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2016年NHK大河ドラマ 「真田丸」コミュの第36話 『勝負』の感想

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時は、慶長5年(1600年)、

昌幸(草刈正雄)と信繁(堺雅人)は、信幸(大泉洋)と別れ、徳川勢を迎え撃つ為に上田城へ。途中、昌幸と信繁は、沼田城へ立ち寄るが、稲(吉田羊)が、思いがけない行動に出る。

一方、信幸は、家康(内野聖陽)から、上田攻めの先鋒を命じられる。初陣の秀忠(星野源)は、本多正信(近藤正臣)と供に、兵を進める。徳川勢を撃退しつつ、しかし、信幸とは戦わないために、信繁は、一計を案じる。そして、佐助(藤井隆)が、衝撃の知らせを届ける。。。

-あらすじは、NHK「真田丸」公式H.P.より引用-
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story36.html

-youtubeより予告編-



ついに、第二次上田決戦っ!!!

お見逃しなくっ!!!


※放送前のネタバラシ感想は、ご遠慮下さいませ。あせあせ

コメント(79)

>>[37]
「花の慶次」の関ヶ原の話もそうでしたね。
関ヶ原の結果を知り、撤退のために前田慶次が奮戦していましたね。
脇道それますが……

『歴史にifは、ない』とは、いうけれど、福島正則が早まって岐阜城を落とさなければ、秀忠はもっと長い時間、上田城攻めに手を焼く羽目になったのかもしれない。

秀忠と、本多正信のやり取りが良かったです。近藤正臣さんは『太平記』の北畠親房以来の名演が光りますぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
>>[43] 、同感です、「タラレバ」の話が許されるなら、話題は”ゴマン"とありますね。

近藤正臣さん、名実ともに名優の域に入って来た! 「歴史もの」でも町の「人情ドラマ」でも、まず”悪役"が無い。
2010年大河「龍馬伝」での土佐藩主:山内容堂(豊信)役・・酒ばかり飲んでいる藩主でも、大政奉還を起草する功績の大名役でした。
>>[43]

条件次第では十分有り得たと思いますよ。
かつては武田信玄の家臣だった真田昌幸が甲斐と信濃を関ヶ原の結果次第では領地にする可能性もありそうでしたね。
>>[47] 、そうですね、兎に角、昌幸は戦乱の世の再来を望み、その結果、信濃一帯を治める大名になるのが望みのような・・そんな話をしていましたね。
>>[48]
真田昌幸はその野望を目論んで、信濃から天下を狙っていたのかも?
>>[43]

岐阜城って、難攻不落と言う人はいますが、攻撃側が攻めあぐねたことは一度も無いのですね。
岐阜城の籠城戦はいずれも簡単に結着がついて落城しています。
斎藤龍興・織田信孝・織田秀信と、いずれも長期間持ちこたえず落城しています。
  
関ケ原の前哨戦での織田秀信の場合は、攻め手に城主だった池田輝政がいて籠城が実質無理だったという事情もあるのですが、守る方の石田方も岐阜城は難攻不落と信じたのがいけなかったかなと思います。

岐阜城は、平地からの比高が300メートルあり、北の長良川側は急斜面ですが、南側と東側に支峰の尾根があって、平野が広がる南側からは急な崖を登らなくても良い山城です。
長良川と支峰に囲まれた平地には城主御殿と家臣屋敷、城下町がまとまっていて、火の海にしてしまえば籠城側の士気は落ちます。
地元ながら、情けないほどよく落城する城なのです。
>>[50]
美濃を制する者は天下を制すると言いますが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らが岐阜城を落城させていますね。
>>[51]

それは美濃の地域性によるものです。

美濃は東山道、本州の内陸のつながりに属していますが、太平洋まで平野続きで、美濃国内の川(渓谷)をさかのぼれば日本海側にも簡単に行けます。
しかも日本列島の真ん中にあり、東日本にも西日本にも等距離です。
そこに、壬申の乱以来日本中を巻き込む内戦が美濃で度々発生し、内戦を勝った側が天下の主導権をつかむ事例が多かったため、「美濃を制する者は天下を制する」と言われるのでしょう。

信長も秀吉も家康も確かに岐阜城を落城させていますが、それぞれに事情は異なりますね。
信長は、戦国大名として尾張に加えて美濃も領国化して岐阜城を制圧し、秀吉は賤ヶ岳で政敵の柴田勝家一派を破ってから織田信孝を孤立させ開城させ、家康の場合は、先鋒隊の福島正則・池田輝政・細川忠興らが美濃国内の石田方諸城を急速に次々落とした中でのあっけない落城でしたね。
岐阜という地は、室町時代に美濃守護の土岐氏が守護所を現在の岐阜市域に置いて以来、美濃の政治的中心地になることが多くなったのですが、美濃国内最大の平野を控え、同時に国内各地に交通の便も良い要衝だったため、落城しても落城しても大名の城下町になったのでしょう。
江戸時代には、山を下りて平地の加納城が築かれ、旧城下町は尾張藩の直轄支配地になりましたが。
岐阜が難攻不落だと、誰が言い出したがが問題
>>[52] 、解説は大変勉強になります、有難う。
>>[53] 、石田三成が言い出したのなら仕方無いですねわーい(嬉しい顔) 何しろ三成は、実戦より「平時の企画立案」が得意の奉行でしょう?
>>[53]

何時から難攻不落と言われ出したかの史料は見たことがありませんが、信長の岐阜の征服の仕方と、信長が岐阜城を拠点に天下統一に動き回ったことが、岐阜城のイメージを良い方にしてしまったのでしょうね。

信長は、斎藤龍興を攻略した際、稲葉山(岐阜城の前身)を力攻めして斎藤龍興の直属軍にぶつかることを避けて、秀吉に墨俣一夜城を築かせて斎藤家を不安状態にしたり、西美濃三人衆や竹中半兵衛など美濃国内の国衆を調略して斎藤龍興を孤立させてから稲葉山城に迫りました。

稲葉山城は支峰の尾根を順番にたどれば急峻な山腹をよじ登らなくても済むとか、山の岩盤が硬すぎて井戸を掘り下げられず地下水の確保が出来ないなど、長期籠城戦に耐えられない欠点があり、本丸近辺以外みんな奪ってしまえば落城はすぐです。

信長がそれらに何年も費やして稲葉山城を落としたので、すぐ下の平地から比高が300mという見た目の急峻さと一緒になって、難攻不落というイメージが付いてしまったのでしょうね。
>>[55]

まだ三成が言ったと決まった訳じゃあ・・・
>>[54]

いえいえ。
地元の歴史なので、そして岐阜が日本全国に誇れるものが極めて少ないために、岐阜が日本史に果たした役割を追究して考えていたことがあって、そのまま書いただけです。
秀忠は関ヶ原に遅参したわけではてない。初めから上田攻略が目的で急きょ家康に呼ばれ西へ移動したという説が出てきていますね。
真田丸もこの説〔史実は?〕をいくみたいです。
>>[59]
その頃の天候不順で川の増水などがあり、家康からの使者の到着も、秀忠の美濃への行軍も、天候が良いときよりかなり時間がかかって、結果的に関ケ原での家康勝利に間に合わなかったと、最近多い歴史番組でも説明していますね。
>>[50] 、「石田方も岐阜城は難攻不落と信じたのがいけなかったかなと思います」のところですが、
三成は「そう信じていただけで、自らこの城を訪問したことが無かった」とすれば、
“何をや言わんか”ですね、指揮官としても失格ですね。

>>[060]
真田丸は最新の説に基づいていて新しい発見がありますねo(^-^)o
葵三代で遅参した秀忠が家康に面会拒否され榊原などが「腹を切る」などと言ってたシーンがすきでした(^O^)
>>[60] 、

秀忠軍が「関が原」に“間に合わなかった理由”については、「天候説」が有力ですが、
それに加えて、昌幸が取った作戦が“功を奏した!”と真田太平記は書いていますね。

つまり、関が原までの出発の行程を遅らせた昌幸の見事な作戦! それが面白い!

真田昌幸:「仕方ない、上田城は徳川方に引き渡す、ただし、二日ほど待ってくれ! 
       あの城は掃除もしていないで汚れているから、綺麗に掃除してから徳川へ
       渡したい」と、この申し出に:

徳川秀忠:“もっともな申し出じゃ、安房守が、穏やかに上田の城を明け渡すなれば悪しゅうは計らぬ。       豆州(信幸)も安心いたすがよい”と。

このヤリトリを三谷さんは描かないと思いますが、注目したかったところでした。

>>[62]

三成は、織田秀信を当てにし過ぎていましたね。
信長の嫡孫で岐阜城主の織田秀信を味方につけたのは良かったのですが、秀信ら尾張美濃の国境付近の領主たちを防衛ラインに設定したのは誤算でしたね。
岐阜城が美濃最大の城郭で美濃最高の石高の秀信がいても、秀信らに防衛ラインを任せてしまったことで、「米野の戦い」や「竹ヶ鼻城攻防戦」で徳川方に負けてしまい、関ケ原まで防衛ラインを後退させる原因になりました。
岐阜城の秀信は、兵力の大半を野戦に出してしまったのがいけなかったと言われますが、岐阜城は籠城に難があり、しかも元城主の池田輝政が徳川方の攻め手にいるので、全軍で岐阜城に籠っても岐阜を火の海・血の海にするだけだったと思います。

徳川方も兵力は多く、三成としては、岐阜城の秀信を活かすなら、主力の石田・宇喜多・小西・小早川勢や伊勢から回ってきた毛利・長束・長宗我部勢を木曽川べりに並べて、福島や池田を木曽川で叩き潰すぐらいの策が必要だったかなと思います。
家康に味方した福島・池田・細川らが木曽川で壊滅すれば、徳川方の最前線の尾張清州が不安になり、ほぼ無傷に済んだ岐阜の秀信勢らを家康本隊との戦闘にも回せたと想像できます。
>>[44]

返信が遅くなりまして、すみません。

マッシーさんがおっしゃられる通り、『タラレバ』を考えたら話題はゴマンとなりますねぴかぴか(新しい)『タラレバ』は、ないとは言うものの、『タラレバ』を考えてしまうのも、ドラマを視聴する上での楽しみかな?と、思っていますぴかぴか(新しい)

近藤正臣さんは『龍馬伝』にも出られていたのですねexclamation明治維新は複雑で難しくて『龍馬伝』しっかり見れず……容堂は、記憶違いかもしれないですが、クセのある俳優さんが以前やっていたのが印象があります。近藤正臣さんの本多正信は、名参謀として独特のクセがあって面白いですexclamation
>>[64]

今回の『真田丸』は、『真田太平記』とほぼ内容が被るため、ドラマすべて『真田太平記』と比較されてしまう宿命にありましたね。
脚本の三谷幸喜さんは、『真田太平記』から離れ過ぎず近付き過ぎない範囲でオリジナルの展開を作っていて、歴史家が最近主張している新しい史実の説も織り交ぜて、三谷オリジナルの真田信繁の生涯を描いている、それが現在放送中のストーリーなのですね。

織田信長にしても忠臣蔵にしても、西郷隆盛にしても同じですが、過去に放送されたことのあるストーリーを、リメークだけにするのか、違いが随所に際立つオリジナルにするのかは、NHKの制作側の意図にかなり左右されると思いますが、大坂の陣まで放送して初めて、NHKも三谷さんも視聴者から評価されると思います。
>>[45]

福島正則が早まって岐阜城を落とさなければ、秀忠は家康から書状が届くなんて出来事もなく、もっと長い時間、上田城攻めに費やす羽目になり、ひょっとしたら上田城攻めで昌幸優勢になって秀忠軍が上田城で負けて、秀忠の首が討ち取られていたら、どうなったのだろう?と、考えていました。

福島正則が早まって岐阜城を攻めたから秀忠は上田から引き上げることが出来て命拾いが出来たとまで書いてしまうと言い過ぎになるのだと思うし、ドラマでの秀忠は引き上げることを悔しがっていましたが、悔しがる秀忠に対して『わかってないな』と本多正信辺りは思ったのでは?なんて思って見てました。
>>[50]

岐阜城の事を、分かりやすく教えて下さりありがとうございますexclamation

今回の徳川方においての岐阜城攻めは関ヶ原の前哨戦となりましたが、福島正則が早まったのは、籠城には向かず攻略しやすいと踏んだからなのか、かの織田信長が岐阜を拠点としたように京にも近くおさえておくと利便性の高い(駆け引きにも使えるかもしれない)場所だからだったからなのか、きっと、様々な理由があってのことなのでしょうね。

岐阜城、かの斎藤道三が築いた稲葉山城ですよね。岐阜城について、美濃について、色々と教えて下さったお陰で、真田丸がますます楽しめそうですexclamationありがとうございますexclamation
>>[65] 、なるほど・・確かにそういうヨミとなりますねぇ〜、 そして両軍が裏切りも無く、それぞれヨミ通りに動いていれば、あんな短時間に決着がつくハズはなかった!・・と思います。
>>[69]

いえいえ。どういたしまして。

福島正則らが岐阜城を攻撃したのは、まず岐阜城主の織田秀信が木曽川の右岸まで出て来て野戦(米野の戦い)となり、織田勢を打ち負かしたため一気に城まで進んだことと、それから織田秀信は美濃最大の石高と兵力を持っていて、しかも信長の嫡孫で、岐阜城の織田勢を破れば美濃の諸領主の動揺が相当大きくなること、さらに岐阜を占領すれば大垣城に来ている三成方本隊に肉薄出来ることが理由かなと思います。

三成も、岐阜城の秀信を失くしたことで、せっかくの自陣の重要な駒をあっけなく潰してしまい、戦局を不利にしてしまったなと思います。
結果として秀忠の中山道を進む徳川軍本隊は間に合わなかったのですが、岐阜城を落城させられて大垣城が最前線になってしまったのは、影響は計り知れなかったと思います。
>>[70]

そうですね。
織田秀信には徳川方諸隊を食い止める力は無かったとなりますね。

岐阜城が落城したことで家康本隊も大垣城の北の赤坂まで楽に入ってきてしまい、家康本隊を叩き潰そうと三成らは関ケ原に移動したので、三成の読みの狂いが連続して大敗北になったのですね。
>>[68]

私は寧ろ逆で上田が力攻めにあった場合、落城は必至で、父子の落命・自害の可能性があるんじゃないかって思ってました。
徳川秀忠の軍勢が上田城を包囲していたのは関ヶ原に真田昌幸らの軍勢を向かわせないためだったのかもしれませんね。
もし真田親子らが上田城を徳川秀忠の軍勢に包囲されずに関ヶ原に向かっていたらその智謀戦で徳川家康を倒した可能性もあったかも?
>>[74]

逆で、秀忠の徳川本隊が中山道を上方に向かうのを真田昌幸が阻止するため、叩き潰しておきたい狙いだったと思います。

上田の真田領の周囲は、小諸の仙石秀久、川中島の森忠政、松本の石川康長、諏訪高島の日根野吉明、さらに沼田の真田信幸と、みんな徳川方に付いていて、しかも関ケ原にも宇都宮にも出兵せず本拠地に留まっていました。

昌幸と信繁が関ケ原に向けて出発したら、周囲の大名だけで上田城を攻撃して落とした可能性もあります。

昌幸と信繁が上田領の全兵力で上田にいたおかげで、甲信越地方のほとんどの兵力が関ケ原や上方に向かわず、関ケ原で三成ら西軍と衝突した軍勢を少なくしたという効果もありましたね。
前回放送で、昌幸が石田方に付く条件の信濃甲斐2カ国を大谷吉継がのんだ際の、「真田が信濃で頑張っている意味がある」という吉継のセリフが、その昌幸が上田城にいる大きな役割を物語っていますね。
>>[75]

説明追加です。
上田城を攻撃したのは、主力は秀忠に付けられた徳川の本隊です。
秀忠が上田城を落としていれば、あるいは初めから上田城が徳川方だったならば、江戸から岐阜付近まで石田方の大名は皆無となるので、関ケ原から上方には、東海道を進んだ福島・細川らと家康の徳川勢に加えて甲信越地方のほとんどの兵力が進んで来ることになります。

事実、家康に急かされて秀忠の軍勢が中山道を美濃へ急いだ後、周囲の大名の仙石・日根野・石川・森・真田信幸はみんな信濃に留まって真田昌幸を監視することになり、中山道を美濃へ急いだのは下野小山から進軍してきた秀忠率いる諸隊だけでした。

真田昌幸が上田に留まっていることが、岐阜や関ケ原に到達した徳川方の兵力を少なくしたという効果を、お分かりいただけたでしょうか?
>>[73]

そうなると、九度山への流罪は命拾い出来ただけでなく、色々と意味がありそうですね。

やはり徳川の力にはかないませんね。
[74]〜[77]に関連しますが、真田の周りは敵だらけでとても関ヶ原に行ける状況にはありませんでした。
智謀戦というのも謂わば小説の世界の話であり、上田程度の兵力では大した効果は見込めなかったでしょう。
それよりも重要なのは徳川3万(この数字については改めて検証の必要がありますが)を少しでも長く足止めさせる事です。
同じ例では大津城の京極高次ですね。

逆に秀忠としては真田を潰したいところですがそれは必須ではなく、だからこそ戦闘は9月6日の僅か一日だけ。
もし長期戦となれば援軍の見込みがない真田は壊滅、助命・切腹・討死の何れになるか定かではありませんが、今ほど名を残せなかった可能性は高いです。
>>[78]
確かに元々少数の軍勢である真田親子の智謀戦でも徳川家康の大軍には勝ち目はなかったと思いますね。

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2016年NHK大河ドラマ 「真田丸」 更新情報

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