ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ジュンパ・ラヒリコミュの『停電の夜に』のひとつの読み方

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
(各篇のストーリーの細部にも触れている箇所があり、結果的にネタバレ同様なので、未読の方は、その点を了承してください(みくさんのお勧めにより))

・「停電の夜に」

 きもちのすれ違いにおそわれてしまった若いカップル。
 もちろんインド出身(ただしくは二世か)の高学歴のおとことおんな。
 おんながおとこの将来を支えるというかたちになる。
 すくなくともおとこの側はすきま風を意識していない。
 あるいはただたんに意識したくないだけかもしれないが。

 一週間ほど夕方の停電に見舞われる。
 ろうそくのひかりを頼りにしての食事、それはあるいは秘儀めいている。
 薄暗がりの秘儀では、親密さのみでなく、共犯関係さえ醸し出せてしまえそう。
 そこではじめたのが、告白ごっこ。
 しかしこのふたりの間でかわされる告白ごっこはとうていイノセントなものにはなりえない。
 おとこは、おんながわかってくれるものと信じていて、気まずさなどというものは、たいして意味をもちえないとたかをくくっている。
 しかしおんなにはおんなの暮らしがある。
 それでももう一歩踏んぎれないものが、告白ごっこをステップに前に突き出ることができたようだ。
 おんなの傷に思いを差し出してあげられないおとこは、無神経というよりひととしての成熟度がたりないのか。
 それもあって、おんなはおとこにあいそをつかす。

 おんなはつよいという当たり前すぎる結論ではあまりに芸がない。
 つまり、自分の欲するものに敏感になり、忠実になれるもののみが、自分を見失わずに生きていけるのだろうか。
 さて、ではおとこをどう励ましてあげればいいものだろうか。

 短篇ながら、細々とした描写が洒落ていて、ものそのものを感じることができる。
 とりわけ、食事関係の語彙の豊かさ、正確さが全体のトーンをしっかりとしたものにしている。

 いわゆる移民文学というイメージとは異なり、この作者で描かれるインド系のひとたちは、米国のボーダーに戸惑うことがない。
 米国でしたたかに生き抜いていけるだけの、知識と背景にめぐまれている。
 だから一般にイメージされる移民文学とは様相をことにする。
 それにもかかわらず、自らのルーツに意識的であり、精神的ボーダーに捉われている。
 裏返せば、表面上は米国の暮らしにどっぷりとつかっているようにみえて、じつは充たされないこころにイラつき、もてあそばれているのが実体のようだ。

 栄誉にあふれているようにみえるこの作者。
 しかしどの作品にもその底には哀しみ、物悲しさが潜んでいて、やはり書き綴ることは哀しみであり、それにもかかわらず、哀しみを描くことで得られる自分の歓びというものもあるのだろう、というごくごくあたりまえの考えにわたしは到る。


・「ピルザダさんが食事に来たころ」

 歴史をこしらえるものはだれか、という本質的なモンダイはいまは脇に置いておくとして。
 歴史に関わること、歴史を感じる側にまわること、そういうことはそうやたらにあることではない。
 いい意味にも好ましくない意味にも歴史に自分が左右されるというのは、ありがたいことではない。
 ひっそりと生きていたい。
 しかしそれでも、ときとして歴史を感じさせる立場に居座ってしまわされることがある。

 この作者の作品では、子どもの語り、その感じ方が巧く用いられていることが少なくない。
 この短篇では、それが一人称の語り、つまり「十歳のわたし」を通して世界が映し出される。

 たまたま異郷の地にて親しくなったピルザダさんではあるが、国が分断され、宗教の問題もあり、くにに残してきた家族の安否に神経をすり減らす。
 「わたし」の親とピルザダさんとは、結果的に異国人になってしまったが、当地においてはたいして影響はない。
 しかし、くにでは戦火に見舞われる。
 もちろんピルザダさん、および「わたし」の親は憔悴する。
 それを「わたし」はどう受け止めるか。
 つまり、その不可解さ、やりきれなさをどう理解すればいいのか。
 歴史の出発点が、イギリスからの米国の独立、それこそがかつ中心であると思っている米国人、あるいは米国で教育を受けているものにとっては、自分のルーツにいかに関わるものであるとしても、そこまで捉えることは困難だ。

 そういう「わたし」は、違和感を感じることがあるものの、ハロウイーンのようなエベントを通じて米国文化に取り込まれてしまっている。
 もちろん子どもであるから、そう高望みもできないわけだが。

 この「わたし」は、しかしながら、他のひとのために祈ること、遠いひとを想うことを学ぶ。
 他者に想いをはせること、そしてその他者がなぜ他者であるかを考えること、そこから「わたし」はこどもであることをやめ、ついには自分の思いもつかなかったような地点にたどりついてしまった。

 これは「停電の夜」にて、インドの農民一揆のドクター論文にかかっているシュクマールとは対照的だ。
 かれは「一つの教科として本から歴史を学んだ」とある。
 インドの農民一揆といえば、だれが組織して、どういう展開をみせたか、どこまで要求を勝ち得られたか、弾圧はどのようなかたちをとったか、など野心的な仕事であるが、このかれは、インドに幼時にいちどだけしか出かけたことがないし、興がのらないらしい。
 インドの農民をイメージすることにまず障壁がある。

 「わたし」は、ピルザダさんを通して歴史を知った。
 いや、歴史以上のものを知ることになってしまった、好むと好まざると。。。



・「病気の通訳」

 いくら血がインド人だといえども、米国の暮らしに馴らされると、どうにも手のつけられない米国人にうりふたつに堕してしまう。
 いっぽうで、大志に燃えながらも機会と運にめぐまれずにインドでくすぶってしまえば、米国への幻と紙一重の憧れにまつわりつかれる。

 夫婦生活というのは生ける牢獄であり、いかにしてこの数百年、大方のひとが堪え忍んでこられてきたのか、ただただ不可解(これは、その1でのコメントにも関わってくると思うけど)。
「とがった物言い、無関心、だんまりの時間」が夫婦の顔を付き合わせる場を支配する。

 米国から里帰り兼観光旅行に訪れているダス一家もそのものズバリで、作者の叙述にも苦味がこもっている。
 観光タクシー運転手たるカパーシーも、いまではうだつの上がらない人生一色。
 かつては、がんばったらいいことがある、結局どうにかなるのが人生だ、と言えるくらいのオプティミストであったはずなのに。
 語学力をいかして民族なり国家なりの調停といったものに関わりたかった。
 しかし、いまでは医者の現地語向けの通訳。

 その医者の通訳という点に、投げやりな生き方が身についたようなダス夫人の注意をひく。
 ロマンチック、ということばが打ち出される。
 いっきょにカパーシーは、若いにもかかわらず生きるのに厭きたような夫人へ惹かれていくのを感じる。

 夫人は、いきなり告白を持ち出す。
 三人いる子どものひとりは、夫の子どもではないという。
 夫人の苦しみを真にうける具合にカパーシーが受け止めようとすると、意外にもそこにこそディスコミュ二ケーションが入り込んでいたことが判明する。

 ところでカパーシーのうだつの上がらない人生は、親に嫁の世話をされたときから始まる。
 かつてのインドは、あるいは王宮関係だけだったかもしれないが、きわめて官能性の優った文化に育まれてきた。
 しかし庶民の夫婦といえば、夜の交わりにおいても、おたがいのむき出しの姿をさらすことがないという。
 米国人化したインド系の女性を眺めるインド人の男性はいったいどんな想いを抱くものなのか。

 ハヌマンラングールというインドのポピュラーなサルが出てくる。
 このサルのことは立花隆の「サル学の現在」でも出てきたし、藤原信也の動物記でも、森の高みをおそろしい勢いで移動していくサルの大群として描かれていたのを思い出す。



・「本物の門番」

 この作者の描くものに、周縁のひとびとへの眼差しというものが加わっている。
 貧しきひとびと、うらぶれたひとびとというのは、ただ写実的に描いていくだけで同情をさそう。
 しかしそれ以上のものを望む場合にはどうすればいいか。
 語り口の工夫、虚実を入り混じらせての雰囲気、あるいは清貧さの対照としての饒舌さ。
 口から出まかせという評判のおんな。
 主人公たる、押しかけ門番ともいうべきプーリーは、それなりの過去、歴史に押し付けられた過去を背負っている。
 しかもアパートの住民の「民の声」として、いくつものヴォイスがモンタージュされてくる。
 降ってわいたような、改装らしきものがアパート内で流行り、ひまをもてましたプーリーは外へ出かけることが多くなった。
 そのアパートで、盗難がつづいたとき、手引きをしたにちがいないとプーリーはみなから疑われた。
 ついにはプーリーは追い出された。
 皮肉なめぐり合わせといってしまえば、それですべてがすんでしまいそうなもの。
 しかしそれでも作者は哀れみの眼を喪わず、ひとびとのあいだで暮らすことがどれだけ揉め事をはらんでいるかを示唆して終わる。



・「セクシー」

 いわゆる「不倫」の話である。
 ここでは、わたしは「不倫」について世間一般とは異なったコンセプトを持っているので、「FU」という記号を用いることにする。

 この40頁の短篇、じつは構成が卓抜で、白人の若い女性がインド系の妻子持ちの男性に深入りするという話。
 
 ミランダと名乗るこのおんな、同僚がインド系既婚女性である。
 そのインド系のいとこが夫に浮気されたらしいという。
 ひと目惚れに近い状態で、妻子をあとに残した。
 泥沼状態が終始つづく。

 そんななかでミランダはインド系のおとこと出会う。
 もちろんミランダがおとこに関わりあうのははじめてではない。
 よくあることだが、ミランダ、自身は独立独歩を目指すが、それでも孤独さをどうまぎらせていいのかわからないときもある。
 退屈さにもまとわれつかれている。
 ゆえに、おとこにすぐさま惹かれていく。
 このインド系のおとこ、奥さんがインドへ里帰りということで、自由気ままに逢瀬を愉しめる。
 おとこに、セクシーだといわれ、ミランダのセルフイメージは昂揚する。
 じつにいじらしいおんなである。

 本来、ミランダはインド系とは隔たりが大きいと思っていた。
 それは幼時体験、つまり近所のインド系の家族に由来している。
 異文化へのためらい、それはいまは、異文化への魅惑、つまりエキゾチック性に取り込まれてしまう。

 しかし夢は長くは続かない。
 ほかのおんな、つまりおとこの奥さんが気になる。
 奥さんが帰郷の日をむかえ、もちろんおとこは逢瀬をつづけたいが、まえほどおおっぴらではなくなる。
 「FU」とは、からだひとつでするものではなく、数々の小道具、その小道具の発するおしゃべりなどによって醸し出されてくるものも重要。
 おこと好みにちがいないインティメイトな装いやら演出が、おとこの注意を引かなかった場合の失意感はおおきい。

 ここでもうひとつ、メタファーが導入される。
 同僚がそのインド系のいとこと会うので、その子どもを半日ほど預かる破目になる。
 こましゃくれた子どもではあるが、どのみち、いたいけない存在だ。
 もちろんどこか沈んだ、哀しみの表情は垣間見える。

 このおとこのこが、ミランダをセクシーだと評する。
 どうやら、このおとこのこにとっては、セクシーとは知らないひとを好きになること。
 自分のパパをさらってしまえるようなおんなのひとのことを意味しているらしい。
 知らないひとにそこまで惹かれてしまうならば、結婚生活とはいったい何なんだろうか。
 ついにはミランダは「FU」はフェアではないという結論にたどりつく。
 しかしこれはおそらく、「FU」一般について語っているのではなく、ミランダの生き方に照らし合わせてのことだと思われる。

 いつしかミランダもパートナーにめぐまれて、結婚生活に入るかもしれない。
 しかし、そこまでひとたび見てしまえば、つねに醒めていることを強いられるのではないだろうか。

 とにかく、この短篇の緊密な構成(べつにこの短篇にかぎったことではないが)は巧だ。
 各所に設けられた仕掛けに、頭を心を揺すぶられる。



・「セン夫人の家」

 米国社会に適応できないひとを、社会に適応する境の時期にいる子どもから眺めた顛末。

 夫婦単位で、米国の華やかな暮らしを夢見てたどりつくひとたちはすくなくない。
 インドのように一部の高学歴者にとって、米国社会を昇っていくのは魅力だ。
 しかし個人がそのちからにいくら恵まれていようとも、もとの社会を引き摺っているのはたしか。
 もっとも具体的には、その同伴者・パートナーに米国で暮らしていく準備ができていない場合は悲劇がうまれる。

 この短篇の場合は、数学教師であるセン氏のもと、セン夫人は本来は専業主婦であり、野菜を刻んだり料理など家事をこなす暮らしのもとではぐくまれてきたはず。
 そこでいかに、米国の市民的孤独に堪え、車社会への鍵を手に入れるか。
 セン夫人にベビーシッターをされる男の子も、父親不在など家庭環境では孤独に蝕まれている。
 セン夫人にとっては、ベビーシッターというのは、仕事の一種ではなく、むしろただたんに誰かといっしょに居たかっただけだともいえる。

 セン夫人は、自分の暮らしを手に入れるためには、魚が不可欠。
 しかし、車なしだと魚でさえ買い求めるのは難しくなる。
 そこのジレンマで、事故にいたり、究極のトラウマに陥り、おそらく、引きこもり状態、あるいはノイローゼ状態にまで達すると思われる。
 夫の愛でさえ、いまでは少しもあてにはならないものだから。
 この男の子はセン夫人に共感する。
 しかし、いたいけない子どもであるから、共感したからといってなにかの解決やら救いをあたえられるものではない。
 ただ自分自身に言い聞かせることだけしかできない。 

 米国社会にて、セン夫人のように苦しみ、老いていったひとびとは、数多くいると思われる。



・「神の恵みの家」

 社会的に上位に属するインド系新婚カップルが、素敵な新居に移る。
 しかし、新居では奇怪な出来事がつづけて発生。
 ホラー物にもできそうだし、なによりフリオ・コルタサルの「Casa tomada(占拠された家)」をすぐさま思い浮かべてしまう。
 または不条理モノ、あるいは風刺劇。

 しかしここでも作者は、インド系移民者のアイデンティティの問題にからめて扱う。

 親の取り決め婚、というか、ほとんどお見合いにちかい婚姻というのは、本人たちのメンタリティがどれほど進んでいようと、便利であるし、インド系共同体の保持はやはり必要不可欠と見なされるらしい。

 おとこのほうは、押しも押されもしないエスタブリッシュメント。
 しかし米国社会のなかでの同化とアイデンティティの保持にはさまれて、とりわけ無意識的に居心地のわるさを感じる。
 おんなのほうも、高学歴であるが、より気楽に生きて、ありのままを受け入れる。
 それでもインド系にこだわったのは、米国「一般」男性との失恋の過去を持っているかららしい。

 さて、新居ではカトリックのイコンが合い続けて出現する。
 おんなのほうは、価値観の一貫性に無頓着であり、カトリックのイメージに親近感を抱く。
 おとこのほうは依怙地さを発揮。
 ふたりの争いは苛烈な展開をみせる。
 おとこのほうが寛容になりさえすれば、なんのモンダイもないはずなのに。

 そんななかで引越し記念パーティーがひらかれる。
 愛想のいいおんなは受けがよく、新居内の新たなカトリックのイコン探しへと発展する。
 この祝祭騒ぎでストーリー自体も盛り上がる。
 そこでおとこのほうは、置き去りにされた恰好になり、我を取り戻したような展開になる。
 なにしろ、おとこはこのおんなをはたして愛しているかどうかさえ不確かなのだ。
 むしろ、結婚して以来、このおんなには苛立ちさえ感じることがあり、相性に疑いさえ抱いた。
 しかし、この祝祭騒ぎで、ことなった立場におかれてみて、このおんなに切なさを感じているのを知る。

 生活でのすれちがい、考えのちがいを乗り越えるものをおとこは感じ取れるように至る。
 若いおとことおんなが、ことなった価値観やら思惑のなかで、それをいかに乗り越えていくか、これこそ、はじめの短篇の「停電の夜に」への答えになっている。


・「ビビ・ハルダーの治療」

 病める若いおんなというのは、社会的なメタファーでもあると思う。
 それと同時に、これもワケのわからないものに付きまとわれるということで、不条理劇の様相を帯びている。
 しかし民間療法などが多彩に触れられているので、寓話のようなトーンも含んでいる。
 つまり、ごくシンプルにみえる話であるが、いくつもの解釈が可能である。

 この病のおんなは、自らの運命を呪っているのだが、もしおとことめあわされることができたならば、きっとしあわせになると信じ込むようになる。
 わずかな身寄りの仕事をほそぼそと手伝い、半ば厄介者扱いされながらも、ひとりで暮らしていく。
 それでも、身寄りからも見放されるときが来る。

 そのうちに意外な事実が発覚する。
 このおんなが子を孕んでいたのだ。
 相手の名には触れず、ひとりで育てていく。
 身寄りから習い覚えた仕事もなんとか軌道に乗り始める。
 いちおう、おんなはまともなからだになった模様。

 この短篇は「本物の門番」と似通った性格により成立っている。
 米国社会、その世間というのはうら寂しいところで、たとえば「セン夫人」がそれにどれほど苦しんでいたか。
 一方のインドの大衆社会は、お互いが近しい。
 おせっかい焼きでもあるのだが、寄る辺のないひとにとっては、そこから庇護をもとめることができる。
 「本物の門番」では結果として、「世間」から冷たい仕打ちをうけるわけで、そこには疑いといったものも加わっていたから、あるいは制裁にちかいものであったかもしれない。
 しかし、この「ビビ・ハルダー」では、弱者へいかに手を差し伸べているか。
 このふたつの短篇では、寄る辺のないひとの不運を描いたのではなく、インド系の住民が米国で感じるような社会観とくっきりした対照をみせるべく、インド社会のおおようさを描き出している(カーストがあるにしても)。
 


・「三度目で最後の大陸」

 ストーリー性には富んでいなくて、回想風な装いをまとっている。
 苦学しつつも、野心にあふれたおとこが、世界を巡る。
 逆境に甘んじてしまうひとたちが大半の発展途上国のおとこが、見事に社会を昇っていくのは、ややオプティミスティックでもあり、すぐには近しさを感じることはできない。
 あまりにも出来すぎた人生だ。
 
 しかしこのおとこは、わりとナイーヴで、自分の身に降りかかることを相応に感じ取っていく。
 インドの自分の家族の事情、イギリスで見聞きしたこと、米国で発見したことを、それこそ淡々と綴っていく。

 米国では、ある超高齢者の大家さんであるひとり暮らしのお婆さんの人生を見せ付けられ、ただ驚くだけではなく、通い合いことを、たとえ一方的なものであってさえ、感じ取る。

 そうなのだ。
 生きるということは、ひとを感じ取っていく連続であり、そこにこそ生きる歓びも湧いてくるというもの。
 自分の親、寡婦になって精神に異常をきたした母親を感じること。
 歴史の彼方から舞い降りてきたような老嬢の存在を受け止めること。
 あたらしく妻になった、もともとは他人でしかないおんなと、いかに感じあえるようになっていくか。
 やはり柔らかいこころがあってはじめて、ひとを感じ取れるというもの。
 それが成功に結びつくという処世訓風にみなされると、興ざめではあるのだが、じっさい、それも真なりということらしい。

 モデルは作者の実の父親とかいう話もある。
 しかし、人物から抜け出し、自らを傍から眺めることによって、このような回想的叙述は可能になるものらしい。

コメント(1)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ジュンパ・ラヒリ 更新情報

ジュンパ・ラヒリのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。