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白虎隊コミュの(´・ω・`)日向内記

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芽´・ω・`芽
このコミュの皆さんは実際どう思っているのか分かりませんが、図書館本で日向内記様を検索した所、3冊ありましたので紹介します。
(◎'Å'◎)ノ

コメント(217)

芽´・ω・`芽
私は〇て陸軍に勤務する事、約10年、日露戦争には従軍して満州の戦線で騎兵小隊長として幾度か死線を突破しました経験から隊長は部下を放置して単独に行動するなどはあり得ないと思うのであります。
芽´・ω・`芽
(略)あの自刃せる20名の勇名を更に高める為に後から隊長行方不明と言う事を付け加えたのでしょうか。隊長は死を恐れて卑怯にも行方不明になったと一般に思われるので私ども近親者には真に恥ずかしい次第であります。」
芽´・ω・`芽
坂田祐氏は昭和44年91歳で亡くなられた。だが日向内記の雪冤にかける思いは、その後も関東学院大学の教授陣に引き継がれ同大学では特別合同研究シンポジウム「坂田祐先生と祖父・白虎隊隊長日向内記の思想と行動」を開催した。
芽´・ω・`芽
日向内記が「行方不明」になっていない事だけは明らかである。と言うのも慶應4年8月23日に白虎士中二番隊の20人が飯盛山から眺めた鶴ヶ城は実は落城しておらず会津藩は武芸屋敷の留守を守っていた老幼婦女を城内へ収容して籠城戦を開始していた。
芽´・ω・`芽
25日以前には日向内記も帰城し前後して帰って来た白虎士中一番隊、同二番隊の53人を合隊させて合併白虎隊が編成されるや、その中隊頭に就任しているのだ。
芽´・ω・`芽
しかも内記は合併白虎隊と共に鶴ヶ城の西出丸の守備を担当したばかりか郡上藩からの援軍凌霜隊の指揮もしている。要するに内記が「行方不明」になったとする説などは成り立たないのだ。
芽´・ω・`芽
では「食糧調達を理由に陣地から姿を消した」とする説はどうかと言うと明治43年7月1日付け「河北新報」所収の飯沼貞吉の回想はのようであって「食糧調達」の話など出て来ない所が注目に値する。
芽´・ω・`芽
「◎夜も更け初むる十時頃、隊長の日向は敢死隊に用談があるからと、その趣を篠田に告げて一人隊を離れて出て行つた、そのまま隊長は遂に隊へ帰つて来ない◎翌朝の四時頃、篠田が号令を出して一同を整列させる、点呼をして人数を調べる、この時までも隊長の日向はまだ帰つて来ぬ」
芽´・ω・`芽
この様なプロセスを辿った果てに白虎士中二番隊は指揮官の許可なく開戦。敗北して飯盛山へ走るのだが、この記事が出てから7年後、大正6年に出版された平石弁蔵「会津戊辰戦争」では「用談」が食糧の調達問題にすり変えられてしまった。
芽´・ω・`芽
これは何を意味するかと言えば平石弁蔵が舞文曲筆したか飯沼貞吉の回想が取材を受けるたびにブレたかのいずれかである。
芽´・ω・`芽
これは近代的軍隊の常識であるが日本の戦国以来の軍法では兵たちが将の号令を待たずに動く事も厳禁とされていた。もしも将が「折り敷け」と命じたならば敵の矢や銃弾が身近に降り注いだとしても、その場にじっと屈み続けている事が兵の作法なのだ。
芽´・ω・`芽
士中二番隊の少年たちには酷な表現かも知れないが内記と隊士たちの行動のどちらが問題かと言えば内記の帰隊を待たずして独自に作戦行動を開始してしまった側だと言わざるを得ない。
枚数の都合上、このシンポジウムの内容には触れれられないが日向内記が「行方不明」になっていない事だけは明らかである。と言うのも慶応4年8月23日に白虎士中二番隊の20人が飯盛山から眺めた鶴カ城は実は落城しておらず会津藩は武家屋敷の留守を、守っていた老幼婦女を城内へ収容して籠城戦を開始していた。
25日以前には日向内記も帰城し前後して帰って来た白虎士中一番隊、同二番隊の53人を合隊させて合併白虎隊が編成されるや、その中隊頭に就任しているのだ。
しかも内記は合併白虎隊と共に鶴カ城の西出丸の守備を担当したばかりか群上藩からの援軍指揮もしている。
要するに内記が「行方不明」になったとする説などはあり得ないのだ。
では、「食糧調達を理由に陣地から姿を消した」とする説はどうかと言うと明治43年7月1日付「河北新報」所収の飯沼貞吉の回想は次の様であって「食糧調達」の話など出て来ない所が注目に、値する。
「◎夜も更け初むる十時頃、隊長の日向内記は敢死隊に用談があるからと、その趣を篠田(儀三郎、白虎士中二番隊隊士)に告げて一人隊を離れて出て行った、そのまま隊長は遂に隊へ帰って来ない◎翌朝の四時頃、篠田が号令を出して一同を整列させる、点呼をして人数を調べる、この時までも隊長の日向はまだ帰って来ぬ、」
この様なプロセスをたどった果てに白虎士中二番隊は指揮官の許可なく開戦。敗北して飯盛山へ走るのだが、この記事が出てから7年後、大正6年に出版された平石弁蔵「会津戊辰戦争」では「用談」が食糧の調達問題にすり変えられてしまった。
これは何を意味するかと言えば平石弁蔵が舞文曲筆したか、飯沼貞吉の回想が取材を受けるたびにブレたかのいずれかになる。
冨田氏の研究は、こうゆう点を指摘しているだけでも瞠目の書なのだが、かねがね日向内記を悪玉、白虎士中二番隊を善玉とみなす感覚には問題があると考えて来た。
それは坂田祐も指摘した様にこの様な見方には隊長が「部下を放置して単独に行動するなどとはあり得ない」と言う視点が欠けているからだ。
これは近代的軍隊の常識であるが日本の戦国以来の軍法では兵達が将の命令を待たずに動く事も厳禁とされていた。
もし将が「折り敷け」と命じたならば敵の矢や銃弾
が身に降り注いだとしてもその場に、じっと屈み続けている事が兵の作法なのだ。士中二番隊の少年達にとって酷な表現かも知れないが内記と隊士達の行動のどちらかが問題かと言えば内記の帰隊を待たずして独自に作戦を行動を開始してしまった側だと言わざるを得ない。
坂田祐、「黒いワゴン車」の持ち主の母校の創設者ですね…。
【秘密裏に行われた救援活動】
冨田氏の労作を読むうちに最も驚かされたのは先程「日向内記は会津藩が滅ぼされ生存者が下北半島の斗南藩へ移住させられてからも、その移住先へ米や金を送るなど「会津の地下工作の一つ」を担当した。」と要約したくだりに接した時だった。
「斗南藩って何?」と言う人もいるからと思うので籠城開始後、1ヵ月、明治元年9月22日に開城降伏し滅藩処分に、甘んじてから旧会津藩士達たどった運命を振り返っておこう。
明治2年9月28日明治天皇は詔(みことのり)を下して松平容保の実子、慶三朗(後に容大)を1歳を立てて相続を願い出よ、と伝えた。
同家がこれに応じた為、松平容保は華族に列し陸奥国のうちに3万石を下賜る事になった。

名付けて斗南藩。その藩領は同国二戸郡のうち12村、その北に七戸藩領を挟み本州最北端の北部(下北半島)のうち46村、加えて北海道の胆振国山越郡と後志国瀬棚、太櫓(ふとろ)歌棄(うたすつ)の4郡であった。
明治3年4月17日には移住者第1陣の300名が品川を出港。
同年閏年10月までの間に斗南へ移住した旧会津藩士とその家族は約1万7千に達した。
藩庁は陸奥湾を望む北郡の田名部に置かれたが実の所、斗南移住の実態は鉄条鋼なき強制収容所送りも同然であった。
公称3万石とは新政府の真っ赤な嘘で斗南は実質7千5百石と言う石高すら雑穀をかき集めて、ようやく弾き出される代物で灰の様に痩せきった土地は稲作に適さず霜は早く降り雪は遅くまで溶けもしない。
旧斗南藩領内には、「横浜」という町があります。
自給自足の体制をいつ完成出来るか分からない。と知って愕然とした斗南藩権大参事、山川浩(元家老)は政府と決死の交渉を続け即事に救助米3万石明治3年7月玄米1200石と金17万両、9月に1万5千石を引き出す事に成功した。
しかし当初、藩庁から移住者達に支給されていた1人1日当り玄米4合、銭8文は11月からは玄米3合のみとせざる得なかった。
しかも住居は1人2畳の計算で割り振られた廃屋同然のあばら屋であった。
畳がないので藁を敷きつめ、その上に莚を延べた。障子はあっても紙がないから解いた米俵を吊るして風よけにするしかない浮浪者同様の生活が彼らを待っていたのである。
こんな状況を座視していては移住者達が窮死してしまうのは目に見えている。
冨田氏の研究によると明治3年に日向内記は松平大の護衛役として五戸入りし、その後いったん会津へ引き返すと移住の藩士達と18歳の長女ミエを同行して再び五戸にやって来た。
内記の行動目的は移住者達の救援と、そのルート作りにあった。
として冨田氏は内記の子孫の雑談をもとに次の様に話している。「平成12年、日向内記の長女ミエを曾祖母に持つ中村成喜さんを秋田県十和田市大湯の中村旅館に訪ねた(略)内記は会津落城後、不毛の地、斗南に移住した旧会津藩士の窮乏生活を援助する為にと会津藩再興の地下工作にあたり若松の情報収集の拠点として喜多方に居をもうけたと言う。

大峠(喜多方市北端とその更に北、山形県米沢市の間の峠を越え米沢藩領〜南部藩領〜秋田大湯〜三戸〜五戸に、それぞれ拠点を置き情報連絡のルートを作った。長女ミエを旧会津藩士、平野吉重と結婚させて秋田大湯に住まわせ表向きを酒造業として、その実、自家水田から上がる大量の米を斗南藩へ輸送していた。
ミエの戸籍簿には赤紙が貼られ「脱走」と書かれている。夫、平野吉重も中村富造と変名させられ内記や会津との関係を分からない様にしている。いずれも内記の指示によるものだった。
内記はまた大湯と十和田湖の間の山中に「山中の宿」と言う一軒家を造り、ここに救援米を保管する五棟の米蔵を置き当主に旧会津藩士、青山与左ェ門を置いた。屋敷跡は今、木々に覆われており、(略)山中深く案内してくれた中村さんに「ここまで来たのは、あなただけですよ。」と言われたが、事実の一つ一つが時間と言うものに、どんどん埋められていくのを実感したのだった。
 日向内記は その後罪せられたり非難されていなかった と書いてあり

   郡上八幡隊が混成隊に入った時も評価された としてある。


 隊長不在で 中隊長は如何にすべきだったか

  僕がタイムマシンで中隊長になれば  後方に移動する。」

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