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読書と思索の文学カフェコミュの送り火

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第159回芥川賞受賞作の高橋弘希著「送り火」を読む。

ハッキリ言って、実に、つまらない小説を読んでしまったという感じがする。

158回芥川賞受賞作の石井遊佳著「百年泥」もくだらぬ小説を読んでしまったと思ったが、今回は、さらに、それを強く思った。

そして、自分なりに気づいたことで、この二つの小説は実に似ているような気がする。

テレビとアニメとゲームで培った機械的な人工記号で構築された発想そのものであると感じる。

こうした発想の小説を特に好む「博士の愛した数式」で有名な小川洋子が絶賛しているのである。

彼女は、ここにあらわれる暴力は「暴力が持つ根源的な神秘」だと述べている。

どこが、何が、根源的な神秘なのか、私には、かいもくわからない。

著者は、言葉の技巧性には長けているが、しかし、それらの言葉に、何一つ有機的な生命ある湿気も、ぬくもりも感じられない。

まさに、アニメでしか存在しないような人工記号で作られた乾いた世界を表現しているに過ぎないと思う。

このような、小説が、これからも芥川賞に選ばれるということは、選考員の頭もアニメやゲームに侵された人工記号的人間であるということではないだろうか。

たしかに、小説は道徳ではない。

倫理の次元で文学を評するのはおかしい。

このことが正義感の強い人には、わからないことなのかもしれない。

しかし、である。

選考員の高樹のぶ子は彼の小説を、

私は受賞に反対した。彼の的確な文章力、鋭利な彫刻刀として見事に機能している。

その彫刻刀が彫りだしたものに、私はいかなる感動も感興も覚えず、むしろ優れた彫刻の力を認めるゆえ、こんな人間の醜悪な姿をなぜ、と不愉快だった。

文学が読者を不快にしても構わない。

その必要が在るか無いかだ。

読み終わり、目をそむけながら、それで何?と呟いた。

それで何?の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。

と批判している。

この評価の仕方は非常に面白いと思った。

この人は、読んで、最初に「感動も感興も覚えない」「不愉快だった」と率直な感想を述べている。

そして、最後に
「この暴力は文学ではなく警察に任せれば良い」
としめくくっているのだ。

一見、これは正義感の強い倫理の次元の評価を述べているようにも思える。

が、そうではないと思う。

読者が「それで、何?」としか受け取れない作品だから、くだらないと言っているかのようである。

ここに、重要な文学の「答え」が潜んでおるように私は思えてならない。

著者は、「受賞者インタビュー」で述べている。

漫画のほかは、テレビゲームとか。世代的にはスーパーファミコンとかですね。ハマると延々とやるので。

「スター・ウォーズ」とか「ターミネーター」とか「インディーズ・ジョーンズ」とか。

例えば「進撃の巨人」は巨人が人間を食べる。その設定だけを比べると、「進撃の巨人」の方がよっぽど理不尽な暴力だと思う。

たぶん、彼は、アニメは「進撃の巨人」だけではなく、「ベルセルク」のようなものも好んで見ていたに違いない。

このようなアニメ世界とゲームで育った人間の脳は「自然」というものを全く知らないのではないか。

選考員の皆が、一様に作者の自然の精密描写の技巧をほめているが、私には、何一つ、文章から「自然」を感じることはなかった。

彼の自然描写は、まさに写真やビデオ映像を技巧的に精密に説明(描写)しただけとしか思えない。

それを、すごい描写技術であるかのように評価すること自体が、まさに、選考員の頭が、人工的なアニメやテレビゲームの世界に洗脳されているとしか考えられないのである。

つまり、それは、人工的に構築された脳内幻想こそが文学における「真実」であるという恐ろしい現実が目の前に現れてきていることになる。

なぜ、この小説が人工的な脳内幻想であると思うのか、それは、背景の設定が田舎であるのにもかかわらず、「生き物」とか「生命」というものが全く感じ取れないからである。

「暴走」は、人工的に作られる都市化で起こることであり、生物界にも、そのような現象が存在するかもしれないという妄想でしかない。

生物界は、「生殖」が基本である。それは、「絶滅」を防ぐための自然界の機能(システム)でもある。

「暴走」は自然界においては「絶滅」につながる。

ゆえに「暴走」を抑制するためのスイッチが生物界には自然に備わっているのだ。

ところが、人工の機械は、このスイッチが、たびたび、効かなくなったり、スイッチが壊れたりする。

「暴走」とは、猛スピードで走っている自動車のブレーキが全く効かなくなり、たくさん人が集まっている市場に、そのまま突っ込むようなものである。

原発が地震などによって制御不能になるようなものである。

そうなれば、どうのような地獄が待っているか予測不可能な世界だから、いろいろな複雑なパターンを組み合わせて人工幻想を機械的に作り出せるのだ。

そういう世界には、自然の「生命」の意味などは存在しない。

意味のない機械的な虚構の世界を創り出しては、人間に刺激と快感(不快感)を持たせるだけである。

それが、何?それが、文学なのか?という疑問だけが残ることになる。

テレビやアニメやゲームに脳内が洗脳されてくると、有機的な言葉が乾いた機械的な記号になってくる。

若い人たちの詩の言葉や哲学の論理が、いかに機械的になっているか本人たちも気づかないのではないか。

それを、いくら複雑化して表現しても、それは詩では無い、哲学とは言えないと私は思っている。

人工的に構築された空間での「幻想ごっこ」としか思えない。

作者は、インタビューの中で、どうして理不尽な暴力を書くのか、という問いに対して
「う〜ん、明確な理由はわかりませんが、書いているいくうちに、だんだんそちらの方へ寄っていく」
と述べている。

文学において「真実」とは何か、ということが、今や、どうでもいいという次元に来ているのかも知れない。

芥川賞とは、そういう文学賞であると私は思うようになっている。

コメント(1)

書評です。参考に・・

http://tyoiniji.hateblo.jp/entry/okuribi_takahashi_hiroki_kanso_arasuji

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