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ダンテス・ダイジの教えを学ぶコミュの覚醒したグル(老師)の指導を要しない冥想

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『アメジスト・タブレット・プロローグ』には、

その書(曲)を読む(聴く)事自体が冥想になるものとして、クリシュナムルティの著作と、ベートーヴェンの晩年の作品などが挙げられています。

『既知からの自由』(自己変革の方法)は、本当に正直に読めば見性する、とも雨宮先生が言っており、oshoの『瞑想・祝祭の芸術』、『般若心経』と共に、雨宮門下の必読書でした。

管理人
 『読みました』
老師
『どうだった?』
管理人
『四六のガマになった気分でした』
老師
『うーむ。。』
なんて会話がありましたあせあせ

ベートーヴェンの『大フーガ』は、厳つくて取っつき難い作品ですが、雨宮先生が1番お好きな曲でした。
ベートーヴェンの『第九』、ブルックナー の『第九』は、共に見性音楽とされていました。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

『既知からの自由』クリシュナムルティ
Amazon.co.jpによる
詳細はこちら: https://www.amazon.co.jp/dp/4434108557/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_3E2DBBQ73AF5EFK2ES1S
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

Wilhelm Furtwängler "Grosse Fuge" Beethoven 1954
https://youtu.be/pSfcE3HH7dk

Beethoven - Symphony No.9 “Choral” Abbado Berliner etc.
https://youtu.be/a-HngarfXLE

Bruckner Symphony No.9 - Sergiu Celibidache/ MPO (Live, 1986)
https://youtu.be/UCnvt_tg88Y



コメント(12)

こんにちは(^○^)
参加させて頂いてありがとうございます♪
何か書かなきゃと思いながら
見てました 笑

情熱の最極点にて、
自己は、タオの川とぴったりひとつになり
あまりに、宇宙にピッタリと存在するため
行為者が消えると思います
 
なので、
行為者は、
絶対無的な場から
それを行う と思います

そして、クリシュナムルティは、
絶対的な無と言いましょうか
時間が無いような場で語っており
彼にとっての場そのものが
絶対的な場となっていると思います
 
もし、満足させた
回答があるとするのなら
 
吐き出す呼吸と共に
至福を吐き出した沈黙によって
答えることができると思いますが

それは、形ではなく
その実感が伴わねばなので
 
それは、クリシュナムルティと
共に存在し、共に呼吸することなので
それは厳しいかもです

が、
クリシュナムルティは、
その場に留まり続けることで
その梯子を残しているように思います

道元も、
ラマナマハリシも
似てますね
>>[2] 見性体験のある大和さんならではのご見解ですね。大和さんから見た、ダンテス先生の『絶対無の戯れ』や、『無為隆彦詩集』の詩の背景などにも、興味がそそられました。
>>[2] ベートーヴェンやブルックナー は、作曲で見性した方々だそうなので、行為者が消えたような、無私の表現や、個人を超えた意識・無意識の深層を表現しているように、私は感じるのですが、
 次に貼らせて頂くシベリウス のように、もっと個人のさざなみ的な感情をも、細やかに描いた音楽にも、私は魅力を感じます。

Sibelius - Violin Concerto - Kulenkampff, Furtwängler, BPO (1943) https://youtu.be/eF7cnlrNmhY 
>>[4]

ちょっと書き直しました


ぼくは、音楽はよく分からないので、
言われればそうとも聞こえる、、
ぐらいしかわからないオンチなのですが 笑

 
クリシュナムルティの表現と、
情熱の最極点においてタオ的性質をもつもの

二者があり、

厳密に言えば、違うし
同じとも言えるしって感じもしますね

"神秘的な合一"と、
"情熱の最極点の高まり"は
 
神秘的な合一というのは、
なんらかの恩寵の介入と
生のバランスがあることと、
神秘を教えることも
含まれてる気がします

情熱の最極点で行われるのは
もしかしたら、言うならば、
純粋な冥想そのものであり、
それが行う仕事

という気がします。
 

それは、純粋には
"気づいている"というよりか
"ソレの働きが行われている"、、、
に近いのかもしれません。

「無為隆彦詩集」は、わかりませんが
「絶対無の戯れ」は、読んだことがあります。
 
一般向けではありますが、
特に弟子たちへの愛情に溢れている
と思います

個性がよく出ていて、
(それは、遍在を忘れた個人が出す
個性ではなくて、
遍在との和解というか和合の後に、
再臨した個性ですが)
その個性による愛情です
 
 
創造性の中に覚醒の光を込めれる
ことはできると思います

ある一つの方向性としては
情熱と共に、自己がある段階に至り、
この今瞬間とあまりに自己が1つになる事で
無行為者としてソレが行われる
創造による、
絶対者への近接による
絶対者の意志とひとつになること。(たぶん)
 

しかし、情熱の最極点に比べて、
神秘家の最初の覚醒は、
創造を発揮する主体が消えて
遍在として目を覚ます ことから
始まると思います

なので、純粋冥想とは
2つの方向性があるかなと
 
1つは、ダンテスも言うように
個人の情熱の最極点であること

もう一つは、
最初の覚醒を得た者(あらゆる顔を通過した者)
つまり、遍在性ともはや切り離される
ことのない人物が行う
行いの総て(厳密には、覚者も人間らしいミスや失敗も、未熟さもあるので、そこんとこちょっと、全部が全部とは言えないと思います 笑)
 
全身が遍在性と繋がってるために
奏でる音楽の全てに
遍在性が流れ込むと思ったらいいのかもです
 
それは、宇宙の巨大な身体が
小さい体を通して
働いている
とも言えるかもしれません。
 
 
クリシュナムルティは、
この点で、行いが純粋冥想と言えると
思います。

前後しましたが、
前者は、情熱の最極において
ソレの意志を流す器になる可能性があり
そこから、純粋な遍在性のエッセンスが
流れだす可能性がある

という感じだと思います。
(行為者は、消え、
絶対者という行為者の創造の発揮と
ひとつになりうる)
 
 
絶対無の戯れは、
普通は書けません。
 
前者の情熱の最極でもかけません、
情熱の最極には、
そこには、そこに向かうプロセスが
あると思うので、そのエッセンスがあり
それはそれまでの道のりです。
 
 
絶対無の戯れ は、
クリシュナムルティ的だと思います
どちらも、その個性を表現した
器と魂遍歴が違うだけかもしれません。
 
それは、離れることの無い
遍在性の中で、再び形を持った自己による
大宇宙の表現とでも
言えましょうか

(それは、道のりをある意味ふくみません
それは、遍在性と繋がりながらも
再び降りた自己が使う道具として
道のりをも使うでしょう。
立脚は、遍在が主体と思っていいと思います。
見方により違いますが。。)

とっても、微笑ましいもの
だと思います
意識の引っかかりのギザギザに
フィットして連れてくかのような

自己を用いた
ソレそのものの表現
ソレは触れていますが、
普通の人として読むものが
ソレを知ることは困難です

しかし、梯子が残ります
遍在性の中でどこまでも
貫通し、伸びゆく表現が

その橋渡しを行うための
遍在性のエッセンスが見え隠れするもの
と、自己は見るでしょう

遍在性と共にいる者にとっては、
酔狂な遊びというか
暇つぶしとさえ言うかもしれませんが
それはとってもやりがいのあるというか
伸び伸びとした、その人らしい表現で
(思い出した)自己の
神的喜びとさえ言えるのかもしれません(^O^)
 
 
長くなりました
一気に書きましたので、
ところどころミスもあるかもです 笑
>>[6]

作曲の恩師である、『ゴジラ』の映画音楽で有名な伊福部昭先生(雨宮老師に只管打坐の師である伊福部隆彦先生の従兄)から伺った話では、作曲という行為を、仏像作者が、素材の木材に埋まっている『仏を迎える』ように掘り進んでゆく行為に喩えていますが、

私には経験上、作曲でも指揮でも、芸術家が真摯な情熱を出し尽くした先に、このように音楽(ミューズの神)の側から、作品(演奏)という恩寵が与えられる、という感覚があります。

ベルリン・フィル初の日本人コンサートマスターであられた安永徹さんは、ジュリーニという巨匠の指揮でのブルックナーの交響曲第8番の演奏会で、そのようなインスピレーションがオーケストラに降りて来た体験を語っておられます。

ーーーーーーーーーーーーー

"神秘的な合一"と、
"情熱の最極点の高まり"は
 
神秘的な合一というのは、
なんらかの恩寵の介入と
生のバランスがあることと、
神秘を教えることも
含まれてる気がします

情熱の最極点で行われるのは
もしかしたら、言うならば、
純粋な冥想そのものであり、
それが行う仕事

という気がします。
 
>>[6] 含蓄ありまくりのコメント、深く感謝致します❣

確かに、おっしゃるように、雨宮老師の我々への愛情の性質、所謂我々の人間的な愛情との違いを、的確に言い表していらっしゃいますね顔(笑)

ーーーーーーーーーーーーー

「絶対無の戯れ」は、読んだことがあります。
 
一般向けではありますが、
特に弟子たちへの愛情に溢れている
と思います

個性がよく出ていて、
(それは、遍在を忘れた個人が出す
個性ではなくて、
遍在との和解というか和合の後に、
再臨した個性ですが)
その個性による愛情です
>>[8]

すみません、
mixiにログインする機会が少なくなり、
見るのが遅れております 笑

こちらこそ、噛み砕いて
読んでくださり
ありがとうございます!

できるだけ、
感じたものを表現できてればと
思います 笑


はい、
「連れて行こう」という意志が
立場上、にごしながらも
感じられる気がします(^ ^)
 
鎌倉?に、
oshoの弟子の変わった人がいまして
(最後に一対一で話せてた時代の人です)

その人は、
覚醒してると思いますが、

「自分を見つける事はシンプルだけど、
だからこそ、難しい。」と言っていました

そして、一度自己の構造に入って
いろんな経験を経なければならないかも
しれないことも

 
その時に、恩寵の話をしてくれたのですが、
まさに、縁なのでしょうね
あの時代に、集まって瞑想されていたのは。

なにか出てきたので
書きます、
もしヒントがあれば。。

----------------------

正直さと、
段取り

機が熟すという
言葉がありますが
 
構造を理解していても
熟していないというのなら
何が必要なのでしょうか

個人的な理由いがいのもので、
瞑想が必要になった時、
自己は何を見つめて瞑想するのでしょうか

生命への憂いの中で
行なわれる瞑想は、
道元の意に叶うものかもしれません
 
瞑想は、個人の目標の中で
行なわれるものもあると思います

しかし、個人の目標でなければ
誰が瞑想しているのでしょうか

そこらじゅうで冥想しているものしか
なくなります

おそらく
他生命へ憂いを覚える時
涙は、遍在の中にたたずむ
優しさをもっていることでしょう
 
 
鎌倉のその知人は、
毎日、人類の覚醒のために
冥想と祈りを捧げています
 
そして、その
ピュアさに 
すごく驚きました

彼は、人類のための機について
祈りを捧げているのかもしれません

出てきたものを
そのまま書きました 笑

バランスですね、
自分のいない瞑想
(しかし、他の生命を思う自己から
行う、利他的瞑想)

自己の修練の瞑想
 
 
これまで、修練した道があるからこそ
その積み重ねがあるからこそ
 
他の命への思いと共にある
安らぎの瞑想

そのバランスを増やしても
いいのかもしれません
次に、以前書いた音楽と宗教性についての原稿を貼ります。
《音楽と宗教性》(52×48)(2014稲毛神社広報誌「あきつ」に掲載)

26年前に琉球神道で伝承されていた神歌や沖縄のわらべ歌、民謡を研究して、合唱曲を書きました。

題名を《琉球古謡に基づき、児童合唱とフルート、ハープ、打楽器アンサンブルによる予祝曲『みるくゆ』(弥勒世)》と申します。

この曲は琉球神道の神歌や沖縄のわらべ歌、民謡を研究されている民族音楽学者の方々が書かれた採譜集や研究書、録音を調べ、2度の沖縄県久高島(琉球神道の聖地。)や斎場御嶽(セイファーウタキ。沖縄本島の聖地。)への取材旅行を経て、編作曲という形で書きました。

その過程で作成した、約3千曲分の歌詞と旋律のノートや、ノロ・ユタ(巫女)の方々との対話等から浮かび上がって来たのが、琉球の人々が持っていた、大自然への愛着や感謝・畏怖、それらと直結している神々への素朴な信仰心、日々の安寧への祈り、外来神として受容されていた弥勒神への信仰等です。


さて、音楽と宗教性について語る前に、私の宗教的立場を明らかにさせて頂きますと、
30歳前に作曲を止めてから指揮を始めるまでの数年間、音楽から離れて禅仏教を学んでいた時期があり、多分にその影響があるかと思います。

禅仏教には多くの経典がありますが、実際の修行においてはそれらは信仰の対象ではなく、飽くまでも参考書として扱われます。
また、『不立文字・教外別伝』と言って、そもそも経典以前に、言葉では真実を表現できないという立場ですが、
更にそこを超えて、例えば道元禅師は、『非思量、これ即ち座禅の要術なり。』と述べておられます。
それは、思量(思考)とは脳が過去の記憶を処理して行う活動であり、それ自体がフィルターとなってしまうため、
我々は現在この瞬間そのものを決して直接には認識できない、というものです。

禅の修行は身体を壊して挫折してしまったため、実体験に基づかない話で恐縮なのですが、『非思量』とは、思考を介さずに今この瞬間の現実を体現する、という事であるようです。


このような禅仏教の特質は、一般に宗教と呼ばれるものの多くが、教義の体系を持ち、信者にはそれを無条件に信仰することが求められるという特質とは非常に異なるものだと思われます。


『設計主義』という言葉があります。これは、優秀な誰かが考えた方法で世の中を設計して変えれば皆が幸せになれる、という思想ですが、

この『誰か』を宗教の教祖や政治家、思想家に当てはめると、人類の悲惨な歴史の大部分がこの考え方によって引き起こされたと見ることができると思います。

宗教教義の仮説性とそれへの信仰と依存性が、政治的な設計主義に利用され、悲劇を生み出してきたのだろうと、私は考えています。これらの多くが権力者の政治的な設計主義と結びついた歴史はよく知られているところです。

1/2続く
2/2続き

振り返って、拙作で扱った琉球神道や我々の神社神道では、明確に理論付けられた教義体系というものが存在せず、
仏教の如来なども、琉球神道の弥勒神のように外来神として受容されており、異教徒との対立軸が成り立ち難いように思われます。

既知のもの、未知のもの、不可知のものをそれとして位置づける。
世界観や森羅万象を説明できるような絶対的な教義を無理に作らない、という正直な姿勢が、私は禅仏教と相通じるように感じています。


では、禅仏教と神道の違い、神道の特徴はどこにあるのか、という事について、私は神道については全くの門外漢ですので正直に素人としての素朴な捉え方を申しますと、『感性の宗教』ではないかと感じています。

禅仏教では、坐を通じて結果的に意識を非日常的な領域まで突き詰めるのに対して、
神道に於いては、祭祀などを通じて素直な感性で神々と関わるところが異なるのではないでしょうか。


琉球神道に感じた自然への愛情、感謝、畏怖は、恐らくはその背後の神々の存在を素直な感性で捉えさせ、信仰に繋がってきたものなのではないかと推察しています。

このような感覚を、私は例えば伊勢の神宮に参詣した折りにしばしば感じます。

また、中国の風水師が来日すると、風水のツボに相当する場所によく神社が建っていると言われるそうですが、
私は氏神さまの神明神社でも、明治神宮や靖国神社でも、場そのものになにか神々しいような心地よい雰囲気を感じます。


私が生業としている西洋音楽でも、ベートーヴェンの後期の作品やブルックナーの交響曲、バッハの宗教音楽など、神々しいエネルギーに満ちた名曲があります。

これらの作品は、多くの音楽作品で表現されている、我々人間の喜怒哀楽を遥かに突き抜けたような神々しさや、いわゆる神なるもの、超自然的な何かを、概念や思想ではなく体感させてくれるものです。


今まで幾つかの演奏会でそれを体験して来ましたが、
西行法師が伊勢の神宮に参詣した折りに詠んだある歌が、そのものずばりを表現していると思います。

25年前に私が福井県の禅寺に赴く前、先輩の雲水から、禅の修行者は参禅の前に伊勢の神宮にお参りする風習がある、と教わりましたので、やはり禅と神道には親和性があるのかも知れませんね。


『 何者の おわしますかは 知らぬねども かたじけなさに 涙あふるる 』 西行

2014年3月30日。

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