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チェダゼミナールコミュの哲学

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フランシス・ベーコン(1561年1月21日 - 1626年4月9日)はイングランド近世(ルネサンス期)のキリスト教神学者、哲学者、法律家である。


フランシス・ベーコンエリザベス1世の国璽尚書を務めたニコラス・ベーコンの子。ケンブリッジ大学で法律を学ぶ。ジェームズ1世のときに大法官となるが、汚職の嫌疑を受けて失脚。

「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)という言葉とともに知られる(出典 Meditationes Sacrae. De Haeresibus. (1597) 『聖なる瞑想。異端の論について』)。独力では果たせなかったものの学問の壮大な体系化を構想していた。体系化の構想はフランス百科全書派にも引き継がれる。

シェイクスピアと同時代人であり、シェイクスピアはベーコンのペンネームだという説を唱える者もいる(シェイクスピアの項を参照)。


主な著作
『ノヴム・オルガヌム』(新機関)
人間の陥りやすい偏見、先入観、誤りを4つのイドラ(idol 幻像)として指摘し、スコラ学的な議論のように一般的原理から結論を導く演繹法よりも、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」を主張したもので、近代合理主義の道を開いた(イギリス経験論)。
『ニュー・アトランティス』
ユートピア物語。
『学問の進歩』
『随想録』

ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)はイギリスの哲学者、社会契約論者、ピューリタン信仰者。ウェストミンスター校およびオックスフォード大学出身。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。

彼は、王権神授説を否定し自然状態を牧歌的・平和的状態と捉え、公権力に対して個人の優位を主張した。政府が権力を行使するのは国民の信託 (trust) によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば革命権をもって政府を変更することができると考えた。革命権の考え方はのちにバージニア権利章典に受け継がれていく。

また彼は、名誉革命期、ハリントンの提唱した権力分立制を発展させ、立法権と行政権の分離を説いた。また、対内的な行政権を執行権、対外的な行政権を連合権と呼んだ。これがのちにモンテスキューによる三権分立論(司法権・立法権・行政権)まで発展する。

その他、政教分離を説いたり、フィルマーの家父長的政治を批判したりと、現実主義的な考えを展開している。
著作
ウィキメディア・コモンズに、ジョン・ロックに関連するマルチメディアがあります。ウィキソースにジョン・ロックの原文があります。『人間悟性論』或いは『人間知性論』(1689年)
『教育論』(1693年)
『統治二論』(『市民政府二論』、1689年)
第一部
第二部 市民政府の起源、範囲および目的に関する小論
『寛容に関する書簡』(1689年)

ルネ・デカルト(René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者。

概要
考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(ラテン語訳))は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えである、真理の「信仰」による獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。

また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母国語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。

レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏: Cartésien; 英: Cartesian)と呼ばれる。その他、デカルト座標系(仏:système de coordonnées cartésiennes ; 英:Cartesian coordinate system)のようにデカルトの名がついたものにもカルテジアンという表現が用いられる。


[生涯
デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。

母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。

修業時代

学院の背景と方針
1606年デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ学院(La Flèche)に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学院は、フランスに15できており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーン学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。

イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの報せに、学院で祝祭が催されたほどである。

ただし、哲学は、神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。


学院での生活
デカルトは学院において、従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの1つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩にあたる。

好んだ数学に対して、神学・スコラ哲学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や、教師たちにデカルトは終生感謝の念を持ち続けた。


学院卒業後
1614年デカルト18歳のとき、学院を卒業する。その後ポワティエ大学(ポワティエとも)に進み、法学・医学を修めた。

1616年デカルト20歳のとき、法学士の学位を受け、卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては下の「4 数学への功績」も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。


遍歴時代
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。

1618年デカルト22歳のとき、オランダに赴き、ナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、オランダ独立戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。


ベークマンとの出会い
1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという医者でありながら、自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める、近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学的な才能に驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。

1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。


炉部屋の夜
フランクフルト・アム・マインでの、フェルディナンド2世の戴冠式に列席し、マクシミリアン1世の軍隊に入る。

1619年10月、精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。


パリでの交流
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ・ピエール・ガッサンディ・パスカルなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。

そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。

1628年、オランダ移住直前に、みずからの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。


オランダでの隠棲時代
1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が、オランダ独立戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。

32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。

1637年『方法序説』を公刊する。

1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れから、ユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。

1643年5月ファルツの王女エリザベートとの書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリザベートの指摘により心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。

1644年『哲学の原理』を公刊する。エリザベートへの献辞がつけられる。

1645年6月ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。

1649年『情念論』を公刊する。


最後の旅

クリスティーナ(左)とデカルト(右)1649年のはじめから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を三度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。

1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月についにデカルトは、風邪にかかり、肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献したが、デカルトの早すぎる死は、後世に与えた影響力を鑑みると、女王の責任は多大であったと言える。


思想

倫理学
デカルトは、完全に基礎づけられた倫理学を体系化したいと望んでいたが、それまでは暫定的道徳を守るほかない、と考えた。(『方法序説』1)


哲学体系
『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。

デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。

方法
ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の四つの規則を定めた。

明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙/吟味)

方法的懐疑
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、二点挙げられる。一つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、二つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。

この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。又、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。更に、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は悪い霊で、自分が認める全てのものが悪い霊の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられる事になる。

この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。あるものが意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 Idea と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。

コギト・エルゴ・スム

『省察』(1641年)方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる事を発見する。有名な「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。(ちなみに、「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムは、デカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるラテン語訳である。詳細は同名の内部リンクを参照されたし)

コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。

そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する。(明晰判明の規則)


神の存在証明
悪い霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。

第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)
悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。

物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。

明晰判明の規則は存在証明によって確信をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。

なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。


械論的世界観
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。

更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、

宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。

デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。


心身合一の問題
1643年5月のファルツの王女エリザベートからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な王女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリザベートの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。

『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気(esprits animaux)と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の六つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。

デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。

1645年11月3日エリザベートへのデカルトの書簡をみてみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが伺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。


著作
著作を時系列で並べると以下のようになる。

1618年『音楽提要』Compendium Musicae
公刊はデカルトの死後(1650年)である。
1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。
1633年『世界論』La Monde
ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。
1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。
1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
1648年『人間論』Traité de l'homme
公刊はデカルトの死後(1664年)である。
1649年『情念論』Les passions de l'ame

数学への功績
2つの実数を平面上の点の位置(座標)によって表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。

また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方(a,b,c,…)を定数に、最後の方(x,y,z,…)に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、べき数を右に(x3)に書く表記法はデカルトが始めた。

ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランシス=ヴィエタの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。

参考文献
小林道夫『デカルト哲学の体系ー形而上学・自然学・道徳論』(けい草書房)

野田又夫『野田又夫著作集 1 デカルト研究』(白水社) ISBN なし
石井忠厚『哲学者の誕生-デカルト初期思想の研究-』 (東海大学出版会) ISBN 4486011775
伊藤勝彦『人と思想 デカルト』(清水書院) ISBN なし
山田弘明 訳『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社)ISBN 4061595199

エーテル (物理):物理学のエーテル概念はデカルトが提唱
動物精気
松果体
デーモン仮説
デカルト主義(カルデジアニズム)
合理主義哲学
バールーフ・デ・スピノザ(『デカルトの哲学原理』という著作は、デカルト哲学の注釈書の古典として挙げられる。)
ゴットフリート・ライプニッツ
ニコラス・マールブランシュ
ブレーズ・パスカル(デカルトと対照的な哲学者として取り上げられることが多い。)
デカルト派言語学
ノーム・チョムスキー
エドムント・フッサール(『デカルト的省察』という著作があるが、内容はデカルト哲学ではなくフッサール独自のもの。)
心身問題
心身二元論
理神論
自由意志
神の存在証明
解析幾何学
デカルト座標
ポール・ヴァレリー(フランスの作家。デカルトに深い関心を持っていた。)

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、ドイツの思想家で大学教授である。近代において最も影響力の大きな哲学者のひとりである。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論 哲学の祖でもある。

生涯
イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で、皮革工親方の三男として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごし没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った。1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校にすすんだ。1740年には、ケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学を志したが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもとライプニッツやニュートンの自然学を研究した。

1746年、父の死去に伴い大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究では、クヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。その後約9年間、主に家庭教師をして生計を立てる。

1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文"Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels"『天体の一般的自然史と理論』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社倒産により極少数のみ公刊であった。(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる。)私講師として職業的哲学者の生活に入る。中途、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞した。またエアランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これも断っている。

1766年『視霊者の夢』(エマヌエル・スヴェーデンボリの千里眼という超常現象について、基本的に激しく批判しているものの、その存在を認めるか幻覚であるか判断できないという感想も併記)を出版。

後年 カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。 「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ ぺーリツ編『カントの形而上学講義』から)。

他に幾つかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後カントは引退まで、この職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)を著す。前批判期のもっとも重要な著作のひとつで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。

大学教授としてのカントは、哲学のみならず地理学、自然学、人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想の故に、同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。とくにバークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して、誤解を解こうと努めた。

カントの当初の構想では『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし構想の大きさと時間の制約により、理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は、後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを「三批判書」と呼ぶ。 カントは哲学的論争の渦中にいたが、その学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかしプロイセン王立ベルリン・アカデミーには、カントは招聘されなかった。

カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。

カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ『単なる理性の限界内における宗教』を著したが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず、発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮して、この発禁処分を受け入れた。


 ケーニヒスベルクの奥津城1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性痴呆症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。彼は最期に末期の水がわりに水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) と言って息を引き取ったと言う。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在する。


概説

ロシアのカリーニングラードにあるカント像一般にカントの思想はその三つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかしカント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求に応えようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。またドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわばカントを克服しようとしたのである。

カントの思想は以下の三つの時期に区分される。

前批判期 『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで
批判期  1768年 - 1790年。『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ
後批判期 1790年 - 1804年。第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿

前批判期
初期のカントの関心は自然哲学にむかった。とくにニュートンの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの力学や天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。自然哲学においてはことに星雲による太陽系成立についてに関心を示した。また若干の地質に関する論文を書いた。

一方でカントはイギリス経験論を受容し、ことにヒュームの懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、それを経験に基づかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。

またカントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。

こうして知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きを扱う『可感界と知性界について』が書かれる。この時点で後年の『純粋理性批判』の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。


批判哲学
従来人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を、人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。

カントによれば、人間の認識能力には、感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリに備わっており、前者の感性には、純粋直観である空間と時間、後者の悟性には、因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。いわゆる二律背反においては、定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は、統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は、与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし到達して停滞することは許さない規則である。(『純粋理性批判』)

なおプロレゴメナによれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。また、経験に先行しこれを可能にする超越論的(transzendental)という概念は、かりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的(transzendent)と呼ばれ、内在的(immanent)すなわち経験内に限られた使用から区別される。

超越者がアプリオリな認識能力にとってたんに思惟の対象であることを指摘したカントは、理性が超越者とかかわる別の方法、すなわち実践理性による超越者の要請(Anspruch)を『実践理性批判』において考察する。この書はカント道徳論の基礎であり、物自体はここで「あなたの意志の格律(die Maxime deines Willens)がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。すなわち理論理性に対して物自体である神は、実践理性にとっては人間理性の自由であり、その根拠として神・不死などの観念が要請されるのである。

最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。またハンナ・アレント以降、『判断力批判』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。

批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・倫理学への関心を増した。とくにフランス革命にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。その道徳論は義務論倫理として現在の二大規範倫理学の一方をなしている。


エピソード

名と姿
カントの両親は、彼をエマヌエルと名づけたが、長じてカントはヘブライ語を知り、その知識からイマヌエルとみずから改名した(「イマヌエル」とはヘブライ語で、「神共にあり」の意味である)。カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な(身長157センチ程度)人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身体の割に頭は若干大きめだった。なお、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。


青少年教育批判
カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験した。しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記した。啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言える。


独身主義者カント
カントは生涯独身を通した。彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身であったが、ニュートンの場合は、仕事が忙し過ぎて恋愛の暇がなかったと言われる。カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。真相は不明で、カントも忙し過ぎたのかも知れない。


教育者カント
カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となったが、その授業の様子を、当時の弟子のひとりであるヘルダーが伝えている。ヘルダーによれば、カントの講義は生彩に富み魅力あるものであった。カントはいきいきと語る熱心な教師であった。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされる。


規則正しい人カント
カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。
ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの「エミール」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントはルソーに関し、「私の目を開けてくれたのはルソーである。」と述べている。
・・・この話については年を取って生活が単調になった結果、という指摘もある。若い頃にはたまに夜中まで友達と飲み歩くようなこともしていたらしい。


趣味人カントの食卓
規則正しい散歩の後、カントは夕方からは、友人を集めて会食した。カントの論敵の一人ゲオルク・ハーマンは同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となった。カントはウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆した。しかし、客が哲学の話題に触れると露骨に嫌な顔をしたと言われる。『判断力批判』の著者の姿が如実に現れている。逸話の多い哲学者であった。

カントの言葉
私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。
歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。

主要著作
1755年: 『天体の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels
1763年: 『神の存在証明の唯一の可能な証明根拠』Der mögliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes
1763年: 「負量の概念を哲学に導入する試み」Versuch den Begriff der negativen Größen in die Weltweisheit einzuführen
1764年: 『美と崇高の感情に関する観察』Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen
1764年: 「頭脳の病気に関する試論」Versuch über die Krankheiten des Kopfes
1764年: 『自然神学と道徳の原則の判明性』Untersuchung über die Deutlichkeit der Grundsätze der natürlichen Theologie und der Moral
1766年: 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
1770年: 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis
1781年: 『純粋理性批判』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
1783年: 『啓蒙とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung
1783年: 『プロレゴーメナ』 Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können
1785年: 『人倫の形而上学の基礎付け』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten
1787年: 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft)
1788年: 『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft
1790年: 『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft
1793年: 『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
1795年: 『永久平和のために』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
1797年: 『人倫の形而上学』 Die Metaphysik der Sitten

ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748年2月15日 - 1832年6月6日)は、イギリスの経済学者で哲学者、法学者。功利主義の創作者として有名である。

法学を専攻するもウィリアム・ブラックストンの講義を聴いて失望し、功利主義の立場から実定法を批判的に論じた。法典化を推奨し、後世の国際法学に影響を与えた。英単語の codify(法典化する)も international(国際的な)も彼の造語である。他にも、maximize や minimize などの多数の造語は、既存の用語による先入観をできるだけ排除して新たな方法論を記述するための努力の結晶といえる。

彼の名前は、日本では「ベンサム」と表記発音され英語圏でも[ˡbenθəm]と発音されるのが一般的だが、語源から言えば古英語のbeonet(コヌカグサ)とham(村落)に由来するため[1]、tとhをつなげて読まずに[ˡbentəm]と発音する方が本来は正しく(岩佐幹三『市民的改革の政治思想』[法律文化社、1979年]参照)、また日本でも特に法律学者においては伝統的にベンタムと表記することが多いようである(長谷川正安「訳者はしがき」(長谷川正安訳、J.ベンタム著、E.デュモン編『民事および刑事立法論』、勁草書房、1998年)参照)。


生涯
ロンドンのスピタルフィールズで富裕なトーリー党の家族に生まれて、父親の机に座って何巻もの英国史を読んでいる幼児が発見されたときからベンタムは神童として認識された。彼は三歳のときからラテン語を習った。

ベンタムはウェストミンスター校に行き、そして1760年に父親によって、1763年に学士号を1766年に修士号を取ることになるオックスフォード大学のクィーンズカレッジに入れられた。ベンタムは法律家として訓練され、1769年に弁護士資格を得た。富裕な弁護士である彼の父は、ベンタムを法曹にして父の後を継がせることを決め、彼の利発な息子がいつか英国大法官になることをとても確かだと思っていた。

しかしながら、すぐに、特に、当時の主導的権威であるウィリアム・ブラックストン卿の講義を聴講してから、ベンタムは法曹界に幻滅した。彼が「誤魔化しの悪魔」("Demon of Chicane")と呼んだ英国の法典の複雑さを深く不満に思い、彼は法律の実践の代わりにそれについて著作することを決め、彼の人生を現存する法律の批判とその改良の方法の提案に費やした。1792年の父親の死は、彼を経済的に独立させ、ウェストミンスターで著述家として身を立てることを許した。40年近く彼はそこで静かに暮らし、80歳になってさえ一日に10枚ないし20枚の原稿を書いた。法的改革、社会的改革のための彼の多くの提案には、彼がパノプティコンと呼んだ監獄建築のための設計がある。それは建設はされなかったが、そのアイデアは後の世代の思想家に重要な影響力を持ったし、いくつかの他の刑務所と同様にペントンヴィル刑務所の輻射状のデザインに影響を与えた。

ベンタムはしばしば、後にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとなるロンドン大学の設立に関連付けられるが、これは実際には真実ではない。ベンタムは大学が開設された1828年には80歳で、その設立に何の関係もなかった。しかしながら、ベンタムは教育がより広く、特に裕福でないあるいは国教会に属していない人―裕福さと国教徒であることの両方ともオクスフォードとケンブリッジにある伝統的な大学には必須用件だった―に対して、行われるようになるべきであると強く信じていた。ユニヴァーシティ・カレッジは、人種、信仰、政治的信念に関わらず全員を認めた最初の大学であるので、この大学はベンタムの見方に広く調和したし、ベンタムは、彼の生徒の一人であるジョン・オースティンの1829年の法理学(Jurisprudence)の初代教授としての任用を監督した。

死後、ベンタムの肉体は、(彼の遺言書で要求されたとおり)ユニヴァーシティ・カレッジで、木製の棚に保存、保管された。これは"オート・アイコン"と呼ばれる。それは、ベンタムの風変わりな風采が参列できるように公的な行事に際して倉庫から時折持ち出された。ベンタムの頭が保存の過程で深刻な損傷を受けているので、オート・アイコンはいつもは蝋製の頭をもっている。本当の頭は、長年おなじよう展示されていたが、たびたびの学生のいたずらの標的にされ、ことあるごとに盗まれたので、いまでは厳重にしまいこまれている。


功利主義
ベンタムは多くの法的社会的な改革を提案しただけでなく、それらの改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。この哲学、功利主義は、正しい行為や政策は最大多数の最大幸福(the greatest happiness for the greatest number)―しかし彼は後に二番目の条件(最大多数)を落として「最大幸福原理」("the greatest happiness principle")と彼が呼ぶものを受け容れた―を引き起こすものであると論じた。ベンタムはまた、幸福計算と呼ばれる、どんな行為の道徳的地位も機械的に見積もる手続きを提案した。功利主義は、ベンタムのより有名な門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。ミルの手の中で、「ベンタム主義」は、国家の政策目標の自由主義的概念の主要な要素になった。

ベンタムの理論は、ミルのものとは異なり、正義の概念のうちに具現化される公正さの原理の欠落の問題に直面している、としばしば言われる。例えば、何人かの批判者は、ある人への拷問が、もし拷問される個人の不幸よりもまさって他の人々の幸福の総計を産出するならば、道徳的ということになる、という風に不服を唱える。しかしながら、P. J. ケリーがこれの著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンタムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law [ISBN 0-19-825418-0])の中で力強く論じているように、ベンタムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンタムにとって法は、「その範囲内で個々人が形成し彼ら自身の善き生の構想を追及するところの私的不可侵性を範囲を定めることによって、社会的相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit., p. 81)のである。法は、「安全」、つまり期待の構成のための前提条件を提供する。幸福計算は「自然効用」よりも非常に高くなるような「期待効用」("expectation utilities")を示すので、ベンタムは多数者の便益のための少数者の犠牲を支持しないのである。


著作
主な著作は、

『統治論断片』
『立法と道徳の原理序説』
『法一般について』
『義務論』
『憲法典』
『クレストメイシア』
『立法論』(デュモン編訳)
など。

全集は、

ロンドン大学のベンタムプロジェクトによる "The Collected Works of Jeremy Bentham"
バウリングの編集による "The Works of Jeremy Bentham"
がある。


名言
"いかなる法律も自由の侵害である(Every law is an infraction of liberty.)"
"最大多数の最大幸福は、道徳と立法の基盤である(The greatest happiness of the greatest numbers is the foundation of morals and legislation.)"

ジェレミ・ベンタムのオート・アイコンベンサムの遺体はミイラにされてロンドン大学に服を着て杖を持って椅子に座った状態で保存されている。


関連項目
自由主義
デイヴィッド・ヒューム
ジョン・スチュアート・ミル
ヘンリー・シジウィック
パノプティコン

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)はイギリスの哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗る。

生涯
ミルの生涯は彼の精神的、思想的発達の描写を中心とした、自身による『自伝』(『ミル自伝』とも。1873年)で詳細に語られている。


幼年時代
ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの長男として生まれた。ミルは父親によって教育され、また父親と親交が深かったベンサムやフランシス・プレイスにも助言をもらったりした。その教育法はすさまじく、彼は小さい頃から年中勉強させられ、父親はミルが同年代の他の子供たちとは遊ばないようにさせた。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感しており、また連合主義(associationism)の支持者でもあった。父親のジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとしたのである。

よって、子供時分のミルは普通では考えられないような業(わざ)をやってのけた。彼は、三歳にしてギリシャ語のアルファベットと単語を母国語の英語と共に教わり、八歳になるまでにアイソポス寓話、クセノポンの『アナバシス』、ヘロドトスの著作全てを読み、またルキアノス、ディオゲネス・ラエルティオス、イソクラテス(Isocrates)、プラトンの六編(ミルの自伝を参照)を理解した。彼はまた英語で書かれた歴史の本も多く読んでいる。

8歳から13歳にかけてのミルの学習の記録は、彼と同時代に生きたスコットランドの哲学者であるアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain)によって出版されている。ベインによると、ミルの自伝は彼が実際にやってのけた学習量を控えめに述べているという。8歳の時分にミルはラテン語、ユークリッド幾何学、代数学を学び始め、父親によって家族内で彼の弟たちの教師役に選ばれた。彼の読書の大部分はいまだ歴史物が大半を占めていたが、ミルはまた当時の学校や大学で広く読まれていた全てのラテン語とギリシア語の著作を読んでもいた。ミルはラテン語やギリシア語で作詩することは教(おそわ)らず、それらの言語での著作の内容を理解するためだけに向けられていて、10歳の頃には彼はプラトンやデモステネスを難なく読むようになった。彼が12歳の頃、1818年に父親のジェームズによる著作『インドの歴史』が刊行され、そのほぼ直後からミルはスコラ論理学を全般的に学び始め、またそれと同時に、アリストテレスの論理学に関する論文を原語で読みはじめた。翌年、彼は政治経済学を始め、アダム・スミスや リカードを父親と共に学習・研究し、彼らの古典経済学の生産要素の見方を完全に学び取った。


精神の危機とその後
しかし、あまりの天才教育の反動であろうが、ミルは21歳のときに本人の言う「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。ワーズワースなどの当時のロマン主義への接近と、(時系列上は少し遅れるが)当時人妻であったハリエット・テイラーとの親密な交友関係によってミルはこの危機を乗り切っている。後者については、モラルにうるさいヴィクトリア朝期としてはかなりの問題であったが、ミル本人の証言によれば、この時期のミルとハリエットは清い交際を保っていた、との事である。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えている。その後、ミルとハリエットはテイラー氏の没後の1851年に結婚しているが、ハリエットの急死(1858年)によって結婚生活は短命に終わった。ハリエットの没後は、その娘のヘレンがミルの支えとなった。

ミルはケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。

東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制、普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件でダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女の普通選挙が実現したのは1928年のことであった。なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。

ミルはフランスのアヴィニヨンに滞在中に、丹毒(連鎖球菌感染症の一つ)によって死去した。


学問におけるミルの業績
今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降(『自伝』における最終章にあたる)に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したわけだが、あらゆる彼の思想の基礎にあるものは(彼自身の)功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などおいて彼自身が述べている。


政治哲学におけるミル
人が一生をかけてもなし得ないような偉業を様々な分野でやり遂げたミルだが、その中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。ここで、ミルの功利主義はその提唱者であるベンサムとはたもとを分かつ。簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽に(ベンサムが唱えた量的なものよりも)質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉で表されている:「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」(『功利主義』第二章)。

ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。この思想の支持者はしばしば リバタリアンと呼ばれる。リバタリアンという言葉が定義するものは広いが、通常は危害を加えない行為は合法化されるべきだという考え(=「危害の原理」)を含む。現代において、この「危害の原理」を基盤に幾人かのリバタリアンが合法化されることを支持するものとしては売春や現在非合法の薬物も含めた薬物使用がある。

ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは自由論を政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか。国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのかについて自由論において考察を行った。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであるというのである。ここに国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 これは酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえることになる。もし注意すべきではないということになれば警察国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。   ミルは自由論の中でコントの実証主義哲学を次のように解釈している。

M. Comte, in particular, whose social system, as unfolded in his Système de Politique Positive, aims at establishing (though by moral more than by legal appliances) a despotism of society over the individual, surpassing anything contemplated in the political ideal of the most rigid disciplinarian among the ancient philosophers.(全訳:古代における哲学者の間でも最も頑迷なしつけ主義者の政治的理想としての厳格主義を熟慮した結果、それを克服することによって(道徳によるよりも、むしろ法的な適用によって)個人に対しての社会の専制を確立する目的を持った社会システムを、コントは特に「実証主義政治システム」の中で展開したのである。Mill"On Liberty"より直接引用。)
このヴィルヘルム・フォン・フンボルトとコントの考え方がミルの自由論の根底にあったのである。

これをさらに押し進めたのがバーリンである。アイザイア・バーリンが用いた積極的自由、消極的自由という概念に従えば、ミルの『自由論』の議論の多くは消極的自由についてである。バーリンが提唱する消極的自由とは、障害、妨害、強制(抑圧)の欠如を意味する。また一方の積極的自由とは、行為できる(可能性的なものも含めた)能力、自由であるための必要条件 - 物質的資源、(ある人における)啓蒙の度合い、参政の機会など - の存在を指す。(注)

(注)- ミルは参政権(=積極的自由)について述べているが、あくまで「だいたい」消極的自由についてと言うことであって、『自由論』全てが消極的自由の議論であるわけでは無い。ミルが後年自らを社会主義者と呼んだことを考慮してもらいたい。ミルが実際に社会主義者かどうかは今でも議論があるが、彼は自由放任主義資本主義を支持していたので、通常はそのように見なされない。実際のミルが自由を解釈して、後のチャーティスト運動が考えた自由、つまり他人を思いやる自由と考えたとすれば彼が社会主義者であったことが理解できる。最初ミルの自由論が不評であった理由は実はこの点にある。しかし現在のようにイデオロギーからの脱出が叫ばれている現在ではこのようなイデオロギー論争を抜きにして自由論は、自由意思論を超えた立派な社会的自由、経済的自由、政治的自由を含んだ広大な領域をカバーする世界史に残る自由論であったということができる。
この思想は明治時代においては「自由之理」として中村正直に翻訳され、大隈重信の立憲改進党の思想に大きく影響を与えた。

ミルは、他者に危害を加えない行為をするために、(個人の自由な行いを邪魔する)法などの障害を取り除くことができるのは政府の役目であると説いている。ミルは実際の自由の行使 - 例えば貧しい市民が生産的な仕事を得ること - を許す必要条件については議論を展開せず、それにはその後のチャーティスト運動に待たなくてはならなかった。

その後自由放任の終焉を書いた経済政策の ケインズなどに代表される20世紀の思想家の登場を待たなければならなかった。しかしニューデールを含め自由主義の運動には常にミルの自由論が大きく影響を与えたことは否めないといいうる。

また、ミルは『女性の隷属』(1861年)、『代議政治論』なども著わしている。実際の政治家(下院議員)としてのミルについては上段を参照せよ。


論理学におけるミル
論理学の分野では、『論理学大系』(1843年)を著わしている。この中でミルは、実証主義的な社会科学方法論の確立をめざし、帰納法によって発見された経験法則を再度現象の予測に適用して法則の真理性を確認するという、オーギュスト・コントの歴史的方法を基にした逆演繹法を確立した。


経済学におけるミル
リカード後の古典派経済学の代表的な経済学者であり、『経済学原理』(1848年)を著わす。この長大な著作は古典派経済学の代表的な教科書として、マーシャルの「経済学原理」の登場(1890年)まで君臨したと言える。ただし、厳密にはミルの著作のタイトルは政治経済学 political economy の教科書であり、マーシャルのそれは経済学 economics の教科書であることに注意すること。その後新古典派や、マルクスとその後継者たちによって、「過渡期の経済学」としてさまざまな批判にさらされたが、近年では再評価が進んでいる。

ミルの経済学は、おおまかに言えばリカード以来の古典派経済学モデルのフレームワークに従っている。19世紀の英国は、産業革命や植民地獲得競争の勝利で、急激に物質的な豊かさを獲得した。しかし、そうした史上空前の繁栄にもかかわらず、貧富の格差や植民地の増加などの社会変化の中で、古典派元来の自由放任政策は行き詰まりを見せていた。経済学者ミルの課題は、そうした当時の「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書くことにあった。(例えば、同時代のディケンズの描く貧困層のスケッチなどを見よ。)

基本的にミルは自由放任政策の支持者であったが、ロバート・オウエンなどのユートピア社会主義者の潮流の影響を受けて社会主義的な色合いを帯びており、マルクスとはしばしば対比される。『経済学原理』の版によってその社会主義への接近の度合いは変動し、最終版では社会主義に対してやや距離を置いている。これは、勃興する急進的な社会主義運動の実勢に、ミルが幻滅したためではないか、と考えられている。社会主義体制の持つであろう恣意的な分配、表現の自由の圧殺などの考えられる弱点について、手厳しく、かつ先見性に富む予言をしていることも注目すべきであろう。

ミルは、生産が自然の法則によって与えられる(農地からの収益を想起せよ。これに加えて、ミルは人口の影響を考慮していた。)のに対して分配は社会が人為的に変更可能であることに着目し、政府の再分配機能によって、漸進的な社会改革を行うことに期待している。その意味では「大きな政府」によるセーフティ・ネットの構築に、激化する階級対立の処方箋を見出した、と言える。長い時間はかかったが、おおよそ英国社会はマルクスの激越な革命の予言ではなく、ミルの書いた穏健な処方箋の方向へ徐々に進んだ、と言っても良いだろう。

後にフェビアン協会へと連なっていく英国の社会民主主義に、具体的な、正統派経済学からの理論的裏づけを与えた最初の経済学者の1人として評価することもできる。現代日本社会の未来像において、ミルの古典的な処方箋に再び経済学史のスポットライトが当たることがあるのかもしれない。なお、現代経済学の中では、アマルティア・センの平等主義的な経済学文献の中にも、しばしばミルの引用が見られる。

経済成長を自明のものとしなかったため、いわゆる「定常型社会」論の先駆と見なされることもある。また、当時の英国に深刻な不安を投げかけていたマルサス『人口論』以来の人口問題については、労働者階級の自発的な出生率の抑制による出生率の制御に期待する、という考え方(新マルサス主義)で臨んでいた。


著書
(1843年) 論理学体系 A System of Logic
(1844年) Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy
(1848年) 経済学原理 Principles of Political Economy
(1859年) 自由論 On Liberty
(1861年) 功利主義 Utilitarianism
(1861年) 代議政治論 Considerations on Representative Government
(1869年) 女性の隷属 The Subjection of Women
(1873年) 自伝 Autobiography

経験論(けいけんろん)あるいは経験主義(けいけんしゅぎ)とは、人間の全ての知識は、我々の経験の結果である、とする哲学上または心理学上の立場である。(例:ジョン・ロックのタブラ・ラサ=人間は生まれたときは白紙である)

経験論は哲学的唯物論や実証主義と緊密に結びついており、大陸合理主義や直観主義と対立する。

経験論は我々の理論は直観や信仰よりむしろ世界についての我々の観察に基礎に置くべきだとする近代の科学的方法の核心であると一般的にみなされている。その方法とは、実験による調査研究、帰納的推論、演繹的論証である。

ベーコン以来、経験論は特にイギリスで発達し、その伝統は大陸哲学と区別してイギリス経験論とも呼ばれる。

経験論に列せられる哲学者には、アリストテレス、フランシス・ベーコン、ジョン・ロック、ジョージ・バークリ、デイヴィッド・ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルなどが挙げられる。

また、現代の科学哲学における経験論の重要な批判者はカール・ポパーである。


功利主義(こうりしゅぎ、英語 Utilitarianism)は、善悪は社会全体の効用(英:utility)あるいは功利(功利性、公益)・機能(有用性)によって決定されるとする基本的に倫理学上の立場であり、それは法学や政治学でも応用される。 倫理学説としては私利のみを計る利己主義(エゴイズム、Egoism)とは異なる。現在でも、近代経済学は、基本的にこの立場にあると考えられる。そこでは消費者ないし家計は効用の最大化をもとめる部門とみなされる。また基数的効用と序数的効用が区別される。


生命倫理学(せいめいりんりがく)とは、生命に関する倫理的問題を扱う研究分野。生物学、医学、政治学、法学、哲学など様々な分野と関連がある。ヒトの生命すなわち人命に限らず、全ての生命体を対象とする。ただし医学的な側面が強調されることが多い。

人の生命に関わる倫理的問題としては出生前診断(胎児診断)と着床前診断(受精卵診断)、遺伝子診断、人工授精、男女の産み分け、多胎児の減数手術、人工妊娠中絶、脳死、臓器移植、安楽死・尊厳死、がん告知、末期医療、看護倫理、ヒトクローン研究などがある。より生物学的には実験動物の扱い、遺伝子組換えによるバイオハザードの規制、遺伝子組換え植物による遺伝子汚染などがある。

安楽死に関する医学的論議は古くから行われてきた。また、最近の医学、遺伝子工学の発達により、倫理学的な考察を必要とする診断、治療、実験が多くなってきている。

医師の社会的立場の強さから医療系の意見が通ることが多い。「専門教育を受けていない者が、誤解から生じた誤った信念に基づきマスコミ等においてことさらに恐怖心を煽ったり、感情的な判断で世論を誘導したりし、問題が混乱することが多い。」という意見もある。

学術団体としては、日本生命倫理学会などがある。

「バイオエシックス」(biothics)という言葉は、「生命」を意味する「バイオ」と「倫理(学)」を意味する「エシックス」を結びつけた言葉で、ガン研究者のポッター(Potter.V.R.)が、「生存の科学」(the Science of Survival)としての「バイオエシックス」を提唱した。1970年代初めにアメリカで使われ出し、実際の意味から離れて広まっている。


関連項目
倫理学
死生観
ホスピス
アシロマ会議
科学哲学
自己決定権

概念
流産とは、胎児が母体外で生存できない時期における妊娠の中絶を意味している。妊娠12週未満の中絶または、胎児の体重が500g未満(妊娠週数が不明の場合)であった場合に用いる。
死産とは、妊娠12週以降の中絶または、胎児の体重が500g以上(妊娠週数が不明の場合)であった場合に用いる。
人工妊娠中絶とは、人工的な手段(手術または薬品)を用いて意図的に妊娠を中絶させることを指す。刑法では堕胎と言う。日本では母体保護法第2条第2項により、人工妊娠中絶を行う時期の基準は、「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」と定められており、厚生労働省の事務次官通達により、現在は妊娠22週未満となっている(従って、人工妊娠中絶は人工流産とも呼ばれる)。
以降では、人工妊娠中絶を簡単に「中絶」と表記する。


関連法規
刑法第214条では、医師、助産師、薬剤師又は医薬品販売業者が女子の嘱託を受け、又はその承諾を得て堕胎させたときは、3か月以上5年以下の懲役に処せられる(業務上堕胎罪)が、母体保護法第14条に規定されてる事由があるときは、中絶としての堕胎が許されることになっている。

母体保護法第14条
第1項 都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
第1号 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがあるもの。
第2号 暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの。
第2項 前項の同意は、配偶者が知れないとき、若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者が亡くなったときには本人の同意だけで足りる。
以前は優生保護法第14条によって、
本人又は配偶者が精神病、精神薄弱、精神病質、遺伝性疾患又は遺伝性奇形を有する場合
本人又は配偶者の4親等以内の血族関係にある者が精神病、精神薄弱、精神病質、遺伝性疾患又は遺伝性奇型を有する場合
本人又は配偶者がらい疾患 (ハンセン病) に罹っているもの
の中絶も認められていた。
母体保護法第14条は、優生保護法第14条の4、5号を残したものである。4号(=母体保護法第14条1号)は1949年に追加された経済条項であり、当時の国情を反映したものである。
なお、指定医師の指定主体として規定されている医師会については、母体保護法を含む全ての法令において何ら措置されていないことから、それが何を指しているのかが法令上明確ではないが、現状においては日本医師会の実質的傘下団体たる都道府県の名を冠した医師会が、本規定に基づき、その権限を行使しているという状況となっている。

人工妊娠中絶
妊娠11〜12週程度まで
日本では,頚管拡張後、掻爬術(独Auskratzung)や産婦人科器具(胎盤鉗子やキュレット、吸引器など)で胎児を取り除く方法で行われる(英語で「拡張と掻爬」という意味で D&C (dilation and curettage)とも呼ばれる)。海外では,1980年代にフランスで開発されたミフェプリストン(RU-486)という人工流産を引き起こす薬が急速に広まり,2002年にはWHOも推奨する初期中絶の一方法になったが,日本の厚生労働省は2004年にこの薬の個人輸入を禁止した。最近では子宮外妊娠(頸管妊娠)の治療として,メソトレキセート(抗癌剤)の注入による自然流産の誘発等も行われている。
妊娠12週〜満22週まで
この時期は胎児がある程度の大きさとなるため、分娩という形に近づけないと摘出できない。そのためラミナリアやメトロイリンテルなどで子宮頚部を拡張させつつ、プロスタグランジン製剤(膣剤、静脈内点滴)により人工的に陣痛を誘発させる方法がある。また妊娠12週以降は死産に関する届出によって死産届けを妊婦は提出する必要もあり、日本の人工妊娠中絶の約95%が妊娠11週以前に行われている。
倫理問題
1968年にローマ・カトリック教皇パウロ6世がHumane Vitae(適正な産児調節に関する回勅)で、授精の瞬間から人間の生命であるとして避妊と中絶を禁止して以来、中絶は胎児の生命を故意に奪う行為であり、認められないとする立場をとる者が多い。アメリカ合衆国ではキリスト教右派がその代表である。一方、低年齢の女性が妊娠した際に、妊娠の負担の大きさから肉体的負担を無くすために中絶することや、強姦・近親姦での妊娠の際の中絶、経済的理由から出産しても子供を養育できる見込みがない場合の中絶を容認する立場もあり、道徳的に悪である事を認めても社会政策としての中絶を合法化するという立場もある。

元来日本においては、「7つまでは神の子」というように子どもは神仏より授かるという信仰と結びついていた。子どものいのちはこの世とあの世を行き来する不安定なものとして扱われた。そのため中世以降、人口調整のための間引きや強制流産などは多くの共同体で見られた。その風潮は近世でも続き大きな社会問題となる。為政者や儒学者は間引きや強制流産を法律で禁止にしたが、効果は薄かったといえる。仏教者の多くは共同体の一員となり、子ども殺しを是認することはなくとも黙認していたと考えられる。ただ、倫理問題として興味深い史実に、北陸や安芸に代表される真宗篤信地域においては、他地域と比べ人口数が著しく増加の一途を示したということが挙げられる。これは先述したこととは逆説的に人口調節のための間引きが、真宗による宗教倫理から行われなかったことが一因とも考えられる。このことは、日本史において中絶問題に宗教が深く関わった興味深い対象といえる。他宗派と比較して真宗の寺院に水子供養の供養碑が少ないこともこのような真宗の特異な宗教倫理が関わっていると考えられる。

中絶論争に新たなる展開をもたらしたのはフェミニズム運動である。アメリカ最高裁のロウ判決にならって、一部のフェミニストは中絶とは女性のプライバシー権であるとして自由化を推進している。すなわち、胎児は独立した生命体ではあるが、母親の胎内に帰属する低次の存在に過ぎず、本来の人間の生命権とは同等ではないと考え、よって、中絶とは「産む・産まない」の選択をする女性のプライバシーの問題であり、中絶の決定権を女性から剥奪する事は性差別であるという考え方である。この考え方に対しては、胎児は順調に成長したならば当然に生命権を取得する存在であるにも関わらず、その前段階だけを見て低次の存在であるとし、プライバシーの問題とする事について批判もある。一方で、1994年に国連の人口開発会議で提唱されたリプロダクティブ・ライツを根拠に、中絶を許容する見方が世界では広まっている。

日本では、「産む産まないは女性の権利」とするフェミニズムの主張は、1970年代障害者団体「青い芝の会」による激しい抵抗に直面することになった。これに対しフェミニストは「産まない権利」(堕胎の自己決定権)の行使には、胎児が障害を持つ可能性とは別の次元であり、、優生学的思想に基づくものではないとの主張を展開したが、これに対しては障害者団体は同意を示してはいない。

なお、近年フェミニズムが少子化を引き起こしたと考える反フェミニズム派から、中絶禁止を法律で規定すべきだとする極端な意見も聞かれるが、先進国においては、社会における中絶禁止意識の高さと少子化に相関関係は見られていない。(例えば、先進国の中でもカトリック教徒が多いイタリアとドイツはどちらも日本並みの低い出生率の少子化ワースト国である。)
中絶に至る人の中には、妊娠したものの社会的なバックアップを得られず、子供を育てる自信を失って中絶に至るケースがある。1973年には、宮城県の菊田昇医師が中絶を希望してきた女性に出産を奨励し、子どものいない夫婦に斡旋していた事件が発覚したが、この赤ちゃん斡旋事件をきっかけに、生誕した赤ん坊を実親の戸籍に入れることなく養親の戸籍に入れて実子同様に扱う特別養子制度が設けられた。

現在のところ日本では、母体保護法における中絶の対象要件は母体の生命・健康に限定されている。いわゆる「経済条項」による中絶は、健康を理由とした中絶に分類されているが、諸外国では一般的であ

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