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チェダゼミナールコミュの公民科指導法研究

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明治元年 1868年
大正元年 1912年
昭和元年 1924年

1960年 第一次学生運動 

日米安保に反対

面白い授業

面白い授業をしようと思ったら、ある程度のリスクはとらないといけない。
もしくはどれだけ時間を割くのかを考えなければならない。

授業とは

授業とは「業」(わざ)を「授ける」(さずける)事である。

つまり、単に教科書を説明するだけでは業を授ける事にはならない。

説明は確かに効率はいいが、効果は薄いものである。


安和(あんな)の変

上皇

上皇とは天皇を退いた人の事を言う。
会社で言うところの社長を退いた会長のことを言う。
そして上皇が政治をすることを院政という。
なぜ院政が行われたのかというと、藤原氏との関係を断ち切るためである。
藤原氏は権力の礎を築くために、天皇家と親戚関係に。
現在は結婚するという時は、ほとんどが女性が男性の家に入っていくが、当時は男が女性の家に入っていった。つまり、藤原家の男が天皇家の女のところに入っていっていたのである。

厳島神社(いつくしま)

現代に残る、寝殿造りの代表的なもの。日本三景の一つ。

世界三大革命

アメリカ独立革命
フランス革命
産業革命

民主主義と資本主義の礎を築く

しかし革命初期は、絶対王政諸国の反発やナポレオン帝政からの反発があり、デモクラシー・キャピタリズムが簡単に浸透したわけではなかった。

なお、産業革命の肝の1つに動力源が木炭から石炭になった事が挙げられる。

末法思想

浄土教が生まれる。

なぜ、生まれたか。社会不安から開放されるためである。

つまり、キリスト教やイスラム教と、生まれた経緯は一緒である。

宗教というのは、社会不安、具体的には経済不安から生まれてくるのである。

武士

武士とは元々、朝廷に武芸をもって仕える武官の事である。
具体的には
治安の維持・貴族の守護、朝廷の警備などが挙げられる。
要は、偉い人達のための警察、もしくは軍隊のような意味合いである。

それが、いつの間にやら、武装した私兵集団になってくる。

「〜の乱」というのは、朝廷にはむかうものを言う。

藤原秀郷

平将門に勝利。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。藤原北家の魚名の後裔で、下野大掾村雄の子。母は下野掾鹿島の女。幼いころ京都の近郊の田原の地に住していたことから、別名「俵藤太(田原藤太)」(たわらのとうだ)と呼ばれる。官位は従四位下、下野守兼武蔵守鎮守府将軍。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野、武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏、平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。

略歴
下野国(現在の栃木県)の国衙の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(18?)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられず、逆に延長5年(927年)に下野国押領使に任ぜられたとされる、。更にまた、そのわずか2年後の929年には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている事から、押領使の任命を疑問視する説もある。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍の役も兼任するようになった。

なお、実際の系譜について毛野氏ではないかとする説もあるが、藤原氏として任官されている点や、その子孫が同様に遇されていることなどから公式には藤原氏として認められていたことは否定できない。


百足退治伝説
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。

秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城明神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。

また類似した説話が宇都宮(下野国)にも現存する。即ち俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。


学生運動
主に学生によって組織され展開される、政治的・社会的・啓蒙的な性質をもつ社会運動である。学生闘争(―とうそう)・学生紛争(―ふんそう)ともいう。また、主に大学などが拠点とされたことから、大学闘争(だいがくとうそう)・大学紛争、学園闘争(がくえん―)・学園紛争などともいう。運動が盛況な時代には大学生に限らず、高校生や浪人生の活動もあった。

運動主体の学生たちや運動経験者・支持者は「闘争」という言葉を、傍観的立場の人々は単に「学生運動」、運動反対者や保守的な思想の人たちは「紛争」という言葉を用いる傾向がある。

学生運動の歴史

世界性と新左翼性
学生運動の歴史をみると、世界的にはドイツから広まったとされ、ドイツ社会主義学生同盟のルディ・ドチュケが知られる。

また有名なのはフランスのユダヤ系ドイツ人留学生でアナキストの赤毛のダニーことダニエル・コーン=ベンディット(ダニエル・コーン=バンディ)が指導部の中心にいた1968年の5月革命という学生運動である。ダニーはローリングストーンズのミック・ジャガーとともにパリ大学のあるカルチェラタンをデモ行進したのであった。この60年代後期は、アメリカでは、「いちご白書」で有名なコロンビア大学闘争や、非暴力学生調整委員会、ウエザーマン、ブラックパンサーにいたる学生運動の高揚があり、またイタリアでもボローニア大学を始めとして闘争は広がっていった。ドイツでもドイツ社学同を指導部隊とした運動が広がった。

日本においては、第2次世界大戦前にも東大新人会の活動や早大の活動があり、学生運動はあったが、戦後は直後から開始され、1950年代から徐々に広まって行った。1946年に全日本学生自治会総連合(全学連)が組織されて、1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)、ベトナム戦争反対などの運動を展開した。戦後の学生運動には、左翼的な傾向がみられたというより、明確な左翼的運動であった。ただし、大半は反スターリン主義の立場にあり、新左翼として旧来の左翼に反旗を翻したことにおいて、戦後の冷戦体制における一方としての左翼(旧左翼)とも完全に敵対的であったことから、社会学的には、冷戦的な左翼・右翼の構造を、無意識的だが突き抜けていたといえる。

1960年(昭和35年)の安保闘争では、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が全学連と機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。

運動は、戦後初期は日本共産党(日共)の単独指導、60年からはブントと日共の並立、60年代後半からは新左翼三派を中心とする新左翼5流13派と日共系との対立と並存によって彩られた。前者は日共や社会党を旧左翼とした上で新左翼と呼ばれ、ノンセクト・ラジカルから反共産党の組織が担い、基本的に反帝国主義かつ反スターリン主義の立場であり、アメリカはもとよりソ連や中国など既存の共産主義体制にも批判的で、国内的には日本共産党と激しく対立した。


東大紛争
その後、医学教育において、医学部を卒業しても数年間はインターンとして医師免許もないまま低賃金で勤務しなければならないという制度を批判して、東京大学医学部の学生たちによる運動(東大紛争/東大闘争)も起こった。

1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)の東大紛争では、東京大学の全校舎が学生によって占拠されており、(赤門周辺から生協は日共系が、正門から安田講堂は全共闘が占拠していた)特に安田講堂は全共闘の象徴的な占拠拠点(いわゆる「安田砦」)であった。安田講堂を巡っては機動隊が占拠学生に対して放水を行うなど(安田講堂攻防戦)、世間の耳目を集める派手な事件が発生した。占拠排除の後、時の首相佐藤栄作は己が母校を訪れ、涙を流した(その涙は機動隊が学生に向けて発射したガス弾の催涙ガスが残っていたために生じたとする見方もある)。


全共闘と全国学園闘争
1968年(昭和43年)頃から全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる学生の運動形態が現れる。これは各大学に作られた自由形態の学生運動組織であり、それまでの全学連のような既存の学生自治会に拠る運動とは別に、全共闘は学部や政治思想の党派などを越えて作られ、精力的な学生運動を展開した。

1969年(昭和44年)ごろには、東京大学をはじめ京都大学、大阪市立大学、広島大学、九州大学、早稲田大学、青山学院大学、法政大学、明治大学、日本大学、東洋大学、中央大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、関西学院大学、など、日本の主要な国公立大学や私立大学は、軒並み全学バリケード封鎖をはじめ、全共闘を中心に何らかの闘争状態・紛争状態にあった。また大学同士でも各大学全共闘は他大学の闘争や紛争を支援するなど全国で連帯し波及した。


批評

"英雄時代"・市民からの共感
1969年頃までは、積極的な支持はしなくても学生運動に共感を持つ市民が一定の割合で存在したことには留意する必要がある。機動隊に追われた学生をかくまって食事を与えたりするような市民(政治的には中庸に近い)は少なからずいた。また、デモの場面等で機動隊に対して抗議や非難の声を挙げる群衆もいた。こうした行動の背景には、「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」としてそれを許容する空気が広く存在したことが挙げられる。権力側の公安刑事の中にも個人的には、学生運動をする学生たちを「左翼の国士」と見るような風潮もあった。また、その時代においては学生は機動隊に比べると武器・防備の点では明らかに劣勢であり、学生の側が同情を集めやすかったという点も考慮すべきであろう。しかし、こうした環境は、急激な武装化や後述の「内ゲバ」によって次第に失われることになる。  


党派闘争と「内ゲバ」のはじまり
1960年代半ば頃から学生運動では路線対立が芽生えはじめ、シンボル的な統合機関にすぎなかったとはいえ、その一定の役割を果たしていた全学連が細分する事態にまで至った。しかし、大都市のマンモス大学を除いて地方ではまだ党派間の対立は理論闘争が中心であった。大都市のマンモス大学では68年から暴力的対峙が部分的に個別の現場で起こることはあったが、その後では考えられないが中核派と革マル派の学生がスクラムを組むこともあったほど、まだまだ穏やかだった面も見られた。とはいえ、萌芽的にはすでに67年10月8日には早大で正門前で乱闘があり、68年に入ると対立は暴力的になる。9月から10月にかけて日共系が法政大を拠点としていた中核派とプロレタリア軍団を実力で排除するという事態もあり、また11月12日には東大校内で大規模な衝突が起こり、テレビニュースとなって全国を駆け巡った。同時に、早大での革マル派と解放派の対立は東大にも飛び火した。革マル派は徹底した実力行使により解放派を早大から放逐した。また、中大でのブントを巡る対立も徐々に激化していった。

このような党派闘争が、所謂暴力的な内ゲバに発展していくのは、1971年以降であり、法政大での中核派による海老原殺人事件とそれにたいする革マル派の報復からである。これは最後は革マル派による中核派議長本多延嘉殺害にまで至った。こうして、それまでは学生運動に同情的だった市民の目も、この頃から冷ややかになっていく。そのような中で内ゲバが頻発するようになり、一般市民の認識や心情からかけ離れた行動により、日本の学生運動は世論の支持を失いがちとなり衰退した。


影響
60年代当時の学生運動の評価として、評論家の大野努は、『デモに渦巻く青春』(番町書房、1968年)において「かれら反日共系活動家の求めているのは、経済的要求ではなく、その闘いを通じての、人間的文化的要求だと言えよう」としている。確かに当時の運動は過程が重視され、運動を行うこと自体が目的化してしまう傾向が顕著だった。そのため頻繁に「永久革命」といった観念的スローガンが唱えられ、多分に精神的・情念的な運動になってゆく。

当時、中国の文化大革命は、毛沢東主義の一部学生に影響を及ぼしていたが、既存の社会主義・共産主義体制を徹底して批判する反スターリン主義の思想的洗礼を受けていた日本の学生運動は、ソ連や中国に対しても批判的であり、思想的・理論的な影響はほとんどなかった。とはいえ東大紛争のさなか、東大正門には文革の標語であった「造反有理」の額が掲げられており、フランスの5月革命・文革に連動するものとして学生たちは意識していたように、シンボル的、感覚的な影響は見られたようである。神田ではパリのカルチェラタンを意識し、神田解放区闘争が繰り広げられ、党派にも、ブントの一派にマルクス・レーニン主義派(共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派)が登場し、明確な毛沢東主義を掲げていたが、少数派であり、全体としては影響力は高くはなかった。

なお、大学などの学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、高校生であった坂本龍一も参加しており、大阪では大阪府高連を中心に高校生によるキャンパスのバリケード封鎖が行われている。運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、校内においての服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。浪人生においても、東京や大阪のような大都市では活発な運動が展開され、全国浪人共闘会議(浪共闘)が結成され、現在の内閣官房長官の塩崎恭久も参加していた。
やはり浪共闘に参加していた千坂恭二は、上は大学院生、下は高校生という年齢差からくる自己形成の時間差や時代意識のズレから、全共闘運動そのものの内部に思想やイデオロギー、党派の違いを越えた、年長の「幹部世代」(狭義の全共闘世代)の「反戦平和」主義と、年少の「前線世代」(全共闘バリケード世代)の「革命戦争」主義の間の決定的な亀裂があったという。


その後
1970年代後半には、日本の学生運動は下火となり、当時参加した大半の者は社会人となり、また単純に活動そのものへの幻滅や関心の低下などから活動を離脱したと言われている。反スターリン主義により、既存の社会主義には当初から何の幻想もなかったが、帝国主義とスターリン主義(既存の共産主義)を倒す運動の組織化への展望がつかめず、学生運動そのものが「歴史」的出来事へと変じていく。

応天門の変
平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。

大納言伴善男は左大臣源信と不仲であった。源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。

864年に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上げられなかった。

866年閏3月10日、応天門が放火炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたものだとされた。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。

参議藤原基経がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

8月3日、備中権史生の大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸であると訴え出る。鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。(鷹取が子が善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけたのを恨んでのことともされる。)鷹取は左検非違使に引き渡される。

天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じた。伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されるが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、彼らは犯行を認めなかった。

9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。

この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。

* 藤原氏による他氏族排除の一環とする説も存在する。

事件は国宝「伴大納言絵詞」にも描かれている。

安和の変
平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件である。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。

967年(康保4年)5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇にはまだ子がなく、また病弱(精神の病に罹っていた)でもあったため早急に東宮を定めることになった。候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子である冷泉天皇の同母弟の為平親王と守平親王であった。年長の為平親王が東宮となることが当然視されていたが、実際に東宮になったのは守平親王であった。

これは為平親王の妃の父が左大臣源高明であり、もしも、為平親王が東宮となり将来皇位につくことになれば源高明が外戚となり権勢を振るうことになりかねず、これを藤原氏が恐れたためであった。源高明は村上天皇からの信任篤く、また皇后安子の父で右大臣だった藤原師輔の娘を妻として親交があったが、両人とも既に亡く、宮中で孤立しつつあった。

969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時が中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模介藤原千晴(藤原秀郷の息子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。固関使が派遣され関所が固められ、さながら承平・天慶の乱の時のようであったという。

事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また、左大臣には師尹が代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐、蓮茂は佐渡、藤原千晴は隠岐にそれぞれ流され、さらに源連、平貞節の追討が諸国へ命じられた。

密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。後世の「源平盛衰記」には為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝につけようとしていたと書かれているが信用できない。ただ、この事件が初めから源高明の失脚を目指していたことは明白で、これが藤原氏による最後の他氏排斥事件となった。また、藤原氏の中でも実頼・師尹派と師輔派の確執があり、そのとばっちりを高明が受けたのではという説もある。この説によれば、本来は師輔の子供である伊尹兄弟の失脚も狙ったものの、その事情を知らなかった伊尹兄弟が高明追放後の昇進を望んで逆に高明排斥に積極的に加担したために計画が狂い、彼らを排する機会を逸したというのである。その後、安和の変から僅か1年余りで高明は帰京を許されている。

また、京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消し、清和源氏が京での勢力を伸ばし、京武士として摂関家と強く結ぶようになった。


厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。1400年の歴史をもつ。式内社(名神大)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社(現 別表神社)

宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る。市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合しており、当社は江ノ島・竹生島とともに日本三弁天の一つとされている。

厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、日本三景の一つとなっている。平家納経で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一つ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。


末法思想
仏教の予言思想の一種であり、釈迦の立教以来千年(五百年とする説もある)の時代を正法、次の千年を像法、その後1万年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという終末論を指すものである。「世も末だ」と言う表現はここから来ている。

末法思想は、中国では隋、唐代に盛んとなり三階教や浄土教の成立に深いかかわりを持った。日本では平安時代のころから現実化してきた。特に1052年(永承7年)は末法元年とされ、人々に恐れられた。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗をはじめとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。しかし鎌倉時代に入り、社会が安定するにつれて末法思想は薄れていった。

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