「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)という言葉とともに知られる(出典 Meditationes Sacrae. De Haeresibus. (1597) 『聖なる瞑想。異端の論について』)。独力では果たせなかったものの学問の壮大な体系化を構想していた。体系化の構想はフランス百科全書派にも引き継がれる。
概要 考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(ラテン語訳))は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えである、真理の「信仰」による獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。
この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。あるものが意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 Idea と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。
コギト・エルゴ・スム
『省察』(1641年)方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる事を発見する。有名な「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。(ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムは、デカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるラテン語訳である。詳細は同名の内部リンクを参照されたし)
1618年『音楽提要』Compendium Musicae 公刊はデカルトの死後(1650年)である。 1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii 未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。 1633年『世界論』La Monde ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。 1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie) 試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。 1641年『省察』Meditationes de prima philosophia 1644年『哲学の原理』Principia philosophiae 1648年『人間論』Traité de l'homme 公刊はデカルトの死後(1664年)である。 1649年『情念論』Les passions de l'ame
1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文"Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels"『天体の一般的自然史と理論』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社倒産により極少数のみ公刊であった。(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる。)私講師として職業的哲学者の生活に入る。中途、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞した。またエアランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これも断っている。
ケーニヒスベルクの奥津城1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性痴呆症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。彼は最期に末期の水がわりに水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) と言って息を引き取ったと言う。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在する。
カントによれば、人間の認識能力には、感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリに備わっており、前者の感性には、純粋直観である空間と時間、後者の悟性には、因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。いわゆる二律背反においては、定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は、統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は、与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし到達して停滞することは許さない規則である。(『純粋理性批判』)
超越者がアプリオリな認識能力にとってたんに思惟の対象であることを指摘したカントは、理性が超越者とかかわる別の方法、すなわち実践理性による超越者の要請(Anspruch)を『実践理性批判』において考察する。この書はカント道徳論の基礎であり、物自体はここで「あなたの意志の格律(die Maxime deines Willens)がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。すなわち理論理性に対して物自体である神は、実践理性にとっては人間理性の自由であり、その根拠として神・不死などの観念が要請されるのである。
主要著作 1755年: 『天体の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels 1763年: 『神の存在証明の唯一の可能な証明根拠』Der mögliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes 1763年: 「負量の概念を哲学に導入する試み」Versuch den Begriff der negativen Größen in die Weltweisheit einzuführen 1764年: 『美と崇高の感情に関する観察』Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen 1764年: 「頭脳の病気に関する試論」Versuch über die Krankheiten des Kopfes 1764年: 『自然神学と道徳の原則の判明性』Untersuchung über die Deutlichkeit der Grundsätze der natürlichen Theologie und der Moral 1766年: 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik 1770年: 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis 1781年: 『純粋理性批判』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft 1783年: 『啓蒙とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung 1783年: 『プロレゴーメナ』 Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können 1785年: 『人倫の形而上学の基礎付け』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten 1787年: 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft) 1788年: 『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft 1790年: 『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft 1793年: 『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft 1795年: 『永久平和のために』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf 1797年: 『人倫の形而上学』 Die Metaphysik der Sitten
しかしながら、すぐに、特に、当時の主導的権威であるウィリアム・ブラックストン卿の講義を聴講してから、ベンタムは法曹界に幻滅した。彼が「誤魔化しの悪魔」("Demon of Chicane")と呼んだ英国の法典の複雑さを深く不満に思い、彼は法律の実践の代わりにそれについて著作することを決め、彼の人生を現存する法律の批判とその改良の方法の提案に費やした。1792年の父親の死は、彼を経済的に独立させ、ウェストミンスターで著述家として身を立てることを許した。40年近く彼はそこで静かに暮らし、80歳になってさえ一日に10枚ないし20枚の原稿を書いた。法的改革、社会的改革のための彼の多くの提案には、彼がパノプティコンと呼んだ監獄建築のための設計がある。それは建設はされなかったが、そのアイデアは後の世代の思想家に重要な影響力を持ったし、いくつかの他の刑務所と同様にペントンヴィル刑務所の輻射状のデザインに影響を与えた。
功利主義 ベンタムは多くの法的社会的な改革を提案しただけでなく、それらの改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。この哲学、功利主義は、正しい行為や政策は最大多数の最大幸福(the greatest happiness for the greatest number)―しかし彼は後に二番目の条件(最大多数)を落として「最大幸福原理」("the greatest happiness principle")と彼が呼ぶものを受け容れた―を引き起こすものであると論じた。ベンタムはまた、幸福計算と呼ばれる、どんな行為の道徳的地位も機械的に見積もる手続きを提案した。功利主義は、ベンタムのより有名な門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。ミルの手の中で、「ベンタム主義」は、国家の政策目標の自由主義的概念の主要な要素になった。
ベンタムの理論は、ミルのものとは異なり、正義の概念のうちに具現化される公正さの原理の欠落の問題に直面している、としばしば言われる。例えば、何人かの批判者は、ある人への拷問が、もし拷問される個人の不幸よりもまさって他の人々の幸福の総計を産出するならば、道徳的ということになる、という風に不服を唱える。しかしながら、P. J. ケリーがこれの著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンタムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law [ISBN 0-19-825418-0])の中で力強く論じているように、ベンタムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンタムにとって法は、「その範囲内で個々人が形成し彼ら自身の善き生の構想を追及するところの私的不可侵性を範囲を定めることによって、社会的相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit., p. 81)のである。法は、「安全」、つまり期待の構成のための前提条件を提供する。幸福計算は「自然効用」よりも非常に高くなるような「期待効用」("expectation utilities")を示すので、ベンタムは多数者の便益のための少数者の犠牲を支持しないのである。
ロンドン大学のベンタムプロジェクトによる "The Collected Works of Jeremy Bentham" バウリングの編集による "The Works of Jeremy Bentham" がある。
名言 "いかなる法律も自由の侵害である(Every law is an infraction of liberty.)" "最大多数の最大幸福は、道徳と立法の基盤である(The greatest happiness of the greatest numbers is the foundation of morals and legislation.)"
M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.(全訳:古代における哲学者の間でも最も頑迷なしつけ主義者の政治的理想としての厳格主義を熟慮した結果、それを克服することによって(道徳によるよりも、むしろ法的な適用によって)個人に対しての社会の専制を確立する目的を持った社会システムを、コントは特に「実証主義政治システム」の中で展開したのである。Mill"On Liberty"より直接引用。) このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。
著書 (1843年) 論理学体系 A System of Logic (1844年) Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy (1848年) 経済学原理 Principles of Political Economy (1859年) 自由論 On Liberty (1861年) 功利主義 Utilitarianism (1861年) 代議政治論 Considerations on Representative Government (1869年) 女性の隷属 The Subjection of Women (1873年) 自伝 Autobiography
「バイオエシックス」(biothics)という言葉は、「生命」を意味する「バイオ」と「倫理(学)」を意味する「エシックス」を結びつけた言葉で、ガン研究者のポッター(Potter.V.R.)が、「生存の科学」(the Science of Survival)としての「バイオエシックス」を提唱した。1970年代初めにアメリカで使われ出し、実際の意味から離れて広まっている。