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チェダゼミナールコミュの講義ノート その53

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一時間目 「道徳教育論」

先週の続きですが、キリスト教的倫理観というのは、間接的に階級社会を肯定している面があります。

なぜかといえば、神さえ信じていれば、現世で経済的に貧しかろうと幸せになれるという考えだからです。

つまり欧米が民主制度・共和制度を敷こうと、差別は依然としてあるのです。

じゃあここでわが国は!?ってことになりますよね。

わが国はイギリスの立憲君主制に倣い、皇室典範などが作られました。

つまりイギリスの王様が日本の天皇に当たるわけです。

今でこそ天皇はシンボルだけの存在となっています。

20〜30年前まで「一億総中流」という言葉があったように

国民には平等意識が強い国でありました。

もちろんこういう言葉があるということは、逆があるから存在するわけです。

実際は中流でもなんでもなかったのはわかるでしょう。

20〜30年ですぐにボロボロになる家を買うために20〜30年のローンを組んで、一月の小遣い3万で40年働き続けることのどこが中流なんでしょうか。

おまけに途中で病気や怪我などしたら、たまったもんではありません。

就職したら金回りがよくなる、などというのは幻想です。

資本主義社会を敷く国の労働者の賃金は、暴動が起きないギリギリの低い水準に抑えられていますから。

そうしないと資本家は富を蓄積できないでしょう。

中流と呼べる階級に上がったといえるレベルは、非組合員(企業でいえば課長以上)になれたらの話でしょう。

つまり労働者を卒業すること。

でもこのポストはなかなか余っていませんから大変ですね。

話はそれましたが、つまり私が言いたいのは、日本にも階級社会は見えないところに存在するということがひとつ。

見えにくい分、イギリスなどよりたちが悪いかもしれません。

もうひとつは、宗教には時として現実の経済的貧困から目をそらさせる働きを持つということです。

話は変わってデュルケムの「公衆道徳」つまり「社会集団への愛着」が社会の秩序形成には必要だと説きました。

例えば自分の国に愛着はあるか、母校に愛着はあるか、会社に愛着はあるか、家族に愛着はあるか、といった事柄です。

愛着(attachment)を計る物差しとして、馬鹿にされたときにどう思うかということが上げられる。

イラっときたら、愛着心があるということでしょうね。

デュルケムは日本のデモクラシー(民主主義)においてもかなり影響を与えた人物であります。

ただ、民主主義というものには常に「権利」と「義務」が伴います。

義務を果たさないと、権利も主張できないというわけです。

制帽をなくしてほしければ、まずは制帽をかぶらなければならないというルールを守ってから、主張しなければならないということを高校時代の体育教師が言っていました。

翻って自分自身の行動を見て、きちんと義務が果たせているのかといえば疑問です。

市県民税は滞納していますし、道交法をきちんと守っているとはいいがたいです。

ただタバコを辞めた事に関しては、よいことだと思います。

「ガキにタバコ吸ったらいけんぜ」と堂々と言えるでしょ。

2時間目 「地理歴史科教育法」

今日はディベートでした。

「北朝鮮の地下核実験について述べよ」

北朝鮮の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国でしたか。

ちっとも民主主義の国ではないように思うのですが。

ってか日本は非核三原則というものがありますよね。

では本当に日本は核を保有していないのですか。

僕はあると思いますよ。

だってあれだけの軍事費(世界で二番とか三番)を使っているのですよ。

核を持っている可能性は十分にありますよ。

静岡の山のほうの地下あたりに地下核実験基地がありそうな気がしますね。

国が非核三原則を掲げているから、日本が核なんて保有しているわけがないとお思いでしょうか。

僕は核戦争はもちろん危険なことだと思いますが、核を保有しないことのほうも同じぐらい危険だと思います。

感覚的にいえば、家の鍵をかけないで寝るのと一緒ですよ。

核と言うのはあくまで抑止のためのものなんです。

いずれ地下核実験もできなくなるときがくるでしょうが、現時点では認められているのにはそういった意味合いがあるからなんです。

日本は戦後日米安保のおかげで、国防にあまり意識を取られることなく、経済発展だけに特化してこれたのです。

本来、安全はタダで手に入れられるものではありません。

これからも北朝鮮が核実験で日本を威嚇してくるでしょうけど、そうしたら日本側も憲法9条の解釈がどうのこうのなんていってられないでしょうね。

自衛隊も武力行使に出るしかないでしょう。

やられても、やり返さないのでは侵略されてしまいますから。

有事(戦争)になったら今までの常識は通用しませんよ。

三時間目「人文地理学」

寝てたので割愛(笑)させてもらいます。

五時間目 「韓国経済論」

韓国の教育制度すごいですね。

スーパーエリートしかなりあがれない構造ですから、受験戦争がすごいみたいですね。

そういった意味で日本はまだ生ぬるいかもしれません。






語句調べ

ジークムント・フロイト1856年5月6日 - 1939年9月23日 オーストリアの精神分析学者。生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳の時にSigmundと改めた。オーストリアの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム)の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。(彼自身、自分が心理学者であるという事を一言も述べていない。よって、彼が心理学者であると後世の人々が思っているのは間違いである。)
フロイトの記録した数々の有名な症例報告は、彼の非常に詳細で精密な観察眼を示すものであり、現在においても研究に値するものである。精神力動論は、その後彼の弟子達に伝えられ、様々な学派により改良され、現在でも精神医学のみならず、現代の文化・人間理解に大きな影響を与えている。(ちなみに、彼の考え方を丸々受け継いだ弟子はいない。よって、弟子達は彼の考え方のどこかしらを必ず批判した上で、独自の精神医学の考え方を生み出していった。)その研究は、後の世の精神医学、臨床心理学などの基礎となってきたが、やはり現代ではもはや古典である。フロイトの理論は、「一般的」なものではなく、かれ自身患っていた症状について詳しく記述しただけで、一事例の事例報告でしかない」という批判も現在ではある。
生涯
クラーク大学にて前列左からフロイト、スタンレー・ホール、ユング。後列アブラハム・ブリル、アーネスト・ジョーンズ、フェレンツィ・シャーンドル1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル Příbor)で毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。母親はブロディ出身のアマーリア・ナータンゾーン Amalia Nathansohn(1835–1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。家族は1859年ウィーンに引っ越す。1866年シュペルル・ギムナジウムに入学。1873年ウィーン大学入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやウナギなど魚類の神経を研究、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。1881年ウィーン大学卒業。1882年、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。脳の中での神経活動としての心理活動(すなわち「力動」)を解明するという壮大な目的で、自由連想法や精神力動論を考案した。しかし後年、その目的への程遠さにも気づいていた。
自身がユダヤ人であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ。そのため精神分析の誕生の当初は、ユダヤ人の似非科学のような揶揄、非難を浴びせられた。その意味でも、非ユダヤ系でチューリッヒ大学講師でもあった、スイス人の研究者カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ評価していたが、のち訣別。
フロイト自身の子供たちのなかで、アンナ・フロイトのみが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年のかれの慰めのひとつになった。
1923年(67歳)、喫煙によるとみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受けている。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず強靭な精神力か、著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。1938年、ナチス・ドイツに追われてロンドンに亡命。1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。
苗字のFreudはヘブライ名のシムハ(שמחהSimcha; "喜び"を意味する)の独訳に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしばFraud(詐欺師)と揶揄された。
一族
孫ルシアン・フロイドは画家。孫クレメント・フロイドは著述家でブロードキャスターで政治家。曾孫エマ・フロイドはジャーナリスト。曾孫ベラ・フロイドはファッションデザイナー。曾孫マシュー・フロイドはメディア王で、ルパート・マードックの娘と結婚した。また甥のエドワード・バーネイズは広告産業の生みの親の一人である。超能力者ユリ・ゲラーの母は旧姓Freudで、やはり親類に当たる。

三角貿易 英: triangular trade 主に三つの国や地域が関係している貿易構造のこと。
概要
A、B、Cの三カ国があったとする。それぞれに生産する商品がa、b、cとして、AがCからcを、BがAからaを、CがBからbを購入したら三角貿易である。Aは、Bから買うものはないがCはBから買うものがあるといったときに成り立つ。それぞれの貿易収支は以下のとおり(主要な取引以外を捨象した場合)。
A貿易収支 = Bへの輸出額 - Cからの輸入額
B貿易収支 = Cへの輸出額 - Aからの輸入額
C貿易収支 = Aへの輸出額 - Bからの輸入額
歴史
大航海時代以降、世界的な貿易が行なわれるようになり、三角貿易が幾度か主要な貿易体制となった。
砂糖・銃・奴隷
17世紀から18世紀にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパでは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急激に高まった。それに伴い、砂糖を生産する西インド諸島では労働力が必要となった。
こうした状況の下で、ヨーロッパは繊維製品、ラム酒や武器を西アフリカへ輸出し、これらの武器は対立するグループ間へ供与され、捕虜(奴隷)の確保を促すこととなった。それらの品物と交換で得た奴隷を積んでヨーロッパの船は西インド諸島へと向かい、交換で砂糖を得て本国へ戻った。こうして、ヨーロッパ→西アフリカ→西インド諸島→ヨーロッパという三角貿易が成立した。
奴隷の一部はアメリカ合衆国南部へと輸出され、多くは綿花のプランテーションで働かされることとなった。綿花はイギリスの織物工場へ輸出され、産業革命の基盤になったとされている。
茶・アヘン・綿織物
19世紀始め頃、イギリスでは一方的な清商品輸入が続き銀が対価として流出していた。事態打開を図るため、インドでアヘンを製造し清へ密輸する活動が活性化した。清においてアヘン消費は拡大し、銀はインドの綿製品輸入を経由してイギリスへ渡った。
この場合、イギリスは中国商品購入と綿織物輸出、インドは綿織物輸入とアヘン輸出、清はアヘン輸入と商品輸出という構図になる。
清はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、密輸を禁じることで打開しようとするが、それがアヘン戦争へとつながることになる。

インナーシティ (inner city) とは、都市(city)の内部(inner)にありなりがらも、その都市全体の市民との交流が隔絶された低所得世帯が密集する住宅地域のこと。「都市内都市」、「都市内集落」。一般に、都市はそれぞれの地区によって機能分担がされているが、インナーシティは、機能分担に関係しておらず、孤立した地域となっている。
自然障壁のない、徒歩移動のみの同心円状・放射状道路都市モデルを設定した場合、中心部が最も地価が高く、周辺部にいくにつれて地価が安くなり、中心部は業務・商業地、周辺にいくにつれて高所得世帯から低所得世帯へと連続的に変化するが、インナーシティは、この地価の連続変移性とは無関係に、中心部に接して存在する地価の安い島状地域として認められ、低所得世帯の集住地域として定義される。
インナーシティの発生
インナーシティ(都心近接低所得地域、都市内集落)は、世界各地の都市で見られる。都市の大小に依存してインナーシティの大小が決まるものではなく、その国や州などの政策、都市の歴史・産業構造・不景気などによって発生する。また、都心近接の低開発地域が、必ずしもインナーシティ化するわけではなく、都心近接高級住宅街がインナーシティ化する例もある。
大まかな発生機序は2つあり、1つは、成立当時に郊外だったが、都市の成長によって都市内に組み込まれた機能性地区が、様々な理由でその機能を失って低所得(失業)地区となり、治安悪化と共に孤立したインナーシティになる場合(地区の機能低下)。もう1つは、都市内において住環境が悪いために低家賃な地区(低湿地・上下水道未設置地区・前近代的住居密集地などの低開発地区)に、低所得な移民などの新住民が大量に住みつくことで地区の地縁性や住民の交流が崩れてしまい、治安が悪化してインナーシティになる場合(地縁性・コミュニティの崩壊)である。低所得地区であっても、機能性や地縁性が維持されるとインナーシティになりづらい。
アメリカ・イギリス
アメリカ合衆国やイギリスでは、工業との関連でインナーシティが発生する場合と、低所得な移民が集住してインナーシティ化する場合が見られる。
地区の機能低下
都心近接工業地、すなわち、都市が現在ほど大きくなっていない時代の都市郊外に設置された工場は、自家用車や公共交通機関が未発達であるため、多くは工場に近接して労働者の集合住宅が建設された。工場の景気が良かった時代には、その工場も都市の膨張過程の中で都市内部に包含されていき、都市内に工場が存在する形になった。しかし、時代の流れで構造不況に陥ったり競争力がなくなったりして廃業してしまうと、工場労働者が失業して、その集合住宅は失業者ばかりが住む低所得住宅に急変する。また、都心近接工場が、発展のためにさらに郊外や他都市に移転した場合、労働者全員を一緒に郊外や他都市につれて行かずに能力の高いものだけを連れて行ってしまうと、その集合住宅は、再就職の困難な者ばかりが住む低所得住宅に急変する。
このような経緯で低所得者の集合住宅が発生すると、犯罪が多発し始め、それが周囲にまで波及し、地域一帯がインナーシティとなることがある(例:フィラデルフィアやイギリスのインナーシティ)。この場合、工場労働者が移民・移住者で占められることが多いため、その工場がどの移民・移住者を受け入れたかによって、低所得化住宅の住民の人種構成は異なる。アメリカの場合は、時代的に、南欧・東欧からの白人移民や南部からの移住黒人の場合が多い。インナーシティ化で、住民がさらに低所得な住民に入れ替わる場合もある。
地縁性・コミュニティの崩壊
アメリカの場合、移民を大量に受け入れてきた歴史があるが、華僑・日本人・韓国人・イタリア人・ユダヤ人などは、農園の労働者として移民する一方、都市部の低家賃地域で集住する場合もあった。彼らは都市部では、第三次産業に従事したり、互助的な組織で就職斡旋をすることで、その地域が荒廃を免れている例が多い。
一方、民族的互助組織がない南部からの黒人移住者やその他の移民たちの場合、その時代時代の低家賃地域に集住するが、就職口が見つからずに犯罪に走る場合もあり、低家賃地域がそのままインナーシティ化する例がみられる。このような地域は、アメリカでは「ゲットー」(黒人やヒスパニックなどの多いスラム)と呼ばれ、教育や福祉を受けられずに、そのまま低所得階層として固定化してしまうことが多い。
低家賃地域は、治安が悪いから家賃が安くなっているとは限らず、ニューヨークのハーレム地区のように、もとは高級住宅地として建設されたが、供給過剰と地下鉄延伸の遅れのために不動産価格が下落して低家賃地域となり、ヨーロッパ系移民が住むようになり、その後黒人が住むようになり、最終的に荒廃してしまった例もある。
ヨーロッパ
ヨーロッパ大陸の場合、集落が大きくなって統治者が現れると、街を取り囲む城郭を建設して城郭都市となる例が多いが、その場合、その城郭の内部(インナーシティ)との交易や商売のために、城郭外に移住者が集まって低所得地域を形成したり、ユダヤ人などを城郭外に住まわせたりした。城壁の外(アウターシティ)が大きくなると、さらに外側に城壁が造られ、低所得なアウターシティが内部に包含されることになる。
パリでは、このような都市拡大が何度も繰り返され、城郭内にいくつもの低所得地域が含まれることになった。そのため、パリにおけるインナーシティ(低所得地域)は、市内に内包されてしまったその時代時代の城門の周囲に形成され、現在まで続いているところもある。ただし、それらインナーシティの内、現在治安が悪化しているのはサンドニ門周辺など一部であり、それよりも、風俗営業店が多い地区やターミナル駅周辺の方が治安悪化が激しい。また、最近では、フランスの旧植民地からの移民が多く住む「郊外(バンリュー)」の集合住宅の治安悪化が見られ、アメリカ・イギリスとは異なった都市構造となっている。
中国
中国の場合、王朝の首都が城郭都市として建設されたが、元々広大なものであったため、低所得層も城郭内に住んでいた。現在にも残るそのような地区は、日本の下町のようになっており、犯罪の多いインナーシティのようにはなっていない。
日本
高度経済成長期に、三大都市圏を中心に金の卵として農村部から大量に集団就職があったが、終身雇用制、および、産業構造変化で人員整理が必要になった際の再就職斡旋のおかげで、これらの層がインナーシティ形成の元にはなっていない。また、欧米諸国の高度成長が異民族の移民によって支えていたのに対し、日本の高度成長は日本人(国内の労働者再配置)が支えていたため、地縁がない異民族の移民によるインナーシティ発生機序はみられない。
現代日本の大都市部の低所得地区は、被差別部落・在日コリアン地区・日雇い労働の寄せ場周辺・第二次大戦後の引揚者集住地・沖縄県出身者集住地などがあるが、治安悪化でインナーシティ化しているのは、安定就職が得られない日雇い労働の寄せ場周辺である。これは、大阪市で特に顕著である。また、終身雇用制が崩壊し始めた1990年代後半以降、工場の移転で労働者が取り残されてインナーシティ化している例が大阪に見られ、アメリカ・イギリス型のインナーシティ発生機序も見られるようになった。
中心部商業地がシャッター通りになってしまったり、地方都市の中心部や大都市の近接郊外に存在するデパートや旧式のショッピングセンターが廃業してしまったりすると、廃墟となった建物が破壊されたりして治安の悪化が進んでしまう。そこから周囲がインナーシティ化してしまうことがあるので、現在、日本各地で空き店舗対策がなされている。基本的には、自治体主導で空き店舗の賃料減免により新たな借主を探しているのだが、うまくいっていない例が多い。そのため、都心回帰の名の下に、一帯を再開発ビルや高層マンションに立て替える例が見られる。
外国人集住地
バブル経済期以降、日本には外国人労働者が増えた。それらの内、第二次産業での労働者として中南米出身の日系人や、第三次産業で働く韓国人・中国人は、集住する傾向がみられる。地域住民との軋轢が生じている地区もあるが、彼らが持ち込んだ異国の文化が注目され、観光地化している地区もある。
インナーシティ発生の防止策
地縁がない低所得者が集住すると、インナーシティの発生母地となってしまうので、住宅団地や公営住宅を建設する際、世帯所得が均質になるのを防ぐ試みがなされている。公団住宅では、同じような間取りだが、所得の低い世帯には家賃を下げて住まわせ、中間層以上には家賃減免がない。一方、民間集合住宅では、日当たり・見晴らし・床面積などである程度の幅を持ってはいるが、均質な世帯所得層が住む傾向が見られる。また、地縁のない人々が集まる集合住宅は、住民の所得の高低に関わらず治安の悪化を招くため、コミュニティの創生が図られ、自治会を結成し、問題発生に素早く対処を取っている。高所得世帯の集合住宅の場合は、自治会よりもセキュリティの強化(監視カメラの設置・交番の誘致・進入経路の限定・警備員の配置)により治安悪化を防いでいる。
富の郊外化
産業革命後の欧米先進諸国の都市では、人口の多くが低所得な労働者で占められるようになり、集合住宅の狭い部屋に多数の人が住んでいたが、下水道が発達していない劣悪な環境のため、伝染病が多発していた。そのため、王族や富裕層は、都市郊外、もしくは都市から離れた田園地域の広大な土地に大邸宅を建てて住むようになった。近代化の中で、貿易や重化学工業等で富を得た新富裕層も、王侯貴族の例にならって、郊外や山の手地区(郊外の一種)に大邸宅をつくって住むようになった。
第二次世界大戦後、アメリカで中産階級が拡大し、国民の多くが低所得から脱却すると、前世代の貴族や富裕層を模倣して、生活環境が劣悪な都市部から、環境のいい郊外の庭付き一戸建てに住み替える、という「住宅革命」が起こった。これは、安価な自家用車の普及(モータリゼーション)や公共交通機関(バス、近郊列車)の発達、都市高速道路の発達という交通インフラの整備に大いに依存している。また、都市近郊の二束三文の田園地や丘陵地が、住宅地開発で莫大な富を生み、さらに、住宅建設に関わる産業の発展にも寄与するため、資本主義における産業発展・内需拡大策として、以降、他の資本主義諸国が次々と模倣した(日本では、マイホームより郊外立地型集合住宅が多いのが特徴)。
このように、可処分所得が増えた世帯が郊外に次々と移住する傾向は、「富の郊外化」を生み、郊外にロードサイドショップや大規模ショッピングセンターを立地させる動機となった。また、郊外と都心をつなぐ都市高速や近郊列車の設置は、郊外居住者に、都心周囲の劣悪な住環境地区を飛び越えて都心に通勤することを可能にし、都心周囲の低所得地区に対する政治的興味を低下させた。一方、都心周囲の富の低下は、都心周囲の地価・家賃下落に拍車をかけ、インナーシティの発生母地となった。
このような都市構造の変化は、北米の大都市で顕著に起こったため、北米の大都市の都心周囲には、大規模なインナーシティが形成された(ニューヨーク市のハーレム地区やブロンクス、クイーンズ、ロサンゼルスのサウスセントラルなど)。なお、大都市部で郊外移住できたのが白人に多かったため、人種主義と関係付ける論者が見られる。
日本
日本では、都市は統治者とその家来、および、職業集団が集住して住む地区として発展したが、江戸時代の三都(江戸・大坂・京)では、飢饉が起きるたびに営農放棄した元農民が集まるようになって、都市住民のほとんどが低所得である近世型大都市となっていった。これら庶民層は下町を形成したが、住民のほとんどが低所得であるため、地域から隔絶されたインナーシティの形成はみられなかった。
また、鎖国政策をとっていたため外国由来の伝染病発生が少なく、上水道の整備や下水の有効活用(近郊農業地での肥料)をして都市が清潔であったため、低所得者が住民のほとんどであっても清潔な大都市となっており、欧米のような「富の郊外化」は見られず、徳川将軍家や大名(参勤交代時)は江戸に住み、天皇は京に住むことができた。
明治時代まで牛馬の肉を食べる習慣の無かった日本では、牛馬が死ぬと食べずに解体処理をしていた。きちんとした処理をしないと人畜共通の伝染病が都市に蔓延するため、その仕事は被差別部落の専業の1つとなっていた。すなわち、部落は都市の「伝染病対策」という機能を担っていたため、都市近接郊外に設けられることが多かった。部落が都市内に存在しないため、インナーシティとなることもなかった。なお、牛馬の解体で出た牛革のなめしで莫大な富を得る部落も多かった。
日本において「富の郊外化」が始まったのは、幕末の開国以後である。当時、「コロリ」と呼ばれたコレラの蔓延により、外国貿易や殖産興業・富国強兵策で富を得た富裕層が山の手に住むようになり、高度経済成長以後は、アメリカ型の「住宅革命」を手本とした郊外化が進んだ。
ニューアーバニズムとトランジットモール
インナーシティとなった地区は、都心に近接していることが多く、治安の改善や住環境の整備で高級住宅街に変化させることが出来る。また、インナーシティ化した地区は、地価が安くなってしまっているため、安価に入手した土地を高級住宅街にすることが出来れば、莫大な富を得ることが出来る。そのため、北米の大都市ではニューアーバニズムと呼ばれる思想的運動と経済原理が合致して、次々とインナーシティの再開発が行われている。思想的意味合いでは、住居、商業、オフィス、レジャー施設をそれぞれ歩ける範囲内に供給し、道路のための土地を削減し、大量輸送手段の効率化を進めようとしている。これは、ヨーロッパで成功例がある都市中心部再生策の模倣である。
ヨーロッパでは、路面電車(LRT)と中心部のトランジットモール、郊外のパークアンドライド用駐車場(無料や定期)、そして、安価な公共交通定期券の組み合わせによる都市システムとして成功例が見られる。ヨーロッパのシステムでは、住民の移住の要らない交通システムの変革が都市システムを変化させるのに対し、北米の場合は、経済システムであるため、インナーシティの現在の住民を立ち退かせて再開発するのが前提となっており、かなりの違いがある。ニューヨーク市のサウス・ブロンクスなど、かつて犯罪の巣窟として知られた典型的なインナーシティでは、こうした都市の再構成で再生を図る動きが見られる。
日本では近年「都心回帰」といわれる現象が起きている。この場合、高層マンションの開発をベースにしているが、その用地は、海岸埋立地・企業の社宅跡地・都心の低開発地区などである。日本の場合は、低開発地区の治安が悪いわけではないため、インナーシティの再生とは異なる。また、日本の低開発地区は持ち家率が高いため、地権者でもある住民は、再開発マンションの住民に移行することが多い(外国のインナーシティは賃貸の住民で占められるため、再開発マンションに住む権利がないだけでなく、再開発後の高騰した家賃では住むことができないことが多い)。
「芸術」を利用した再生
また、ニューヨークのソーホー地区のように都心近くの荒廃した地区に芸術系の若者が集まって住宅や倉庫跡の改修が進み、最終的に高所得のエリートが占領するようになるような「ジェントリフィケーション」現象の起こった場所では、インナーシティは洗練された地域というイメージになることもある。芸術家やミュージシャンらが地価の安いインナーシティ地域に住み、関心のある若者が遠くから集まることで活性化が始まるが、従来からの住民との間には摩擦を生むこともある。最終的には、この活気に注目した開発業者が高級住宅や高級店舗を展開させ、地価の高騰により若者も従来の住民も追い出されてしまうことが多い。
一方、地域再生運動の中で住民同士のつながりをつくり地域の歴史に関心を集めるため、芸術家による住民と共同での作品制作やワークショップなどの芸術活動が使われることもある。
日本
日本で比較的早くインナーシティ問題に取り組んだのは神戸市であった。かつて地方からの移住者や在日コリアンなどが密集して重工業や中小工場に従事していた長田区や兵庫区において、造船業や港湾の人員削減など産業構造の転換で活気が失われインナーシティ問題の発生が始まっていることが1980年代後半から認識され、活性化のための施策が行われた。この中には丸山地区・真野地区での住民主体の地域再生運動や、これら地域を通る地下鉄海岸線建設といった大規模公共工事までを含んでいたが、当時の神戸市の施策には、インナーシティ問題を認識しながら埋立地や丘陵地のニュータウンに住民や産業を誘致することに一層の重点を置くような矛盾があった。神戸市を直撃した1995年の阪神・淡路大震災では、これらインナーシティ地区に人的被害が集中した。一方、住民主体の再生の模索が進んでいた地域は比較的被害が少ないなど、住民の参与によるインナーシティの再生が、コミュニティの維持や災害などに対する安全性の強化に資する面が大きいといえる。

ドックランズ(Docklands)は、イギリスのロンドン東部、テムズ川沿岸にあるウォーターフロント再開発地域の名称。サザーク区、タワー・ハムレット区、ニューハム区にまたがる。現在は、主に商業と住居が混在した地域として再開発されている。
名前の基となった「ドック」とは、一時は世界最大の港であったロンドン港の港湾荷役用の水面のことであった。第二次大戦後、船舶の大型化・コンテナ化など物流革命に伴い、ドックランズは衰退し廃墟となった。ドックランズという名称は、1971年のイギリス政府の再開発計画の報告書で初めて用いられた。
歴史
ロンドン港湾の歴史
最初のロンドンのドック、ハウランド・グレート・ドックローマ時代から中世まで、ロンドンの船着場はシティ・オブ・ロンドンとその対岸のサザーク(サウス・バンク)の間のテムズ川岸、プール・オブ・ロンドン(Pool of London、ロンドン波止場)にあったが、陸揚げした貨物や船の中の貨物を保護する施設がなくたびたび盗賊に狙われた。また、波止場には17世紀以降急増する船をさばくだけの余裕がなかった。
1696年、テムズ川南岸のサザークの東(下流側)の半島、ロザーハイズに、この地の地主であったベッドフォード公爵ウィリアム・ラッセルらによって「ハウランド・グレート・ドック」(後に拡大され、サリー商業ドックとなる)が完成した。このドックは長方形の大きな堀で、120隻の大型船を停泊させることができた。荷役のための通路や倉庫、周りを囲う壁などはまだ設けられていなかったが、貨物や船の安全などの問題が改善されたため、たちまちロンドン一の港湾となり、後のドックの雛形となった。1802年の西インドドックを皮切りに、19世紀に入り、さまざまな会社によってロンドン塔の東側のワッピングやその先のドッグ島などに次々と大型のドックが完成し、ロンドン港はヨーロッパや大英帝国の各地からの貨物を集散する世界一の港湾となった。
ドックにもいくつかの種類があり、ウェットドック(泊渠)は堀の入り口に閘門、周囲に倉庫や防壁を設けたもので、船が入って停泊し荷役をすることができた。ドライドック(乾船渠)は小型のもので、船を入れた後に堀から水を抜き、修理をするためのものであった。同様の構造で船を作る造船所もテムズ川沿いにあり、その他倉庫や船着場がびっしりとテムズ川沿いに並んでいた。また、各ドックは砂糖・穀物・材木など貨物の種類ごとに特化して荷役施設を作っていることが多かった。こうした貨物ははしけによって運河で、あるいは鉄道などで各地に送られた。
ドックランズには船からはしけに貨物を上げ下ろしする沖仲士(Lightermen)や、はしけや船から陸に貨物を上げ下ろしする陸仲士など港湾労働者が多く集まった。はしけを持ち会社や組合を作る沖仲士など熟練労働者もいたが、多くは日雇いの未熟練労働者で、朝パブなどでフォアマンの募集に応じるために集まり、仕事にありつけるか・どんな仕事で給料はいくらかなどは一種のギャンブルであった。こういった労働形態は第2次大戦後まで続いた。
もともと低湿地で農業に向いていなかった無人のドックランズ周辺には労働者相手のパブや宿屋、集合住宅など下町が急速に形成されたが、市内からは数本の道しかなく、隔絶した貧困な(しかし強固な)コミュニティを形成しており、ギャングなどの犯罪の温床になる一方、団結して政府に対し抗議行動を起こすこともあった。
ロンドンのドックランズ地区を爆撃するドイツ空軍機1909年、ドックを経営する各民間会社は、物流の効率化や労働問題の改善などのため「ロンドン港湾局」に統合された。ロンドン港湾局のもと、ドックランズはロイヤルドックのキングジョージ5世ドックまで拡大し、さらに下流のティルバリーにまで多くのドック、内陸港湾が形成された。
第2次大戦時のバトル・オブ・ブリテンにおけるロンドン空襲により、ドック群は集中的な攻撃を受け大きく破壊された。1950年代まで復興に時間がかかり、往時の繁栄を取り戻したドックランズであったが、その終焉は急に訪れた。コンテナによる海上運送・陸上運送の物流革命により、船会社は寄航先をコンテナに対応しないドックランズから、コンテナ化に成功したティルバリーへ、さらに外海に面した水深の深いフェリクストウに移転したのである。1960年代から1980年代までにかけてすべてのドックは営業を停止し、ロンドン都心の真横に21平方kmの廃墟が誕生した。ロンドン東部には失業や、それに伴う諸問題が頻発した。
ドックランズ再開発
ドック閉鎖に伴い、再開発が急務となったが、計画を完成させるのに10年、実行に移すのにさらに10年がかかった。1970年代から作業は始まったが、当該地域の地主がグレーター・ロンドン・カウンシル、ロンドン港湾局、電気、ガス、鉄道、5つの区などにわたり問題が複雑になっていた。
そこで1981年、イギリス環境省によってロンドン・ドックランズ再開発公社(the London Docklands Development Corporation 、LDDC)が設立された。これは政府によって作られた会社であり、ドックランズの土地取得と整地の強大な権限を有していた。もう一つの重要な政策は1982年策定のエンタープライズ・ゾーンであり、該当地域内のビジネス活動には不動産税が免除されるほかさまざまな土地開発の簡略化などインセンティブが与えられた。これによってドックランズ内での開発は企業をひきつけ、一種のブームを起こした。LDDCの政策は、大企業やその勤務者向けの上質なビジネスセンター開発に偏り、手ごろな住宅の開発などを怠っているとの批判を生み、もとからの下町住民には自分たちのニーズは無視されているとの不満を呼んだが、LDDCの開発は(さまざまな異論が残るものの)ドックランズを大胆に変貌させた。1998年、ドックランズの管理が地元の区に戻り、LDDCの活動は終わった。
1980年代から1990年代のLDDCによる巨大開発計画は、ドックランズの大部分を住居・ビジネス・商業・軽工業の複合体に転換させた。そのもっともわかりやすいシンボルが、ドッグ島中心部のイギリス一の超高層ビルやロンドンの新金融街形成に代表される、野心的なカナリー・ワーフ計画である。しかし、近くのヘロン・キーズが低密度のオフィス地区として再開発され、同じカナリー・ワーフでもライムハウス地区などで同様の開発が進んでいたにもかかわらず、カナリー・ワーフ計画のような大規模開発にどの程度の見通しを立てていたかは定かではない。カナリー・ワーフは1990年代初頭の不動産不況に巻き込まれ、竣工当時テナントが入らない上に、ほかにビルが建たず更地だらけになるなどLDDCにとってトラブルの連続であり開発に数年の遅れをもたらした。不動産業者も同様に、賃貸も販売もできない不動産を抱えるなど負担を抱えた。
ドックランズは歴史的に交通の便が悪いため、LDDCはドックランズとシティの間に無人運転で走る新交通システム、ドックランズ・ライト・レイルウェイ(the Docklands Light Railway、DLR)を建設した。これは比較的安価な鉄道で、廃線跡などを再利用し軌道を通したため、第1期だけで7700万ポンドの出資で済んだ。(LDDCは当初地下鉄新線を要求したが、政府に出資を拒否された。)LDDCはドッグ島とA13号高速道路を結ぶ道路、ライムハウス・リンク・トンネルを開削工法で建設したが、こちらは1kmあたり1億5000万ポンドかかったという史上最高額の建設費の道路であった。またLDDCは1987年にロイヤルドック跡にビジネスジェットなど小型機主体のロンドンシティ空港を建設している。
ライトアップされた夜のカナリー・ワーフ過去20年間で、ドックランズの人口は2倍以上になり、また交通も便利な大ビジネスエリア・住宅地区になった。交通網は明らかに良くなり、ドッグ島は1999年に地下鉄ジュビリー線が延伸し、ウェストミンスター駅から6駅でカナリー・ワーフに着き、東郊のセントラル線にストラトフォード駅で接続した。またドックランズ・ライト・レイルウェイは、東はベックトン方面への延伸が完了し、さらに支線としてロンドンシティ空港を経てキングジョージ5世ドック方面(2005年12月運行予定)への延伸計画がある。南はドッグ島を縦断しテムズ川を越えてグリニッジ、ルイシャムまで延伸した。カナリー・ワーフはヨーロッパ最大の超高層ビル街となり、シティの金融街としての地位を脅かすまでになった。さらに東、ロイヤルドックはもっとも輝かしい成果、エクセル・エキシビション・センター(国際会議場)として生まれ変わった。
ドックランズのほとんどの古い倉庫や埠頭は撤去されたが、いくつかの倉庫は改修されて住宅などとして使用されている。ドックの堀割と水面自体はほとんどが残され、主にマリーナやウォータースポーツのセンターとなっている。(例外として、無数のドックがあったサリー商業ドックは大半が埋め立てられた。)たまに大きな船が古いドックに入港することがあるが、貨物運送はティルバリーやフェリクストウに移転している。
ドックランズの再生は、荒廃した周囲の下町にも影響が及んだ。たとえば、グリニッジとデプトフォードは交通網の発達の結果通勤至便な場所となり、大規模な再開発が進行している。
しかし、ドックランズの再開発は、他方で損失となった側面もある。大規模な不動産ブームとそれに伴う家賃の上昇は、ドックランズの転入者と、家賃上昇で出て行かざるを得ない古くからのコミュニティとの間に、深刻な摩擦を起こした。またイギリスのどこでも見られる不一致現象 −エグゼクティブのための高級なアパートが荒廃した公営住宅の傍らに建つ− のもっとも衝撃的な事例となった。(都市のジェントリフィケーション現象)
ドックランズの「サッチャー政権のイギリス」の象徴としての地位は、テロの標的にもなった。カナリー・ワーフ爆破計画が失敗に終わったIRA暫定派は、1996年2月10日、サウス・キーで大きな爆弾テロを起こし、2人が死亡、40人が負傷し1億5000万ポンドの損害が周囲に発生する惨事となった。
将来のドックランズ
ドックランズ再開発はいまでも継続しており、多くの計画が意図されている。
21世紀初頭には再開発は東ロンドンのもっと郊外にまで広がり、テムズ下流のケント州やエセックス州まで及ぶ予定がある。リー川下流計画や、テムズ・ゲートウェー計画などがこれにあたる。

大韓民国
概要
軍事境界線(38度線)を挟み朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治区域と対峙する分断国家であり、韓民族国家としての統一は国民の悲願とされる。
日本海を挟んで日本と、黄海をはさんで中華人民共和国と国境を接する。韓国人口のほぼ半分は、世界で3番目に大きな大都市圏であるソウル都市圏(ソウル・インチョン周辺)のある京畿道で生活する。
日本による植民地統治からの解放後、紆余曲折を経て、1948年に建国される。その後、朝鮮戦争や軍部出身大統領による独裁政権時代を経て、1980年頃より民主化運動が盛んになる。当初は光州事件での政府による民間人大量虐殺など、その運動は弾圧されていたが、1987年に自由選挙が実現された。現在は複数政党制の民主主義社会である。
北朝鮮とは建国以来敵対関係にあり、朝鮮戦争以降も小規模な軍事衝突がたびたび発生しており、常に緊張状態にある。金大中政権以降の北朝鮮に対する融和的な政策(太陽政策)により表面的には友好関係が築かれつつあるが、北朝鮮による核開発問題や拉致(拉北)問題など未解決の問題が山積している。また北朝鮮の経済的な破綻や人権問題などもあり、南北統一の実現には未だ多くのハードルが残されている。
日本に対しては基本的に友好関係にあるが、過去の経緯から反日感情やライバル意識が根強い。
米国とも基本的に友好関係にあるが、北朝鮮問題や在韓米軍問題などをきっかけに、反米感情の噴出により距離を置き、独自路線を歩みつつある。
IT産業、自動車産業などを中心に世界で10番目の経済的規模があるが、中国の躍進や1997年のアジア通貨危機、内需不振などにより経済は低迷傾向にある。また国民の間の経済的な貧富の格差が社会問題となりつつある。
総計
- 水面積率 世界第107位
98,480km²
0.3%
人口
- 総計(2004年)
- 人口密度 世界第24位
48,598,175人
493人/km²
GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
839兆825億ウォン
GDP(MER)
- 合計(2005年) 世界第13位
7,207億ドル
GDP(PPP)
- 合計(2003年)
- 1人当たり 世界第11位(2004年)位
8,553億ドル
17,700ドル
独立宣言
日本統治の終了
憲法制定 1919年5月1日
1945年8月15日
1948年7月17日
通貨 ウォン (KRW)
時間帯 UTC +9(DST: なし)
ccTLD .KR
国際電話番号 82
国名
韓国語(朝鮮語)での正式名称は、ハングル表記:대한민국、漢字表記:大韓民國。読みは、テハンミングク、Daehan Minguk 略称は、한국(韓國、ハングク、Hanguk)。
日本語表記は、大韓民国。通称は、韓国。北朝鮮政府は、南朝鮮という呼称を使用している。日本においても、南朝鮮と呼ぶ立場をとるケースがある。 英語ではRepublic of Korea通称、R.O.K. またはSouth Korea。
「韓」は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称に由来する朝鮮民族の別名。日本と清との間で取り交わした下関条約の後の1897年に当時の大朝鮮国(朝鮮王朝)が国号を大韓帝国に改めたことで正式の国名となった。1910年の日本による韓国併合後、この地域の呼称は朝鮮に戻された。のち、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府は、亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した。
(注) 「朝鮮」という呼称は、北朝鮮を認め韓国を否定するものと理解されるため、韓国人は嫌っている。「朝鮮民族」や「朝鮮語」などの言葉が日常で使われることはほとんどなく、「韓民族」や「韓国語」と呼ばれる。背景には、北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していることなどがある。韓国では朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮海峡を「大韓海峡」、朝鮮戦争を「韓国戦争」(「韓国動乱」、「6・25(ユギオ)」とも)と呼称するのが一般的である。北朝鮮を「北韓」、朝鮮人参も「高麗人参」という。(「高麗人参」は土産物用、輸出用に限られ、韓国内では「人参」という。野菜のニンジンは「タングン(唐根)という。) ただし、ホテル名や学校名、朝鮮日報のような新聞社名など、ごく少数の固有名詞で、植民地時代からの歴史のあるものや伝統的な語感を生かそうとしている名称には「朝鮮」が使用されることもある。
民族構成と言語
民族構成は、そのほとんどは現代では均質化された韓民族(朝鮮民族)である。他にはごく少数ながら中国系住民(華僑・華人)も存在する。韓国に永住権をもつ外国人の大半は華人であるが、華人に対して排外的な風土と諸施策が影響し、過去数十万人いたが現在では数万人以下に減少している。外見的には日本人や他の東アジアの人々と区別が難しいが、日本人よりもやや体格がよく、顔は面長で目がやや小さい。
公用語はソウル方言の韓国語(朝鮮語)を話し、文字はハングルを用いる。「韓国語」とは外国向けの表現であり、彼ら自身では「我が国語」(ウリマル)と呼ぶ。最近ではハングルのみで読み書きするための教育を受けた世代が多くなり、古文書を扱う公務員や教育関係者など一部を除き、多くの国民はほとんど漢字を読むことができない。最近は再び、学校での漢字教育も重視すべきとされているが、全般的に漢字表記は少ない。W杯を前後し、東アジアの漢字文化圏からの観光客への便宜及び同地域の国際交流推進を目的に、交通施設の標識などに漢字が増えてきている。
北朝鮮の公用語と韓国の標準語(ソウル方言をベースとしたもの)は、日本での標準語と関西弁以上の差があり、北朝鮮出身者はすぐに分かるといわれる。また、標準語と釜山・大邱方面の方言も、日本での標準語と関西弁程度の差があるほか、釜山・大邱方面と全州・光州方面の方言も、日本で言えば東北弁と九州弁程度の差はある。また済州島の方言は日本で言えば津軽弁や鹿児島弁に相当する難解な方言で、半島部の人は理解できないといわれている。
社会の特徴
1961年から1987年までは、軍事政権による言論統制が続き、新聞業界の再編などが行われた。放送局は民放2局が公営のKBSに統合され、残った民放のMBCも65%の株式をKBSが保有した。1987年以降は言論の自由が一応は保障され、新聞社が増大した。しかし政府が報道内容に干渉することも多く、本格的な言論の自由は1998年以降である。最近もKBSとMBSは、日本のNHK以上に政府の影響力が強く、テレビ報道の内容は政府よりである。しかし民放のSBSもあり、ケーブルテレビ局の放送も増えている。
1990年代以降には地方自治選挙もあるが、それ以前は地方首長は政府の任命であり、現在でも役人の権限が非常に強い役人社会である。また日本同様、晩婚化や少子化が問題となっており若年人口は減少傾向である。徴兵義務や就職難のため、優秀な若者は海外への脱出を目指す傾向も強く、貧困者も目立ち社会状況は厳しい。全ての男性には26月以上の兵役義務があるが、近視等の身体的問題や、その年度の予算不足のため免除や短縮勤務となる者もある。現実には政治家の息子や有名俳優、スポーツ選手など、軍幹部への働きかけにより徴兵逃れをしている者もあり、しばしば社会問題となる。
冬の気候が寒く強風も多いため、南部を除き多くの大都市は海から離れたところに作られる。首都のソウル特別市もピョンヤンも海からは距離がある。地震は九州から伝わるものを除きほとんどなく、活火山もまったく存在しない(済州島、鬱陵島は火山島だが活動していない)が、国土は山がちである。少数の温泉はある。地震がないため比較的安価に高層マンションが建設可能で、暖房設備の問題もあり最近では一戸建てよりも人気がある。2000年頃から高層マンションブームであり、不動産価格は高騰している。
1997年のアジア経済危機の後、韓国経済は大きな危機に直面し、大量倒産や失業と財閥解体が起こった。2000年頃には一時期、経済の立ち直りがあったものの、政府の不適切な金融政策のためクレジットカードを大量に発行した余波もあり、2003年頃には個人破産が急増し国内での信用不安が高まったため、金融恐慌状態となり、2005年以降も国内消費の低迷と高失業率がある。一部の有名大学を除き、大学卒業生は卒業後に数年間は就職できないことが、現在でもごく普通であり若年失業率が高い。このため国を離れて米国や日本の企業に就職する若者が多くなっており、頭脳流出が懸念されている。その一方、輸出産業は好調であり富裕層も多く不平等が拡大し、社会では「二極化」という言葉がよく使われるようになり、日本と同様、社会の不平等拡大が問題となり政府が批判されている。
地域対立と不平等
人口の85%は都市部に住んでいる。特に首都のソウル特別市には全人口の2割に当たる約1000万人が住んでいる。ソウルと仁川がある京畿道がある首都圏には全人口の半分近くが住むという一極集中が起きている。人々の方言や、価値観や意識は地域間の差が大きく、現在でも地域対立は強く選挙などへの影響も強い。これは伝統的なものとされる。
軍事政権時代は朴大統領の出身地である慶尚北道の大邱市や慶州周辺に多額の予算が投入される一方、光州市など全羅道は、予算配分でも就職など社会においても、様々な差別があったことも、地域対立の原因である。大邱地域と慶尚道の出身者はTKとよばれ社会のあるゆる面で優遇された。嶺南圏(ヨンナムコン)といわれる慶尚道と、湖南圏(ホナムコン)といわれる全羅道の、東西での対立感情は今でも強い。ただし、この地域対立がいつから発生したのかについては諸説あり、実際には詳細がわかっていない。
被差別階級はとくに目立たないが(かつては白丁という被差別階級が存在した)、職業差別は根強く、とくに食堂や売店など人と接する職業は汚れているか身分の低いものとされる。そのため日本のように老舗は少なく、店舗がもうかれば売却して他の職業を探すべきという価値観がある。この価値観のため、韓国の自営業は長くは続かないことが特徴である。また歌手や俳優などは、もともと貴族に仕えるための職業で、ホステスや水商売に近いイメージがある(北朝鮮の喜び組は正に実例)。そのため、親戚に歌手がいる場合、恥ずべきこととして隠すことが多い。しかし最近では、そのような価値観も変わりつつある。韓国の経済成長期は、大量の人口が農村部から都市部へ移り、女性も工場労働者として、長時間労働により経済発展を支えたのだが、女性が働くことも身分が低いこととして差別感が強い。最近では高学歴女性など積極的に働く人も多いが、女性の社会進出は遅れぎみであり伝統的な性別役割意識も強い。中国東北部(主に朝鮮族)や東南アジア、中央アジアなどからの外国人労働者が最近は増え、仁川市などには中華街もある。人種差別も少なくないが、2006年の地方選挙では外国人参政権が認められた。しかし、韓国国会は2002年2月28日、永住外国人に選挙権を与えるのは「主権は国民にあり」という大韓民国憲法第1条に反すると決議した。
宗教
高学歴層を中心に人口の約4分の1はキリスト教徒であり、4分の1は仏教徒だがこれはやや庶民が多い。残りのほぼ半数は無宗教者だが、祖先崇拝や法事は熱心に行う。キリスト教徒の多くはプロテスタントで、とくに長老派やメソジスト派が多い。シャーマニズムが、日本では神道や天皇制として形式化されたが、韓国では庶民の宗教として残り、キリスト教の中でも聖霊の考え方と似ていたため、とくに長老派やメソジスト派が信者を増やしたと言われる。また米軍の宣教師の影響も強い。ただし、朝鮮戦争後の、キリスト教の急速な普及の背景には、併合時代に日本仏教界の援助を受けて復興した韓国仏教界が、独立により援助がなくなり低迷した隙を突いたと言われる。また経済成長期に、多くの人口が都市部へ移動したことは日本と同様であり、故郷を離れ孤独な人々が宗教組織に入ったという事実もある(詳しくは韓国のキリスト教を参照)。
1994年に行われた統計庁の社会統計調査では、50%が無宗教、24.4%が仏教、24.1%がキリスト教(カトリック・プロテスタント)という結果となった。韓国のキリスト教は、しばし土着的なシャーマニズムとの融合が指摘される。土着信仰の巫女・ムーダンの入信、御利益信仰的な祈祷、カリスマ牧師、独特の終末論などである。これについては、韓国独自の風土や文化にあった信仰があっても良いとする人々、異端視する人々など、評価はさまざまである。統一協会という宗教団体がある。
なお、韓国で基督教(キドッキョ 기독교:キリスト教)といえばプロテスタントを指し、カトリックは天主教(チョンジュギョ 천주교)と呼んで区別している。教会(キョフェ 교회)はプロテスタントの教会を指し、カトリックの教会は聖堂(ソンダン 성당)と呼ぶ。
人材
初代大統領の李承晩が、プリンストン大学で博士号を取った人物ということもあって、アメリカの一流大学で博士号を取得する学生が尊ばれた。政府高官や大学教授などの高い地位が約束されていて、1970年代後半までは、新聞に顔写真と経歴が掲載される程だった。また、企業や奨学財団も、アメリカ留学を積極的に推し勧めた。そのため、厳しい受験競争を勝ち抜いたトップクラスの学生は、アメリカ留学へと向かった。1980年代以降は、博士号取得者が増加し、その数は1998年までで3万人に達するといわれている。今では単にアメリカで博士号を取ったぐらいでは、大学教員として迎え入れられることはなくなっているという。こうした人材が経済発展の礎となった。国内の大学院も学生数が増えているが、韓国の博士号はあまり信用されず、博士号をとっても大学教員となることは難しいため、留学する経済的余裕のある家庭の子でないと研究者になりにくいという面は否定できない。豊かな家庭の子は欧米に留学し、そうでない場合は日本等となる傾向もある。
教育
詳細は大韓民国の教育、韓国における入学試験を参照 日本同様の6-3-3-4制の学校制度を持つ。日本以上の学歴社会と言われる。韓国政府の立場を反映した偏った民族教育がある部分も否定はできない。
大韓民国は、アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され、成立した。
大韓民国成立後の歴史は、憲法による政体の相違によって、7つの時代に区分される。
アメリカ軍政庁期(非独立):1945年 - 1948年
第一共和国期:1948年 - 1960年
第二共和国期:1960年 - 1961年
国家再建最高会議(軍政)期:1961年 - 1963年
第三共和国期:1963年 - 1972年
第四共和国期:1972年 - 1979年
第五共和国期:1979年 - 1987年
第六共和国期:1987年 - 現在
内政
建国以来、大韓民国は共和憲政体制を採用している。国家体制を定める憲法は、建国直前の1948年7月17日に最初の憲法を採択して以来、9回の改憲を経て現在に至っている。特に、国家体制を大きく変えた5回の改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法は第一から第六憲法と呼称されている。それにともない、各憲法に基づいて構成されていた政体も、第一から第六共和国と呼称されている。
現在の憲法は第六共和国憲法と呼ばれ、1987年10月29日に採択された。この憲法は、5年毎の直接選挙による大統領の選出を定めている他、大統領の再選禁止なども盛り込まれており、韓国憲政史上最も民主主義的な体制を規定した内容とされている。第六共和国憲法に基づいた第六共和国は、1988年2月25日に盧泰愚が大統領に就任して以来、今日まで持続している。なお、現在の大統領は2003年2月25日に就任した盧武鉉であり、2008年2月24日まで大統領職を務める予定である。同政権の支持基盤は脆弱であり、景気不振に対する不満等により、支持率は低迷している。
盧武鉉は公州市への行政首都移転の方針を打ち出している。これは忠清道での政権支持拡大をねらった側面もある。移転計画は2030年完成予定。
北朝鮮との関係
建国以来、北朝鮮とは「朝鮮の正統な国家」としての立場を巡り、敵対的な関係が続いた。1950年におこった朝鮮戦争で朝鮮半島の分断は決定的となった。その後、統一に向けた努力が幾度と試みられたが、実を結ぶには至っていない。1980年には、北朝鮮から高麗民主連邦共和国創設と、低い段階での連邦制を提示された。冷戦終結以後は雪解けが進み、韓国と北朝鮮の国連同時加盟や共同声明に結実した。韓国は金大中政権以降になって太陽政策をとり、初の南北首脳会談が実現するなど、国内に和解ムードが広がっている。一方で北朝鮮核問題、韓国人拉致疑惑問題など未解決のいくつかの問題がある。
米国との関係
第二次世界大戦後、東西冷戦体制が形成されるなかで、右派を中心とする大韓民国が成立した。1948年11月20日、国会で米軍の無期限駐留要請が決議されたように、大韓民国の成立と、朝鮮戦争での大韓民国の防衛には、アメリカ合衆国を中心とする国連軍が大きな役割を果たした。1953年の米韓相互防衛条約締結によって韓国は米国の同盟国となった。冷戦期には、韓国は軍事的、経済的に米国へ依存を余儀なくされてきた。多数の韓国人が米国に移住し、在米韓国人数は200万人に達している。またこの間、韓国政府は米政府に経済援助を申出て、その見返りとしてベトナム戦争に参戦している。
韓国兵による戦闘は勇猛とも残虐とも言われ、多くのベトナム人から憎まれる要因となった。近年では韓国兵による混血児問題に焦点が当たっている。
1990年以降の東西冷戦体制の崩壊や韓国経済の躍進は、この構図を転換する要因となった。韓国はソビエト連邦、中華人民共和国、ベトナムと次々に国交を樹立し、これらの国々に対する経済投資も拡大している。1998年の金大中政権成立後は太陽政策によって北朝鮮との関係も金泳三政権期に比べて改善された。一方、1999年の老斤里事件報道後、在韓米軍に対する反感が強まり、2002年に米軍車両が韓国人女子中学生を轢き殺した事件によって米軍に対する反感がいっそう高まった。同時に米軍兵器の近代化と展開能力の向上により、想定される戦闘の様相が、米軍が駐留し始めた頃とは異なってきているため、米軍が韓国に駐留する必要性は減少している。このため、米国も在韓米軍を削減する政策を打ち出している。
日本との関係
第二次世界大戦が終わり日本の統治から解放され、李承晩・金九ら右派民族主義者を中心として建国された当初、韓国と日本の関係は冷ややかなものであった。当時から韓国国内には、日本が植民地統治に関して謝罪や賠償を行わないことに対する批判があった。日本国内には、韓国が竹島(韓国名は独島:독도)を武力によって占拠したこと、韓国が日本海上に一方的に李承晩ラインを設定し、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕し乗員を抑留することに対する批判があった。李承晩政権期は国交断絶状態であったが、知日的な朴正煕政権が成立し、両国の国交は正常化された。国交正常化交渉の過程では請求権問題が最も紛糾したと言われている。韓国による対日請求権の主張に対して、日本側は植民地時代に朝鮮半島に投下した資本および引き揚げた日本人が残した財産の返済を主張することで韓国側に対抗した。国交正常化に伴い日本は韓国に有償無償5億ドルの経済援助を行った。韓国はその資金を浦項製鉄所(現在におけるポスコ)などの建設費に充て、経済発展の基礎を固めた。
1997年のアジア通貨危機により、韓国の経済は危機に瀕したが、金大中政権の構造改革政策と国際通貨基金の支援で危機を乗り切った。このとき日本は韓国に対するIMF緊急支援570億ドルのうち百数十億ドルを拠出した。2003年に盧武鉉政権が発足。当初両国関係は良好であった。最近の両国政府関係は、小泉純一郎首相の靖国参拝や歴史教科書問題、竹島の領土問題、外国人参政権問題などを要因として悪化している。民間交流は一様ではない。韓流もあって民間交流は活発化している面があるが、韓国側では人々の反日運動の影響で交流行事をキャンセルするケースがでている。
経済面において日本と韓国の関係はたいへん深い。韓国にとって日本は不可欠な高品質部品の調達先である。特許使用権でも日本に依存している。また逆に、日本にとって韓国は、重要な部品や技術の輸出先である。韓国の対外輸出が増えるにともない、日本からの部品輸入や日本への特許使用権の支払い額も増加する傾向にある。戦後一貫して日本の対韓貿易は黒字が続いている。李承晩政権時代に外貨流出を憂い通商断交を宣言したこともあるが、数ヵ月後に通商を再開している。両国はFTAの締結を目指している。
韓国の建国以前の日朝関係、及びに日韓関係の詳細については、日韓関係史概観を参照のこと。
盧武鉉政権は植民地時代・親日派問題の清算として「日帝強占下反民族行為真相究明特別法」を制定した。日帝強占下反民族行為真相究明特別法を参照のこと。
中国との関係
1951年、中国人民義勇軍が朝鮮戦争に参戦し、一時はソウルを占領したことにより、韓国と中華人民共和国(以下、中国と略称)の関係は長らく敵対的なものとなった。韓国は中華民国(台湾)と親交を深めた。しかし1979年の中国の対外経済開放政策や1990年の東西冷戦体制の崩壊を要因として、韓国の対中政策は転換した。盧泰愚大統領は1992年8月24日中華人民共和国との国交を正常化、中華民国とは外交的に断交した。これ以降、韓国では中国投資ブームが起こり、多くの韓国企業が安い労働力を求めて中国に進出した。現在では韓国の対中投資額は日本のそれを上回っている。とくに山東省青島、遼寧省大連、吉林省延辺朝鮮族自治州には、韓国企業の投資が累積している。また中国に留学する外国人学生数で、韓国はトップを占めるほどになっている。
その一方で韓国民の一部は、中国の超大国化によって韓国が飲み込まれるのではとの恐怖感を感じている。将来韓国が北半部を統一した場合、中国と国境を接する可能性がある。中国人民解放軍は、現段階では軍隊の規模は韓国軍よりも大きく、その上装備の近代化を進めている。
他方で、統一後は韓国が中国に対して上位に立つとする見解もある。全体的に見て中国軍の装備は、西側先進諸国の水準にある韓国軍に劣っている。中国の経済はバブル経済で実際の成長はそれほどではないとの見方がある。しかし韓国軍の継戦能力は、アメリカ軍や自衛隊の後方支援がなければ、中国軍の飽和攻撃(人海戦術)に対抗できず、単独で戦う場合、開戦後の早い段階で戦線が崩壊するとの指摘もある
近年、旧間島問題とも関連して、高句麗が韓民族国家か中国の地方少数民族政権かという歴史論争が、韓国と中国の間で起きている。
近年、韓国の経済発展によって貿易総額が拡大、主要貿易相手国として中国が浮上している。輸出総額では、日本は中国、米国に次ぐ3位になり、日本の比重はやや低下している。輸出品でIT関連製品の占める割合が増大し、貿易は黒字基調が定着、IMF管理下に置かれた反省から外貨保有高は2000億ドルを超えている。
WTO香港ラウンドに於いて、韓国の農民が香港で激しいデモ活動を展開した。香港の警察はデモを行った韓国の農民を拘束した。
2005年に中国産キムチより寄生虫の卵が発見された。韓国産キムチからも寄生虫の卵が発見され、韓国と中国の間で問題となっている。
ソ連・ロシアとの関係
1945年の第二次世界大戦終結で、朝鮮半島は北緯38度線を完全な境界線として米軍の南部とソ連軍(赤軍)の北部に分断占領された。1948年にアメリカ主導の南北統一総選挙が国連で決議されたが、北部を軍政統治するソビエト連邦が拒否し、南北分断が確定した。同年8月15日には南部単独で大韓民国が成立、追って9月9日には赤軍の士官として朝鮮半島に帰還した金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が北部のみで成立したため、韓国は建国当初からソ連と敵対関係になった。
ソ連は朝鮮半島北部で朝鮮労働党の指導による社会主義国家の建設に成功し、朝鮮戦争では北朝鮮軍の南侵を支持したが、国連の安全保障理事会における欠席戦術を逆手に取られてアメリカを中心とした国連軍の編成と介入を許し、朝鮮半島全域への勢力拡大は失敗した。この際、ソ連軍は直接介入を控えたものの、軍事顧問団の派遣や兵器の供給で北朝鮮や中国の軍事作戦を支えた。その後のベトナム戦争では、米軍に従ってベトナムに出兵した韓国軍が北ベトナムを通じてソ連の支援を受ける南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と激しい戦闘を行った。この東西冷戦の激しい時期では韓国とソ連の関係は絶たれていた。歴代の韓国の政権は反共主義を唱え、北朝鮮の背後にいるソ連や中国を強く警戒していた。金日成の個人独裁が強化された北朝鮮で親ソ派が一掃されても、ソ連は北朝鮮を朝鮮半島唯一の正統政権と認め、韓国とは全く外交交渉を行わなかった。
1981年、ソウルが1988年の夏季オリンピック開催都市に決まると、韓国はホスト国としてソ連を含む全ての国を安全に招待する義務を負った。しかし全斗煥政権は対ソ強硬姿勢と国内の民主化運動弾圧を継続し、1983年9月1日には大韓航空の旅客機がソ連領空を侵犯した後に撃墜された大韓航空機撃墜事件も発生して、両国間の関係は全く改善されなかった。
これが変化したのは、1985年に登場したソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権が新思考外交による冷戦の緩和を訴えた以降である。韓国も1987年に成立した盧泰愚政権が民主化を進めつつソ連や中国との緊張緩和を目指す北方外交を提唱した結果、ソウルオリンピックはソ連や東欧諸国の参加を得て無事に開催された。この際に両国の接触が本格的に開始され、首脳会談を経て、1990年9月30日に韓国とソ連は国交を樹立した。1991年にはゴルバチョフが初訪韓(済州島を訪問)し、同年に韓国は北朝鮮と同時に国連加盟を果たした。また、第二次大戦後に旧日本領の南樺太(その後ソ連がサハリン州に編入)に取り残され、無国籍状態やソ連国籍になっていた残留朝鮮人の韓国訪問・帰還事業や、第二次大戦前にスターリンによって極東の沿海地方から中央アジアへ民族全員が強制移住させられたソ連国籍の朝鮮人(高麗人と称される)との交流が開始された。
1991年12月にソ連が崩壊してロシア連邦やその他の共和国が完全な独立国家として成立しても、韓国側からの積極的なアプローチは続いた。現代自動車はロシアの外国自動車市場で最大のメーカーとなり、LG電子も家電市場で3割のシェアを獲得したと伝えられている(ジェトロレポートより、[1])。巨大財閥以外の韓国企業もロシアに進出し、ウラジオストクを重要な拠点としてシベリア開発にも関与している。ロシアは社会主義体制を放棄した現在でも北朝鮮との友好関係を維持している事から、北朝鮮の核開発問題を巡る六カ国協議への参加国に含まれている。
また、中央アジアで新たに独立したカザフスタンやウズベキスタンにも韓国企業が進出している。両国には韓国からの直行便が就航し、高麗人への韓国語教育の支援などを含めた関係強化が進められている。
その他
2004年に、過去において韓国がウラン濃縮など核開発に結びつく研究を行っていた事実が公表され、IAEAの査察を受けている。
2005年には、同国の放射性アイソトープ販売企業であるキョンド洋行が、イラン企業のパトリス社に放射能物質であるニッケル63を売ったほか、フランスからは別の放射能物質である三重水素(トリチウム)を買い入れ、パトリスに売り渡していたことが、報道された。
地理
朝鮮半島、2004年3月6日撮影。韓国は朝鮮半島全域を領土とし、そのうちの南北軍事境界線(38度線)以南及びその属島を統治している。38度線以北は、実際には北朝鮮政府が統治しているが、大韓民国では、地域をさす表現としての「北韓:북한 プッカン」が用いられている。なお、北朝鮮も同じく朝鮮半島全域を領土としており、韓国政府が統治する区域を、38度線以南の地域をさす意味で「南朝鮮:남조선 ナムジョソン」と呼ぶ。
西には黄海、東には日本海に面し、朝鮮海峡(対馬海峡西水道)を隔てて釜山と対馬とは約50kmの距離である。
韓国と日本の間には、竹島(韓国名:独島)領有問題が存在する他、1990年代以降になって日本海(韓国名:東海)の国際的な呼称をめぐって韓国政府と日本政府が対立する等、いくつかの問題がある(参考 日本海呼称問題 李承晩ライン)。
大韓民国の範囲
最南端 - 馬羅島(済州特別自治道西帰浦市)
最北端 - 江原道高城郡
最西端 - 白翎島(ペンニョンとう、仁川広域市甕津郡)
最東端 - 韓国政府の主張に沿うと独島(日本名:竹島、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里)、日本政府の主張に沿うと鬱陵島
半島部の緯度は日本の静岡県から宮城県と同じだが、冬は大陸からの季節風の影響を受け、日本の同緯度の地域に比べると寒冷である。例えばソウルは福島県二本松市、新潟県長岡市付近と同緯度にあるが、冬の寒さは札幌市と変わらず、釜山は千葉県南部と同緯度にあるが、冬は東京より平均気温が2-3度低い。この気候はオンドルを発展させた。しかし、三寒四温といって、日本と比べ雪が少なく、寒冷な気候がそれほど長く続くことはない。
済州島は和歌山県南部、高知県と同緯度にあり、韓国では最も温暖とされるが、冬は半島部と同様の北西季節風の影響、また(38度線以南の現在の)韓国では最高峰である漢拏山(標高1950m)がそびえる地形的要因により、非常に風が強く緯度の割に寒冷で、北部は東京より寒い。
夏は半島部においては日本より湿気が少なく過ごしやすい。ソウルの夏の気温は30度を超えることもよくあり、冬の寒さが札幌市と同様なのに比べると高めで、また内陸の盆地にある大邱は韓国で最も暑いとされるが、湿気が少ないため熱帯夜になることはほとんどなく、エアコンがなくても寝苦しいということはない。
ケッペンの気候区分では、釜山など南・東部は温暖湿潤気候、ソウルを含む北西部は亜寒帯冬季少雨気候に属するとされる。
近年は中国の砂漠化の進行に伴う黄砂被害の拡大が問題となっている。
行政区域
特別市(Teukbyeol-si、トゥクピョルシ)
ソウル特別市(ソウルとくべつし)
広域市(Gwangyeok-si、グァンヨクシ)
釜山広域市(プサンこういきし)
大邱広域市(テグこういきし)
仁川広域市(インチョンこういきし)
大田広域市(テジョンこういきし)
光州広域市(クァンジュこういきし)
蔚山広域市(ウルサンこういきし)
道(Do、ド)
京畿道(キョンギどう)
江原道(カンウォンどう)
忠清南道(チュンチョンナムどう)
忠清北道(チュンチョンブクどう)
慶尚南道(キョンサンナムどう)
慶尚北道(キョンサンブクどう)
全羅南道(チョルラナムどう)
全羅北道(チョルラブクどう)
特別自治道(Teukbyeol-jachido、トゥクピョルチャチド)
済州特別自治道(チェジュとくべつじちどう)
文化
経済発展ともに文化面での変容も劇的に早くなっているが、チョゴリないし韓服、キムチに代表される韓食、オンドルに代表される住居などに伝統文化が息づいている。韓国の伝統社会では、地理的な関係から中華文明の影響が大きかった。
人間関係と価値観
人間関係における文化も急速な変容の最中だが、儒教の影響で宗族秩序などの影響はまだ色濃く残っている。上下関係が厳しく、現在でも目上の人の前での喫煙や、許可を得ないままの飲酒は礼儀違反とされていた。ただし、偉ぶる人間は嫌われる。礼儀正しいが封建的とも言われる。親戚同士の結束は強く6親等以内の親戚は助け合うべきだとされる。これをユックチョン(六寸)というが、現実に親戚づきあいは非常に多く、初対面の親戚でも就職や進学時の世話をすることは普通である。学校の同窓生等の結束も強いが、見知らぬ他人と広くつきあうことはあまり好まず、人間関係は日本と比べてもやや閉鎖的である。ただし外国からの客に対しては、非常に親切に接することが多い。
植民地統治により、韓国という国は一度消滅した歴史があり、二度とそのようなことがないよう、韓国人にとって国の誇りや愛国心は非常に重要なものと教育されている。ラテン系文化と同様、感情は重要であり、酒を飲み友人と語り合うことを好む。日本人のような遠慮はあまり歓迎されず、一般的に日本人よりも話す声が大きく、たくさん話すことや明確な主張や冗談を好み、子供の自慢話なども遠慮なく話す。その気質はラテン系か、関西人や西日本の行動様式に近いとも言われる。また、職場での上司の権限が強く横暴な上司も目立つため酒を飲んでストレスを発散することは日本以上に多い[要出典]。強い酒で酔うことは娯楽の一つであり重要である。割り勘という習慣はなく、目上の者や気分が良い者がすべて払うことがごく普通である。
お互いに迷惑をかけあい他人を思いやることが、良しとされる。遠慮して他者に関わらないことは冷酷とされ歓迎されない。友人の持ち物や電話を勝手に使うなど、お互いに面倒なことを頼み頼まれることが深い親しみを表わす。その他、自身の感情を抑えることを嫌い、日本人に比べて直情的な一面がある。また、文化結合症候群の一つとしての「火病」が存在すると言われている。
大衆文化
大衆文化については、韓国の歌やドラマ・映画などが、東アジアや東南アジアで広く受け入れられる韓流と呼ばれる現象がブームとなっている。また韓国のインターネットは早くからブロードバンド化が進み、2000年に高速回線利用者が1千万人を突破した。インターネットテレビのストリーミング放送やミュージックビデオの無料閲覧が早くから実現するなど特色あるインターネット文化を構築している。
ブロードバンドを各家庭に引く形態に加え、街中にPC房(PCバン)と呼ばれるネットに接続されたパーソナルコンピュータを安価に利用できる店が至る所で見られ、ブロードバンドの恩恵を手軽に享受することが出来る。
また、国内映画の上映割合を義務付けるスクリーンクウォーター(割当)制や国・地方自治体レベルでアニメーション産業を育成するなど様々な大衆文化保護育成策を実施している。
世界遺産
韓国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件ある。詳細は、大韓民国の世界遺産を参照。
表現の規制撤廃の動き
南北和解が進展するにともない、共産主義的な書籍の発行、共産主義的な言論を規制の対象としてきた「国家保安法」の改正が論議されているが、まだ同法は実行力をもっておりさまざまな規制と自主規制をもたらしている。親日的な言論や表現への規制も驚くべきものがあり、国民感情もあって、批判的なメディアが規制を更に増長させている。
民主化運動に関わってきた人権派弁護士出身の盧武鉉政権が発足し、司法改革が行われている。国家保安法廃止案が国会に上程され、軍事政権時代の冤罪などの再調査が行われ、言論の自由、表現の自由は拡大された。一方で、朴正煕元大統領が親日派であったとしてその歴史的評価が揺れている。
市民活動が盛んな国の一つである。一方で、反政府活動に対して国家当局による盗聴が行われ、国家保安法の曖昧な運用により、時の政権に対する批判勢力は弾圧されてきた。戦時色や国家統制が残っており、言論の自由が十分には保証されているとは言えない面がある。体制維持のためとして言論の自由が欧米に比べて軽んじられ保証されにくい傾向にある他のアジアにおいては、比較的、弾圧が少ないほうだとする見方もある。金泳三政権以降は民主化の影響で言論の自由度が向上した。しかしその時期に政府は労働運動を弾圧したことがある。
文化の日韓関係
韓国では、長い間「国民感情を害する」との名目により、日本の大衆文化が流入することを事実上禁止してきた。過去には日本映画、ドラマ、音楽などは公には禁止で、日本人アーティストが訪韓しても日本語で歌うことは許されなかった。例外として、ソウルオリンピックや大田エキスポなどの時には日本語の歌が公の場で披露されたことはあった。かつて、日本の楽曲が禁止されていることを逆手にとって、日本の歌を盗作していたアイドル・グループが、盗作していることを暴露されて自殺に追い込まれるという事件もあった。
実際には、韓国民は限定的ながら日本の大衆文化に接してきた。釜山や日本海側沿岸部の一部では日本の地上波放送の電波が届くため、日本のテレビ放送の視聴が可能でありこれらを鑑賞する、あるいは書籍は規制の対象外であるため輸入書籍を購読する、大使館施設という治外法権により70年代から公に日本文化に触れることができた在韓日本大使館公報文化院を利用する、台湾からの輸入CDや海賊版を購入することなどがあった。また、韓国のドラマ、アニメ、音楽、漫画、ゲームなどで日本の作品が盗作されるケースがかなり多くみられた。司法判断も不適切な例がいくつかみられた。例えば、ガンダムの商標権をめぐる争いでは、「『ガンダム』はロボットの一般的な名称であるから問題ない」とする韓国側の主張が認められ、一審で勝訴(詳細は日韓の著作権問題を参照のこと)。その反面で、日本の出版社が韓流スターの肖像権を侵して提訴されるなどの現象も起きている。
1998年に発足した金大中政権以降、日本の大衆文化開放が段階的に4回実施されている。現在では、インターネットの普及に伴い、韓国民は直に日本の大衆文化に触れられるようになった。韓国デジタル衛星放送・スカイライフや多くのケーブルテレビ局が、韓国の総代理店(スバルコリア)を通じてNHKに使用料を支払い、NHKワールドプレミアムの再送信を行っている。しかし、未だ著作権侵害と疑われる事例が後を絶たない。
また、歴史教科書問題の報復措置として開放の延期、国内業界の保護のためと称する劇場用アニメーションの開放の延期、日本のバラエティ番組の地上波放送に対する規制、日本映画のCMですら地上波のCMで日本語を流せない、日本語歌謡をフルコーラス流せないなどのテレビ局側の自主規制などの、いくつかの制限は残っている。
日本においてはBoAなどが歌謡界で活躍するほか、韓国TVドラマ「冬のソナタ」がNHKで放送され、40〜50歳台の女性を中心としていわゆる「韓流ブーム」が起きた。多くの韓国製のドラマや映画が放送、上映され、韓国芸能人がワイドショーや女性週刊誌などでたびたび取り上げられるなど、話題になった。
このようなブームについて、日本の一部の人々は、「韓流」ブームに何らかの政治的な意図が秘められているのではないかと疑っている。(「韓流」ブームとは、マスメディアによる政治的な意図を伏せて流布されている一種のプロパガンダではないかと考えている。)
2001年1月、駅のホームから転落した日本人男性を助けようとした2名が共に列車に轢かれて死亡した(新大久保駅乗客転落事故)。この2名のうち1名が韓国人留学生であったことから多くの日本人は感激し、ネットの掲示板には追悼のメッセージが寄せられた。
2002年には日韓ワールドカップ=サッカーワールドカップが日本と韓国により共同開催され、日韓国民交流年として850件を超える交流行事が行われた。
近年は日本のアーティストのCDも正式に発売されるようになり、2005年8月には、日本のロックバンドのL'Arc〜en〜Cielが、公式に大規模なライブを行い成功している。
国交正常化40周年にあたる2005年には、盧武鉉大統領と小泉純一郎首相の合意の下に「日韓友情年2005」と題し、様々な文化交流行事が行われる予定であったが、韓国の一部の地方自治体が日韓交流行事を中止もしくは延期するケースが出ている。しかし、韓国政府は政治は政治、文化交流は文化交流という方針を打ち出しているが、韓国側の行事は自主的に中止してされ、日本で行われる行事については、それほど影響を受けていない。

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