制のメリット・デメリット
それではなぜここにきて免許更新制なのだろうか。それは、これまで公務員全体についての分限制度がうまく機能していなかったためである。この更新制を導入することによるメリット適格性を欠く教員への対処が進む、つまり合法的に教員をリストラできることと、更新のための厳しい研修を課すことによる、研修の活性化などがあげられる。それに対しデメリットというか導入に当たる問題点であるが、主な資格において有効期限を付しているものは存在しないことの比較において、教員にのみ有効期限を付することは慎重な対応を要するとされている。また、現職にも適応させるにも問題点が存在するとされている。
(4)簡単に取得できる教員免許
 そもそも教員免許とは現行では、学士の学位取得と教職課程の単位取得のみで取得できるようになっている。そこには、教師としての適格性を判断できる仕組みはない。そこで、次のような評価基準を国がつくる。
?使命感や責任感
?社会性や対人間関係能力
?幼児児童生徒への理解
?教科の専門知識
?指導力
 免許更新制導入による私の見解は、メリットと問題点は存在するが、デメリットらしいものは存在していないのではないかということだ。
 もう一点は、むしろ現職の人にこそ更新制度を適用させるべきだということだ。とくに中央教育審議会以前に教員になられたかたがたは、すくなくともここ10年間に新規採用された人達やこれから教員にならんとする人達より、個人差こそあれ全体的に見ればレベルは明らかに低いはずである。
責任感や使命感、指導力不足の教員は生徒達にとって大迷惑である。教師の資質により、生徒と進路が大きく変わってしまうことを今の教員はどれくらい自覚しているのだろうか。ともかく、教員の平均年齢45歳というのはどう考えても高すぎである。この平均年齢を10歳下げれることができれば、義務教育費(つまり教師の人件費)はかなり減らすことができるだろうし、優秀な人材が現場に多く送られる事になるだろう。

3 法科大学院
2004年度開講になった法科大学院は、一学年の定員が6000人弱に対し、司法試験合格者数は現在毎年1300人前後に過ぎない。たとえ合格者数を3000人と門戸を広げても、卒業生で司法試験に合格するものは2分の1どまりで、残りの2分の1のものは、お金と時間をかけて二年間勉強しても、法曹資格が取れない。
これについても市場原理による自然淘汰の原理が働いている。本当に法曹界に入りたいと願うものだけが、競争を勝ち抜けるという事である。

4 オーバードクター
大学院博士修了者は、日本全国で毎年1万人以上いる。しかし、毎年、新たに発生する大学の教員や研究所の常勤研究員のポスト数は3000人程度であり、大学倒産時代を迎えている事もあり、今後増える見込みは無い。特段に優秀な人材は修了と同時に常勤教員になって年収500万円ほどの収入を得られるが、そうでない人は、非常勤教師をしても年収100万円程度しか稼げない。有期の特別研究員などになっても年収200万円程度で、将来の保証も無い。ただ、将来の保障が無い中で、教授を目指すと言う事は、本当になりたいという意志の強いものしか目指さなくなるという点においては、人的資源の適正配分の面で良いことである。

5 教育格差と経済格差と身分格差
(1) 身分格差
イギリスの爵位貴族というのは実はほとんどが新規参入組みで占められる。事実、現在の爵位貴族の大半は、20世紀になって爵位をもらった「成り上がり」である。貴族と言うと「代々続いて…」というイメージがあるが、それは幻想に過ぎない。イギリスだけではなく、大革命以前のフランスでも貴族階級にはかなり出入りがあった。とは言っても、依然身分格差があるのもまた事実である。江戸時代で終わったはずの世襲が未だにまかり通っている事実がそれを物語っている。

6 自助努力
「努力すればナントカなる」のか「努力しても仕方がない」のか、戦後の日本社会は正にそこを二重底にしてきた。憲法第9条と日米安全保障条約の「二重憲法体制」など、戦後社会はいくつかの二重底で作られている。タテマエと本音というより、もっと現実的な共犯関係。戦後日本とはいわば「二重底社会」である。その中でも、「努力すればナントカなる/努力しても仕方がない」の二重底は特に重要な位置を占める。

7 経済格差と教育格差
(1) 「実績主義」という強者の魔力
日本では、中等教育はもちろん、高等教育、大学院教育の費用も、本人ではなく、ほとんど親が負担する。親が負担するから、本人にとっての経済的リスクは機会費用を除けば発生しない。
そのため親の学歴は本人にとって、スタート点の有利さ、「目に見えない」資産となっている。その意味では、実はあらかじめ有利な人間ほど実績主義に傾いていると言える。
「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐる事で、得た地位が自分の力によるものになる。だからこそ、自分の地位を実績主義で正当化できたり、努力主義を「負け犬の遠吠え」とみなせたりする。そういう魔力こそが、「学歴社会」の「学歴社会」たるゆえんなのだ。これが日本の選抜社会の現実なのである。

(2)ホワイトカラーの再生産
 問題はWカラー雇用がもともと親子間で継承されやすい、言い換えれば生まれによる有利不利が他よりも強い事にある。彼らが得ている地位は、絶対的にも、そして、「他の職業と比べて」という相対的な意味でも、本人による成果とはいいがたい。そもそも本人による成果であれば、親の職業によってWカラー雇用へのなりやすさが4~8倍も違うはずがないのである。
戦前の日本社会では、高い学歴を得られればすぐに専門職や管理職の仕事につける一方、成績が良くてもお金がなくて進学できない子どもが沢山いた。実際、1896年〜1915年生まれの「明治の尻尾」世代では、ホワイトカラー雇用出身者は学校を出た後すぐに、Wカラーにつく。W雇用の子どもがW雇用になるのは誰の目にも明らかであった。
それに対して、戦後は生活水準があがって、進学機会そのものは大幅に開かれた。少なくとも形式的には平等な形で、高い学歴を目指す進学競争が展開されるようになった。そして、就職後も、最初はWカラーの下につき、そこからWカラーの管理職への昇進競争が始まる。もちろん実際には、採用時に管理職のまでの昇進は半ば約束されているが、競争は競争であり、機会はより開かれていた。幹部候補生含みの採用でも40歳までに管理職につけない人もいたし、低い学歴でも頑張ってどんどん昇進していく人もいた。
大多数の人にとっては、80年代前半までの戦後の階層社会は、それなりに「努力すればナントカなる」社会になっていた。西欧的な感覚で言えば「中流階級(ミドルクラス)」、戦後の日本の感覚ならば「上」になれる可能性を信じる事ができたのである。その信じられると言う点において、大多数の人々が等しく中流になりえた。それが質の高い労働力を生み、それなりに豊かで安全な社会、希望を持てる信頼できる社会を作り出したのである。「新中間大衆」というのは、結局、この「可能性としての中流」の事だったと言える。

8 解決策
(1) ITを駆使する
一流大学の授業は全てインターネットで放送し、世界中のどこにいても受けられるようにする。地方在住者にとって、東京に集中している一流大学への進学は非常に生活費がかかり、そのために進学を断念せざるを得ないケースがある。インターネット授業をすれば、授業料が高くても、生活費が不要となるので、貧しい地方の貧しい家庭には朗報だ。地方の有為の人材を開拓できる事は社会全体にとっても有意義だ。
 インターネット授業が広がっても、やはり東京で暮らし、友人を作ることが階層上昇のためには有利だ。だから東京での生活を支援する資金が欲しい。そこで、地方自治体がお金を出して、優秀な人材、意欲的な人材を選び、東京への進学、生活費を補助する。

(2) 階級社会を意図的につくり、目に見えるようにしてしまう
ヨーロッパ型の階級社会を意識的にめざす。そもそも格差というものは、小さければ小さいほど競争は激しくなる。例えば、賃金格差にしても、細かな金額を人々は過剰に気にするが、大差ある人との賃金の差を人々はあまり気にしない。つまりエリートはエリートらしく、中流階級は中流階級らしく、労働者階級は労働者階級らしく、ということ。高度成長期以降の日本では、これは「そうなってはいけない」反面教師とされてきたが、選抜システムの飽和の中、エリートが空虚化し現場はやる気をなくすという現状が続けば、「階級社会をやったほうがまだまし」と思う人はもっと増えてくるだろう。「階級」そのものの是非とは別に、階級化しているという現実を踏まえた上で財や地位の公平な配分を考えた方が、誰にとってもよりよい状態になる。
 そもそも、こうした階級社会は中世の遺物ではなく、西ヨーロッパが数百年にわたる近代化・産業化の果てにたどり着いた状態であり、それなりに現実的な解ではある。実際、中高一貫制私立ブームに代表される中等教育のエリート型・非エリート型の分化、少数の移民労働力のゆっくりした導入、二大政党制の願望など、1990年代の日本で起きた変化の多くは、アメリカ化というより、西ヨーロッパ化の途とも考えられる。

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