ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの清浄の道  8番 竈山神社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
未踏地でまだ参拝していません
和歌山県 清浄の道
(8)紀伊国
竈山神社(かまやまじんじゃ)
住 所 〠 641―0004 和歌山市和田438
電話番号 電話 073―471―1457
御 祭 神 彦五瀬命
開 祀 不詳
アクセス JRきのくに線 和歌山駅乗り換え 貴志川線 竈山駅下車
     南徒歩10分
<神歴・縁起> H/P ありません
式内社 紀伊國名草郡 竈山神社 旧官幣大社
御祭神 彦五瀬命
関連式内社 紀伊國名草郡 静火神社 名神大 境外摂社静火神社
左脇殿 神日本磐余彦命、御毛入沼命、稲飯命(弟の命達)
右脇殿 高倉下命、可美眞手命、天日方奇日方命、天種子命、天富命、
道臣命、大久米命、椎根津彦命、頭八咫烏命 神武東征に功ありと伝えられている命七柱
合祀神社 宇賀廼御魂命、彦五瀬命 合 名草彦命、名草姫命 ほか
末社1殿 高皇産靈命ほか 末社2殿 息長足姫命
境外摂社  静火神社  火結神 本来のこの地の神とされる。

 天照大神と高木の神が「今、葦原の中つ国の平定は終わった。申しつけた様に降りていってお治めるがよい」と天照大神の太子天の忍穂耳に申された。そこで忍穂耳の命が申されるのに、「支度をしている間に子が生まれましたので、その子邇邇芸の命を降ろしたいと思います。」と申された。このような訳で、邇邇芸の命に「この葦原の水穂の国はあなたの治べき国であると命令する。よって降りなさい。」と仰せられた。天孫降臨の神話である。
 生まれたての子を降臨させる話は応神天皇を連想させるが、これは別にして、日本書記ではこの神話が「宝祚(あまつひつぎ)の栄えることは、天地とともに窮りないであろう。」と天照大神が申されたことになっている。
天譲無窮の言い伝えである。持統天皇の思いと言うか藤原不比等の思惑が伝わってくる。
邇邇芸の命と木の花の佐久夜比売との子が海幸彦、山幸彦。
山幸彦の子が鵜葺草葺不合の命、その長男に五瀬の命、4男に神倭伊波礼毘古がおられた。
 二柱の命は天下を泰平にするためにもっと東の方に行こうと相談され、日向の国をお出になって、瀬戸内をたどり、難波の湾を経て河内に至り、ここで大和の登美の那賀須泥毘古の軍と戦い、五瀬の命が負傷 された。
 迂回作戦で軍は南に転戦し、紀の国の男の水門に至り、ここで五瀬の命の傷が悪化され、「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは残念」と言われて崩御された。
一方、五瀬命の墓は東西100m、南北200m、守戸3軒と記載されており、これに匹敵する古墳は名草郡では井辺(いんべ)八幡山古墳を大きさと出土品
が隼人と関連することから候補にあげる人もいる。
吉野は大和の王権の聖地である。ここの制圧は、権力奪取作戦の砦である。
皇軍は紀ノ川をさかのぼり吉野へ進入したのではないかとの説が地元にはある。それは熊野に迂回し、かつそこで必要もないのに船に乗り、別の皇兄を死なせるような事を起こす事は考えにくく、かつ吉野まで果無山脈の峻険な山道を越していくはずがないとの観点からである。
 一方、南九州の神武天皇と熊野とは同族的連帯観があり、熊野の衆の後押しを受けて吉野を襲ったとの見方もある。
 いずれにしても、大和で権力機構を維持するのには、紀の川の水運の重要性から見て、紀の国の協力は必須である。その証として、五瀬命の墓を名草の地に残したのもとも推測できるが、平安時代になるとそれが薄れるので、式内大社に列していない。また、神武天皇が大和で権力を確立したのなら
五瀬命の墓は本来、大和へ遷すべきなのであろう。


紀伊国名所図会
 彦五瀬命は、神武天皇の長兄である。『古事記伝』では厳稲(いつしね)の意味とされている。
神武天皇は高千穂宮において、兄の五瀬命と相談し、「何れの地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。」「猶東に行かむと思ふ」
ということで、東遷を開始する。
順調だった東遷だが、難波の白肩津で、登美能那賀須泥毘古に敗れ、
五瀬命は手に痛矢串(矢)が当って傷を負う。
「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良からず。
かれ、賤しき奴が痛手を負いぬ。今より行き廻りて背に日を負ひて撃たむ。」
五瀬命は、そう言って、南下を開始するが、結局亡くなられてしまう。
紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 神宮郷下 和田村項
竃山[カマヤマ]神社  境内 東西一町半餘 南北二町  禁殺生
 本 社  祀神彦五瀬尊
 廳         御祈祷所
 瑞 籬       鳥 居
 延喜式神名帳名草郡竃山神社
 本國神名帳名草郡従四位上竃山神
竃山墓
 延喜 諸陵寮式 竃山墓彦五瀬命在紀伊國名草郡一兆
末社五社
   神武天皇社   神功皇后社
   稲荷社
   稲飯野命 三毛入野命社   天児屋根命 結  神社  
 南和田の西2町許にあり自然の岩山にて樹木鬱蒼たり古事記日本紀に載する所彦五瀬命を葬り奉りし地にて直に其所に御社を建て斎祭れり故に竃山の墓といひ又竃山神社といふ其實は1所なり、寛文9年(1,669)區域を定め殺生を禁せらる古の兆域は式に見えたり、今の兆域周200間餘平坦なる處はいつとなく鉏て田畠となりて區域狭りしなり、朝野群載諸陵寮、康和2年(1,100)觧を閲るに中世以降守戸の制、衰廢して兆域垣溝修造する者なく樹を伐り地を侵すもの多く出来りしと見ゆ、然れとも天正の頃(1,573)て神田猶8町8段有しに
天正13年(1,585)皆没収せらる今社地の近邊御陵田[ゴレウタ]といへる田4町餘あり即古の神田ならん 又五所工田といへる田あり、
國造舊記に五節供田と書す。古竃山神社を五節供に祭る料の田なるへし 或説に陵墓の上に直に御社を建て其神を斎き奉ること他に見及はす陵墓或は近き邊にあるならんといへり 河内國志紀郡長野山 應神天皇の陵あり 欽明天皇20年御陵の前に始て八幡三所の神社を御創立あり誉田八幡宮是なり、
此等の制と合はさるを以て疑をなすなり 按するに上古此地入海なりし故、神武天皇雄水門より御船にて直に此所に至り給ふ今の如く平野の出来りしはいと後の世の事なれば近き邊りに外に求むへき地なし今御墓と神社と同所に混したる様なるはやヽ後に神社を同所へうつしなとしてかくの如くなれるにて陵墓は則元来の處なるへくおほゆ竃山は國造舊記釜山と書す古は毎年正月初午竃山より天霧山へ神輿渡御あり今は絶えたり後其神幸所に静火[シヅヰ]神を遷す村中七瀬祓所あり 一曰、幸ノ神竃山の寅ノ方にあり 古の鳥居跡といす二曰、天霧山三曰大井村の東にあり四曰、化野村の乾にあり五曰、辻野天霧山にあり六曰、羽多村の西にあり七曰、神佐村の北にあり各表岩あり
 末社舊は若宮大国主命伊弉諾尊伊弉册尊天照太神椎根津彦等の社あり國造家寛永記に見ゆ今社廢して本社に合祭す
 神主鵜飼氏奕世當社に承仕す永徳元年(1,381)國造家より神職を補任する案今國造家に残れり と記載されています。

本殿

参道と神門
 神社辞典には
旧官幣大社。祭神は彦五瀬命。釜山神社とも記す。北接して彦五瀬命墓(竃山墓)がある。記紀に、神武天皇東征の際戦死した天皇の兄五瀬命の墓が紀伊国の竃山にあると記されるが、「続風土記」は和田村「竃山墓」の項に当所がその竃山で、直ちに社を建てて斎祭したので竃山墓と竃山神社は一所であ
ると記す。
 「延喜式」神名帳にみえる名草郡「竃山神社」に比定され、「紀伊国神名帳」には「従四位上竃山神」とある。永徳元年(1381)7月25日の釜山神社神主職宛行状(日前宮文書)によると、紀国造家によって鵜飼新五郎が神主に補せられている。中世を通じて鵜飼家が神職を世襲していたらしく、天正14年(1586)5月鵜飼吉政神宝等覚(鵜飼家文書)に「彦五瀬命に奉仕和太御庄鵜飼祖贄持之子神より、鵜養半太夫迄、弘治年間に当りて79代相続き、以来歴数ふること2200余年なり」と記され、また天正13年3月、羽柴秀吉の紀州攻めによって神宝や古文書などが焼失し、神田8町8段が没収されたとする。社伝によると慶長5年(1600)浅野幸長が入国して小祠を再建し、寛文9年(1669)徳川頼宣によって社殿が再建されたという。しかし以後も寺社奉行直支配の神社であり、1戸の氏子も1石の社領もなく社運の衰微は著し
かったと伝える。現在の例祭は10月13日。と記載されています。


拝殿

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング