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古寺巡礼コミュの清浄の道  6番 道成寺

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安珍清姫の物語を絵解きで説明してくれる有名な寺です。紙芝居より面白いですよ
和歌山県 清浄の道
(6)天音山
道成寺(どうじょうじ)
住 所 〠 649―1331 和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738
電話番号 電話 0738―22―0543
本  尊 千手観音
開 山 (伝)義淵、文武天皇(勅願)
創  建 大宝元年(701)但し寺伝による
アクセス JRきのくに線 道成寺駅下車 徒歩7分
<寺歴・縁起> H/P http://www.dojoji.com/
天台宗 新西国33箇所観音霊場5番 神仏霊場 巡拝の道第6番

道成寺は能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。
拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われている、ある意味有名な寺院であります。
大宝元年(701)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人、聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から8世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。昭和60年(1985)に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である。
寺に残る仏像群は、大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される。現存する本堂は正平12年(1357)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正16年(1588)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655)、藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていったものである。
 道成寺の境内では、昭和53年(1978)以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出された。
中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達していた。回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が位置していた。現存する仁王門、三重塔、本堂はそれぞれ、奈良時代の中門、塔、講堂の跡に建てられている。なお、このような伽藍配置が整ったのは8世紀半ば頃のことで、創建当初(8世紀初頭)は、講堂の位置に寺の中心となる仏堂があり、塔、金堂等は後から整備されたものと推定されている。
本堂は重要文化財。入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。壁板に南北朝時代 正平12年(1357)の墨書があり、同年頃の竣工と推定される。ただし、天授4年(1378)銘の鬼瓦が残ることから、細部の造作の完了はその頃までかかったものとみられる。
明暦元年(1655)、徳川頼宣の援助により、屋根葺き替えを中心とする修理が行われた。その後、文化9年(1812)から同12年(1815)にかけて3年がかりで行われた修理は改築に近い大規模なもので、梁間を約1.9メートル広げ、壁板や床板を取替え、間仕切りも変更された。昭和60年(1985)から平成3年(1991)にかけて解体修理が実施されたが、この際、間仕切りや屋根内部の小屋組などの改変部を中世の姿に復旧した。小屋組は近世の修理で大幅に改変されていたが、古材が屋根裏に格納されていたり、他の場所に転用されていたものも多く、ほぞ穴などの痕跡から、当初の屋根構造を復元することができた。柱は全46本のうち、中世や近世の修理で取り替えられたものが4本、うち2本は屋根裏から元の柱が発見されたため、これを再利用し、46本中44本が当初の柱である。

          日光菩薩   千手観音菩薩  月光菩薩

宝仏殿 内陣
 安珍清姫の悲恋物語
寺の創建から230年経った、延長6年の物語。参拝の途中、一夜の宿を求めた僧、安珍に清姫が懸想し、恋の炎を燃やし、裏切られたと知るや大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという「安珍清姫の物語」の悲恋は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺もの」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られています。道成寺に参詣すると僧侶から絵巻物で絵ときをしてもらえます。物語は

 延長6年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧の安珍は、真砂庄司の娘、清姫に一目惚れされた。
清姫の情熱を断りきれない安珍は、熊野からの帰りに再び立ち寄ること
を約束した。

約束の日に安珍は来ない。清姫は旅人の目もかまわず安珍を追い求める。
「そこなる女房の気しき御覧候へ」「誠にもあなあな恐ろしの気色や」

やっと安珍に追いついたものの、人違いと言われて清姫は激怒。「おのれはどこどこ迄やるまじきものを」安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。

祈りで目がくらんだ清姫、安珍を見失い更に逆上。清姫の怒りと悲哀「先世にいかなる悪業を作て今生にかかる縁に報らん。南無観世音、此世も後の世もたすけ給へ」

日高川に到った安珍は船で渡るが船頭は清姫を渡そうとしない。遂に一念の毒蛇となって川を渡る。この場面から文楽の「日高川入相花王」ができた。
舞台もいよいよ道成寺へ。

道成寺に逃げ込んだ安珍をかくまう僧。「その鐘を御堂の内に入れよ、戸を立つべし」女難の珍客に同情しない僧も。「ひきかづきて過ちすな」「ただ置け、これほどのものを」

「この蛇、跡を尋ねて当寺に追い到り・・・鐘を巻いて龍頭をくわえ尾をもて叩く。さて三時余り火炎燃え上がり、人近付くべき様なし。」クライマックス「鐘巻」の場面。

安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、住持は二人が蛇道に転生した夢を見た。
法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、熊野権現と観音菩薩の化身だった事を明かす。
 このような物語を絵説きで仏の道を教えて頂けます。
 文楽や歌舞伎ではよく上演される演目ではあるがその根幹がこの道成寺であります。
道成寺にはその他、かみなが姫の絵説きもあります。
 大宝元年(701)、文武天皇はその夫人の藤原宮子の願いを受け、道成寺を
お建てになりました。宮子は、道成寺の言い伝えでは「髪長姫」とよばれる
村長の娘であったとされます。この言い伝えには賛否両論があり、色々な研
究もなされましたが、宮子の人生には今も多くの謎が残されています。
ここでは道成寺に残る『宮子姫伝記』という絵巻に従って紹介しましょうとなる。安珍、清姫同様の僧侶が前で絵巻物を開きながら絵説きをします。
 春たけなわな季節には訪れてみたい寺である。

     本堂       三重塔

護摩堂






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