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古寺巡礼コミュの欣求の道  15番 三井寺

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三井の晩鐘とか金色不動明王で有名な寺院です
滋賀県、欣求の道
(147)長等山 園城寺
三井寺(みいでら)
住 所 〠 520―0036 滋賀県大津市園城寺町246
電話番号 電話 077―522―2238
本  尊 弥勒菩薩
開 山 大友与多王
創  建 7世紀頃
アクセス 京阪石山坂本線 三井寺駅より徒歩10分 別所駅より徒歩12分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm
天台宗寺門派総本山 西国33所14番 西国薬師49霊場48番(別所・水観寺)
近江33観音5番 神仏霊場147番

 天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺といいます。
滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有しています。
また、湖国近江の名勝、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも知られています。
667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。
672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。
勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか5年で廃都となりました。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。
貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍和尚が、園城寺を天台別院として中興されてからは、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきました。
 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、
円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。
三井寺の本堂、金堂には、本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)が祀られています。「寺門伝記補録」によると、身丈3寸2分の弥勒菩薩が祀られていることがわかりますが、絶対の秘仏となっているために見る事ができません。この弥勒菩薩は天智天皇の御念持仏と伝えられています。さらに、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長、行基菩薩が奉納した6躯もの弥勒菩薩がお祀りされています。その他にも智証大師ゆかりの仏像や宝物が秘仏として大切に安置されています。
西国33所観音霊場巡礼の第14番目の礼所である観音堂がよく知られています。その他にも「近江西国観音霊場・第5番札所(観音堂)」、「湖国十一面観音霊場・第1番札所(微妙寺)」、「西国薬師霊場・第48番札所(水観寺)」として多くの信仰をあつめています。

境内全景

仁王門
仁王門:重文 3間1戸の楼門、屋根は入母屋造り檜皮葺。亨徳元年(1452)
滋賀県湖南市、常楽寺に建立されたものを、豊臣秀吉公が伏見城に運び、慶長6年(1601)に徳川家康公が現在地に移設した。両脇に運慶作と伝えられる仁王像が安置される。古寂の風格がさえる。

三井の晩鐘の鐘楼    閼伽井屋と霊泉
 三井の晩鐘鐘楼:重文 正面1間、側面2間、切妻造り、檜皮葺。三井の晩鐘で有名な巨大な鐘を吊るし、近江八景の一つに数えられる。調理の准三宮道澄により梵鐘鋳造期と同じく、慶長7年(1602)に建立された鐘楼である。
 閼伽井屋と三井の霊泉:金堂の西に近接し、向かい唐破風造りの閼伽井屋
(重文)が建つ。中の井泉は古来、聖なる「御井」として崇められ、三井寺の寺名の元となったと云う。石組からして古庭園の一部とも推測される。

金堂            金堂後陣の諸仏
金堂:安土桃山時代 慶長4年(1599) 国宝 桁行、梁間とも7間の入母屋造り、檜皮葺。山内最大の堂々たる建築であるが軒が深く、柔和な印象を与える。桃山時代を代表する和様建築の一つ、天台系本堂の古式を伝えてる。旧金堂は文禄4年(1595)豊臣秀吉の命令で比叡山に移設され、延暦寺西塔の釈迦堂として現存する。慶長4年(1599)秀吉の正室である北政所により再建された。現金堂はその様式を踏襲している。
 後陣の諸仏:本尊の弥勒菩薩坐像を守るように、後陣には平安期から江戸期の阿弥陀如来像はじめ、多彩な諸仏が安置されている。
なかでも大小(像高71Cm〜18Cm)8体の円空仏は、薄闇の堂内で濃密な精気を放射している。元禄2年(1689)三井寺を訪れた円空が一気に彫刻した作品と云われている。
 本尊、弥勒菩薩坐像:絶対秘仏とされ、代々の調理さえ一度も拝した事がないと云う門外不出の本尊で、「寺門伝記穂六」によれば、弥勒菩薩坐像は聖徳太子の父、用明天皇のときに中国から請来し、天智天皇の髻りに納められてそ
の念持仏とされたが、のち三井寺金堂の本尊として安置された。身の丈3寸2分の金色に輝く霊像と伝わる。
金堂内陣には本尊以外に、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、行基菩薩、藤原鎌足、藤原道長が奉納した6体の弥勒菩薩像が祀られているという。文禄4年
(1595)豊臣秀吉の突然の破却命令により、金堂が比叡山西塔に移築された時、本尊はじめ不動明王、智証大師坐像、護法善神立像などはいち早く洛東、大仏照高院に運ばれた。他の法難の際も、こうした寺僧、信徒の献身的努力がったからこそ、寺宝は今まで伝えてこれたのであろう。

唐院大師堂

黄不動立像    智証大師坐像
唐院大師堂を代表する尊像2体である。
 唐院大師堂:東を正面として、四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂(以上重文)が一直線に並ぶ。寺伝によれば、智証大師圓珍が唐からもたらした1000巻の
経籍や法具が納められた、寺内でも最も重要な区域で、唐院と称される。中でも地証大師坐像と黄不動立像が祀られた大師堂は、御廟として最も神聖な堂宇である。桁行き3間、梁間2間、宝形造り、檜皮葺の小建築で慶長3年(1598)に再建された。
 金色不動明王立像:木造 像高159.8Cm、鎌倉時代、重文、寄木造り漆地に彩色、玉眼。力強く開いた両足、大きく見開いた両眼から、頭髪、裳など細部の表現まで国宝の「気不動尊画像」が忠実に模刻されている。13世紀頃の作品であるが、秘仏として扱われ秘蔵されてきたため鮮やかな彩色画保存されている。
 智証大師坐像:木造、像高84.2Cm、平安時代、国宝 堂内壇上中央の厨子内に安置されている為、中尊大師とも呼ばれる。頭、体部など主要な部分が檜の一材からなる平安時代前期の肖像彫像。頂が戸がった卵型の頭は、俗に「圓珍頭」と称され、鋭く豊かな表情は、大師の面影を生き生きと伝える。秘仏であるが、智証大師圓珍の命日10月29日のみ開扉される。

           観音堂      本尊、如意輪観世音菩薩坐像
 観音堂:南院の主要伽藍。広大な寺域の災難の高台にこの観音堂を中心に、鐘楼、百体堂、観月舞台、絵馬堂などが建ち、西国33所観音霊場の札所として参詣者で賑わう。本尊の六臂の如意輪観音坐像が祀られている観音堂は、桁行9間、梁間5間、重層入母屋造りの重厚な大建築で、元禄2年(1689)の再建。
 如意輪観音坐像:木造、像高91.6Cm、平安時代、重文 檜の寄木造り、
一切衆生を救うための6本の腕を持つ。豊かな肉付き、優しく慈愛に満ちた顔容から、10世紀、平安中期の造像とみられる。表面の漆箔、宝冠、持物は後補。
観音堂奥の厨子内に安置され、33年に1度開扉される秘仏である。



千手観音          不動明王坐像
どちらも奈良国立博物館寄託
 三井寺は、たび重なる兵火により焼失、再興を繰り返してきた。それでも中興の祖、智証大師圓珍以来の台密すなわち天台密教の中核として、貴重な寺宝を守り続けている。唐院大師堂に祀る仏像以外にも各種の明王像が伝わる。奈良国立博物館に寄託中の両仏もそうである。
 千手観音立像:木造、像高180.3Cm、平安時代、重文
京都東山如意が岳にあった如意寺の旧本尊と伝えられる。頭頂に仏面と十面の菩薩面を乗せ、42臂を備える通形の千手観音像で、頭部から台座の蓮肉までを一材から彫り出す量感豊かな体軀や端正で穏やかな表情など、制作年代は9世紀末から10世紀前半ころとみられる。
 不動明王坐像:木造、像高39.1Cm,平安時代、1,014年、重文
左手に羂索、右手に宝剣を執り、大きく両目を見開いてどっしりと坐る。修理の際、像内より銘文が発見され、長和3年(1014)僧良海の発願で、仏師僧盛忠によって制作された事がわかった。表面にはかすかに当初の彩色や截金の痕跡が残る。真言系の「大師用」の不動明王像と似た形では有るが頭上に蓮華をのせるのではなく、毛髪を七弁の花状に結って莎髻とするところが独特で天台系の図像によるものとみられる。

護法善神堂
 護法善神堂: 本尊は護法善神として鬼子母神を祀っています。
鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼でしたが、釈尊がこれを聞き、母神の子を鉢で隠したところ、狂髪・啼哭して悲しみました。釈尊が慈愛を垂れたところ、仏教に帰依し、以後善女神になったといわれています。
5月16・17・18日の千団子祭の日には千人の子供たちの供養のため千の団子を供え、堂前の放生池には諸衆の願いをこめた霊亀を放す放生会が行われます。
亨保12年(1727)再建の堂宇は緑の古木に包まれて普段は静かである。
千団子祭には秘仏の護法神立像が開扉され賑わいます。

護法善神立像      訶利帝母倚像
護法善神立像:木造、像高159.1Cm、平安時代、重文
頭、体部が檜の一材からなる等身大の直立した女神像。幼子を抱く通常の訶利帝母像とは異なり、足下には小ぶりの愛子像(後補)が置かれている。11世紀、平安後期の重厚な一木造りで、華やかな彩色が残る。寺伝に派、圓珍が5歳の時影向した女神とも伝わる。又圓珍自刻の神像とも伝わる。特別開扉の日にお出ましになる。
 訶利帝母倚像:木造、像高43.9Cm、鎌倉時代、重文
右手に石榴を持ち、左手に大多様寺に視線を向けながら坐る。訶利帝母は鬼母神とも称され、もともと子供を食らう悪女神であったが、釈迦の導きによって改心し、子供を守護する善神となった。護法善神立像の左脇に祀られており、三井寺では特に篤く信仰されている仏様であります。開扉の日にお出ましになる。
鎌倉時代には北院、中院、南院の3院と5別所からなる寺域を形成していた。
別所は、微妙寺、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺の5ケ寺からなり、園城寺5別所と称された。園城寺境内にあり、庶人の信仰を集める寺でもあった。

西国33所 御詠歌 ご朱印

軍茶利明王立像










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