ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

読み人倶楽部の読書会コミュの第58回読書会☆報告☆『永遠の0』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
8/1(土)第58回読書会@豊橋『永遠の0』開催報告

新型コロナ感染再拡大が懸念される中、取れる限りの対策を施した上での開催。広い会議室で参加者4名ということで結果的にノー密読書会が実現した。
今回の課題本は、しもしもさんの推薦図書百田尚樹著「永遠の0」。前回の紹介型読書会の「日本の戦争に関わる本」のテーマにのっとっての選出に。

この永遠の0、売上部数450万部以上を記録した大ヒット作であるわけだが、2006年の単行本発売当初から人気だったわけではなく、僕自身出版後の比較的桃ない段階で図書館で普通に見かけた覚えがある。どうやら口コミを中心に徐々に広がっていったらしく、2009年の文庫化を機に一気に大ベストセラーに躍り出たのだった。

ヒットに伴って映画化、テレビドラマ化、さらにはコミック化もされ、それぞれ楽しむことができるが、やはり詳細が書き込まれた原作を読むのがベストだろう。ちなみに映画版の健太郎役は三浦春馬さんが演じた。

なぜこの作品がミリオンヒットになったのか。太平洋戦争という日本が犯したとされる大きな過ちのなかで、当時の世界の最先端の戦闘機を日本人が作り上げていたという誇りを多くの人が持ち続けているからだろうか。2013年には宮崎駿監督のジブリ映画「風立ちぬ」が発表されたが、巨匠が引退作のテーマに零戦を持ってきたことも、日本人の零戦への特別な思いの表れではなかろうか。

零戦の航続飛距離は3,000キロ。当時の世界のほかの戦闘機の航続距離が数百キロ程度だったことを考えると、それだけで驚異的だった。零戦はそれだけでなく戦闘機同士の格闘戦でも他を圧倒したのだ。
単純に考えれば、飛距離を伸ばそうとすれば大量の燃料を搭載しなければならず機体は重くなる。格闘戦に勝つため旋回性能を高めようとすれば当然機体は軽くなければならない。
航続距離と旋回性能は、どちらかをとればどちらかを捨てなければならない関係にあったにもかかわらず、零戦開発者はその矛盾を技術力で克服した。

零戦は例えば、1,000キロ離れた戦場に飛んで表れ、戦闘で敵を打ち破り、また1,000キロ飛んで基地に帰還するという作戦を可能にした。このことが、工業力において米国に大きく劣る日本をして「勝てる」と思わせる大きな要因になってしまったと考えることもできる。

熱を込めて語られているシーンのひとつは、戦争の証言者のひとり武田と主人公の姉の交際相手、新聞記者高田の対決だ。「特攻要因はテロリスト」と吹っ掛ける高田を武田が熱弁を振るって論破するシーンだ。特攻はテロリズムか?この作品の主要なテーマのひとつは「特攻はテロリズムか否か」だろう。戦闘機での敵艦への体当たりを試みた特攻と旅客機での高層ビルへの突入した9.11事件は行為としては似ていなくもない。しかしテロの目的は破壊や殺戮行為により、人為的に不幸を作り出し恐怖を煽ること。対して特攻は作戦としては愚かであったが国を守るという目的がテロとは大きく違うのではないか。

前述のように零戦や特攻などの犠牲者に特別な思いを寄せる日本人は多い。一方で、ネットを中心に、戦争を美化することに嫌悪感を抱き、間違ったとらえ方をする人が増えてきていることへの著者の強い危機感が読み取れる。

特攻隊員は全員が志願者であったことから、彼らは狂信的愛国者、言い方を変えれば自爆テロリストとほとんど同じではないか、という世論もあるようだ。終戦後、日本の天皇制は安堵され民族は驚異的な復興を果たすことになるが、それはあくまでも結果的にそうなったのであって、当時はもし戦争に敗れれば日本は連合国に蹂躙され、天皇を含む戦争責任者は戦犯にされ、国民は皆隷属させられかねない状況だったはずだ。当時戦場にいた人々に責めを負わせるようなことはあってはならないと思う。

著者は日本軍を指揮した上層部がいかに愚かだったかも詳細に描いている。日本が米国に対し戦争を仕掛けること自体が無謀だったのは多くの人が認めるところだが、日本軍は戦術面においても戦力の逐次投入、補給の軽視、勝利目前での撤退などの愚行を繰り返して日本を敗北に追いやった。選りすぐりのエリート揃いのはずの将校たちは互いの失敗をかばい合う官僚的体質になっており、そのことが戦局の早期悪化を招いたと考えられる。

日比谷焼き討ち事件などを煽り日本を戦争に追いやった新聞社などメディアの責任は重い。戦争中は国民の戦意を高揚させる記事しか書かなかった新聞各紙も、終戦するや手のひらを返し、戦死した特攻隊員の墓を建てるのも憚られるような世論を作り出した。戦前も戦時中も戦後もメディアの果たす役割は大きい。

日本人は「一億総玉砕」も辞さない構えを見せるなど、国力の総和をはるかに超えるエネルギーを戦争に注いだのだが、そのエネルギーを平和的目的に使えなかったのだろうか?日露戦争に勝利したことが日本に誤った道を選ばせてしまったのだろうか。

特攻隊基地があった鹿児島県の知覧特攻平和会館に実際に行ってみたら、特攻の真実に迫れるかもしれない。特攻の犠牲になった人の大半は20代前半だった。優秀な若者もたくさんいたに違いないのに残念でならない。

死ぬことを恐れていた宮部がなぜ自ら特攻を選んだのかがストーリー中の最大の謎。残された人々への「死んでも、戻ってくる」という宮部の思いが明かされる場面は映画、ドラマでも力を込めて描かれており泣けるシーンに仕上がっている。

国のために殉死することがあたかも愛国心の証明のように思われがちだが、本当の愛国心は歴史を正しく学ぶことからしか育たないのではないか。

今回は参加者同士意見が対立が起きてもおかしくないテーマだったが平和的に読書会が行われたのはよかった。戦争と平和のテーマは「人にはそれぞれ考え方があるから」で済ませてはいけない問題だと思う。平和を享受する私たちは引き続き考え続けなければならない。

コメント(19)

ライチさん、報告お疲れ様です!
当日の話し合いは平和的に終わったようで、良かったです♪
もし自分が参加してたら、不穏因子となっていたかもしれません笑

ゼロ戦の性能、特攻作戦の是非、軍部組織体制の腐敗、メディアの責任、平和的解決への道…
などなど、語りたいこと盛りだくさんの作品だったかとは思いますが、
今回の読書会で一番盛り上がったトピックは何でしたか??
あるいは、ご参加になった皆さんそれぞれの心に残った話し合いはどんな内容でしたか?
ぜひ教えてください♪

私としては、太平洋戦争や特攻、海軍についての知識が増えたことは良かったです。
歴史としての大筋は知っていても、戦艦や飛行機のことは殆ど知らなかったので、勉強になりました
!本文中に分かりやすく説明もつけてくれていたので(良いのか悪いのか)すいすい読めました。

気になった点は、文体やストーリーの粗さが少し…(他のトピックでヤトリさんもおっしゃっていましたね)
いずれの人物もステレオタイプで、血が通い切っていない感じはしました。
いかにも言いそうな人が、もっとも言いそうなことを、しっかりと言う、という。
筋書きにそって言わされている感が強く、中々感情移入しづらい部分がありました。

ストーリーに対しては、宮部がいかにして家族(妻)への愛情を強くしたか、とか。
落下傘米兵に発砲するほどの生への執着と、人殺しとしての覚悟があったのに、ラストはあっけなく自決(特攻)の道を選んだのか、とか。
自分の生が誰かの犠牲の上に成り立っているのだという罪悪感を思わせる台詞もありましたが、これまでの宮部節を見る限り、それでもしぶとく生きるでしょう。あの宮部なら。
台詞の他に、きっと、描き足りないほどの葛藤があり、特攻の道を選んだのでしょうが、ここがしっかり描かれていないと、ただストーリー上の都合で亡くなったとしか言えなくて、つらみ。
作者にひと言伝えたいことですね笑

ちょっと辛口なことを言うとしたら、この物語全体の構成自体が、大いにメディア的であったように思います。事実や証言を繋ぎ、無知なインタビュアーに怒りでもって語らせ、ドラマティックな愛の物語に再編集するという点で。少し24時間テレビを見ている気持ちになるというか。いや、好きなんですよ、長時間特番!
体制・国・戦略・有名故人の批判は盛り込まれていましたが、無名の兵士を傾国の志士として描き、心の美しさや悲劇性をクローズアップして、加害者としての一面はあえて排除したようにも思います。こうした描き方が、作者の意図を超えて、誤解を生んだ原因なのかもしれません。
ちなみに私は、平和への希求・家族愛をテーマにした小説だとしっかり思っています!

戦争解釈に対して誤解を生む危険性があるので、その点ではR15指定作品です笑
生徒にはNHK特番を見せてから読ませたい作品です。

・・・
追記
・ここまで言っておいてなんですが、おそらく、これをドラマや映画で見てたら号泣していると思います笑 文章で見ると少し冷静になれるのですが、映像となるとまた話は別。

・景浦にBL要素を見出してしまった自分は、少し腐り始めている。
読書会当日の朝に最後の解説を除いてなんとか読み終わり、ギリギリセーフで参加し、4人だったので時間を余すかなと思っていたら大間違いで時間いっぱいまで話は尽きず、言い残した感いっぱいの読書会でした。(^^;

読書会でも取り上げられ、著者がこの本で主張したいと思われることの一つに、第9章で語られる新聞社(メディア)の責任というテーマがあると思います。

新聞社が世論を煽り、国民がのせられて戦争に突き進んでいった一面があるということは、教科書には載っていないし、学校で教わることもない、当然テレビや新聞は語らないし、他の書籍でも見かけることはあまりない。

誤った歴史解釈は、普通に生活している中で起こると思う。
普通の生活の中で得られない真実に迫った本こそ読まなくてはいけない。
それは、真実が都合の悪い人たちがたくさんいるということでもある。

偏向報道や、上層部の愚かな指示に苦しめられるのはいつも第一線の現場にいる人たちであり、それは今も変わらないのではないだろうか。

そして、ちゃんと考えなければいけないのは、新聞社が煽ったとはいえ、それに流されたのは国民であるということ。

同じ過ちを二度と起こさないためには、メディアの言うことや周りの空気に流されずに、宮部久蔵のように、自分の頭でしっかりと考えて行動しなければいけないのではないか。難しいかもしれないが…。

この本は泣けました。9割読んでも泣けるシーンはありませんでしたが、どけで泣けたかというと、最終章551ページ後ろから5行目、「宮部は私たちのために死んだのです。いえ、宮部だけではなく、あの戦争で亡くなった方たちはみんな、私たちのために死んだのでしょう」という松乃の言葉。

ここで一気に泣けました。なぜかはうまく説明できませんが、ここで泣けたよっていう方はどうか教えてください。

この本は宮部久蔵を通した、特攻隊で死んでいった人たち全員の物語であったように思えます。

宮部が生にこだわっていたのは生きるためではなく、松乃のために生にこだわった。そして、松乃のために死んでいったんです。

本当ならもっと早くに死んでいたのを、大石に一度助けられ生き延びることができた。その大石に後を託し死んでいった。

生にこだわっていた人間が最後に死を選んだのは何の矛盾もないのではないか。

彼らは、家族や残された人たちのために死んでいった。そして、私たちはその子孫であるということを忘れてはいけない気がします。

ライチさん、初報告ありがとうございました!
最後の2行『戦争と平和のテーマは「人にはそれぞれ考え方があるから」で済ませてはいけない問題だと思う。』が本当にその通りだと思います。

この本が刊行されてから10年以上たち、戦争経験者の声を聴くことはもうほとんどできなくなってしまったかもしれませんが、私たちにできることはまだあるのかもしれません。

そういえば最後の解説をまだ読んでいなかった。今度暇なときにでも読もー。
追記
B'zの「永遠の翼」もいいよ!
違う映画だけど。
(転載します。文字数オーバーになったので2回に分けて。)

※※※※※

・一読しての感想
 そこそこ分厚い文庫本でしたが、文字が大きく文体も平坦(「文体の0」と言うべきか)で、そう時間もかからずに読むことができました。巻末の児玉清の(署名が付された)解説が纏うテンションで作成され読まれる本であったと思います。そのテンションにノリきれない僕のような読者にとっては、そういう本でありました。

・文体の0
 上で「文体の0」といったのはあながち冗談でなく、本書の記述を特徴づけていると思います。本書では語り部たちの語りに多くの紙幅が割かれていますが、その語りがあまりに説明文的で、格闘戦を行う零戦の速度さながら読む端から飛び去っていくかのようでした。『永遠の0』という本は、小説というよりは、著者が勉強したことを作中の語り部たちの口を借りて書き連ねた本であったみたいです。


・『永遠の0』は戦争賛美か
 そんなことはないと思います。某ネット記事では本書を、個別の戦況の失敗の原因を求めようとしているが戦争そのものが悪であることを言ってはいない、であるとか、日本は徹底して被害者として描かれていて(中国・韓国・米国に対しての)加害者としての日本が描かれていない、等の点を挙げて、本書を戦争賛美の本であると書いていました。(著者が実際のところどうなのかは知りませんが)戦争そのものを悪であるとし忌み嫌う態度と、戦況の失敗をある種の政策の失敗と捉えその原因を見ようとする態度は、十分に両立するものと思います。また、加害・被害両側面を公平に書くなどということは教科書がやる仕事であって、本書にそのような公平さを求めることはそもそも意味のないことでしょう。

・回収されるものと、回収されないもの
 臆病者と罵られるまで死を嫌った宮部がなぜ特攻兵となったか。土壇場で搭乗機を交換した際のいきさつは分かります。クリアーに分かる。そして後に述懐されるでしょう、「宮部は立派な男だった」と。しかし、そもそもあそこまで生き抜くことに頑なであった男がなぜ特攻辞退を貫かず、最終的には志願してしまったのか。結局その決定的な要因は分かりません。
 かたや、特攻兵として選ばれながらも生還した語り部たちは、特攻兵となったことについてどう語るか。引用してみましょう。「特攻は命令であった。『志願する』と書いた時の苦しみと葛藤は言いたくない。たとえ言ってもわかっては貰えないだろう。」(436ページ)。あるいは「その時の気持ちは複雑だった。最初は死を受け入れることは出来なかった。こんな理不尽なことはないと思っていた。しかしそれが徐々に死を受け入れる気持ちに傾いていった。これは決して時代に流されたものではない。また易々と死ぬことを決意したのではない。あらん限りの苦しみと葛藤を経て、たどり着いた心境だった。この気持ちを説明するには一言では無理だ。時間をかければ説明出来るかと言えばそれも難しい。」(535ページ)。早い話が、少しも言葉になっていないのです。語ることが放棄されている。それもそのはずで、平時の言葉や論理が追いつかない極限の判断や心境がそこには棲んでいるのだと思います。語りたくても語れないもの…、しかしそれを言葉にするのがそもそも戦争文学の仕事ではないのでしょうか。平時の言葉では回収できないものを、それこそ撃墜され脱出した挙句に大海を彷徨う落下傘のように絶望的な声を救うことが。その仕事に本書が成功しているとは思えません。と言うか、端から別の仕事をしていたように思えます。(あるいは、これを好意的に解釈することもできなくはないのです。すなわち、回収すべきものを徹底して回収しないことによって、戦争の恐ろしさを、否定神学的にあぶりだそうとするのが本書の試みであった、と。そうであれば、本書においては、「特攻への態度」という空虚が、「零戦の英雄譚」という過剰によって即座に埋め戻されている点が興味深いです。なぜ何かで贖わずにはいられないのか、という意味で。)
(2回目)

※※※※※

・幽霊は登場する。しかしどのように?
 本書のギミックは、生物学的な祖父と育ての祖父との間で、実は運命的なやりとりがされていた、という点に存します。しかしそれは、単に宮部が大石に生を譲ったというにとどまりません。大石がはじめて祖母を来訪した際、祖母は「私は宮部が生まれ変わって帰ってきたのだと思いました」(563ページ)と述懐し、また、祖母が当時囲われていたやくざから抜け出す際にも、祖母は、襲撃者の「男も宮部さんの生まれ変わりだと思った」(566ページ)といいます。しかしなぜ、宮部は2度も生まれ変わったのか。1度目の生まれ変わり(大石)は、二人が結ばれる機縁を縁どるハートウォーミングなエピソードとしてエンタメ的に消費可能な筋書です。しかし2度目の生まれ変わり(本文中で確証は得られていないが景浦)をどう捉えてよいのか。端的に蛇足というのが正直な感想ですが、それだけで終わらせるにはもったいない何かがこの2度の生まれ変わりにはあるような気がします。
 そもそも、人がそう簡単にポンポン生まれ変わるとは思えません。「宮部が死に、大石に生まれ変わり、その大石が死んだため、今度は景浦に生まれ変わった」という事態なら「生まれ変わり」とかろうじて言えるかもしれませんが、本書ではそうなっていません。さらに、上では便宜的に1度目、2度目と言いましたが、その時系列的順序は本書の中で判然としていません。(この辺に著者の不用意さというか弛緩した態度をみてしまうのですが、それはそれとして)これらのことを考えると、これは宮部の「生まれ変わり」ではなく「幽霊」であるような気がします。宮部の幽霊が、祖母を守るため、大石や景浦に憑りついたのです。
 憑りつくといえば、一連の話の展開を通じて、元々の夢であった司法試験に再度臨もうとする主人公や、キャリアを捨て本当に好きな人との結婚を選ぼうとする姉も、何かに憑りつかれたようにその意思決定をしていきます。宮部の生き様が2人に憑依し2人に決断させたとでもいうように…。
 しかしこの2つの憑依は、果たして同列に扱ってもいいものなのでしょうか。大石や景浦に憑依した際、宮部の幽霊は、純粋な生だけを、生きること以上のなにものでもない生を目指していたはずです。戦後の混乱期に母一人子一人の家庭を餓死させないため、殺生の場からかろうじて女一人を逃げ延びさせるため、宮部の幽霊は憑りついたのです。しかし主人公たちへの憑依はどうか。そこでは単なる生以上の、「夢」や「本当に好きな人」が目指されてしまっている。本当に生きることだけを目指すのであれば、主人公はそろそろ就職した方がよいでしょう。たとえニートだったとしても実家が会計事務所を経営していたのだから、はるかにアドバンテージはあるはずです。それでも何回も落ちた司法試験に再度挑戦する、心が震えそれ以外の道が見えなくなる、「夢」に向けた特攻…。
 もしかしたら、主人公に憑依した宮部の幽霊は、すでに悪霊と化していたのかもしれません。なぜなら本書では、主人公たちが特攻兵の慰霊碑を訪れた形跡はなく、かわりに、米兵たちが宮部を名もなき「サムライ」として葬るのみであるからです。
映画とドラマは1度観ました。本は300ページほど読みました。
印象に残ったシーンはドラマにありました。
教官(TKOの木下演じる)の命令ではない命令に宮部(向井理演じる)が逆らうシーン。

飛行訓練で誤って事故で亡くなった兵士を教官が愚弄したあと、宮部が擁護する。これに対し教官が怒り浸透し宮部をボコボコに。その場にいた数十人の兵隊さんは見て見ぬ振り(笑)のシーン。

部下の飛行訓練で「可」をなかなか出さないようにしていた宮部のシーン。

最後、大石さんが乗るはずだった旧型の零戦に交渉し宮部がその零戦に乗るシーン。

がとても印象に残っています。

あとは疑問に思ったのは9.11のテロと特攻隊は同じ見方ではないのか?というところ。
共通しているのは「死」。
その「死」は何のために?
テロの目的としては殺戮行為。
特攻隊の目的は母体にドッカン。
言われてみれば似ている。
しかし、「気持ち」はどうなのか?
特攻隊ができた経緯が命令ではない命令の数々が生み出した悲劇だとするならば或は、、、
といった感じです。

ドラマは涙腺崩壊しかけました
ただただ宮部に生きていて欲しかったと思うのは僕の都合の良い勝手な想像です。
【ヤトリさんが言う幽霊について】
ヤトリさんの感想にどうしても言いたくなってしまい、ちょっとだけ言わせてください。
俺は、宮部の幽霊がとりついたとはとても思えません。
特に健太郎や姉にとりついたなんてとても思えないのです。
宮部は生きることだけを目指したのではありません。
生きることは手段でした。
目指したのは「愛しい者たちの幸せ」だったのではないでしょうか。
そして、健太郎は、「人々のために尽くしたいと弁護士を志した気持ちを取り戻したのだ」と描かれています。
宮部の生きざまが健太郎に伝わったのだと思います。
命を懸けて守った人たちの子孫が幸せであることは、命を懸けて死んでいった人たちが報われることでもあるのではないでしょうか。
これはあくまでも俺の感想です。感想は人それぞれなので、違って当然だと思います。俺はこう思うよというのをどうしても言いたかった。
失礼しました。

【テロとの違いについて】
テロと特攻は違うと思います。テロに対して相手が敬意を抱くことはないからです。

なんかもっとみんなと話がしたいです。
【ひーちんさんのコメントに対して】
上手く伝わっていなくて残念です。ひーちんのコメントを読みながら、お互いが何度も使っている「生きる」という言葉のグラデーションをもっと感じて欲しいと思いました。
何かしらキラキラしたものを詰め込む器として「英雄・宮部」を読みたいのだという気持ちは伝わりましたが、僕はそうは読みませんでした。戦争というものを経験したことないですし、ましてや戦死したこともないので想像するしかないのですが、想像する限りでは、「戦死者を偲んで襟を正す」的なマインドは、どこかしら戦死者を冒涜しているところがあるように思えます。
あともしかしたら、宮部のキャラ造形に対して同じものを見ていないかもしれませんね。僕は宮部に「(愛とかを)与える者」みたいな徳性は読んでいなくて、むしろ「奪われたものを取り返す者」みたいな執念を読みました。
しかし一番不思議なのは、なぜ憑りつかれることにそこまで拒否反応を示すのかということです。悪いものだったら困るけど、憑りつかれるようにしてのみ、人は現世で意味のある言動を成し得ると思うのですが。
>>[9]
いやー難しい。俺はもしかしたら著者の立場になって読んでしまっているかもしれません。著者が伝えたいことがうまく伝わっていないような気がして、残念に思ってしまったのかも。
取り憑かれることに関しては「取り憑かれるように」ということなら、わかります。「悪霊」という言葉が出てきたので拒否反応が出てしまったと思います。
>>[1]
怒りでもって語らせるところは、たしかにワイドショーのコメンテーターっぽいと思うけど、無知なコメンテーターが言っているのではなく、たぶん膨大な取材等で得た知識から、著者が登場人物に語らせているところが違うと思います。
もうちょっと話したいことを嫌われる勇気を持って話していたら、自分が一番の不穏因子になっていたと思います。
今、自分と自分以外の人たちとの違いを感じてます。(^^;)
>>[2]
話し足りなかったご様子、文面からひしひし伝わります♪
私も参加したかったなぁ〜

戦後から現代までのメディアの問題点について、ちょっと面白い記事を見つけましたのでご紹介します^^
https://synodos.jp/society/23300
暴露本という体裁の作られた《真実》についてと、それを積極的に取り込んだ大衆と。メディアについては、「我々」が引き起こした戦争という大きな過失を当事者として直視してこなかった点は、批判されてもいいと思います。
しかし、その一面、混沌とした時代になにがしかの方向性と傷ついた市井の人々の逃げ道を作ったという点においてはある意味評価してもいいのかもしれません。大きな喪失感を抱いたとき、おそらく誰もが一時的に「悪者」を欲するものだと思うからです。日々の生活に怯えながら、心にも空白を抱え、四六時中戦争当事者としての罪の意識にさいなまれるより、分かりやすい悪を(こしらえ)糾弾することが、日々の発奮材料となるというか。少し村八分の構造に似ていますね。当時においては仕方のない事ですけれど、責任から逃れようとする態度は褒められたものではないですね。
(余談ですが、戦後の爆発的な発展の契機となったのが朝鮮特需であったのも複雑な思いです…)
周囲の言葉や見えない圧力を過剰に見ないこと、自分自身の加害性を省みることが、自分の頭で考えるということなのかもしれませんね。ほんと、難しいです…。

「生にこだわっていた人間が最後に死を選んだのは何の矛盾もないのではないか」という言葉、とっても難しい内容で、うんうん唸りながら考えました笑
ひーちんさんのご意見と違った解釈になると思うのでご容赦ください。

宮部は、大石に助けられた時点で、(葛藤もありながら)どこかしらに死を意識していたということなのでしょうね。負傷した大石を見舞った時点で、すでに自分の後を大石に託そうと決意していたんですねぇ…。
これまで、周囲からどう思われても構わず、神経質に身を削るようにして、宮部はこれまで自分ひとりの技量に頼って(松乃のために)生きていたのだとしたら、己の不注意(あわや死亡!)を救った大石は、宮部の矜持をある意味へし折った人間なんだと思います。宮部はこれまでの自身の驕りに気付いたのかもしれません。何をどうしても生き残る、という自身の言葉の裏に隠された、自分本位の思いに。
そうすると、特攻の直前に「彼らの死の上におれは生きている」という言葉をつぶやき、憔悴しきった表情を見せた彼の気持ちがわかってくる気がします。
そう思うと、これまで己の信念において見殺しにしてきた多くの兵士達のやるせない思いが、宮部にのしかかってきたようにも思えなくもないですね。
彼が米戦艦に突入した時のものすごい執念は、多くの兵士達の思いを乗せていたのでしょう。肉体は、多くの死んでいった兵士たちの思いをのせて、魂は愛する松乃と子どものために還ろうとしたのだと思いました。

《己》を貫き通すことの難しさを感じさせるシーンでした。

大石と景浦は、色んな意味で宮部と深い部分で繋がっている人物ですから、その背後に宮部の強い思い(それが松乃のいう生き返り?)のオーラをまとっていたのでしょう。そう思うと、誰かの思いというのは、誰かの行動を変えてしまうほどの強い力を持っているものなのかもしれませんね。

ひーちんさんのコメントを読んで、少し宮部という人物についての見え方が変わった気がします。ひーちんさんの考えをそのまんまトレースすることは出来なかったですが、新しい宮部さん像に出会えました!
ご意見ありがとうございます♪
>>[11]
この作品をめぐる一連の感想合戦、青春かよ…!と
眼を輝かせて読んでいます笑
不穏因子が許されるのが読書会のいいところ♪

意見は平行線でも面白いですし、交じり合っても楽しいですね。
自分とは違った視点をくれる感想は、どんなものも嬉しいですよ。

***

無知なコメンテーターの件。
主人公の姉のコメントは、まあまあ無知です笑
なぜ、このような言葉をこの女性に語らせたのか、ぜひ作者のご意見を伺いたいですね♪


追記
全く別件ですが、私個人的には、あの姉のやりクチが気に食わないですね笑
妥協と打算で結婚することは悪くないと思うし、過去の好きだった人との間で揺れる気持ちはわかるけど、「あたし、今度結婚するつもりなの」だなんて、藤木に一々言わなくてもよくないですか?
勝気なのは結構、感情が顔に出やすいのも結構。でも、不用意な言葉で誰かの心を試したり、はかったりするのは卑怯です。私は姉に怒っています!

そして、高山はテロの件を本当に泣きながら誤りを認めたのだらうか…。
どうにも信じられない。
>>[12]
おもしろい記事の紹介ありがとうございます!
佐々木俊尚さんのこの記事は、自分の言いたいことをすべて言ってくれていて、さらに深く深く切り込んだ秀逸の記事だと思います。

市井の人々の逃げ道である悪者への糾弾が、「構造」という名の本当の悪に対して行われればよかったかもしれませんね。

そして自分の意見に対してのコメントありがとうございます!
なんか少しでも誰かにわかってもらえたらと思っていたので、わかめさんの言葉に救われた思いがしました。( ;∀;)
ライチさんが紹介してくれた「知覧からの手紙」のアマゾンとは別の紹介文を見つけました。
https://www.shinchosha.co.jp/book/305071/

私は、特攻隊として散った婚約者の言葉を、戦後ずっと引きずっています――。
結婚式の直前に出撃命令を受けた特攻隊の穴沢少尉。婚約者への遺書では、自分のことは忘れて強く生きるようにと諭す一方で、「智恵子 会いたい、話したい、無性に」と結んでいた――。それから六十二年。残された婚約者が、今なお彼を想いながら語り尽くした書。ドラマ化もされた感動ノンフィクション。(新潮社HPより)

これ見て改めて思った。絶対泣ける!(笑)

ついでに、読書会のときに少し話した、映画「俺は、君のためにこそ死にいく」をちょっと紹介します。この映画を知ったのは、主題歌がB'zの「永遠の翼」だからです。(^^;
「永遠の0」より前に公開された映画で、石原慎太郎が脚本を手がけました。
舞台はこれも特攻隊の基地があった知覧で、そこで食堂を経営し特攻隊員と交流のあった鳥濱トメさんから聞いた実話が元になっています。
ストーリー性はあまりなく、聴いた実話を淡々と語っているような映画でした。けれど、その実話には、亡くなったのは特攻隊員ばかりではなく、特攻隊の基地で特攻隊員の世話をして働いていた女生徒たちが空襲によって亡くなったり、悲惨な現実を改めて突き付けられたようでした。
特攻隊員の中には「永遠の0」の宮部のように、生きたほうがこれからの日本のためになると言って、上官と言い合う隊員も描かれていました。
特攻が決まった後の、恋人や、家族や、トメさんとのやりとりがたくさん描かれていて、特攻隊員たちを見守っていた人たちの心情も垣間見える作品でした。
そして、エンディングの「永遠の翼」が…よかったです…。
>>[13]
女性の思考の世界は恐いですね〜(笑)
たぶん今回の読書会は6時間あっても納得できなさそう...
>>[8]
来年、もう一回やりますか?(笑)
ケンカはいけませんよ!=(^.^)=
>>[18]
つい熱くなってしまった…。
来年もやりましょう!別の本で。

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

読み人倶楽部の読書会 更新情報

読み人倶楽部の読書会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。