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日蓮原理主義を破折する会コミュの法華経結経から日蓮教学を考察する。

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法華経結経(後半)から日蓮教学について考察する。

仏説観普賢菩薩行法経

このように私は聞きました。

ある時、仏が、インド中部の毘舎離国(ガンジス河の支流ガンダキ河の東岸にあるベーサール)の大林精舎の重閣講堂にいらしたとき、諸々の出家男子にお告げになった。

【〜省略〜】

全ての諸々の仏は、皆、大乗経を説いて仏の教えに背いた罪を除きほろぼされる。

このような多くの人の罪を、今十方の計り知れないほど多くの諸々の仏と、衆生の苦しみを救う世尊に向かって、凶悪な全ての罪を隠さず告白し、偽りのない心で罪を告白して許しを請え。」

この言葉を説き終わって、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけて、また諸々の仏を礼拝したてまつれ。

この時に、諸々の仏は、また光明を放って仏道修行者の身体を照らして、

その心身を、自然に歓喜させ、

一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を発し、広く全ての者の心を動かす。

その時に、諸々の仏は、広く仏道修行者の為に、苦を取り除き楽を与える広大無辺な慈悲と、人の幸せを共に喜び平等に分け隔てなくみる教えを説き、また他者に優しい言葉をかけることを教え、身・口・意・戒・見・行の六つの点でお互いに敬い和合することを習得させる。

その時に、仏道修行者は、この諸々の仏からの最高の教えを聞き終えて、心は大いに歓喜して、また更に口に出して繰り返し読んだとしても、後で疲れて声が出ないことはない。

空中に、また何ともいえない美しい味わいがある声がして、このような言葉を言う。「おまえは今、当然、身も心も罪を告白して許しを請うべきである。」

身の罪とは、殺生すること、盗むこと、不倫な行為である。心の罪とは、いろいろな善くない事を思い描き、

殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見の十の悪い行為と、無間地獄へ堕ちる五つの罪(母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること)を作ることである。あたかも猿のように、またとりもちのように、あちらこちらに心を奪われて、広く全て迷いを起こさせる原因となる六つの器官の中に至る。

この六つの器官によって行われる善悪の行為の大枝と小枝と花と葉は、広く一切衆生が生まれまた死んで往来する世界と、その世界に存在する二十五種類の意識を持つ存在と、全ての生まれる所に満ちている。

また、邪見や俗念に妨げられて真理を悟ることができない過去世からの無知や、老いや、死や、苦を感じる十二の原因を、よく増長させる。

八つのよこしまな行い(邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定)や、正法を聞くことを妨げる八種の苦難(地獄・畜生・餓鬼・長寿天・盲聾瘖唖(もうろういんあ)・辺地・世智弁聡(せちべんそう)・仏前仏後)の中を経過しないことはない。

おまえは、今当然、このような悪や不善の行いの罪を告白して許しを請うべきである。

その時に、仏道を修行する者は、この言葉を聞き終えて、空中の声に問いたてまつる。「私はどの場所において罪を告白して許しを悔い改めることを実行すればいいでしょうか?」

その時に空中の声は、すぐにこの言葉を説く。「釈迦族の聖者の如来を、毘盧遮那遍一切処(びるしゃなへんいっさいしょ)と名付ける。

その仏の住む所を、常寂光(じょうじゃっこう)と名付ける。

如来の世界のように常住普遍の境地に達する修行をする場所、完全な主体的自我を完成させる修業をする場所、迷いがなく無垢清浄で姿かたちを消滅する修行をする場所、

安楽で苦を離れた楽の境地に至る修行の心身の姿に留まらない場所、有形無形の諸々のものの姿が見えない場所、仏道の修行により解脱して生死を超越した悟りの境地に入る場所、あるいは最高の智慧を完成させる場所である。

この五感によって認識される物質や肉体は常に存在するという教えのために、

このように、当然、十方の仏を細心に分別して観察し、道理を悟るべきである。」

その時に十方の仏は、それぞれ右の手を伸ばして、仏道修行者の頭をなでて、このような言葉を言われる。

「よろしい。よろしい。仏道に帰依した男子よ。おまえは今、大乗経典を唱えて読んだために、十方の諸々の仏は、懺悔の教えを説かれた。

仏道修行者の行うところは、煩悩を絶つことはなく、迷いの海に留まることもない。

心を細心に分別して観察し、道理を悟るための心などない、煩悩のために誤った考えに従う想念がきっかけで起きる。

このような状態の心は、真実でないものを真実であると誤って考えることがきっかけで起きる。

空中の風を留めておく所がないようなものである。

このような万物の姿は、生じないし消えもしない。

何が罪であり、何が幸運であるのか?自分の心それ自身が空であれば、罪も幸運もその主体はない。

すべての存在は、このようにとどまることなく破壊されることもない。

このような罪を告白して許しを請うならば、心を細心に分別して観察し、道理を悟るための心などない。

この世に存在する有形や無形のものは、有形や無形のものの中に存在しない。

この世に存在する有形や無形の一切のものは、煩悩の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達することであり、一切の苦を滅し尽くした境であり、煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地である。

このような姿を大懺悔(だいさんげ)と名付け、大荘厳懺悔(だいしょうごんさんげ)と名付け、無罪相懺悔(むざいそうさんげ)と名付け、破壊心識(はえしんしき)と名付ける。

この罪を告白して許しを請うことを行う者は、心身が清浄であり教えの中に留まることなく、まるで流れる水のようである。

一瞬の間に普賢菩薩と十方の仏を見ることができるだろう。」

その時に、諸々の世尊は、修行者の為に、大きな慈悲の光明によって見ることのできる、無相の法をお説きになる。

仏道修行者は、究極の真理である空を説かれるのを聞きたてまつる。

仏道修行者は聞き終わって驚き恐れることはない。

その時によって、仏道修行者の悟りによって確立した境地にすぐに入るだろう。

仏は、阿難に告げられた、このように修業することを、懺悔(さんげ)と言う。

この懺悔(さんげ)とは、十方の諸々の仏や諸々の偉大な仏道修行者が行う所の懺悔の教えである。

仏は、阿難にお告げになった。

仏がこの世を去った後、仏の諸々の弟子が、もしも、悪や不善の行いの罪を告白して許しを請うことがあるならば、当然、ただ大乗経典を見て読んでそらで唱えるべきである。

この大乗経典は、それこそ諸々の仏の眼である。

諸々の仏はこれによって、肉現(人間の持つ眼)天眼(天人の持つ眼)慧眼(声聞辟支佛の持つ眼)法眼(菩薩の持つ眼)仏眼(仏の持つ眼)の五眼を得られた。

仏が持つ法身、応身、報身の三種類の身体は、大乗の教えから生じる。

これは仏教が真実であることを示す印であり証明である、広大な海のような知慧を完成した悟りの境地の不変の証明である。

このような広大で深い智慧の海の中から、巧みに三種の仏の清浄な身体を生じる。

この三種類の身体は、人間や天人にとって幸福をもたらす福田であり、供養を受けるのに最もふさわしい者である。

もしも、大乗仏教の経典を唱え読むならば、当然、知るべきである。この人は仏の現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行を備え、諸々の悪を永久に消滅して、仏に従って智慧を生じると。

その時に、世尊は、このように詩を説いて言われた。

もしも、目とその視覚能力に悪意があり 悪業によって生じた障害で眼が不浄ならば

当然、ただ大乗経を唱え 究極の真理を常に心に深く思うべきである

これを眼の罪を告白して許しを請うて 諸々の身・口・意によって行われた不善の行為を滅尽すると名付ける

耳とその聴覚能力は鉦や太鼓を打ち鳴らしてときの声をあげるのを聞き 和合の正しい道義を乱しやぶる

これによって狂った心を起こす様は まるで愚かな猿のようである

当然大乗経を唱え 一切のものがすべて空であるというその姿やありさまと一切の執着を離れた境地の教えを細心に分別して観察し道理を悟るべきである

永久に全ての悪を滅尽するなら 天耳によって十方の音を聴くことができる

鼻とその臭覚能力は諸々の香りに執着して 愛着心に従って諸々の触覚が起きる

このような心を狂い惑わせる鼻は 愛着心に従って諸々の煩悩を生じる

もしも、大乗経を唱え 教えが真実や道理にかなっていることを細心に分別して観察するならば

永遠に諸々の悪の行為から離れて 来世においてまた悪の行為を行うことはない

舌とその能力は五種類の 人をあしざまに言う善くない行為をする

もしも、自らを管理しようと願うならば 仏道に励んで楽を与え苦を除くことを修行し

真に生死を超越した悟りの境地に入る教義を思え 諸々の区別を前提として思考することをしてはいけない

心とその能力は猿のようであり 少しの間も留まる時がない

もしも、心とその能力の悪や誤りを打破することによって、真実の教えに帰服させたいと願うならば 当然仏道に励んで大乗経を唱え

仏が悟りを開かれた時の身体と 力と、教えを説くときに自信にあふれ何ものも怖れないことを思い描かねばならない

身体は教えに触発されて活動を始める精神的能力の宿る主体であるが 塵が風によって転がるようなものである

煩悩を起こさせるもとになる眼・耳・鼻・舌・身・意に任せて自由自在に振る舞い 意のままであり何ものにもとらわれない

もしも、この悪を消滅して 永遠に諸々の煩悩を離れ

常に煩悩の火が消された状態の安らぎの境地の城に留まり 安楽であって淡白でこだわりがなくあろうと願うならば

当然大乗経を唱えて 諸々の仏道修行者を生み出す母を思い描かねばならない

計ることが出来ないほど沢山の勝れた教え導き悟りに近づけるための巧みな方法手段は 真実の本性を思うに従って得られる

このような六つの教えを 六情根と名付ける

全ての悪い行為によって生じた海のように広がった障害は 皆、精神が、対象の形態にとらわれて行う誤った判断によって生じる

もしも、罪を告白して許しを請おうと願うならば 姿勢を正して座りこの世界の真実でありのままの姿を思え

多くの罪は霜や露のようにはかない 仏の智慧は太陽のように煩悩や罪障を消し去る

このためにこの上ない誠の心で 六つの感覚である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の罪を告白して許しを請え。

この詩を説き終わって、仏は阿難にお告げになった、

おまえは、今、この六根の罪を告白して許しを請い、普賢菩薩を細心に分別して観察し道理を悟る教えを持って、広く十方の諸々の天人や世の人の為に、広く自他の区別を前提として思考して説け。

仏がこの世を去った後、仏の諸々の弟子が、もしも、大乗経典の教えを銘記して忘ず、見て読みそらで唱えて、解説することがあるならば、

きっと静かな場所や、若しくは墓や、若しくは樹下や修行に適する所に於いて、大乗経典を見て読みそらで唱え、すべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという大乗の教義を思うだろう。

記憶している能力が強いために、私(釈迦牟尼仏)の身体や、多宝仏塔や、十方の分身の数え切れないほど多くの諸々の仏や、普賢菩薩や、文殊師利菩薩や、薬王菩薩や、薬上菩薩を見ることができる。

教えを恭しく敬うために、諸々のいうにいわれぬ美しい華を持って空中に留まり立って、教えを銘記して忘れず修行するものを賛嘆し恭しく敬うであろう。

ただ大乗経典を唱えるために、諸々の仏や仏道修行者は、昼夜において、この仏の教えを銘記して忘れない者を供養されるだろう。

仏は、阿難にお告げになった。

私は、多くの仏などの賢人が出た現在の一大劫の、諸々の仏道修行者、及び十方の仏と、大乗経典の絶対の真理の教義を思う理由のために、

百万億阿僧祇劫という非常に長い時間に於いて、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの世界で犯す罪を取りのぞく。

この極めて優れた、罪を告白して許しを悔い改める教えによるために、今十方に於いて、各々仏になることができた。

もしも、すぐに一切の真理をあまねく知った最上の智慧を成就しようと願う者は、

もしも、現在生をうけている身体に於いて、十方の仏と普賢菩薩を見ようと願うならば、当然、清く身体を洗い清めて、清い衣を着て、

多くの仏に奉る香を焚き、人の中から離れた、静かで修行に適した場所に居るべきである。

当然、大乗経典を唱え読み、すべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという大乗の教義を思うべきである。

仏は、阿難にお告げになった、もしも、心をもつすべての人々で普賢菩薩を細心に分別して観察し道理を悟りたいと願う者は、当然、このように心の中で観察をするべきである。

この心の中で観察する者を、正観(しょうかん)と名付ける。

もしも、このように心の中で観察しない者は、邪観(じゃかん)と名付ける。

仏が、この世を去った後、仏の諸々の弟子で、仏の言葉を心から信じて従って、罪を告白して許しを請うことを行う者は、当然、知るべきである。この人は、普賢の修行を行っているのだと。

普賢の修行を行っている者は、不吉な現象や、悪の行為による報いを見ることはない。

心をもつすべての人々がいて、昼夜六回十方の仏を礼拝し、

大乗経典を唱え、諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないといったあり方を説く教えを思うならば、一度指を鳴らす間に、百万億阿僧祇劫という非常に長い時間において、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの世界で犯した罪を取りのぞく。

この修行を行うものは、真の仏の弟子であり、諸々の仏より生ずる。

十方の諸々の仏、及び諸々の仏道修行者は、その受戒の師となるだろう。

これを仏道修行者が受けて保つべき大乗の戒律を備える者と名付ける。

受戒や懺悔をする必要なく自然に成就し、全ての人や天人の供養を受けるだろう。

その時に修行者が、もしも、仏道修行者が受けて保つべき大乗の戒律を備えようと願うならば、

当然、合掌して、人の中から離れた静かで修行に適した場所に居て、広く十方の仏を礼拝し、諸々の罪を告白して許しを請い、自ら自分の過ちを説くべきである。

そして、その後で、静かなところに於いて、十方の仏に向かって、この言葉を言え。

「諸々の仏と世尊は、常に世間に住んでいらっしゃる。私は、仏に成ることを妨げる身や口や意によって行った悪い行為のために、大乗経典を信じていると言えども、仏をはっきりと見ることができない。

今、仏を信じてその力におすがりいたします。

ただ願わくは、釈迦族の聖者の如来、遍くある正しい智慧を具えた世の中で最も尊い者よ、私の受戒の師となりたまえ。

文殊師利よ、広大な慈悲の心を備えたものよ、願わくは物事をありのままに把握し真理を見極める認識力によって、私に清浄な諸々の仏道修行者の教えを授けたまえ。

弥勒菩薩よ、衆生をいつくしみ苦しみを救う勝った広大な慈悲の太陽よ、私を哀れむために、また私に仏道修行者の教えを受けさせ聴かせたまえ。

十方の諸々の仏よ、現れて私に真理を体得させたまえ。

諸々の偉大な仏道修行者よ、各々のその名をお呼びいたします。この悟りを求める心を起こした勝った者よ、心をもつすべての存在を慈悲によって護り、われらを助け護りたまえ。

今日、大乗経典の教えを銘記して忘れません。

あるいは、命を失い地獄に堕ちて、計り知れない苦悩を受けようとも、決して仏法をそしり非難しません。

この因縁や現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行の力によって、今、釈迦族の聖者の如来よ、私の受戒の師となりたまえ。

文殊師利よ、私の師となりたまえ。

未来の弥勒よ、願わくは私に教えを授けたまえ。

十方の諸々の仏よ、願わくは、私に確かに知らせたまえ。

偉大な徳を備えた諸々の仏道修行者よ、願わくは私の友となりたまえ。

私は今、大乗経典の深遠で不思議なまでにすぐれている教義によって、仏を信じてその力にすがり、教えを信じてその力にすがり、僧を信じてその力にすがる」と。

このように三度説け。

仏と、教えと、僧を信じてその力にすがり、

次に、当然、自ら誓って、六重の法(殺生をしない、盗みをしない、邪淫を行わない、嘘をつかない、酒を飲まない)を受けるべきである。

六重の法を受けることを誓い終わって、次に、仏道に励んで何物にも捕らわれず淫欲を断つ修行をし、広く他者の救済のためにはたらく心を起こし、八重の法(殺生をしない、盗みをしない、邪淫を行わない、嘘をつかない、酒を飲まない、人の過ちを言いふらさない、自らを褒めたり他人をそしらない)を、当然自ら受けることを誓うべきである。

この誓いを立て終わって、静かで修行に適した場所に於いて、多くの名香を焚き、華を散じ、

全ての諸々の仏および諸々の仏道修行者は、大乗経典を供養をして、この言葉を言え、

「私は、今日に於いて、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心を起こした。現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行によって広く全てを悟りの境地に導く。」

この言葉を言い終わると、また更に全ての諸々の仏と諸々の仏道修行者の前にひれ伏し頭を地につけ足元を拝し、大乗経典の教義を思え。

一日乃至二十一日の間、若しくは出家や在家であっても、受戒の師である必要もないし、諸々の指導者である必要もない、純粋な受戒や懺悔の作法をしなくとも、

大乗経典の教えを銘記して忘ず、見て読みそらで唱える力の為に、普賢菩薩の助けがある為に、これが十方の諸々の仏の正しい教えの要点であるので、

この教えによって、自然に五つの教えである、戒(言行を慎むこと)・定(心の動揺を抑えること)・慧(澄み切った理知を働かせること)・解脱(因果から開放されること)・解脱知見(解脱、自覚することそのものを身体に備えること)を成就する。

諸々の仏や如来は、この教えから生じ、大乗経に於いて、将来仏となることを予言され記されることを得たのだ。

このために、智慧のある者よ。もしも、自己の悟りのみを求める修行者が、仏・法・僧の三宝に帰依すること、及び在家の信者が守るべき五つの戒め・出家生活にならって守る八つの戒め・

出家男子の守る比丘戒・出家女子の守る比丘尼戒・男子見習僧の守る沙弥戒・女子見習僧の守る沙弥尼戒・女子見習と尼僧の中間段階の守る式叉摩尼戒や、諸々の規律にかなった起居動作を壊し破り、心性が愚かで一切の道理にくらく、よくない邪悪な心の為に、多くの諸々の戒や作法や規律を犯したとする。

もしも、過ちを除き滅ぼし煩悩による苦をなくし、またもとの男子出家僧となって、修行に専念し教えを守ろうと願うならば、

当然、仏道を勤め修めて大乗経典を読み、第一義の空の教えを思え。このような空の教えを悟る智慧により心と対象世界とを統一させよ。

当然知るべきである。この人は時々刻々の間に、全ての罪による穢れを永遠になくし尽くすことを。

これを出家して修行に専念する人が仏教の戒めを不足なく十分に備え、諸々の規律にかなった起居動作を備えると名付ける。

きっと人と天人の全ての供養を受けるだろう。

もしも、在家の信者の男性が、諸々の規律にかなった起居動作を犯しよくないことを行ったとする。

善くないことを行うとは、いわゆる仏の教えの過ちや悪いところを説き、出家者と在家者の男女の犯した悪事を論じ解説し、人のものを盗んだりみだらであるのに、自分の言動を反省せず恥ずかしく思わないことである。

もしも、罪を告白して許しを請うて諸々の罪を取り除こうと願うならば、当然、仏道に励んで大乗経典を見て読みそらで唱え、究極の真理を思うべきである。

もしも、王や大臣、祭式と教育を独占する特権階級の者たち、在家男子、長者、宰相や官吏など、このような人々が、貪欲で満ち足りることなく、五逆罪(1寺塔や経像などを破壊すること、2三乗の教法をそしること、3出家者の修行を妨げること、4小乗の五逆の一つを犯すこと、5業報を無視して悪行をおこなうこと)を犯し、★大乗経をそしり非難し、十悪業(殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、嗔恚、邪見)を行ったとする。

この大きな悪に対する報いにより、現世で悪事をした結果、死後におもむく苦悩の世界へ堕ちるであろう。このことは急に降る激しい雨よりも速い。

当然必ず、阿鼻地獄に堕ちるべきである。

もしも、この悪業によって生じた障害を消滅させ除法しようと願うならば、自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じる思いを生じ諸々の罪を悔い改めなければならない。

仏は言った。どのようなことを王族や武士や在家男子の懺悔の教えと名づけるのか。

王族や武士や在家男子の懺悔のの教えとは、当然、心を正しくして、仏と教えと僧を非難せず、出家することを妨げず、淫欲を断つ修行をする人のじゃまをするべきではない。

当然、記憶し続けて六念(念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天)の教えを修行するべきである。

また当然、大乗の教えを銘記して忘れない者に食物や衣服を給仕し供養し、必ず礼拝するべきである。

当然、非常に奥が深い経典と、諸々の事物は因縁いんねんによって仮に和合して存在しているのであって固定的な実体はないといったあり方を説く教えを、正しく記憶し絶えず忘れないようにするべきである。

この教えを思う者、これを王族や武士や在家男子の第一の懺悔を修養すると名づける。

第二の懺悔とは、父母に孝行を尽くし、師と目上の者を恭しく敬う、これを第二の懺悔を修養することと名づける。

第三の懺悔とは、正しい教えによって国を治め、人民をよこしまな方向へ曲げて導かない、これを第三の懺悔を修養すると名付ける。

第四の懺悔とは、毎月の八、十四、十五、二十三、二十九、晦日には、諸々の領地に命令を出して殺生を禁止させ、このようの教えを修養させる。

これを第四の懺悔と名づける。

第五の懺悔とは、当然、前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考えを深く信じ、絶対平等の真実の道を信じ、仏は滅することはないと知るべきである。

これを第五の懺悔と名づける。

仏は、阿難にお告げになった。

未来の世に於いて、もしも、このような懺悔の教えを修習することがある時、

当然、知るべきである。この人は自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じることを身に付け、諸々の仏に守護されて、遠くない未来に於いて 一切の真理をあまねく知った最上の智慧を成就するに違いない。

この言葉をお説きになったとき、一万の天子が、衆生を救うために、一切の法門の智慧を見ることが出来る眼を得た。

弥勒菩薩などの諸々の大菩薩と阿難は、仏のお説きになった説を聞き奉って歓喜して教えを奉じそれを行った。

以上、法華経結経の後半であるが、大乗経典を賛美し、これを遵守するように説いている。
 日蓮原理主義者の言う他宗派を誹謗中傷して法華経以外の経典等を破棄させる論法は良く調べたら、デタラメであり、ただの目眩ましに過ぎない。
 日蓮宗では四箇の格言等は、日蓮さんの方便か、仏教学が進展していない時代が故の浅学の誤りであったとし、教義を緩和して、大乗経典等を容認し、伝統仏教・他宗派と協調、融和しているのは、教理からも正しい行為である。

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