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チェダゼミナールコミュの西洋経済史A 4年前期 丹後

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西洋経済史
工業化≒資本主義

工業化とは単に工業が発達するということより、資本主義がスタートするという意味合いである。

数量経済史

数量経済学がしばしば近代経済学と呼ばれるのは、近代に発達したからである。
数量分析とは、過去の数字やデータが必要だが、そのデータが多ければ多いほど、その結果には正確さが増してくるのである。

社会経済史

過去のデータがあまり無い時代には、社会全体を見て研究するしかない。

※ ちなみに経済のシステムを統一するには、同時に社会システムも統一しなければならないということなので、中国の今やっている「政治は社会主義」「経済は資本主義」というのは究極的には無理な話。


日本の近代化と西洋

19世紀頃、資本主義が欧米各国でスタートすると、同時に各国は帝国を作ることに躍起になっていく。列強国と呼ばれる国々は軍事力に物を言わせてどんどん植民地を作っていくのである。そうしなければ、いつ自国が植民地化されるかわからないからである。
 そして我が国も何度か植民地化の危機があり、封建社会から近代化を目指すこととなるのだが、効率よく近代化するために一番いい方法とは模倣することである。
欧米が100年かけて近代化したものを同じペースでやっていたのではいつまでたっても従属関係は終わらないのである。そこで日本は例えば欧米が100年かけてやってきたものを50年でやるぐらいのスピードで近代化したのである。
 皆さんもスポーツや歌がうまくなりたいとき、勉強ができるようになりたいときは、上手にできている人の真似から入るでしょう。
 江戸時代はヨーロッパ人をただの野蛮人と捉えていた日本であるが、植民地化されそうになってそんなこと言っていられる状況じゃなくなったのです。

さて、どのようなところを日本は真似たのでしょうか。

まず始めに、集権国家制が挙げられるでしょう。江戸時代、中央には江戸幕府がありはしましたが、基本的には地方自治でした。各藩の境目には必ず関所があったことからもそのことがうかがい知る事ができると思います。
そして、強力な集権国家制度を作るために必要不可欠なものが軍隊です。
江戸時代には侍がいましたが、明治政府は彼らを軍隊にはしませんでした。
なぜかといいますと、侍というのは主君にしか尽くさず、国全体のために働くということはしなかったからです。
そしてさらにテクノクラート(官僚)養成のため東京帝国大学(現東大)が出来、ほかにも京大・九大・北大などが出来ていきました。旧帝大とは官僚養成のための大学であり、他の大学とは異質なものだということを理解しておきましょう。大学別所得ランキングを見ても旧帝大と他の大学では生涯賃金が1.5倍〜2倍ほど違うでしょう。
 そしてそのテクノクラートの指導の下、官営の足尾銅山やら八幡製鉄所などが出来ていくわけです。民間にはお金が無いため、国主導で産業面をリードするしかなかったのです。
次に我々国民の思想も変化させる必要があります。ヨーロッパのように発展したいのなら、ヨーロッパ人のような考え方をするのが手っ取り早いと考えたからです。そこでキリスト教崇拝が始まりました。現在の数ある大学の中で、ミッション系の大学が多く占めることからもわかることだろうと思います。

ただし!!日本の社会構造自体は今も昔もそれほど変化していません。
つまりどんなに欧米の真似事をしてみても、中身は結局日本人なのです。
現在日本は資本主義が発達した状態とはいえ、昔ながらの村社会・結いの社会は変わっていません。


第二章 ヨーロッパ人の歴史認識

中世のヨーロッパ人は他地域に興味がない。イスラムが敵だという認識ぐらい。

ヨーロッパというのは国が違えど、同じキリスト教を信仰しているので、キリスト教徒共同体だといえる。


発展段階論

明治時代の男性の10人に1人は子どもを作る能力の無い人だった。
しかし今日においては、10人に3人が子どもを作ることができない状況。
原因は環境汚染のせいである。
つまりこれから人口が急激に伸びるということはありえない。

ゴールドマン・サックス社が命名した、BRICsに続く経済大国予備軍11ヶ国の総称をネクストイレブンN11という。韓国、バングラデシュ、エジプト、インドネシア、イラン、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、トルコ、ベトナム、メキシコの11カ国である。

これらの国々に共通するのは人口大国ということであり、ほとんどの国々が人口5000万から1億人ほどの国である。

少子高齢化の日本は、今後も経済成長を望むのであれば、人口をどのように維持するのか考えなければならない。

人口が減るという意味合いは、マーケットが縮小するということであり、マーケットが小さいと資本主義の根幹を揺るがすことになる。わが国が大量消費社会で高度経済成長を遂げてこれたように、商品を消費してくれる消費者がある程度いないと資本主義は成立しない。


・ 米国の社会学者の課題

イスラム教圏を研究すること。ひいてはそれがイラク戦争の解決策になるから。


・ 海洋性気候とは

海の影響を受ける気候。

海の影響とは温暖であり、雨が比較的多い。海岸線が複雑で長い。


ヨーロッパの山系

ヨーロッパはユーラシア大陸の20%の面積に過ぎないが、平地が多い。

アルプス山脈もそこまで険しくなく、その気になれば越えられる。アジアの山ほど険しくないのである。
ヨーロッパの河川

日本は川の水量が少ないので、河川交通が発達しない。しかし海上交通が発達していたので問題にはならなかった。
 一方ヨーロッパでは大型船が入れるだけの水量があるため河川交通が発達している。ヨーロッパは平地が多いため、降った雨がすぐには海に流れ込まないため、洪水もあまり起こらないため、治水工事がいらないのである。
 よって巨大な政治権力が出現するということもない。


ローマ帝国と奴隷制

奴隷は市場で売買される。値段は現代の感覚で車一台分。

奴隷は結婚できないので、奴隷の再生産をすることはできない。

であるから、ローマの対外戦争というのはいわゆる奴隷狩りである。

そとから奴隷を連れてくるしかないのである。

マックスウェーバーは、この奴隷制が資本主義への発展を阻んでいたとした。

奴隷制社会とは奴隷の供給が常に必要であり、供給がいったん停止してしまうと奴隷価格が高騰し、やがては破綻へと導かれる。

また、奴隷制とは面倒な肉体労働を奴隷が代替してくれるので、イノベーションのインセンティブが働かない。これは1300年もの中世の間で一度も機械が発明されなかったと言う事実が物語っている。



ローマ人の経済観

「家」経済。

自分で作れないのは恥ずかしいこと。ものを買うのは恥ずかしいこととされ、珍しい食べ物や酒を誇示することが最大の娯楽。

家内奴隷というのは、決して重労働ではなく、人と違うことができる人のことである。詩を読んだり、踊ったり、歌ったりする人。

有閑階級の娯楽は、性欲と食欲を満たすことである。近親相姦(インセスト)も日常茶飯事。
 宴会もおいしいかではなく、いかに珍しいかが勝負となる。寝ながら食べ、吐き続けながら食べる。
ローマ社会は酒池肉林の世界であり、ゲルマンといえばプロテスタンティズムの勤勉な世界である。


北欧から産業革命が起こった理由
さんぽ式農業

これにより、不毛の地でも農業が発達。

農業資本を蓄積することにより、富が生まれる。


フランク王国
5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。

ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー及びスロベニアを領土とした。

成立
フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍としてシカンブリ人など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜はシカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。メロヴィング朝は衰退したものの、王朝を代わったカロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)のとき、フランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。カロリング朝ではローマ教皇との連携を重視し、カール大帝の父王ピピン3世はイタリアのロンバルド王国討伐で征服したラヴェンナ地方を教皇に献上して、それがローマ教皇領の始まりとなった。

分割と衰退
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割するよう遺言した。 814年にカールが72歳で死去した後、王国は唯一生存していた息子、敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)に継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。

ルートヴィヒが840年に死亡した後、息子の1人ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟は兄に反旗を翻して軍事的勝利を得た。その結果3年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、ごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。

うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国(のちに「ロタールの王国」と言う意味の独:ロートリンゲン 仏:ロレーヌの語源となった)は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝のイタリア王国の王位として兼任される様になった。

西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年で途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅であるが、傍系の王族は残っており、諸侯の台頭と相対的に低下した王権の衰退が考えられている。

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