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アニメとオタクについて考える会コミュのアニメとオタクについて考える会

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アニメ・ソシャゲ・VTuber等オタクコンテンツについて感じたこと・考えたことや、昨今のオタクの傾向といったオタクそのものについて思ったことを書いてね。
アニメやソシャゲの感想もそれが脳死的でなければこちらでOKです。

コメント(23)

『転生王女と天才令嬢の魔法革命』4話視聴。
4話にしてようやく進展があった。と思えるぐらい3話までが冗長。シリーズ構成は俺ガイルの作者・渡航なので、そこまで要求もできまい。
渡航というと以前は『異世界薬局』を任され、凡作でこつこつシリーズ構成の練習を積んでいる。しかし本作は『異世界薬局』と違い、それなりに内容のある作品なので拙さが目につくことになる。外国からも評価されている本作、これからのペース配分に注視すべきであろう。
おそらく、4話までにユフィリアが何回「なぜ?」と発言したのかチェックすると結構な数になると思う。問いかけはキャラクターの心理を知るための誘導になるが、状況の変化がないのに何度も同じ問いかけをしていては引き伸ばしと思われても仕方ない。とはいえ心理や性格に焦点を当てるライトノベルアニメはあまりないので(人を攻略するノベルゲーではよく見られるものの今のアニメのなかでは少ない)、今後は適度にユフィリアから「なぜ?」を引き出していってほしい。
『転生王女と天才令嬢の魔法革命』
ユフィリアが王子にフラれてお家のために生きてきた令嬢街道からドロップアウトする。このショックを描くために3話使うというのは丁寧でいいと思うが、そこまでするなら国王側からの視点を挟まずにユフィリア視点で、父との思い出など回想を挟みながら彼女の心理を描いてほしかった。国王側の描写(ユフィリアの父と国王との会話)を挟むせいで、ユフィリアのショックが個人的で矮小なものになってしまっている。ユフィリアの父がどのような人物かをユフィリア側からの視点で描くなら彼女の感じてきた抑圧や苦悩が深度を持つが、三人称視点で父が出てくるうえに、その父が人付き合いが下手なだけの善人という記号をまとって描かれてしまうと、ユフィリアのショックに視聴者が共感を持てなくなるのである。
この辺はラノベらしい記号化された人間描写が負に作用している。この程度の作品だといってしまえばそうなのだが、原作を殺して大胆にアレンジするのもアニメの技なのである。
転天(『転生王女と天才令嬢の魔法革命』の略称)で「スタンピード」という用語が出たが、今期は『TRIGUN』の主人公の名前にも「スタンピード」が入っている。
「スタンピード」はWikiによると「大型動物の集団が、興奮や恐怖などのために突然同じ方向へ走り始める現象」のことを指すらしい。群衆事故のことをスタンピードと呼ぶ場合もあるらしいので、韓国の梨泰院ハロウィンの記憶が新しい今だと、多少不謹慎なワードなのかもしれない。
ちなみに2019年の劇場版ワンピースのタイトルは「ONE PIECE STAMPEDE」。
語感がいいのでみんな使いたくなるらしい。厨二病感を出したいときにも使える。
『リコリス・リコイル』新作アニメーション制作決定。
最初からシリーズものとして制作しているのではと思っていたので、新作決定がはやいのも納得できる。百合を老若男女にばらまく作品の筆頭? 次も良作をばらまいてほしい。

https://lycoris-recoil.com/news/?id=62493
『異世界おじさん』遂に最終話が来るのか、公式Twitterに動きが。
最終話放送なのか、2期発表なのか、何なのかわからなさすぎる……。

https://twitter.com/isekai_ojisan/status/1625079838854860801?s=46&t=Nj7vPCmE-7gA8FeNwJP7zA
Keyの代表的イラストレーター・樋上いたる氏がTwitterにてヘブバンへの不満を呟いたとのこと。
現在はKeyからは遠ざかっているため何かしら確執があるのか、ちょっとした話題になっている。
だーまえにしてもいたるにしても、ちょっと不安定な人が多い。
『異世界おじさん』13話の放送日が決定。(2期の発表ではなかった)
3クール目にしてようやく終結するという大スケールアニメになった。

https://isekaiojisan.com/news/index00860000.html
『ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん』6話
終盤、遠藤くんの「すまん。本当はもっと早く教えたかったんだけど〜」以下は蛇足であろう。
ジークヴァルトにリーゼロッテを守るよう指示したのに、その理由について詳しく伝えなかったのは「ジークヴァルトの自由な意志を尊重したから」だと遠藤くんはいう。しかしここまで見てきた視聴者は、遠藤くんたちが度々ジークヴァルトの意志決定に介入している場面を見せられてきたので、今更自由な意志を尊重したのだと説明されても納得できないだろう。
つまり、視聴者側からすれば、ジークヴァルトに詳細を説明しなかったのは、遠藤くんたちが彼らをゲームのキャラとして、操作されるキャラとしてある意味ないがしろに扱っていたために説明しなかったのだと言われた方が納得できるはずだ。逆に言えば、ここで遠藤くんが弁解しなければ、見る側は自然とその解釈を適用して進んでいけたのに、弁解したことで不自然さが露わになったといえる。
はっきりいって、ここに至るまで遠藤くんたちがジークヴァルトに詳細を隠していたのは不自然だ。しかしこの行動の不自然さに対して後付けのように弁明するよりも、何も触れないまま読み手に解釈の余地を残す方が作品にとって最善になることもある。
なぜ弁解させたのかを問うのは本作の理解において重要かもしれない。というのは、この作品全体を覆っている「母性」に原因を求めることができるからだ。誰も傷つかない優しい世界を設計しようとする「母性」が、ストーリー構成よりもキャラを守ろうとし饒舌に走ったのがこの後付け的補足なのである。
『お兄ちゃんはおしまい!』6話
新キャラ2名を加えて、学校生活に突入。
このクラスメイト4人組のことをごちうさの「チマメ隊」になぞらえる人がいたが、確かにあさひはマヤ、みよはメグで対応しているのだが、個別で見てみると違う要素もあるのではないか。
みよは百合を見守る百合大好き少女だが、これは『ゆるゆり』の千歳にそっくりである。
ボーイッシュなもみじは『ゆるゆり』の結衣と似ているし、声優も津田美波で同じである。
もみじとあさひのボーイッシュー元気キャラの関係は、結衣と京子の関係に似ている。
ついでに主人公のまひろは、『らき☆すた』のこなたに似ている。
とはいえキャラの類似性とか系譜とか、類型を考えていくと限りはなさそうだ。
『転生王女と天才令嬢の魔法革命』6、7話視聴
NAMUAnimationという謎の韓国企業が原画・動画に関わっているのに、そこまで大きく作画が崩れないのはある意味凄い。
エンドクレジットを見ると日本人の方が少ないのではとさえ思う。
序盤の超スローペースからようやく普通のペースになって、王子との対立という軸が鮮明になってきていてよい。
『デート・ア・ライブ』と同じくキャラデザが突出してよい、ということは述べるまでもない。
『ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん』7話
驚異の原画マン3名、しかも韓国の人。よく放送できてるよこのアニメ……(手塚プロダクションが韓国人に職を与えているというと聞こえはいいが、厳しい環境なら見方も異なるだろう)
作画クオリティ、ストーリーともに、マイルドにいって微妙なアニメなのだが発想がいいので続けて見ている人もいるだろう。
しかしながら冷静に考えてみると、実況の声というのは競技者に聞こえないのが普通なのではないか。実況者の遠藤くんたちは自分の夢のために実況の練習をしているという目標があり、その意味で自己充足的なので不特定の誰かに実況を届ける必要はなく、これを実況と本人が言い張るのは合理性がある。
ただ、プレイヤーにしか聞こえない実況とは何だろうか。それはもうメッセージの受信者が特定者であるという点で、サポートや指示に近い行為なのではないか。となると、実況と言い張って実況風の指示を行うより、「サポート役の遠藤くんと解説の小林さん」として指示行為を行う方がスマートだろう。
世界の解釈を逐一、人から囁かれるというのは自身の解釈の独立性が脅かされる事態である。なので「サポート」と言い換えたところで実際にはそれも偽善的表現なのである。この作品の「甘さ」を、前回述べた「母性」で説明することもできるだろう。
女性作者の作品が多くなっている昨今、批評のポイントとして浮かび上がってくる要素である。
(逆に父性的甘さとは何だろうか。それは「甘え」か?)
『お兄ちゃんはおしまい!』7話視聴。
すずめのカットがまひろと男子生徒の関係のメタファーになっていたり、間に入れるカットに意味を持たせているのもこの作品のクオリティを証明している。中1なので制服がダボダボなのも設定が練られている。
内容はさておき、料理が下手なキャラは類型として存在するが、リアルに考えてみるとこれは発達障害者に多い特徴なのではないか。となると、個性化のために使い回されているこの特徴は、配慮に欠いた表現として今後指摘されうる可能性もある。
個人的経験としても、ある人がクッキーを焼いてきたけれど、見た目が汚かったり包装が雑だったりして違和感を覚えたことがある。その人が実際に診断されていたという話は知らないが、行動の節々から発達障害の特徴を窺えた。
「料理下手キャラ」に、厳しい風の吹く未来が察せられる。
『お兄ちゃんはおしまい!』9、10話視聴。
クリスマス回ってエモいよね。毎年クリスマスにはアニメのクリスマス回を見る習慣でも作ろうかな。ごちうさとかクリスマス回よかった気がする。
前々回ぐらいからテンポの悪さが気になる。カット数が多いのと1カット当たりの時間が長いのが原因? 音楽が少ないのも原因か?

10話はバレンタイン回から。バレンタインのチョコを男子にあげた後のゾンビ化→「男子ってバカだから」は、男子の世界との隔絶を強調しているように感じた。「男子ってバカだから」の後にまひろの「あはは」があれば、男子という性別へのフォローになったのではないか。性差というリアルな認識問題をギャグで包んでいるのが本作なのでそこは一定しておきたい。

漫画の書影で『政宗くんのリベンジ』が出てくるのはなぜだろうと思ったら、同じ掲載誌なんだね(月刊ComicREX)。政宗くんはもう連載終わってるけど。

チョコの下にねことうふさんの文字が入ってたのは、原作者へのリスペクトを感じた。このアニメは原作を改変している部分が多いので、こうした明示は大事かもしれない。
『ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん』9話視聴。
文化祭の放送部の朗読劇は、なぜ糖質制限(=リーゼロッテとジークヴァルトの恋愛劇の拒否)されたのか。否定したうえでリーゼロッテたちの物語や現実の二人に関係する演劇に代えるなら理解できるが、そうではないので否定した意味が分からない。甘い恋愛と距離を取りたいなら実況解説の二人にその視点を持たせるべきだし、ここで甘い恋愛に対するメタ視点が出るのは一貫性を感じない。
作品のテイストがわからなくなる挿話だった。
『お兄ちゃんはおしまい!』11話視聴。
化粧をしていくと先生に気づかれて校則に抵触するというエピソード。まひろの「すみませんでした」でオチるのかと思ったがその反対で、「ブラック校則」という単語まで出して校則に反対するという展開に驚く。現代的な倫理観を反映しているというべきか。とはいえ校則問題はブラック労働と同じレベルでブラックであるという認識が共有されていないと思うので、視聴者のなかで賛否が分かれるのではないか。
この回のホワイトデーのエピソードにおいても、バレンタインデーに引き続き男性の無理解を女性が指摘するシーンがあった。伝統的ジェンダー観を示すこうした挿話をどう評価すべきか。
最近、ARIAのヴェネツィアツアーの模様がTLに流れてきてふと気づく。
ごちうさとARIAの類似性。
どちらもエキゾチシズムを押し出し、他国から来た少女が「労働」に勤しみながら友人と関係を築いていく作品だ。
悩みの解消が物語の一テーマになるところも似ている。
ARIAは日常系オタクが大々的に生まれる前の作品だが2chで名作として名前を挙げられていたはずだ。ARIAからごちうさへというオタクの無意識の流れがあってもおかしくない。
ティッピーはアリア社長、チノちゃんは緑髪のアリスちゃんと類似している。
鯛焼屋の前を通るとなもり絵のさくらみこパネルが置いてある。
日常の風景にオタクの記号が現れる時の当惑。
より多くの資本を獲得しようとする企業活動。単純なことなのに当惑するのは、サブカルチャーが大衆的になり得るかを自分が疑っているからだ。オタクという範囲への意識。しかし現実は個人主義の下、分散的な文化を肯定し、資本を拡大しようとする戦略で動いている。私の感覚は古臭いマス時代の遺物なのだ。
『愚かな天使は悪魔と踊る』8話まで視聴済み。
この作品の何が面白くないのかを考えることは重要なことだと思う。
推察するにこの作品は二つのジャンルの掛け算でできている。一つは10年代のバトルものラノベ、もう一つはかぐや様等の漫画から出てきた一対一ラブコメである。
本作はこの二つを上手く融合できていない。天使と悪魔の闘いというバトルラノベの設定が二人の恋愛(一対一ラブコメ)にとって不可欠な要素になっていないのである。
悪魔である男主人公は天使を憎んでいるといいながら、当の天使であるヒロインには甘い。彼のこれまでの人生が天使との戦いの日々だということを考えるともう少し憎悪の感情が強くてもいいはずである。おそらく作者はラブコメが書きたいのであってバトルものラノベの要素はついでなのかもしれないが、出すからには活かさなくては意味がない。
一対一ラブコメとして見ても女天使がチョロすぎである。モノローグを多用しているが既に恋に落ちている天使の内面を描かれても面白みがない。すれ違いを描きたいなら恋を認めない男側の主観を深掘りすべきである。
天使と悪魔が具体的にどう違うのか、暴れる悪魔もいれば主人公のように人型で理性的な悪魔もいるがそれはなぜか、悪魔が悪魔たる所以は何か等、バトルものの設定を提示しなければ二人の恋愛も特別なものにならない。安易なジャンル持ち出しは厳禁である。
わたくし文倉はニコニコ生放送にて毎週金or土曜日にアニメ同時視聴会をやっております。
その過去のアーカイブをYouTubeにアップしています。
考える会がわたくしの投稿で堅苦しい雰囲気に満ちているので、こわい人ではないということをアピールするためにも一応貼っておきます。
アニメとオタクについて考えている様が見れるので無関係な動画というわけではないです。

【アニメ感想・雑談】ヨスガノソラ1~4話を見る【同時視聴会】 https://youtu.be/Fy2dt4hBZdI?si=zwXOqQ6II-i2elyd

【主に恋愛作品についての雑談】ヨスガノソラ4~8話を見る【同時視聴会】 https://youtu.be/DFP77rC3nEQ?si=qEa1MzBUFTN2AZ3X
かつてTwitterに書いたことがあった気がするが、SPY×FAMILYのヨルさんが殺し屋なのはどうなのかという言説が支持された時期があった。ファミリー作品として不適切だという指摘である。しかしそもそもSPY×FAMILYはファミリー作品なのだろうか。
本作では理想的家族像が国家機関と殺し屋という組織を媒介に提供されている。問題を孕んだ組織が介在することで、提示される家族像の是非は宙吊りにされる。この断定を避ける設定にこそSPY×FAMILYの巧みさがある。
本作は現代人が家族をどれだけ現実的なものに感じるかを疑っているのだ。現代社会における家族のリアリティを根本的に疑っている。つまりファミリー作品ではなくどうしようもなく個人にされた個人がファミリーを模倣しようと挑戦する作品なのであって未ファミリー作品とでもいうべきものなのだ。
その点を踏まえるとヨルさんが殺し屋であることは問題がない。なぜならこの作品はフォージャー家を理想的家族として主張していないからである。
SPY×FAMILYの面白さは「虚構になった家族」を示す点にあるのだ。
そういえばフリーレンやデンケン一行がレストランで食事をする回は、料理もフリーレンも記憶を未来へ届け、そして成長(発展)しているという共通項を表現していてよかったな。ここに作者の進歩主義(リベラル性)を感じさせる。

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