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日蓮原理主義を破折する会コミュの正直捨方便について考察する

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法華経の正直捨方便について考察する。



 日蓮原理主義者は、法華経の方便品第二に示される 「 正直捨方便 」の一節は、「正直に方便の教えを捨てて」と読むのだが、それを「法華経以前の教え(経典)を捨てなさい」とお釈迦様は教えられているのだと思い込んでいる。

 「舍利弗當知 我見佛子等」から読むと、

【舍利弗當知 我見佛子等 志求佛道者 無量千萬億
咸以恭敬心 皆來至佛所 曾從諸佛聞 方便所説法
我即作是念 如来所以出 為説佛慧故 今正是其時

舍利弗當知 鈍根小智人 著相憍慢者 不能信是法
今我喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道
菩薩聞是法 疑網皆已除 千二百羅漢 悉亦當作佛

【現代語訳】
舎利弗よ、よく知りなさい。機根の鈍い者、智慧のない者、様々な物に執着する者、おごり高ぶった者達はこの教えを信じることはできない。今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。これらの菩薩たちにむかって、正直に方便を捨ててただ成仏への道を説く。菩薩たちはこの教えを聞いて疑惑の心が除かれ千二百人の羅漢は全員がまさに成仏に至るであろう。
 】

 この「正直に方便を捨ててただ成仏への道を説く」は、本来、一仏乗である教えを声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗に別けて個別に説いてきた教えは方便で用いた説き方であって、本来は一仏乗に集約されて成り立つ教えなので「方便を用いずに正直に(ストレート)に成仏への道を説きます」という意味である。

「方便の教え( 爾前経 )を捨てて」と解釈するとその前後の文章との関係性が成り立た無い。

「今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。これらの菩薩たちにむかって、 正直に方便( 爾前経 )を捨ててただ成仏への道を説く。」

と訳すると、
 「 今、私は喜んでおり、畏(おそ)れはない。 」の文章がなぜここに入っているのかという違和感が生じて文章の流れが成り立たない。
 これは、今まで方便として個別に説いてきた三乗の教えを弟子達がやっと理解する境涯に到達し、法華経を説いても理解出来る境涯に至ったことを喜び、この教えを(理解出来ないが為に)信じようとしない者達 (機根の鈍い者や、智慧のない者、様々な物に執着する者、おごり高ぶった者達) が出ることをもう恐れない。
 だから方便は用いずに正直に 「随自意」で成仏への道を説きます。
となって文章の流れが成立する。

 そのことを確かめる為にサンスクリット語で書かれた原典を確認する。「正直捨方便」のところは原典では次のように書かれている。

viśāradaś cāhu tadā prahṛṣṭaḥ
saṃlīyanāṃ sarva vivarjayitvā|
bhāṣāmi madhye sugat’ātmajānāṃ
tāṃś caiva bodhāya samādapemi ||132||

【翻訳】
また、その時
すべての臆する心から離れ
躊躇(ちゅうちょ)せず、愉快であり
仏子の中で説き
彼らを覚りへと教化する

 原文には「方便を捨てる」という表現の文章は見当らない。鳩摩羅什が漢訳する際に、「正直捨方便」と意訳されたと推測される。サンスクリット語の経典だと捨てている(離れている)のは、臆する心、躊躇する心であって方便では無い。 


法華経は法華七喩が含まれており、方便が説かれている。従って正直捨方便が方便を捨てているという事にはならない。

また、但説無上道との文言が法華経が紀元後に創作された経典である以上、根拠に乏しいものである。

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