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古寺巡礼コミュの清浄の道  4番 熊野本宮大社

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熊野権現信仰は平安時代から続いている。都の有った京都からではさぞかし日にちも掛かった事であろうと
和歌山県、清浄の道
(4)紀伊國牟婁郡
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
住 所 〠 647―1731 和歌山県田辺市本宮町本宮1110
電話番号 電話 0735―42―0009
御 祭 神 家都美御子大神(素戔嗚尊)
開 祀 崇神天皇65年
アクセス JRきのくに線 紀伊田辺駅下車 バス、タクシー国道311号
<神歴・縁起> H/P http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/hongu/
式内社 紀伊國牟婁郡 熊野坐神社 名神大 旧官幣大社
御祭神
本殿(證証殿) 家都美御子大神(素戔嗚尊)
東御前(若宮) 天照皇大神
西御前(速玉宮・結宮) 御子速玉大神 熊野牟須美大神
上四社 熊野牟須美神 事解之男神 速玉之男神 伊邪那岐大神
    家津美御子大神 天照皇大神
中四社 忍穂耳命 瓊々杵命 彦穂々出見命 鵜葺草葺不合命
下四社 軻遇突智命 埴山姫命 弥都波能売命 稚産霊命
本社鎮座 上四社
熊野牟須美神
第一殿 熊野牟須美神(伊邪那美大神) 本地佛 千手観音
国土の基礎を築き、多くの神々を生んだ、伊邪那岐大神様の夫婦神である。
御亡くなりになられた大神様は「黄泉国」に鎮まるが、『日本書紀』に「紀州熊野の有馬」が大神様のお隠れになった地と記され、三重県熊野市有馬の花窟神社が、伊邪那美大神様の御墓である。
熊野三山 那智大社の主祭神。
 事解之男神
 第一殿 相殿 事解之男神
熊野夫須美神と御一緒に御祭りされ、表に出てこない神様。 伊邪那岐大神様が黄泉国に伊邪那美大神様に逢いに来られ、互いにあるお約束事をされた時に、発した言葉の中から生まれた神様。
 速玉之男神
 第二殿 速玉之男神 本地佛 薬師如来
伊邪那岐大神様が黄泉国に伊邪那美大神様に逢いに来られ、互いにあるお
約束事をされた時に、唾を吐き合う儀式の中から生まれた神様。
熊野三山 速玉大社の主祭神。
 伊邪那岐大神
 第二殿 相殿 伊邪那岐大神
速玉之男大神様と御一緒に御祭りされ、表に出てこない神様。
国土の基礎を築き、多くの神々を生んだ、伊邪那美大神様の夫婦神である。
伊邪那美大神様に逢いに黄泉国熊野に来られ、後に黄泉国の穢れを禊により祓い、天照大神、月読尊、素盞嗚尊の3貴子を生んだ。
家津美御子大神
第三殿 家津美御子大神 (素盞鳴尊) 本地佛 阿弥陀如来
本宮大社の主祭神であり、大神は御身の御毛を抜いて、種々の木を育成させた事により、木の神と称えられ、木(紀)の国の名の起こりは大神様の御神徳によるものと伝わる。 又、「大日本六十余州衆生我の許に参る者は、貧窮を除き富貴を与う、現世安隠後生善き所に生まれしむ、之、證誠阿弥陀如来熊野大権現也」と、御神徳を「熊野縁起」は伝える。
 天照皇大神
 第四殿 天照皇大神 本地佛 十一面観音
伊勢神宮の内宮と同じ神様
伊邪那岐大神様が黄泉国の穢れを禊により祓った際、左の目を洗った時に燦然と輝いた光と共に生まれ、高天原を治め、皇室の皇祖神として仰がれている美しい女神様。
崇神天皇御時始(『扶桑略記』)・崇神天皇65年現給(『帝王編年記』『水鏡』)
熊野本宮の創祀は文献上上記の通りとなっておりますが、その内容は下記の様なあらましとなります。

熊野牛王神符
熊野牛王神符 カラス文字で書かれた御神符
熊野三山ではそれぞれカラスの数が違う。本宮は88羽。
崇神天皇65年に熊野連〔くまののむらじ、又くまののあたえ〕大斎(旧社)において、大きな櫟(いちい)の木に3体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、
「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」
との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっております。当地は神話の御代より熊野の国となっており、大化の改新(西暦645)まで続きました。連(むらじ)とは大和朝廷時代に、主として神別(しんべつ)の諸氏が称した姓(かばね)で、臣(おみ)と並ぶ有力豪族が多い。神別諸氏とは天神地祇の子孫と称する氏のこと。
本宮大社の案内書には、当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として、広く世に知られています。
 御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木ノ国)の語源もここから起こっております。
 大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で第10代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜7年(907)宇多法皇の御幸をはじめ約300年にわたり法皇、上皇、如院の御幸は実に百数十回に及びました。
 これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に7度熊野に3度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約5000数社を数えています。
 その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら人心の信仰はますます高まり当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
 現在の社殿は享和2年(1802)徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原 指定文化財)に建立されましたが明治22年(1889)の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。
 この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は別社地と呼び石祠2殿を仮宮として西方に中四社、下四社を東方に元境内摂末社を合祠してあります。と記載されています。

社殿
熊野と聞くと、山の神社という印象を持つが、旧社地は河原にあった。
新宮は海の側。那智は滝。つまり、水神が本来の姿ではないだろうか。神紋も貴船と同じ三つ巴である。又八咫烏は熊野神の使い。神門内には三棟の社殿がある。左の大きな社殿には第一殿と第二殿の相殿。中央が本殿、右が第四殿であります。拝殿の先には第一殿と第二殿の相殿なのだ。
どっちが主祭神なのか迷うところではある。
 境内案内には、西御前=第一殿(結宮)+第二殿(速玉宮)本殿=第三殿(証誠殿)東御前=第四殿(若宮)とある。他の資料を参考にすると、別の呼び方が記されていることもある。祭られている祭神も微妙に違うし、不思議な感じではある。
社殿左には、和泉式部の祈願塔。神門内は撮影禁止らしいが、社務所での許可は簡単に得られる。というより、禁止であることを知らずに撮影している観光客も多く、その側を、神職も特に気にせず歩いている。
 御祭神に家津美御子を本殿とする説と熊野牟須美を本殿とする説がある。
家津美御子を本殿とすると、若宮に天照大神が祭られているのはおかしな話ではある。もとは若一王子と呼ばれていたようです。
昔インドの摩訶陀国の王、善財王には1000人の后がいた。1番の醜女、善法女御は王の訪問がなく嘆いていたが、千手観音のご利益で絶世の美女になった。
その後、王は善法女御のもとにいりびたることになる。
999人の后は、これを憎く思い、色々と画策するが失敗。ついに妊娠している善法女御を山中で暗殺する。
 死の直前産まれた王子は、12頭の虎に守護される。
喜見上人は、十羅刹女の告げにより、山中で王子を発見し、善財王のもとへ連れ帰る。王は、これを嘆かれ、国を離れる決意をし、5本の剣を投げて
行き先を占うと、第1の剣は紀伊国牟婁郡(神蔵)に、第2の剣は筑紫国英彦山に、第3の剣は陸奥国中宮山に、第4の剣は淡路国和に、第5の剣は伯耆国大山に留まった。王、王子、上人の3人を乗せた飛び車も剣について飛んできて、最初は英彦山へ、そして5箇所を転々とし、紀伊の国に落ち着いた。熊野権現である。
ちなみに、後を追ってきた999人の后は赤虫になった。
『神道集』では、本殿は喜見上人、西の御前は善法女御、若一王子は善財王の御子、中の御前が善財王となっており、喜見上人が最上位にある。

神門から本殿

大鳥居           参道と階段社殿 左和泉式部祈願塔
大鳥居をくぐると国道の騒々しい車の音等は聞こえなくなり多くの木々に囲まれた神域とでも云うか、神様の前に歩む心が湧いてくるそんな気持ちがするのが不思議であります。
大社からのメッセージとでも云うのか、本年は「己卯歳」に当たり、古くから烏兎匆々と申して、月日の経つのが早い意味に例えております。
御承知の通り中国では古くより太陽には3本足の烏があると信じられこの「烏」は「日」を指し示し、又お月様には兎があって御餅をついていると申して「兎」は「月」の代名詞で、つまり烏兎匆々とは「日」「月」のたつのが早いものだとの事を意味しています。このように「日と烏」「月と兎」その関係をみるだけでも古代の人々には自然現象を如何に身近にとらえているかが伺われ、古人の風流心が偲ばれます。尚、白兎は、中国では極めて瑞兆として称えられ、「白兎は寿千年 王者の風格あり」といわれています。
ところで現在は、日本の3大国難の到来と騒がれています。1は明治維新、2は、昭和20年の敗戦、3は、最近の経済不況、しかしこの3番目は明らかに人為的で、人心のおごりが色濃く出ていて、1や2にくらぶれば遥かに形而下の感があります。今日ほど人の心がバラバラで、政も官も財もおのれのみの欲をむき出しになった結末が今日の現状ではないでしょうか。このときに当たり、熊野体験博が、全県下あげて集中的にこゝ南紀を中心にして大々的に開催されますことは御承知の通りで、このことは「熊野三山」という古来より人心に安らぎを与える信仰、文化があればこそである。「温故知新」〜故キヲ温ネテ新シキヲ知ル〜今こそ、この言葉が見直される時ではないでしょうか。この催しにより中世の熊野詣の再来が期待されると申されているが、徒らにうわついたものに終わらず、今の日本人の心に深く深くしみ透る熊野の心〜大和心〜を吸収していただければ幸甚と存じています。 とH/Pに書いてありました。





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