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古寺巡礼コミュの清浄の道   5番 闘雞神社

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和歌山県、清浄の道
(5)牟婁郡 田邊荘 田邊城下 湊村
闘雞神社(とうけいじんじゃ)
住 所 〠 646―0031 和歌山県田辺市湊655
電話番号 電話 0739―22―0155
御 祭 神 伊邪那美命
開 祀 允恭天皇8年(419)
アクセス JRきのくに線 紀伊田辺駅下車 南徒歩約10分
<神歴・縁起> H/P ありません
県社・別表神社
配祀神 伊邪那岐命、天照皇大神、宇賀御魂命、、邇々杵命、火々出見尊、天之忍穂耳命、鵜草葺不合命、手力男命、八百万神
西殿祭神 速玉之男神、事解之男神
下殿祭神 稚産霊命、弥都波能売命、埴山比売命、火産霊命
境内社 藤厳神社、玉置神社、弁天神社、戎神社
境外社 稲荷神社、八坂神社「素盞嗚命、稻田比賣命、八柱御子命」、
恵比須神社、弁天神社、浦安神社

紀伊続風土記 巻之71 牟婁郡 田邊荘 田邊城下 湊村
新熊野闘雞権現社  境内周六町十三間  馬場 長百二十七間 幅六 間
 證 誠 殿 前行一間二尺餘
 西 御 殿 早玉社 緒 宮 前行三間
 若   殿 若女玉子 前行一間一尺
        以上 上の四社と称す
 禅 師 宮
 聖   宮
        四社相殿 前行二間二尺餘
 兒   宮
 子 守 宮
        以上 中の四社と称す
 一 萬 宮       十 萬 宮
        四社相殿 前行二間二尺餘
 勧請十五所
 飛 行 宮
        以上 下の四社と称す
 摂社  玉置権現社
      末社三社 弁 財 天  大 黒 天  役 行 者
 萬山宮八百萬神遙拝所<br>        拝 殿  東西三間 南北五  
間  舞 台  表一丈八尺 奥行二丈八尺餘
 絵馬堂  東西三間 南北五間  経 蔵  方二間半
村の南にあり 境内山に倚る 社殿壮麗にして近郷の大社なり 田邊城下の総産土神とす 社伝にいふ 熊野別当湛快の時 湛快は藤原實方朝臣の裔 熊野別当泰教の曽孫といふ 三所権現を此の地に勧請して新熊野と称す 此の地その頃は三山の領地なりし故勧請せしならん 湛快の子を湛増といふ 始めて当所に居住す 人呼びて田邊別当といふ 元暦元年(1184)源頼朝卿平家追討の時に当たりて源平二氏の中何れを助けんと疑惑す 此処に於いて此の社地に放ち飼う鶏赤白二色を分かちて両氏の旗色に準へ神前にて闘わしむ 白鶏の方勝ちけれは心を決して源氏を助く 是より闘雞権現と称すといふ  (以下略)と紀伊続風土記に記載されています。
略歴には、允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。
平安時代末期の熊野別当湛快(藤原実方の子孫)のときにさらに天照皇大神以下11神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。
田辺は熊野街道の大辺路、中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。
熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。
『平家物語』などによれば、源平合戦の時、湛増は社地の鶏を紅白二色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。このことから「闘雞権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に闘雞神社を正式な社名とした。とある。
 闘鶏神社由緒には御創建 人皇19代允恭天皇己未8年9月、熊野権現(現本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称し奉ったのが、起源(1586年前)で次いで白河法皇の御代、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える(凡870年前)次いで別当湛決(近衛院久安3年己)の時新に天照皇大神以下、11神を勧請し新熊野権現と称し奉る。(凡820年前)此のように当社は三度に亘り熊野三山(熊野本宮大社、那智大社、速玉大社)各社の御祭神を勧請し
熊野権現の三山御参詣に替えると云う三山の別宮的存在で、熊野信仰の一翼を負い、熊野街道(大辺路、中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に御神威高く鎮座され、歴代の上皇、法皇、公達の熊野参詣時は当社に参篭宿泊し、心願成就を祈願したのである。文明3年(1471)より杉若、浅野、安藤各領主の篤い庇護により明治維新におよび鬪雞神社と改称し現在に至っている。
社格 明治6年村社、同14年2月県社、昭和46年7月、別表神社(旧官国幣社)に列格、同年11月20、21日、御創建1550年並別表神社昇格、奉祝大祭斉行。
社号 現社名、鬪雞旧社名、田辺の宮、新熊野権現田辺の宮、新熊野鶏合大権現(元録5年建立、石灯篭現存)、田辺の宮に始まり御祭神勧請と故事により4度の社名変遷を経ている。鬪鶏神社は、全国唯一の社名で起源は次の故事に依る。
※源平盛衰記(抜萃)『熊野別当堪増は、頼朝には外戚姨聟(母方の叔母)なり、年来平家安穏の祈祷をいたしけるが、国中悉く源氏に志を運び堪増ひとり背きても後難あり・・・・・・如何あらんと進退思い煩う。所詮人力に及ぶべきにあらず、神明の冥艦に任すべしとて、田辺の新宮にて臨時のお神楽を始む。神明巫女に託して曰く・・・・・・赤きは平家、白きは源氏とて、七番の鶏を合せけるに、赤鶏は白鶏を見て一番も番わず逃げにけり。この上は、神慮に任せ奉らんとて、熊野三山吉野十津川、死生不知の兵共を語らい集め・・・・・・兵船200余隻を調へ紀伊国田辺の湊より漕渡り源氏に加わる、云々・・・・・・』当時、社領28所16国、24ヶ庄に及び、その勢力は源平両軍から助力を乞われるに充分であり、周知の壇の浦の戦(海戦)で熊野水軍の力により源氏は勝をおさめたのである。ここに新熊野鶏合大権現の呼称が生れ、明治維新の神仏分離令により鬪鶏神社と改称された。
特殊信仰及祈願 
一、鶏合権現の社名より武運の神、勝負の神としての崇敬篤く、転じて証券
相場、競輪、競馬の必勝祈願は有名である。
二、八方除御祈念(清砂祓い)建築・土木・移転・厄除・開運を祈願。
三、修験者大修法護摩祈祷、例大祭当日斉行。
四、なぎの木祈念、子宝授受、夫婦円満の信仰有。
五、樟(くす)木祈念、樟木の葉に祈祷すれば、歯痛完治の信仰有。
六、縁結びの神として、信仰をあつめ、神前結婚式県下最多数奉仕。
     以上
と御由緒には記載されています。


本殿     入口から見た一の鳥居とその次

拝殿           西殿         下殿
闘雞神社は、鬱蒼たる森を背景に鎮座する。社殿は古く、荘厳であります。




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