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古寺巡礼コミュの清浄の道  12番 丹生都比売神社

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未踏地であります
和歌山県 清浄の道
(12)紀伊国一宮
丹生都比賣神社(にうつひめじんじゃ)
住 所 〠 649―7141 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野 230
電話番号 電話 0736―26―0102
御 祭 神 第一殿〜第四殿(下記に示す)
開 祀 1700年以前と伝わる
アクセス 南海高野線橋本駅乗り換えJR和歌山線妙寺か笠田駅下車
<神歴・縁起> H/P http://www.niutsuhime.or.jp/
式内社 紀伊國伊都郡 丹生都比女神社 名神大 月次新嘗
紀伊國一宮 旧官幣大社
御祭神
 第一殿   丹生都比賣大神(稚日女尊)
 第二殿   高野御子大神
 第三殿   御食都比賣大神
 第四殿   市杵島比賣大神
合祀社
 一澤神社  丹生都比賣神
 中澤社   丹生都比賣神 高野御子神
 八王寺神社 天忍穂耳命 熊野久須比命 天菩卑命 多岐利比女命
天津古屋根命 市杵島姫命 活津彦根命 田岐津姫命
 辧財天神社 市杵島姫命 
 愛宕神社  迦具土命
 天満神社  菅原道真

紀乃川より紀伊山地に入り標高450mの盆地に天野に当社が創建されたのは古く、今から1700年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ、神代に紀乃川流域の三谷に降臨、紀州、大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服、武具、船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
 ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。
丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、当社は、その総本社であります。
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は56人の神主と僧侶で守られてきました。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
『和漢三才図会』では、丹生都姫と高野御子について、夫婦ともいい、母子ともいい、分明でない。
弘法大師が始めて高野へ登った時に出現して、「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったとある。
また、第四殿の市杵島姫を丹生都姫の御子としている。
丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことである。水銀は自然に採取される場合と、丹砂を蒸留して精製する場合がある。
丹砂は、朱砂・辰砂ともいい、そのまま朱の原料ともなる。
古代において、薬・塗料・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。
本来、丹生都姫は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じる神であった。
 ところで、道教の思想の中心は「道」、技術の中心は「丹」である。
丹には、内丹と外丹があり、内丹は呼吸法や瞑想で自己の中に「丹」を精
製し不老長寿を目指す。外丹は服薬で仙人(不老長寿)になるもので、主に
水銀を用いる。中国の歴代皇帝の中には水銀中毒で死んだものも数多くいる。それほど、水銀は重要なものだった。
丹生=水銀で、水銀の精製技術が輸入されたということは、道教的思想・技も丹生氏が継承していたのではないか、丹生都姫も道教の神々にそのオリジナルがあるのではないだろうか。
 御神徳
第一殿 丹生都比売大神  諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神。不老長寿、農業・養蚕の守り神
第二殿 高野御子大神   弘法大師を高野山に導いた、人生の幸福への導きの神。
第三殿 大食都比売大神  あらゆる食物に関する守り神、食べ物を司る神。
第四殿 市杵島比売大神  財運と芸能の神、七福神の弁天さま

楼門
 式内社では、祭神は4柱で、第一殿に主神、丹生都比賣大神を祀り、第二、第三、第四殿に、夫々に、高野御子大神、御食都比賣大神、市杵島比賣大神を祀る。
第一殿の祭神丹生都比賣大神は、伊邪那岐大神の御子神、天照大神の御妹神で、また稚日女尊とも申し上げる。社傳によれば天津彦火瓊々杵尊、丹生津比賣を祀り給ひしに創まるといふ。大神は謹んで父大神の旨を奉じ、神代この紀伊に御降臨あり、御子、高野御子大神とともに、紀伊及び大和地方開拓のため、各地を巡歴して洽く恩澤を垂れ給うたので、この紀州のみにても大神を祭祀する丹生神肚が80社の多きに達し、御終焉の聖地天野の社地を本宮と定め、とこしえに鎮座せられた(『丹生大明神告門』)。
 神功皇后新羅を征せんとしたまふや、播磨に下りて諸神に祈り給ふ。
時に丹生都比賣神、國造石坂比賣命に著り「よく我が前を斎かば、我れ善験を顯して容易く新羅を平げん。」と仰せられ赤土を賜ふ。依りてこれを天逆矛に塗り、舟師の舳艫に立てて海を渡り給ふに、神騒火をみる如く、忽ち新羅を平げて凱旋し給うたので(『播磨風土記』、御子、應神天皇にはその御報賽として、 
紀北の地に廣大なる神地を寄せ給うた。その神堺は、真は丹生川の川上より、西は應神山、星川の邊に及び、南は阿諦川(有田川)の南横峰より、北は吉野川に至る(註、後の高野寺領にあたる)廣大なものだつた(『丹生告門』)。
 皇室の崇敬特に厚く、仁徳、天智、天武天皇の御代に神戸各二戸を、元明天皇の御時同じく二戸及び神服を、光仁天皇の御時に弓並に刀を、平城天皇の御時に造營の料物を寄せられた。
更に嵯峨天皇の御代勲八等に叙し、貞観元年(859)從四位下に、次いで天慶、寛平に御陞階あつて、從三位に進めらる(『丹生告門』)。
延喜の制、名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預る。後、神階累進して
壽永2年(1183)從一位、元暦2年(1184)正一位の極位に進み給ふ(『丹生文書』)。
 第二殿の高野御子大神は、丹生都比賣大神の御子神であらせられ、母神の御偉業を輔けて神功著るしく、元暦2年同じく正一位の極位に進み給うた(『丹生文書』)。
 今昔物語によるに、高野御子神、かつて獵夫の姿にて、2犬を伴い、空海のために案内役となりて高野山に誘へる事ありしより、之を狩場明神とも異稱し、丹生都比賣神とともに、大師開山の時より密教擁護の御誓い浅からず、屡々出現まして山上の興隆を守護し給ふ事諸書に見える所である(『本朝神社考』)
 第三殿御食都比賣大神、第四殿市杵島比賣大神の兩大神は、鎌倉時代の初め、承元2年(1208)に、丹生祝と行勝上人と共に神託を奉じ尼将軍の援を得て、敦賀の氣比神宮と安藝の嚴島神社より勧請せられたもので、茲より四社竝び祀られ、爾来、丹生四社明神、天野四社明神と稱せられ今日に至つてゐる。とあります。

四棟の本殿

楼門から第一殿    楼門から第二殿及び第三殿

楼門から第四殿       太鼓橋
















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