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コピペの部屋コミュの【不思議・心霊】石じじいの語る怪異譚集【34】

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(転載元)
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1535920044/385-450
海・山にまつわる怖い話・不思議な話 2

(全話まとめ)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6168454&id=80586888&from=share

コメントにつづきません
でははじまり

ーー

477: 本当にあった怖い名無し@\(^o^)/ 2016/08/07(日) 15:13:14.55 ID:+DG4v9FK0.net(主)
 私の実家の部落(この場合、集落という意味)に、珍しい石を探して拾い、それを売って生計を立てている男性がいました。 

 子供の頃、よく話を聞いたものです。

 私は、彼を「石じじい」と読んでいました。 
(本人の前では言いませんでしたが) 

 彼は、珍しい石を求めて四国の山や海岸を歩きました。 
 戦前の生まれで、若いころは朝鮮に住んでいたそうです。 
 戦後は、実家にもどり半農半石拾いで生活をしていました。 
 彼についての逸話は、以下のリンクをご参照ください。 

http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1445320336
うしみつ関連記事:
山から石を持ち帰るとヤバいの??

(このコミュニティでのURL)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6168454&id=80475460

では、話の続きをしましょう。 


376本当にあった怖い名無し2018/12/12(水) 12:31:35.17ID:D2PxnEm00

『飢饉』

石じじいの話です。

これは、一部の人々の口に伝わっているもので、町史などには触れられていない話です。

「飢饉」ということをご存知でしょう。大規模な自然災害です。
江戸時代の四大飢饉などは有名で、多くの餓死者、難民をだしたました。

じじいが住んでいた一帯でも例外ではありませんでした。
特に、亨保十七年の「亨保の大飢饉」(1732)は、大きな被害をもたらしました。
西日本を襲った大規模な飢饉です。当然、江戸で暴動が起きました。
前兆は、すでに四年前の亨保十三年からありました。
大雨が降り続き農耕地に甚大な被害がでます。
この天候不順は、十四年、十五年、十六年と続きます。

そして、十七年がやってきます。

暴風雨に加えて大量のイナゴが襲来します。
これは中国地方で発生したものが移動してきたものと考えられています。
イナゴの群によって空は暗くなり、地上には青いものは皆無になったと。

この被害で、藩の収入の91%が失われ、その後の一年は、まったくの無収入となりました。

しかも、幕府から多額の援助金を借りることになったのです。
その藩からは餓死者が一人も出なかったことになっているのですが、疑わしい。

(つづく)

377本当にあった怖い名無し2018/12/12(水) 12:31:57.88ID:D2PxnEm00
>>376
(つづき)

ここから怖い話です。

生活に窮した人の中には、寺にあった「即身仏」を食べた人があったそうです。

空腹に耐えきれず、仏様も許してくれるだろう、と考えました。

仏前でお経を唱えて、その許しを乞い、即身仏を取り出して解体しました。

それを煮て食ったそうです。

そのような処理された?ミイラを食べることができたのか?(栄養があったのか?)は甚だ疑問ですが。

即身仏があった寺の住職は、どうしたのか?これも疑問です。

これを承諾したのか?


その後、関係者に仏罰が下るということもなかったようです。

しかし、その寺は、後に裏山が崩れて崩壊し、その残骸の上に新しい寺を建てることになったそうです。

大雨でがけ崩れ(地すべり)が起きることを、その地方では、「つえがぬけた」と言います。

まあ、即身仏食事件とは関係ないのでしょうけど。

そのため、古い寺の資料は大半が失われており、残った文書にも当然そのような記録はありません。


ただ、近年、寺の畑を開墾した時に地中から瓶が出てきて、その中から「極秘文書」が見つかりました。

そこに、おそらく当時の住職が書きつけたであろう、食事件の顛末が残されていたそうです。

その文書には、即身仏を食して死を免れた人々は年老いてから「XX」した、と書かれていたそうです。

実際に「XX」と書かれていて、それが何を意味するのかは不明だったと。

その後どうなったか?は伝わっていないようです。


378本当にあった怖い名無し2018/12/12(水) 18:54:15.69ID:Vu6bEAyV0
>>376
四国の即身仏なら生きたままお経を唱えて餓死したものだろうから干物と一緒で
食べても問題ないだろうな栄養もそれなりにあるだろう。
蝗を食べるという発想はなかったのかな?


381本当にあった怖い名無し2018/12/13(木) 19:10:32.05ID:2rU7nJaZ0
>>378
イナゴは食べなかったのか?

これは尋ねたことがあります。
即身仏を食ったのは、イナゴを食べつくしたあとだったそうです。
イナゴは一度に大量にやって来ますが、継続的には来ない。
また、大量なイナゴの死体を保存する手段がないので、ほんの一時的な食料にしかならないのだとか。
調味料などもありませんし、脱水加工している余裕もない。

江戸時代の話ですね。


田舎では、いろいろなものを食べます。
都会では「珍味」と言われるようなものでも、田舎では普通の食材です。


382本当にあった怖い名無し2018/12/13(木) 19:26:23.10ID:2rU7nJaZ0

『道草』

>>381
石じじいの話です。

食べるといえば、
道草を食ったことがありますか?
学校の帰りに食う草といえばイタドリです。

じじいの村(=私の故郷)ではイタンポと読んでいました。
竹のような構造をしている草で茎を折り取って薄い皮をむいて食べます。
塩をつけて食べると一層味が増すとして、塩を学校に持ってきていて帰りにそれをつけてイタンポを食べていたグルメな友達もいました。

子どもの頃大きなイタドリの茎の中にはヘビがいると言われていました。
もちろんそんなことはありません。竹の節のような茎の内部に蛇は入ることができないw

しかし、

「本当にヘビが入っていた!」

と言いはる人(友達も)が何人もいて子供の頃にびくびくだったものです。
子供心にも、幽霊やUFOが実際には存在しない、納得していても、心の隅にほんの少し信じる部分がありました。

昔は人間がヘビを産んだ、とか、ヘビが肛門から出てきた、とかという、「生理的に不快な」話もありました


383本当にあった怖い名無し2018/12/13(木) 19:36:42.50ID:JISGfRzN0
>>382
イタドリは食べたことあります。やはり塩をつけて食べました酸っぱいですねー
あとヘビイチゴは毒があると言われていましたが食べれますよね美味しくは無いですがw


384本当にあった怖い名無し2018/12/14(金) 08:35:57.59ID:l1wCu02D0
(・ω・)イナゴの佃煮や蜂の幼虫も食ったことあるぞよ、ヘボ飯いって岐阜の田舎にはわりとあるんや。好きな人も居るが特に美味いとも思わんかった。

昔は岩魚や山女は川のウジ虫いうてウジャウジャ沸いとったそうやが飢饉の時はそれも食い尽くしたんやろか。


385本当にあった怖い名無し2018/12/14(金) 21:06:17.16ID:4L82i7l00
>>384
岐阜のほうは長野あたりと共通する食文化なのでしょうか?

長野は有名ですね。昆虫食。
四国あたりでは昆虫食はあまり盛んではない印象です。
しかし、蜂の子は、いって食べていましたね。
数種類のハチのこどもを食べたことがあります。
蚕の蛹は釣り餌のみでした。海釣りに使っていたと思います。
こどものころにセミを焼いて食べてみたことがあります。
食べるところが異様に少なく(羽の付け根あたりしかない)物足りませんでした。
数をとる労力が半端ではありません。奴らはすぐに飛びますから。
エビ味ですね。

特定の病気を治癒させるために「人肉を食する」ということは昔からあります。
「何々の食べ物がなんとかに効く」と言うのはフードファディズムですね。

以前、朝鮮で子供の死体を食べた事件があった、という話を書いたと思います。
じじいの田舎の近くに有名な泥棒がいました。
明治時代末期に活躍(?)した池田亀五郎という強盗犯です。
別名「強盗亀」。

彼は野山を宿にして警察の捜査をかわしました。
後に彼はハンセン病を患い、その治療のために子供の生肝を食べると良い、ということを聞き、子供を殺害したという話があります。
信憑性が極めて乏しい、疑わしい話ですが。
明治40年3月4日に死刑判決、明治41年8月24日に執行されています。

さて、食べると言えば、自分の孫を食べてしまった人もいたそうです。
お孫さんと一緒に山に遊びに行った(山菜でもとりにいったのか?)おばあさんが、家に一人で帰ってきました。
彼女の顔は血塗られていて真っ赤で、両手も血に染まっていました。
家人がどうしたのか?と尋ねると、おばあさんは、

「〇〇(お孫さんの名前)を食うてしもうた。こらえてや、こらえてや。」

というばかり。


意味がわからず、おばあさんに孫の所在を尋ねても要領を得ない。

見当をつけて山に探しに行くと、バラバラにされて体の一部が食べられた子供(孫)の死体が転がっていたそうです。

脇にナタが落ちていました。

「食うてしもうてこらえてや、こらえてや・・・」

おばあさんは脳病院送りになりました。


402本当にあった怖い名無し2018/12/22(土) 19:49:04.62ID:iRa9xoFz0

『ヤン衆』

石じじいの話です。

北海道の話をしましょう。
じじいの北海道の知り合いが話してくれたそうです。

ニシン漁が盛んだった頃、北海道の沿岸各地には雇われて東北や道南からたくさんの労働者がやって来ました。

「やんしゅう」という言葉は有名ですが、余市の漁場などでは彼等を指してヤン衆とは呼ばず、「若い衆」や「雇い」と呼んでいたそうです。

経営者側が残す記録や文書に見られる労働者の名称は「雇用漁夫」、出身地域を指して「秋田漁夫」「南部漁夫」などとしていたとか。

内地の人間は、彼らをヤン衆と呼ぶがニシン場内ではむしろ禁句であったそうです。


昔、地元漁村の女性が、そのようなヤン衆の男と「いい仲」になりました。
彼女は、その男と結婚することはなく地元の公務員と結婚しました。

彼女が60歳を超えた時に、その男性が再び村にやってきたそうです。ヤン衆として。

昔のままの若い姿だったそうです。
まったく変わっていない。

驚いて、本人かと思って話しかけても話は通じず当然別人でした。

その人物を知っている人たち全員が「その人物が昔の男と別人とは思えない!まったく同じだ!」と証言したそうです。

50年近くたって、まったく同じ顔をした若いもんが来た、ということです。

そのヤン衆と昔の男とは、出身地も名前も違っていましたが瓜二つだったと。

親子かも親族のものかもしれない、と思ったそうですが、そうではなかったようです。


「その二人は、ちんぽも同じやったんかいのうぅ、ぐへへ」


403本当にあった怖い名無し2018/12/22(土) 19:57:37.23ID:iRa9xoFz0

『ガラス玉』

石じじいの話です。

北海道の海の話です。

戦前、オホーツク海岸に「ガラス玉」が流れ着くことがあったそうです。

それは少し黄色みがかったガラスでできていて蹴鞠くらいの大きさでした。

触ると微妙に温かかったそうです。海水に浮かんでいたので冷えているはずなのに。

そのガラス玉を叩くと(衝撃を与えると)、中に白い霧が生じたそうです。

静かに置いておくとその白い霧のようなものは消えます。

昔は、網の浮きに使うためにガラス玉が使われましたが、それとは違って、完璧な球体のようだったと。

きれいなものだったので、家に飾っている人がいました。

泥棒に入られて、そのガラス玉を盗まれてしまったということでしたが、それはうそで、どこかに売り払ったのだ、という噂でした。

そのようなガラス玉は、別の海岸にもいくつか流れ着いていたらしいということでした。

稀なものだったので大事にされたのですが、誤って割れてしまったこともあったようです。

割れると、すぐにガラスが真っ黒に変色してしまったという話もありましたが真偽は不明でした。

ロシア(ソ連)の船が投棄していくのだ、とも、

米軍の飛行機が投下した、とも言われていました。

また、それは米ソのものではなく、もともと海岸の近くにあるアイヌ(?)の住居の遺跡から出土するもので、それが海に流れ下るのだ、とも言われていたそうです。

海岸の近くには、多くのアイヌ人(あるいはもっと昔の人々)の集落の跡と思われる竪穴が多くありましたが、その一つから、流れ着くのと同じガラス玉が出てきたという話があったのです。

ある学校(おうむ、という町にあったとか)の先生は、大昔にも、そのガラス玉が流れ着くことがあり、昔のアイヌ人が拾って集落に持ち帰ったものが遺跡から出土するのではないか?といっていたそうです。


405本当にあった怖い名無し2018/12/23(日) 06:31:38.21ID:EJx0fhkF0
ゴメが鳴くからニシンが来ると赤いツッポのヤン衆が騒ぐ
雪に埋もれた番屋の隅で私ゃ夜通し飯を炊く

…………

変わらぬものは古代文字、私ゃ涙で娘盛りの夢をみる


(・ω・)なんか石狩挽歌の裏話みたいやの。


406本当にあった怖い名無し2018/12/23(日) 07:34:14.88ID:lVPtRUTh0
>>405
古代文字ってアイヌ文字?神代文字みたいなやつかな?


407本当にあった怖い名無し2018/12/23(日) 08:45:12.53ID:EJx0fhkF0
>>406
それは知らんけど、沖を通るは笠戸丸〜♪とか実際の歴史的背景を元にした歌なんや。


408本当にあった怖い名無し2018/12/23(日) 11:52:42.72ID:M4lOGfv60
>>406
「古代文字」として有名なものは、1866年(慶応2年)に小樽の手宮洞窟で発見された岩絵でしょう。
石工の長兵衛という人が偶然発見したと伝えられています。
この洞窟内部の壁面に陰刻による彫刻がありました。
これを「古代の文字」であると考えた人々もおり、その説は広く流布しました。
さらに、1937年、1950年にも余市町のフゴッペで岩面での彫刻が発見されたとのことです。
「石狩挽歌」は1975年発表です。

石じじいは、北海道の不思議な文字という話をしていたと思います。
北海道の噂話として。
ただ、昔から神代文字(日本に感じが伝来する前の独自の文字)が存在した、という考えは日本にありますね。


410本当にあった怖い名無し2018/12/23(日) 23:26:24.76ID:M4lOGfv60

『田んぼの大石』

石じじいの話です。

田んぼのほぼ中央部に大きな石が露出していました。
露出する広さは畳4枚分ほどあったとか。
じゃまなので掘り起こそうとしましたが、石は下に向かって広がっていて掘り起こすことは困難でした。
周りに長い鉄棒を刺し入れてみると、どうも丸い形をしているようでした。
これでは田植え・刈り入れのじゃまになります。
その石がある部分だけ収穫が減ってしまいますし。

叩いて砕いて取り除こうとしましたが非常に硬くて人力ではとても歯が立ちませんでした。
削岩機などはありませんでしたから取り除くことはできませんでした。
そのあたりの山の石はそれほど硬いものではないのに不思議なことだったと。

じじいが見たところ、それはそのあたりにある石(砂岩や泥岩)とは違った灰色の石灰岩のような石だったそうです。
それに黒い筋が何本も入っている。
石灰岩よりも硬く、また、酢をかけても泡がでなかったので石灰岩のようなカルシウム分はないのだろうということでした。

このあたりの知恵は、失踪した「石ばばあ」からの知恵かもしれません。

石の周りギリギリまで稲を植えていたのですが、石の周りの稲はある年は同じ田の他の場所のものよりもよくみのり、またある年は、その逆というような現象が見られたそうです。

その田んぼのコメがとくにまずい、ということはありませんでした。逆もない。
石を取り払う試みは諦められて、その後、減反などの影響でその田んぼは放棄されて雑草の中に埋もれてしまいました。

今でも、その石はあると思います。

その石のまわりでは、不思議なことが起きたようで、

曰く、
夏の夜に、稲が育っている田で石の上に見知らぬ人が立っていた、とか、
石の周りで、なにか魚のようなものがたくさん跳ねていた、とか(夏も終わり、すでに魚が泳げるほどの水はないのに)、
野ばなしの犬がその石に向かってさかんに吠えていた、とか。

雨が降ると泣く石は、木内石亭の「雲根志」でも触れられているようです。


416本当にあった怖い名無し2018/12/27(木) 00:05:46.47ID:MLpuIQfv0

『怖い事が書いてある石』

石じじいの話です。

じじいが子供の頃のことです。
「怖いことが書いてある石」が山中にあったそうです。

これはとてつもなく怖い。
それを読んで発狂した人もいました。
日本中がひっくり返るような内容だったと。
それは平たい石に彫られていた碑のようなもので、ずいぶん古いもののようだったそうです。

いつ頃からあり、何の目的で誰が作り、いつ頃から知られるようになったのかは不明でした。
じじいは見なかったそうです。
多くの人に読まれると危険だ(なぜ?)ということで三人の人間で破壊することになりました。

そのような「石」があるということは伏せられていて少人数しか知らなかったのですが、少しづつ話が漏れてきていました。

じじいの友人は、どうしてもそれを見てみたくて夜家族が寝静まった時に一人で見にいったそうです。
その夜は月夜だったそうですが、子供が一人で山に登るのはかなりの度胸と言えるでしょう。

その子は無事に帰ってきたそうですが、翌日じじいたちが何が書かれていたのか?と尋ねてみても、

「暗ろうてようみえんかった。」

だめです。
その子は昼間にも再びその石の場所を訪れたそうですが、

「漢字ばっかりでようわからんかった」

と。
しかし、その子がこっそり見たということが大人たちに知られて、こりゃ一刻の猶予もならんということで石はすぐに破壊されたとのこと。

叩き割って、岩屑を谷に捨てたそうです。
その後、破壊作業にあたった三人は老衰で死亡、病死、事故死となったそうです。
因果関係はわかりませんが、まあ普通の死に方でしょう。
二回も石を見たじじいの勇敢な友人は出征して戦死。


後日談があります。
戦後、ある人が山菜採りだか猟だかのために山に入った時に「その石」を見つけた、という話があったそうです。
その人は、当時珍しかったカメラでその「碑」の写真を撮影したということです。
じじいは写真は見ませんでしたが、見た人によると、よく撮れていたとのこと。

「何が彫られとったんかのう?たまげるような内容やったゆうんやけど。まあ、あの石は山のいろんなとこに出てくるのかもしれんのう。読んでもらうんを待っとるんよ。」 

写真の所在、撮影者のその後もメモにありませんでした。

どうも、見たら死ぬ、という存在ではないようです。


418本当にあった怖い名無し2018/12/27(木) 11:36:57.34ID:MLpuIQfv0

『水墨画』

石じじいの話です。

じじいが石探しの旅をしていたときに現地の人が話してくれたことです。

眠っている間に敷布団の下に絵が入っていることがあったそうです。

その布団の下に敷かれている絵は水墨画で、なかなかきれいな女性を描いていたそうです。
水墨画で美人画というのもちょっと変ですが。

絵は、墨が乾ききっていませんでしたから、描いて時間がたっていないもののように思えました。
布団を汚すということはなかったようですが。

それが続くので、その「美人画」はいくつもたまっていきました。

自分で床をのべて自分であげるので、寝る前や後に誰かが入れたのではない。

寝ている間に誰かが入れているのではないか?

家は雨戸を閉めて戸締りをしているので(そのような季節でした)外部からの侵入は容易ではなく、家人の仕業だと思われたのですが。

家人に確認しましたが、そのようないたずらをする者はいない。

また、それほどの絵心のある者もいない。

その人は眠りが浅いほうなので体が動かされたら目がさめるだろう、ということでした。

眠っている間に夢遊病のように自分が絵を描いて自分の布団の下に入れているのではないか?とも思ったそうですが、その人には絵の素養も無いし、筆墨も使われた形跡がない。

自分が一晩中おきていたり家人が不寝番をしていた夜には、もちろんそのようなことは起きません。
見張りはランダムに行われましたが家に誰かが来ることはない。
ただ、見張りをしている時には、たててある雨戸を小さく叩いたり、なぜていくような音がしたそうです。

この現象は二週間ほど続いて、大量の絵を残して収束したそうです。

「なんかの贈り物やったんかのう」


  (了)

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