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チェダゼミナールコミュの自然地理学野外巡視 語句調べ

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志摩町 
福岡県西部にある糸島郡の町。糸島半島に位置する。町北部は玄界灘に面しており、玄海国定公園に含まれる。漁村としての性格が強い町だが、一部地域は福岡市のベッドタウンとして発展しつつある。

大学
九州大学伊都キャンパス - 2005年10月より志摩町および前原市にまたがる形で福岡市西区に開校予定。ただし、当初は工学部と中央図書館の一部が箱崎から移転する形に留まる。

名所旧跡
芥屋の大門 - 国名勝。
桜井神社
桜井二見ヶ浦 - 福岡県名勝。単に「二見ヶ浦」と呼ばれることもある。整った形の夫婦岩があり、夕日の二見ヶ浦として有名。
蒙古山の元寇 記念碑
烏帽子島灯台

催事
芥屋の大門祭納涼花火大会 - 7月下旬
アンダーアーマーKBCオーガスタゴルフトーナメント - 8月下旬。2005年よりスポンサー企業が久光製薬からアンダーアーマーに変更となった。
サンセットライブ(野外コンサート) - 8月下旬または9月上旬に芥屋海水浴場にて開催。1993年より毎年開催されており過去には東京スカパラダイスオーケストラ、東京事変なども出演している。


有明海

福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県によって囲まれている九州最大の湾である。

最も深い地点でも深さ50mほどと遠浅で、潮の干満の差が大きく、大潮のときには潮差4mを越える。この干満の差を利用した海苔の養殖がさかんである。また干潮時には干潟が広がる。ムツゴロウ、タイラギ、ワラスボ、シオマネキの生息地でもある。近年環境汚染が原因と思われる赤潮の発生、海苔の不作、タイラギ等の不漁が問題となっている。

この湾の中にさらに諫早湾を有し、諫早湾干拓事業が行われている。また、そのうち入り口に近い部分を島原湾という。

天草諸島を挟んで、八代海に接する。また、同諸島と島原半島を挟んで東シナ海に接する。
歴史

有明海の海岸線の変遷有明海は、更新世間の氷河期の海面低下により、黄海や東シナ海沿岸部に続く広大な干潟だったと考えられている。このときムツゴロウやシオマネキなどが有明海に分布するようになり(大陸遺存種)、その後海面上昇により干潟が独立してそのままの生態系が保たれて現在に至っている。

縄文時代前期(紀元前4000年ごろ)には筑紫平野や菊池平野の大部分と熊本平野の一部、諫早市あたりがそれぞれ満潮時に海面下となっていたが、河川による土砂運搬で次第に海岸線が後退していった。江戸時代に入り人間の手によって干拓が進められ、海岸線の後退は加速した。

最大で100km²になり、日本最大の規模とされる干潟は、30万年前から9万年前の間に4回あった阿蘇山の大噴火(特に4回目の噴火による堆積が主なもの)により堆積した厚い粘土層が雨により河川を経て流出し、大きな潮差によって川に押し戻されたり、再び海に流されたりを繰り返し、河口付近に堆積して形成されたと考えられている。

沿岸部は低地であるため、台風で潮位があがった時には海水が堤防を越えて干拓地に流れ込むこともあった。干拓造成時にもこのような海水の流入があったため、干拓には長い時間と労力がかかり、塩分を含む土地の改良にも苦労があった。

新北九州空港

北九州市小倉南区と京都郡苅田町に跨る海上空港である。国土交通大臣が設置管理する第二種空港。

概要
2006年3月16日に開港した。北九州空港の移転設置という形になるため、運用上は「北九州空港」として取り扱われる。

空港島は全長4,125m、全幅900m、面積373haとなっており、現段階での滑走路(2,500m)も将来延長することが可能な作りになっている。この空港島は、関門航路の浚渫土砂を処分する、苅田沖土砂処分場をそのまま流用している。

旧北九州空港が、山のそばで、かつ滑走路が短く(1600m)、大型ジェット機が離着陸できないため、新たに空港を建設したものである。

なお、2006年4月より新北九州空港を発着する便の航空券に旅客施設使用料として100円が上乗せされている。国内線を対象とした旅客施設使用料の徴収は東京国際空港、中部国際空港に次いで3番目。

開港から1週間後の2006年3月22日、スターフライヤーが朝5:30発、羽田空港7:00着の早朝便を就航させ、全国の国内定期旅客便でもっとも早い始発便、もっとも遅い最終便が運航される空港となった。

周辺地域には、大分空港や山口宇部空港も開港しており、乗客の確保にどの空港も躍起になっている。また、福岡空港の逼迫が問題になっており、福岡空港の機能の分担としての役割も期待されている。
2006年8月22日から24時間運用を開始した。24時間運用の空港としては国内で9空港目。九州では初めて。貨物専用航空会社ギャラクシーエアラインズの就航に合わせた対応だったものの、同社の就航は延期され、実際の就航は2006年10月31日であった。

歴史
1974年:港湾審議会において苅田沖土砂処分場計画が決定される。
1977年:埋立第1期工事に着工。
1994年:空港本体に着工。
2006年3月16日:開港。

新北九州空港の航空管制は福岡航空交通管制部(福岡市)が受け持つ。空域は山口宇部空港や海上自衛隊小月航空基地・航空自衛隊築城基地と共通であり、これらの空港・基地で離着陸がある場合には当空港の離着陸指示ができないため、運航ダイヤに影響を及ぼしている。

お互いに影響はないと思われるが、空港の西側には航空自衛隊芦屋基地がある。

佐賀空港
佐賀県佐賀郡川副町にある第三種空港。
概要
有明海に面した干拓地に作られた佐賀県唯一の空港。愛称は「有明佐賀空港」で、佐賀県などがこの名称を使用している。

夜間貨物便が就航以後は、九州の空の物流拠点として存在感が高い。佐賀空港からは福岡、熊本、長崎方面への道路アクセスが良好である。(有明海沿岸道路等の整備計画がすすんでいる)

福岡空港の混雑緩和の目的や筑後地方の空の玄関口としての運用も提案されている。#九州国際空港案参照

歴史
1998年(平成10)7月28日:開港。
2004年(平成16)7月7日:夜間貨物便就航開始。

九州国際空港案
福岡空港が都心部に近すぎるが為に、市街地における騒音問題から早朝深夜の運用が出来ない等の制約を抱えている事から、既存の佐賀空港を拡張し、成田、関西、中部に次ぐ国際空港として開港しようとする案もある。これにより、周辺の久留米市、大牟田市、大川市や佐賀の有明地区が発展すると予想される。また九州の主要都市である福岡、熊本、長崎へのアクセスも周辺の道路や鉄道を利用する事で1時間前後とすることができ、北部九州における経済効果が見込まれるとされている。


縄文海進
縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より3〜5メートル高かったと言われ、約6,000年前にピークを迎えたとされている。日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1〜2℃気温が高かった。

縄文海進は、貝塚の存在からで提唱されたものである。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた。当初は、日本で活発に行われている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。

縄文海進の原因
この時期は最終氷期終了の後に起きた世界的に温暖化の時期に相当する(完新世の気候最温暖期)。また、北半球の氷床が完新世では最も多く融けていたため、世界的に海水準が高くなった時期に当たる。この温暖化の原因は地球軌道要素の変化による日射量の増大とされている。近年の地球温暖化の議論では、過去の温暖化の例としてしばしば取り上げられてる。

玄界灘
日本海の西端・南端の海域である、大陸棚が広がり、対馬海流が流れ、世界有数の漁場として知られる。

玄界灘のことを「玄海」(げんかい)とも言う。「玄海灘」は両者が混同されてできた表記であるが、韓国語では「玄界灘」ではなく「玄海灘(ヒョン・ヘ・タン)」という。

無法松の一生にて小倉祇園太鼓が「玄界灘の荒波に…」として有名だが、小倉が面しているのは響灘であり、厳密に言えば玄界灘に面していない。


海洋法に関する国際連合条約
海洋に関する従来の慣習法の法典化と最近の新事態に対応する新たな立法を内容とする、領海および接続水域・公海・漁業および公海の生物資源の保存・大陸棚に関する4つの条約のこと。国際連合海洋法条約などとも呼ばれる。全447条、本文320条と9議定書で構成される。海の憲法ともよばれる。

海洋を人類の共有財産とし、資源開発などの権利に加え、平和利用や環境保全など義務を規定。1967年の第二次国連海洋法会議でマルタ共和国の国連大使パルドー博士が提唱し、1982年のジャマイカのモンテゴ・ベイの第3次国際連合海洋法会議で作成され国連総会で採択された条約で、1994年に発効した。日本は1983年に署名し1996年に批准した。基本思想は「海は全人類のものであり国家は海洋に関して人類に対する義務を有する」というもので12海里の領海、国際海峡、200海里の排他的経済水域、その外側の公海を規定し大陸棚の限界、閉鎖海、深海底、海洋環境の保護、海洋の化学的調査、紛争の手続も含む包括的内容で世界の海の憲法と呼ばれている。日本でも発効に対応するため多数の関連立法、法律改正が行われた。


養殖業
狭義には水産業の一種で魚介類や海草などの水棲生物を人工的に育てる産業。広義には、水棲生物に限らず、生物全般を人工的に育てることを指す。ただし、陸生植物に関しては栽培、哺乳類に関しては畜産あるいは酪農、鶏に関しては養鶏という用語が利用される。生育した生物本体または副生成物を利用することを目的としており、鑑賞、愛玩目的で育てる場合は養殖とは呼ばない。養殖するためには対象となる生物の生態を知る必要があり、養殖に成功するまでには時間がかかる。魚介類に関しては、卵あるいは稚魚、稚貝から育てることが多い。

養殖の目的
ほとんどの場合、育てた生物自体の利用(主に食用)が目的だが、生物の育成によって副次的に生成される物質の利用を目的とする場合(真珠など)もある。

完全養殖
生物の誕生から次世代への継続というサイクルをすべて人工飼育で実施することを完全養殖という。例えば、魚類であれば、成魚から卵を採り、人工孵化の後に成魚にして、さらに成長し大魚から卵を採って人工孵化させることが出来ると完全養殖と呼んでいる。

完全養殖は親がどのように子を誕生させ、孵化させるのかという部分まで研究を行う必要があり、生態が明らかになっていない動植物、特に水中で生育する魚類では大変に難しい技術とされている。しかし、21世紀に入ってから、かつては不可能とされていたウナギやマグロといった魚介類での完全養殖の実験が成功しており、今後の技術発展に水産業者の関心が集まっている。

養殖の問題点
生産過剰
養殖技術が確立され、稚魚から成魚になるまでの歩留まりが向上すると、生産過剰になり、成魚の市場価格が暴落する。ある魚種が収益が高いと注目されると多くの養殖業者がその魚種を取り扱おうとすることから生じ、また市場価格が低迷しているからといって長期間蓄養すると餌代金も無視できないので、安値でも出荷せざるを得なくなる。稚魚の確保に制約のある魚種の場合、一定のブレーキがきくが、幼生から養殖できる魚種の場合、その歯止めが利かない。
魚場汚染
餌の過剰投与、過密養殖等により、魚場の汚染がかねてから指摘されている。陸と海とが入り組み、海流のおだやかな入り江で養殖されることが多いので、海流による浄化作用がききにくい。近年では餌も改良され、また投餌技術も進歩したため、食べ残し、汚染の少ない餌が用いられるようになっている。また、フグ養殖業者によるホルマリンたれ流し騒動もかつてはあった。
品質への不信
日本の消費者には天然物志向が極めて強く、「養殖物は何を食べさせているかわからない」という観念が支配的である。また、抗生物質など投与物への不信も根強いものがある。例えば、大日本水産会が2003年度(平成15年度)に行なった「水産物を中心とした消費に関する調査(若年層対象調査)」でも、養殖魚は海水汚染の問題や魚病対策に使用される抗生物質・抗菌剤残留など、多くの消費者が不安を抱いていることがわかった。
養殖業者では餌の改良など食味の改良に取り組み、品質の向上に努めている。また、関係団体では消費者への広報活動等も行っている。なお、養殖業者では、「何を餌に食べているかわからない天然物より食べさせた餌のはっきりしている養殖物の方が安心」と主張している。
ブランド化

外国産水産物との競合
外国産の水産物が多量に流入し、これらとの競合に揉まれている。

防塁
城の一形態である。沿岸、国境線、尾根などに土塁や石垣(石塁)、空堀や水堀、さらに塹壕などを平行線上に築いた防御構築物である。室町時代以降に構築されたケースでは、銃砲撃戦に堪えて死角の無い十字砲火を可能にするために「横矢掛かり」を設けるなどして複雑化させた場合もある。基本的に城のような居住性は無く、守備する兵士は野営するか近隣の拠点から輪番で派遣された。代表的な例は中国の万里の長城であり、ローマ帝国時代のイギリスなどでも敵対的な異民族の脅威からの防衛を企図して防塁が造られている(ハドリアヌスの長城)。

日本では広大な原野や国境線が存在しないため、外国のような大規模な防塁は発達しなかった。しかし、古代においては水城が構築され、鎌倉時代には元寇防塁が構築された。これらは海外からの脅威に対処されたものであり、当時の海岸線に基づいて構築されている。室町時代末期〜安土桃山時代初期には各地の豪族や戦国大名が交通の要衝や支配地域の周縁部に小規模な防塁を築いている。これらは領地防衛もさることながら、通行人からの関銭の徴収を企図した関所の意味合いもあったと考えられる。

基本的に防塁は純粋な軍事施設であるため、江戸時代に入っては全く構築されなくなった。しかし幕末になり、外国船の領海侵入が顕著になると砲台の構築がピークとなり、この一形態として防塁を築くケースも出てきた。山口県萩市の菊ヶ浜台場(女台場ともいわれる)は海岸線に沿って、側射が可能な横矢掛かりを設けた土塁を構築したもので、この典型的なケースであった。戊辰戦争においては野戦築城として双方が防塁を築き、一部は中世の防塁を補強して使用する事もあった。


元寇

日本の鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していた元によって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

経緯

外交交渉から侵攻まで
1260年にモンゴル帝国のハーン(※)に即位した元の皇帝クビライ(フビライ)は、1268年(日本の文永五年・元の至元五年)に南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗は航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライはこれを却下し、再び高麗に命令し、1268年正月に大宰府へと到着、大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)[1]、高麗王書状[2] を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。
※…「元」と言う国名が成立したのは1271年(同国の至元八年)のことである。

日本では、京都の朝廷に代わり鎌倉幕府の北条氏が専制を行っており、7代執権の北条政村を連署の北条時宗らが補佐する体制が敷かれていた。1268年3月には時宗が8代執権に就任。幕府では関東申次の西園寺実氏に託して蒙古国書を外交権のある朝廷へ奏上する。朝廷では後嵯峨上皇、亀山天皇、関白の近衛基平を中心に返書に関する評定を行い、黙殺を決定する。幕府では諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。

同年には再び派遣された使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[3] が来たがこれも黙殺した。

1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。

『元史高麗伝』によると当初より三つの案が検討された。

日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。
高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定されたという。

クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。この時の建造費は高麗が負担し、大小900艘と言われる船をわずか半年の突貫工事で完成させた。これらの動向を察知していた鎌倉幕府は、1272年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じた。73年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。

文永の役
戦争: 元寇
年月日: 1274年10月3日〜21日
場所: 九州北部
結果: 日本側の勝利
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍
指揮官
少弐景資 征東都元帥忻都
戦力
5,000人 26,000人
損害
不明 13500人戦死・溺死

'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門1274年10月(日本の文永11年・元の至元11年)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。

10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。

壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。

元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道原つづいて博多、箱崎に上陸した。

日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』によると、百道原より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の高麗軍を撃破した。『竹崎季長絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より5百メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。

博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒すなど、海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。
 一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、軍の編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

『高麗史節要巻十九、二十五』に撤退決定の軍議の様子がある。
元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」

高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」

元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」

撤退は決定したが、当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。

夜中、炎上する箱崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。[要出典]

定説では日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。詳しくは後述の神風を参照。

元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。

なお、文永の役における両軍の兵力は、元軍が約2万6000(元軍2万、高麗軍6000)、鎌倉軍が約5000程だとされる。

弘安の役
弘安の役
戦争: 元寇
年月日: 1281年5月21日〜7月7日
場所: 九州北部
結果: 日本側の圧勝
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍
指揮官
北条実政 征東行省右丞相アラカン
戦力
120,000人 142,029人
損害
不明 130,000人戦死・溺死

史跡元寇防塁
東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する。(2004年8月撮影)
元寇防塁1275年(日本の建治元年・元の至元十二年)、クビライは再び日本に使節を送る。北条時宗はこの使者を全員斬首に処した。(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる) 元は使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を1279年(日本の弘安二年・元の至元十六年)に送り、再び殺される。(総計、5名という説が有力)この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった上(後項参照)、再度の使者の処刑にクビライは腹を立てていたため、日本への再度の攻撃を計画し始めた。

1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)に、高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。

しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが日本軍の切り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とした。更にゲリラ戦術により元軍を悩ませた。東路軍は遅れてやってきた江南軍と合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅した。元軍で帰還できた兵士は後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らずに殺害したが、交流のあった南宋人に対しては捕虜として助命したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、かなり破損された。

なお、弘安の役における両軍の兵力は、元軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約12万(京都守備軍6万、博多守備軍4万、長門守備軍2万)だとされる。

影響
クビライは三度目の元寇を画策していたが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、フビライの死と共に完全に頓挫した。なお、正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。

文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの時の戦いで日本側が物質的に得たものは無く、御家人たちに与える恩賞は非常に薄いものになった。元軍に対しての先駆けをおこなった竹崎季長などは鎌倉まで恩賞の談判に上っていくようなことがあり、その他の御家人の中でも不満は立ち上っていた。

弘安の役後、元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進める。しかし前回に続き今回も恩賞は薄く、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は一時しのぎとして徳政令を出すが焼け石に水であり、御家人の不満は募る。また、悪党の活動なども活発になり、鎌倉幕府滅亡の要因となっていく。
実際に戦った御家人たちへの満足な報償がなかった理由の見解の一つとしては、「元に勝ったのは、武士の戦いによる成果ではなく、その間の公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」、あるいは、「僧侶や神官らの折伏(しゃくぶく)や祈祷による結果である」との考えが上層部にはあった(実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が出されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領の神社への返還が命じられている)、無い袖を振れない以上そのような詭弁を弄するよりなかった、ともいわれている。当時の日本を救った暴風雨を神風と呼ぶようになったのも、これに起因するという説もある。また、そういった事情が貴族階層への失望感や国防意識、危機感などから、その後の御家人以下の武士層の台頭の大きな理由となったという説の、裏づけにもなっているといえる。

元寇の諸相

日本侵攻の理由
文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本征服を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。それは、日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。
ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。
これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。

威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。

一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。 近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。このため、戦争に勝利した暁には屯田を目的としていたと考えられている。これをもって侵略の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、南宋の10万人は軍隊と言うよりも移民船団だったのではと言う見解も出されている。

高麗の関与
『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」[4]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていた。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

蒙古国書・元使殺害
元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね謙っていると見て、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。

また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。

元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では日本侵攻の口実になった暴挙を評価する論者と、元の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。

神風
文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。

公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されてる。

高麗の史料、『高麗史』などには撤退途中に風雨が起き多数が座礁した事が記されている。がしかしそれならば何故日本側の史料にその記載が無いのか。

気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。

文永の役に関しては、台風説の可能性はほぼなかったと、今日ではみなすものが多い。弘安の役に於いても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。

軍事面
定説では元の集団戦術に対して、当時の日本は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われており、また元軍には毒矢、鉄砲(火器)などの最新兵器のために各地で日本軍は苦戦したとされる。 しかし、史料には武士達が集団戦術に対応した様子が書かれている。
日本側の弘安の役での戦術や対策としては、先述の防塁に楯を用いた防御。
前回の文永の役での元の戦力を分析し、日本は元軍より射程距離の長い弓矢を開発して使用した。(一方、東路軍は、沖の波に揺られる船上から不安定なまま矢を射ることとなり、射程距離も及ばないことも重なり、日本軍にダメージを与えられないまま、沖の上で停滞を強いられた。)
夜間、日本側からの小舟に分乗して、高麗船を奇襲。狭い船内での斬り合いでは、日本の武士の方に分があった。
合流するはずだった江南軍は、指揮官の交替と、多人数による混乱により、統率が取れず、東路軍との合流が、1ケ月半ほど遅れた。
一方、東路軍は、博多沖の海上で釘付け状態となり、度重なる日本軍のゲリラ戦術と食料や水不足と発生した疫病により、「兵糧攻め」と同じ状態になって疲弊していた。
江南軍が遅れて出発したが、そのために、台風時期と重なり、合流前にほぼ壊滅状態。博多沖の東路軍も、時間差で同じ台風ないしは、熱帯低気圧によって壊滅したとみなされている。
その他、敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて、日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し、連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていた。また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため、士気が低かったと思われる。

その他の説
なお、国家によっては異なる歴史解釈を行なっている。例えば、韓国の高等学校歴史教科書(国定)[5]から引用すれば、元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵器の供給、兵士の動員を高麗に強要した。
こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。
元は日本遠征のため、高麗に征東行省という役所を置いた。
征東行省は日本遠征が失敗した後には高麗との公的連絡機関として運営された。
と記述されており、高麗は元に強制されて日本へ兵を送ったという解釈を行なっている。

竹崎 季長(たけさき すえなが、1246年(寛元4年) − 1314年(正和3年)?)は、鎌倉時代中期の御家人。九州の御家人で、元寇における自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。五郎。兵衛尉。

肥後国竹崎郷(旧:熊本県松橋町)の出身。大宮司・阿蘇氏の一族であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため、季長が持っていた所領は相当少なかったと言われている。姉婿に幕府政所執事を務める二階堂行忠の家人、三井資長がいる。

1274年、蒙古の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣し、息浜に陣した。合戦では、景資の許しを得て5名の郎党とともに赤坂へ赴く。赤崎では既に菊池武房が蒙古兵を討ち取っていたが、武房は少弐氏の指揮下ではなく、季長は戦傷を負いながらも一番駆けの武功を立てた。

文永の役は、暴風雨とも撤退とも言われる事情で蒙古軍が一夜にして博多湾から去り、終結する。季長の武功は、負傷したのみであり戦功とは認められなかった、あるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長はこれを不服として、1275年6月に馬などを処分して旅費を造り、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。8月には恩沢奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられた。

1281年、蒙古の第二次侵攻である弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下のもと、志賀島、壱岐の海戦では敵の軍船に斬り込む等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。

戦後には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった安達泰盛や少弐景資らは、1285年の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があるとも指摘されている。1293年、菩提寺を建立して出家。

墓所は熊本県宇城市の塔福寺。

蒙古襲来絵詞
『蒙古襲来絵巻』は、筆者不明の全2巻の絵巻。鎌倉時代の作。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。

季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、軽装歩兵・集団戦術で戦う蒙古兵の姿や、軍船、使用した「てつはう」などの兵器が描かれた唯一の画像史料として知られる。末尾には家訓とともに「永仁元年(1293年)2月」の日付が記されている(「永仁」の改元は同年8月)。

なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、元兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。

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